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源流なび Sorafull

西宮えびす(西宮神社)⑶沖のえびすと三郎殿。えびす信仰について

 

 

 

沖ノ戎 おきのえびす

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明治5年に現荒戎町より西宮神社境内に移された沖恵美酒神社です。南のえびす門を入って左手になります。 

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恵美酒エビスに「酒」の字が使われていますが、西宮は灘の酒の産地です。また事代主は三輪山でも酒の神として祀られています。なるほどとは思いますが、こんなふうに字が変わっていって意味まで変化するということが起こるわけですね。

古代の地層の話に戻りますが、この辺りは川が運んだ砂レキ層の上に成り立っています。この砂レキ層を流れる六甲山からの地下水と、古代入海だったところを流れる栄養豊富な地下水とが合流する500m四方の場所にだけ湧く宮水(西の宮の水)が、酒造りには最高なんだそうですよ。ここに灘の名門酒蔵の井戸が密集しているんです。

 

さて、続いて三郎殿についてです。西宮神社史話の中でもどのような神かわからないとされていました。

出雲伝承を七福神と聖天さん」より紹介します。

大国主西神社では三郎殿を建て、同じ出雲の神の事代主大国主の三男としてまつった。平安末期に書かれた「伊呂波字類抄」に、西の宮には夷社と別に三郎殿という社があって、そこに南宮の神と百大夫の神などがまつられたとの記事がある。》

 記紀では事代主は大国主の息子ということになっています。出雲伝承では別の王家血筋です。なので親子ということはないのですが、記紀を参考にした者が類推して三男だということにしたのだろうということです。古事記の中では大国主とヤガミ姫の間にキノマタの神、次にタキリ姫との間にアヂスキタカヒコネ、3番目にカムヤタテ姫との間に事代主が生まれています。

伊呂波字類抄によると三郎殿には主神である事代主とその息子、諏訪の建御名方神記紀では大国主の御子)、そしてサルタ彦大神も祀られていたということです。なんだか出雲御殿みたいです。

 

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三郎殿の建てられた場所についてですが、これがなかなかわかりにくいのです。西宮神社史話には書かれていません。「七福神と聖天さん」から読み解けば、沖ノ戎と三郎殿が同じものを指すということが見えてきました。

上の地図に沖ノ戎があったと言われる現在の荒戎町を囲みました。「貞享三年古絵図」(1686年)には戎ノ社の境外南西二、三町ほどの田んぼの中に、沖ノ戎ノ社が描かれているそうです。奥戎社とも書くようです。通称、荒戎アラエビス

戎ノ社より海側に建てられています。事代主は豊漁の神、海運の神ですからね。

 

出雲伝承では、西宮は海上交通がますます盛んになったために、大国主よりも海の神・事代主をお参りする人が増え、やがて西宮の本殿に事代主を祀るようになり、戎ノ社と呼ばれるようになったといいます。そして大国主西神社は摂社に移されたと。

海側の三郎殿もえびす神(事代主)を祀っているわけですので、戎ノ社がふたつできたことになり、そのため三郎殿は沖ノ戎と呼ばれるようになりました。そして本殿の戎ノ社は和魂を、沖ノ戎は荒魂を祀ることになったということです。

ただ、これを南北朝時代(1336~1392)のこととして書かれていますが、違和感を覚えます。えびすの名は平安末期から現れていますし、大国主西神社の名は延喜式神名帳以来みられません。南北朝(室町)ではなく源平の頃(平安末期)であればわかります。

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出来事と時間の経過をみるために書いてみました。式内社にまでなった大国主西神社が消えていくとはどういうことだろうと思っていましたが、浜南宮が勢いをもつまでに200年も経っています。今から200年前といえばペリーが浦賀にやってくる35年前です。多くの人が自分の先祖のことすらよくわからない遠い時代ですよね。今は学校教育やテレビ、本などから知識を得られるので江戸時代の風習をなんとなくでも知っていますが、そうでなければごく一部の人しか知り得ないことがほとんどでしょう。

たけき者もついにはほろびぬ‥‥。

大国主西神社が浜南宮に取り込まれていくとき、西の宮という呼び名だけが残ったということが可能性として高いわけですが、大国主の名がどうして消えてしまったのか、腑に落ちません。祭神として八祖神などと名を変えなくとも、大国主として残っていてもおかしくないのになと。

そして平安末期に文献上突如現れる「えびす」という神の名が、実は蝦夷エミシ(出雲王家子孫が東国に築いた国の人々)から来ているというのなら、これこそが大国主ではないかと思い始めたのです。

エミシという言葉には、普通の人の100倍も強いという意味もあります。葬られた出雲を陰ながら慕う人たちから生まれたイメージかもしれません。

当時の中央政権は東北方の蝦夷に対する守護神として、四天王のうち最強の毘沙門天を祀ったそうです。(「七福神と聖天さん」より)

ところが、えびす神が神仏習合した際の本地仏は、毘沙門ビシャモン不動明王なのです。何かおかしいですよね。

横道にそれますが、毘沙門天について説明を加えます。

仏教の毘沙門天は武神ですが、もともとインドではクベーラ神と呼ばれ、ワニを畏れ祀ったのが始まりだそうです。のちに財宝を授けるヒンズー教の神に変わります。出雲ではクンピーラと呼ばれワニ神とされ、金比羅神社で祀られます。讃岐では金刀比羅宮、コンピラさんですね。祭神は大物主となっていますが、大国主、事代主のことでしょう。出雲の神さまたちがここには祀られています。つまり毘沙門天の始まりは出雲の神さまなわけです。

日本で初めて四天王を祀ったのは聖徳太子。大阪の四天王寺ですね。その後、中央政権は蝦夷から都を守護するために毘沙門天を祀ることになるわけですが、これってもとは出雲の神だと知らずのことなのでしょうか。敵の祀る神でもって敵から身を守る。おかしなことになっています。

どちらにしても、出雲と蝦夷毘沙門天には強い繋がりがあったのです。その代表者としての大国主が「えびすの神」ではないのかと。

う~ん、でもやっぱりえびす様といえば事代主。それを大国主だというのは無理があるのかなぁ‥‥。出雲伝承ではそれに繋がる話は見当たりません。

気になってさらに調べていたところ、西宮神社の先代宮司である吉井良隆氏の著書「えびす信仰辞典」に出会いました。この本には三郎殿についても詳しく書かれています。一世代前の吉井良尚宮司のまとめられた西宮神社史話では三郎殿については不明だとされていましたが、それぞれに研究され見解が違うところもあるようですが、とても興味深いので紹介したいと思います。

 

えびす神の源流

 注)本の中でと表記されているところは、ブログ内で揃えるためにと変えています。

まず、三郎殿は事代主であることは間違いないとされています。さらに面白いことに、えびす神は大国主であると。伊呂波字類抄に記されたようにもとは戎と三郎殿は別の神格、社をもっていたものが、いつのまにか戎三郎殿とまるで一つの神として祈るようにもなったのは、それらが同族であるからだと。

平安の頃に西宮から分霊したとみられる東大寺八幡の八幡宮神社記」には、二ヶ所の戎社があり、共に祭神は二座で、大国主と事代主とを祀ったということが伝えられているそうです。西宮本社とは別に古説を伝えたものと考えられるそうです。

室町時代吉田兼俱吉田神道創始者)は、戎は大黒であり、大黒はもと大国主であるとしています。

江戸中期の辞典「和漢三才図絵」には西宮の祭神三座は天照大神蛭子神素戔嗚神とし、相殿に大已貴オオナムチ大国主の別称)、事八十(兄弟八十の間違いで、大国主の兄たちのこと)の二神を加えて全部で五神としています。「諸社一覧」「神社啓蒙」にも同じことが記してあります。

吉井氏はさらに、記紀以前は日神のヒルメと、海神的性質をもったヒルコが天下の主たる者として対立していたとし、記紀によって敗者ヒルコが蛭子として貶められ、海の彼方へ去っていったとみています。ですので古くは、

えびす神(大国主)=偉大なるヒルコ神

三郎殿(事代主)=敗者としての蛭子神

として認識されていたものが、しだいにヒルコ神が忘れ去られてしまった。つまりえびす神の原初の姿は蛭子ではなくヒルコであると。

これは出雲伝承で言われるところの、日女であるヒル日の子であるヒルに近い解釈だと思います。出雲の太陽の女神・日女を祀る幸姫命とその子孫=日の子である大国主や事代主。それが記紀では天孫天照大神・オオヒルメムチとなり、敗れた出雲の王は蛭子として描かれ海に流されたわけです。

西の宮の主体は本来大国主西神社であり、主祭神大国主こそがえびす神の源流であり、それが事代主と変わったのは、西宮が海辺の町として発展していく中で、人々が海の神を必要としたからであり、海に流され帰ってきた蛭子神がそこへ重ねられたということのようです。

もとは摂社末社であったはずの三郎殿が戎本社よりも人気が高まり、その結果戎社は三郎殿によって維持されるような形となった。(出雲伝承の伝えるところの、沖ノ戎から本殿に事代主を移し、大国主西神社を摂社としたということか)

本来は戎社と三郎殿の二社であったものが、特別に親しい間柄だったために戎三郎とも呼ばれ、あるいは戎といえば三郎も含み、三郎といえば戎も含んで、ついには戎三郎と一社のように思われていきました。戎三郎というひとつの神として民衆の間でも祈られるようになった時、そこには魚を抱えたえびす様の神像が投影されていったということでしょう。

西宮の傀儡子たちが室町時代以降、人形芝居を行った演目の中で、えびす様は津美波八重という名の事代主であるとか、少名彦はえびす様の別名であるという台詞も含まれており、すでに「えびす=事代主」と受け止められていたようです。(「七福神と聖天さん」より)

以上、出雲伝承ではありませんが、えびす神の源流は大国主であるという説の紹介でした。

 

 

さて、戎社は平安以来、文献にみられるだけでも厳島に始まり、石清水八幡宮東大寺八幡宮日吉大社北野天満宮住吉大社、そして鎌倉になると鶴岡八幡宮聖福寺へと勧請されました。全国の信者たちが遠く西の宮まで行かずとも手軽に参詣できるようになったのです。有名どころだけでなく、もともと大国主や事代主を祀っていた神社がえびす神へと変わっていった神社も含めれば、どれほどの数にのぼるでしょう。現代でも西宮や大阪今宮戎の十日えびすの人気をみると、えびす信仰の根強さに驚きを覚えますが、もとを辿ればこの国で2000年を超えて慕われ続ける大国主や事代主がその源流にあるからなのですね。突然現れた外来の神といったものでは、ここまで深く根付くことはできなかったでしょう。

 

遥か古の出雲王国時代に、主王の大名持オナモ、副王の少名彦スクナヒコが共に全国を巡りながら国を治めていったその姿を、王国滅亡後も長きにわたる時代の変遷を越えて戎三郎殿として、そして今では大黒様とえびす様の並んだお姿として私たちが目にしているという奇跡に、なんとも不思議な宇宙の采配を感じます。

そしてここには闘う武神としてではなく、米俵や魚、財宝といった恵み、豊かさの象徴として人々の願いを叶えてくれる親しみやすい神さまのお姿があります。まさに出雲王国時代の穏やかな神々のお姿です。

主王・大名持=大国主(八千矛)=えびす=大黒

副王・少名彦=事代主(八重波津見)=三郎殿=えびす

 

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3回にわたって西宮神社を紹介してきましたが、最後にまとめを。

 

そもそも、西の宮とは

 広田神社 ⇒天照大神の荒御魂=幸姫命

 大国主西神社=戎ノ社 ⇒大国主

 三郎殿=沖ノ戎 ⇒事代主

 南宮 ⇒建御名方(諏訪大明神

 百大夫神社 ⇒サルタ彦大神

であるので、ここは出雲の幸の神の宮、「幸の宮」だったということになりますね。

 

長くなったので、おまけになりますが、西宮神社境内の紹介しきれなかった神さまのお写真を。

 

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梅宮神社。祭神、酒解神

 

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宇賀魂神社。祭神、宇賀御魂命。

 

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市杵島神社。祭神、市杵島神。

 

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松尾神社。出雲のお酒の神さまです。

 

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神明神社。祭神、豊受比女神。

 

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六甲山神社。祭神、菊理姫命。六甲山頂に往古より石宝殿があり、のちにここへ勧請したそうです。

 

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火産霊神社。祭神、火皇産霊神。俗称、愛宕あたごさん。出雲に先祖をもつ役行者が京都の愛宕山出雲族の信仰する雷神を祀ったことから、のちに火伏の神とされて愛宕神社になったと伝承は伝えています。

 

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庭津火神社。祭神、奥津彦神、奥津比女神。昔は荒神でした。祠はなく、塚形の封土を拝むようになっていたそうです。

 

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児社。南宮神社の末社

 

 

 

 

西宮えびす(西宮神社)⑵大国主西神社と百太夫神社

 

 

 

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東側の表大門。通称、赤門。十日えびすの福男選びはこの扉が開いたらスタートです。境内図の右下にありますね。前回載せたえびす宮の門は中央手前の南門になります。赤門のほうが立派ですが、実は海に面した南門のほうが表だったそうですよ。 

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推定室町初期以前に建立とされる境内を取り囲む塀は、現存最古の築地塀だそうです。資金もかなり潤沢だったのでしょうね。

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大国主西神社の謎

今は西宮神社境内摂社として祀られている大国主西神社です。境内の北西角にあたります。 

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拝殿の奥にまるで目隠しするかのような板塀に囲まれ、本殿がひっそりと佇んでいます。隙間から撮影させて頂きました。

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出雲の伝承によると大国主西神社は西宮神社の基となったようだということを前回の記事で紹介しました。ですがそんな大事な神様を、このような境内隅っこに追いやるとはどういうことなのでしょう。

 

谷戸貞彦著七福神と聖天さん」の中で、西宮神社について解説されています。

日本書紀にあるように、天照大神のお告げによって広田神社を建て、山背根子の娘・葉山姫に荒魂を祀らせ、さらに長田神社を建てて妹の長姫に事代主を祀らせました。天照大神は太陽の女神であり、そもそもは出雲の太陽神です。

広田、長田の両者の司祭者が姉妹であったことから、長姫の子孫がのちに事代主(向王家)の親戚である大国主(神門臣王家)の御神霊を広田神社の近くに祀り、同時に幸の神も祀った。それが西宮の基になるお社となったと考えられるということです。経緯については推測のようです。

ところで平安初期の延喜式神名帳には、大国主西神社は摂津国莵原郡にあるということが記されています。広田神社は摂津国武庫郡です。

武庫郡  広田神社、名次神社、伊和志豆神社、岡太神社

莵原郡  河内国魂神社、大国主西神社、保久良神社

広田神社のすぐ南に西宮神社があるのに、どうして郡が違うのか、不思議ですよね。このことが、大国主西神社の所在地をわからなくさせている原因のひとつなのです。

明治5年に広田神社と西宮神社は分離し、翌年、西宮神社大国主西神社と改称しますが、大国主西神社の由来がやはり不確定ということですぐに取り消されます。そして大国主西神社は社格をもたない神社として西宮神社の境内神社となりました。

社格をもたない神社。寂しげな佇まいはそのせいだったのですね。

 

西宮市史にもこのことは紙面を割いて取り上げられています。

大国主西神社の問題として、菟原郡にあるので西宮神社とは別物だとする説と、大国主西神社の後身が西宮神社であるという説が対立しているとし、

別物とする否定派は、①存在する郡が違う。②祭神はえびす神か蛭子神であって大国主ではない。

という理由をあげています。①に対しては菟原・武庫郡境界が現在とは違い、昔は現西宮神社の東方を走っていた(つまり現在の西宮神社も莵原郡に属することになる)という説を唱える人がいます。

西宮市史ではその可能性はあるという立場をとっています。地理的要因に加え、武庫郡菟原郡八部郡・有馬郡などすべての式内社が今日も残っている中で、なぜ大国主西神社だけが完全に消滅してしまったのかを考えると、相当早くに広田・南宮に吸収されたとみるべきではないか、そしてその西の呼称が西宮となったのではないか、という考えのようです。

そこで昔の地形を調べてみました。すると面白いことがわかったんです。弥生時代には広田神社の近くまで海が迫っていたらしく、下の地図にある大社小学校のまわりからは網漁に使うおもり(弥生式後期)がたくさん出土しています。

「西宮地名考」の著者である郷土史家、田岡香逸氏(1905‐1992)は、地形、土地の性状、地層、出土した遺物、そして地名と歴史を丹念に研究し、古代の西宮が入海であったことを導き出しています。

 

西宮市史「津門の入海推定復元図」を参照し、旧夙川を書き込んでみたものです。 細部は正確ではありません! 

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平安時代の和歌に、

「広田より 戸田へ渡る船もがな 浜のみたけへ ことずてもせむ」

と詠まれています。現在の地形では考えられませんよね。

西宮市環境保全課の語り部ノートにしのみや」に夙川の付け替え工事のことが書かれていて、その出所を探したところ、田岡氏に到達しました。それによると、夙川は昔、阪急夙川駅北の大井手町北側から東南に流れていたそうです。井手はもとは井出であり、谷口で灌漑用水の水源になる土地に名付けられるそうです。古い絵図には川に沿って細長い池があるそうで、旧河道の名残だということです。

平安末期ごろまでには東六甲の山肌から運ばれた土砂が入海をなかば埋めてしまいます。大阪湾の潮流は時計回りなので、波と川の運ぶ土砂によって砂州が作られ、その上にえびす神社は建っていたといいます。ところが神社を中心に発展してきた西宮の町に、暴れ川と呼ばれた夙川が氾濫して繰り返し水害が起こりました。そのため鎌倉時代中期以降に川の付け替え工事(堤防を作って河道を変える)が行われ、西宮神社の西を流れるようになり、その後さらに現在のようにまっすぐ南に下らせたということです。これは文献に記されているのではなく、実地調査から得られたものです。このような大工事ができるほど、当時の西宮神社は資金と権威を得ていたということですね。

※江戸時代の摂津名所図絵には武庫郡と莵原郡の堺は夙川とすると記されています。古くから郡の境界は峯通りや川筋によって決めていたようです。

 

また、常盤町の住宅街に一本松地蔵尊があり、そこには「史蹟、往古武庫莵原郡界傅説地」という石碑が並んで建っています。この一本松地蔵尊が昔から武庫郡菟原郡の境界だと言い伝えられているのです。大正時代に耕地整理のため道路を碁盤の目に整備しようとした時、地元の人々がどうしてもこの場所だけは残して迂回してほしいと要望し、今のように残されました。谷崎潤一郎の「細雪」にも登場します。

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お供えの花が瑞々しく、丁寧に管理されていることが窺われます。後ろに建つ古い石碑には一本松地蔵尊と刻まれ、裏には大正15年建立と記されています。

 

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 想像以上に堂々とはみ出しています。松はいつ頃からのものでしょうか。

実は他にも古い一本松の言い伝えが浜脇町や名次山にもあります。郡界ということは伝えられていませんが、これらを結ぶと西宮神社はきれいに菟原郡に入ります。ところが田岡氏によると、これは明治に起きた西宮神社大国主西神社改名の裏で、強引に作られたものではないかということなのです。郡界を松などで示すことはあり得ないそうです。そう言われてみればそうですが、言い伝えを途絶えさせないために、後世の者が石碑や地蔵尊とともに植えたということもないわけではないような‥‥。

その真偽は置いておいても、旧夙川の位置が変わっていったことはほぼ間違いないようですので、菟原郡にあったという大国主西神社と現在の西宮神社の位置が同じである可能性はでてきたということになりますね。

現在の夙川。西宮神社の西、香櫨園駅より北を向いて撮影。

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次に祭神の問題です。なぜ大国主は消えてしまったのか。

西宮市史はえびす神や蛭子神、百太夫神についても詳しく考察していますが、大国主西神社が消滅した理由として、この土地の発展が関わっていることを示唆しています。要約します。

津門あたりの地は平安中期以降急激に発展し、人々が諸方から集まることによって種々の信仰を持ち寄った。神々にいろいろな解釈が加えられ、旧来の神に付着せしめられるとき、旧来の神と新しい神々の信仰が並列され、進むうちに、ある種の神に対する人気ともいうべき信仰が特に進むことがあり、他の神々の信仰は忘れ去られてしまうものである、と。

これを踏まえて推測してみます。浜南宮の前身が大国主西神社だったとします。

古より広田神社には朝廷や貴族の崇敬が集まっていた。海側に別宮を建てることになった時、大国主西神社の勢いはすでに衰えており、しだいに広田・浜南宮に吸収されていった。(広田の祀る五座である八祖神が大国主を思わせます)

平安末期になると浜南宮のえびす神の人気が高まり、摂社であるにも関わらず本社広田と並ぶほどの存在となっていた。そのうちに入海がどんどん土砂で埋まっていき、広田は海から遠い奥まった山の中になってしまった。浜南宮のほうは船の往来もでき集落として発展しやすく、人々が各方面から集まってきた。漁業、海運だけでなく市場もでき商業の町として開ける兆しもみえてきた。次に紹介する百太夫を信仰する傀儡子くぐつたちによってえびす信仰は全国へと広まりつつあった。朝廷が衰えを見せ始めるとともに、民間でも愛されるえびす神は本社広田よりも力を持つに至った。もともとは摂社を指す西の宮という呼び名が、本社広田をも含めて呼ばれるようになっていた。

そして927年の延喜式神名帳に記された大国主や幸の神の名は、250年ほど経ったとき、この急成長する町から消えていた。

 

 

 太夫神社と傀儡子くぐつたち

出雲の伝承を見てみましょう。

広田神社の近くに大国主と幸の神を祀ったのち、幸の神が分けられて太夫神社として産所村に祀られました。百太夫サルタ彦大神が百のお姿に変わって善人を守るという話からつけられたそうです。

※幸の神は船玉さんとも呼ばれ、漁船の帆柱の下などに祀られたそうです。このご神体はサイコロであることが多いのは「サイ」の発音にちなんでいて、船の運命を左右すると言われているそうです。

下の地図に現在の産所町を囲んでみました。このどこかにあったようです。

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江戸後期には西宮神社境内に移されます。

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説明書には芸能の神様と書かれています。平安末期、産所村(散所とも書く)には傀儡子くぐつと呼ばれる芸能集団が住んでおり、神社の雑用を務めながら人形を操り巡業していました。そしてえびす様の人形を使って御神徳を説いてまわり、えびす信仰を全国に広めていったので「えびすかき」とも呼ばれるようになりました。彼らは百太夫神を祖先神として崇敬したということです。この人形操りが江戸後期以降、淡路島の人形浄瑠璃や大阪の文楽へと変遷し、いつのまにかこの産所村から傀儡師たちは消えていったそうです。

このような人々は室町以降、散所の民と呼ばれます。水陸交通の要地や有力な社寺のもとに住み、雑事を請け負うことで免税されるなど特権を与えられました。その中に傀儡子を生業とするものもいて、西宮では彼らがえびす信仰と結びついたのだろうと言われています。室町時代には神社のために飛脚などもしていた記録があり、独自のネットワークをもっていたと思われます。

 

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この神札は江戸時代のものですが、百太夫大神の名前の前に「道君」と書かれています。この意味が後世の人にはわからず、西宮の神主、道君房どうくんぼうという老翁になり、えびす様の神霊を慰めるために人形操りをしたというお話が作られました。ちなみにこの道君房が「でくのぼう」になり、人形のことを木偶でくと呼ぶようになったということです。

ところで、幸の神は道の神とも呼ばれました。出雲伝承では百太夫大神がサルタ彦大神ですので、道君とは「どうくん」ではなく「みちのきみ」ですね。

神札の下半分に串団子が描かれています。これは1月5日の百太夫神社祭でお供えされる、人形にみたてた五色の団子なんだそうです。

 

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この写真は神社境内のおかめ茶屋さんで頂いたみたらし団子です。ちゃんと5個になっていますね。お茶とセットで200円。お団子もおいしかったですが、添えられたお茶が香ばしく、疲れた体に沁みました。

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藤の花の季節にまた来てみたいです。

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 店内に飾られていた立派なお多福さま!源流は出雲の幸姫命です。

 

さて、西宮市史の中に面白い記事がありました。

大江匡房(1041ー1111)の「傀儡子記」「遊女記」に傀儡子のことが書かれていて、西宮との関連はみられないものの、「遊女たちが南は住吉神社、西は広田神社に自分にお客がつくことを祈り、特に百大夫すなわち道祖神につかえ、人形を百、千も作って奉り」といった記述があります。そしていわゆるジプシーのような暮らしぶりを伝えています。太夫は古くは大夫たいふと呼ばれたようです。

つまり百太夫道祖神であり、たくさんの人形を作って捧げることから百太夫の名が出たと考えられるということです。道祖神というと中国のものなので、本来は縄文信仰である幸の神、道の神、岐ちまたの神のことです。サルタ彦大神が村の入口や分かれ道(岐)、村境に立って人々を守ってくれるという信仰です。出雲伝承では百太夫はサルタ彦大神が百のお姿になって善人を守ってくれるという言い伝えだそうですが、傀儡子たちがたくさんの人形を作る目的はサルタ彦大神に守ってもらうという意味合いがあるようですね。彼らは出雲と関わりがあるのでしょうか。

市史によると扶桑略記道祖神の祭のことが記されているようで、941年9月、《木を刻んで男女を作り相対せしめ、衣冠をあらわし、丹彩をぬり、臍下に陰陽を刻し、その前に机をすえ、坏器をおいて供物をし、子供たちが幣帛や香花を供えて拝み、岐神ふなとのかみと言い、御霊と称したという》とあります。男女の陰陽和合に岐の神、クナトの大神といった幸の神信仰がそのまま表されていますね。

市史の見解では、仏教の影響で平安初期になって神像を作るようになり、民間にも及んでのちに道祖神像作りが生じたとしています。また陰陽の威力によって、外来の邪神悪霊を追い払うことは人形を作る以前よりあり、それまでは陰陽形のみを作って交差点や村境に置いたのであろうということです。

 

次回は「あらえびすさん」と呼ばれた沖ノ戎とえびす信仰について紹介します。

 

 

 

 

 

 

西宮えびす(西宮神社)⑴ヒルコの神と西てふ神

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前回の投稿から長らくのお休みを頂きました。

春よりライフスタイルの変化がありまして、まとまった時間を持てなくなっておりましたが、また少しずつ発信していこうと思っております。今後は不定期の投稿となりますが、よろしくお願い致します!

なおコメント欄はこれまで通り設けさせて頂きますが、すぐに返信できない場合もございます。すべて読ませて頂いたうえで、今後は私の対応できるご質問のみ、本文の中でお答えさせて頂くという形に変更したいと思っております。コメントが無表示となりますこと、ご了承下さい。

当ブログを始めて1年が過ぎましたが、温かい励ましのお言葉や興味深いご意見、ご質問など送って下さった皆様、本当にありがとうございました。そして数ある情報の中、ここへ辿り着いて下さった皆さまとのご縁に心から感謝し、これからの励みとさせて頂きます。  

源流なび☆Sorafull

 

 

戎ノ社えびすのやしろ西宮神社

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さて、再始動1回目は阪神間の人気スポット、えべっさん西宮神社)です。毎年1月10日の早朝に福男選びと称する徒競走がニュースになり、関西以外の方でもご存じではないでしょうか。これは十日えびすと呼ばれる商売繁盛を祈願するお祭りで、10日の本えびすの開門神事がこの福男選びです。宵えびす、本えびす、残り福の3日間で100万を超える人々が集まります。Sorafullは神戸大阪間をいつも車で行き来していますが、この時だけは西宮神社前の主要道路を避けるようにしています。

西宮神社のホームページによりますと、ここは福の神、えびす様をお祀りする神社の総本社。昔、神戸の和田岬の沖から出現された神様を、西宮の鳴尾の漁師がお祀りしていましたが、ご神託によってそこから西の方にあたる西宮に遷し祀られたのが起源とのことです。年代は不詳ですが、平安後期には戎えびすの名が文献に記されています。えびす神は初め、漁業や航海の神として信仰されていましたが、やがて市の神、商売繁盛の神様としての人気が高まり崇敬されていきます。

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 本殿は日本唯一の三連春日造りという珍しいものだそうで、向かって右から第一殿に蛭児ヒル大神、中央の第二殿に天照大御神大国主大神、第三殿にスサノオ大神がお祀りされています。

大国主が祀られているのは、もともと西宮の地に大国主西神社があったことからだそうです。ここ、重要ポイントですのでのちほど改めて。

またえびす神と蛭子神は同一神とされています。

 

えびす神と蛭子ヒル神と事代主

神社発行の西宮神社史話から要約します。

〈すでに室町時代には戎社えびすのやしろ海社うみのやしろといっていた。海社という表現は重要な意味をもっており、神様の性格を端的に表したものといえる。最初は海の彼方から来られたために外国の神様と思い「エビス様」と名付けて呼んだが、後になって古事記日本書紀に出てくるイザナギイザナミの御子として海に流された蛭児神であることがわかり、改めて海神蛭児神として祀られることになった〉

もともとは漁師がお祀りしていた海の神様であり、海上安全と大漁を保障してくれるという信仰だったのでしょう。これは出雲の事代主が海の神、えびす神となり、島根の美保神社を総本社として祀られていることと源が同じかもしれません。Wikipediaには〈えびす神は複数あり、イザナギイザナミの子である蛭子命か、大国主の子である事代主神とされることが多い〉とありますが、西宮神社史話によると、本来は海の神様としての信仰であったことがわかりますね。

実はSorafull自身、記紀への大きな疑問のひとつとして、海に流された蛭子のことが気になって仕方なかったのです。わざわざ最初に生まれた子を骨のない蛭子として海に流し去ってしまう、そんな物語の必然性とはなんなのか。しかも蛭子が生まれた理由を、女性から男性を誘ったせいだとしています。あからさまな男尊女卑。何か気になる‥‥。もしかするととても大切なことを隠すために、そしていつか解き明かされるために、あえて引っかかる表現を使ったのではないか。形を変えてでもどうしても書かなければならなかったこととは何か。そう考えている時に、このえびす神と蛭子神のことを知ったのです。

イザナギイザナミといえば出雲、幸さいの神の女夫神であるクナト大神と幸姫命サイヒメノミコトですね。その子孫となる御子は大国主や事代主です。そして日本は元来母系家族制であり女性が家の主でした。記紀ヒルコの話は、女性の力を封じるとともに、最初に誕生した国である出雲王国の王家子孫を蛭子として消し去った。そう解釈すれば、なぜ蛭子が最初に生まれたことを記紀が書かなければならなかったかが理解できます。

また天照大神は太陽の女神ですが、日の女の尊で日女ヒルメノ尊と呼ばれます。もとを辿れば出雲の太陽の女神、幸姫命です。

日の子の神は日子ヒル神。

記紀では天照大神天孫族として崇め、大日孁貴オオヒルメムチとし、天孫に負けた出雲の事代主は低く見せるために蛭子の字をあてたということなのでしょう。

そして海の彼方から漂流して現れる神といえばもうひとり、出雲の美保の岬の向こうからやって来たスクナヒコナがいます。この神のモデルは出雲王家副王の役職名である少名彦スクナヒコです。主王である大名持オナモとともに王国を治めました。8代目少名彦は八重波津見、記紀では事代主として描かれています。伝承では美保の海辺に釣りをしに出掛けた事代主は行方不明となり、のちに洞窟で遺体が発見されたと伝えられています。暗殺者は渡来人である徐福と秦人たちということです。このことを記紀では出雲の国譲りの際に、天孫族に迫られた事代主は天孫に従うと返事をすると、乗っていた船を自身でひっくり返して水中にお隠れになった(自死)という話にしているようです。その後、事代主の御霊はまた海の向こうから光輝きながら現れ、大物主として大国主のもとへやってきます。このように事代主は外来神ではなく、海と結びついた神として祀られていきました。

事代主は記紀の中ではスクナヒコナと大物主であり、時代を経てえびす神、蛭子神として蘇り語り継がれていくのです。

 

 

ではなぜ「えびす」という名がついたのかですが、西宮市史によると《エビスとは、夷・戎・狄などの字の訓であるが、平安初期まではエミシと訓じていた。日本書紀には愛瀰詩の字をあてたりしている。エミシは平安時代中期ごろからエビスと変じたらしい》とあります。

神武東征では愛瀰詩エミシ、景行記になると蝦夷エミシです。

平安末期の記述に、夷は海老主、江比須に同じとするとあります。

エミシ⇒エビス

出雲伝承の谷戸氏は西宮の戎について、東国の蝦夷エミシとの関係をあげています。事代主の子孫、大彦(記紀ではナガスネ彦)は物部東征軍に抵抗し東国に逃げた末、安倍氏となってクナ国を作ります。その後は日高見国と名乗りましたが、のちの中央政府からは蝦夷エミシと呼ばれます。事代主も蝦夷エミシと呼ばれ、平安末期以前にエビスに変わったのではないかと。

また「戎」とは古代中国で西方に住む野蛮人を意味し、西宮は平安京の西にあるためこの字が使われたとしています。

 

西宮のえびす神が文献に現れるのは平安末期になってからで、蛭子神が現れるのは鎌倉中期~末期です。西宮神社の伝承通り、最初はえびす様として信仰が始まり、のちに記紀を勉強した者たちが蛭子神と重ねていったという流れなのでしょう。

蝦夷(出雲王家子孫)⇒えびす⇒蛭子

 

 

 

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注)現在の神社や川と、昔の海岸線のイメージを合わせたものです。古代の入海などは省略しています。

 

広田神社

戎ノ社といえば広田神社を語らないわけにはいきません。かつて広田神社は六甲山全体までも領地とし、武庫地方第一の大社として存在していました。最初の社地は甲山周辺の高台であろうと言われ、しだいに南へ下り、現在の大社町へと移されたのは1728年です。

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日本書紀によると、神功皇后新羅遠征を終え難波に向かっていると船が進まなくなった。武庫の港に戻って占いをすると、天照大神が「わが荒魂を皇后の住む地域に近づけてはならない。広田国(現西宮市、広田神社の地)に置くのがよい」と言われたので、山背根子の娘、葉山姫に祀らせた。また稚日女ワカヒル尊が「自分は活田長峡国(神戸市生田神社)に」と言われ、海上五十狭茅ウナカミノイソサチに祀らせた。さらに事代主命が「自分を長田国(神戸市長田神社)に」と言われ、葉山姫の妹の長姫に祀らせた。

広田神社 ⇒ 天照大神の荒御魂

生田神社 ⇒ 稚日女尊

長田神社 ⇒ 事代主

 

平安末期から鎌倉初期に書かれた古辞典、伊呂波字類抄には、広田神社がお祀りする五座は、八幡、住吉、広田、南宮、八祖神

摂社末社は、矢洲大明神、南宮、夷、児宮、三郎殿、一童、内王子、松原、百大夫、竈殿

とあります。

 

 

西の宮

さて、戎ノ社に話を戻しましょう。広田神社の真南には別宮として浜南宮があり、同じ神々を祀っていたそうです。海側の遥拝所といったところでしょうか。創建は不明ですが遅くとも平安中期には建っていたことがわかっています。

現在広田神社に保管されている有名な如意宝珠(劔珠といって水晶の中に劔の形のヒビが顕われたもの。日本書紀に記されている)も古くは浜南宮にありました。

この浜南宮は現在の西宮神社全域にあたる社地だったそうです。また浜南宮と称する社域におさめられた末社は、児御前、衣毘須エビス、三郎殿、一童社、松原社でした。

西宮神社発行の西宮神社史話」によると、平安末期の歌合で詠まれた文言や当時の記事から察すると、広田社、浜南宮、西宮戎社はそれぞれ別の社殿ではあるが、全体をひとつの神社と捉えていたとしています。ただし浜南宮と西宮戎社は同一の社域にあったということです。

そしてこれら三社を含めて「西宮」と呼んだというのです。(※広田神社では西宮とは広田神社の別称だと主張しています)

西宮 ①北社・・・広田神社

   ②南社・・・浜南宮と戎ノ社(現・西宮神社

 

10巻本伊呂波字類抄を基に作成(平安最末期から鎌倉初期)

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1199年、業資王(のちの白川伯王家)が神衹伯になって最初の神拝のときに、「下向西宮」と記して、まず広田神社に参ってから次に南宮、五宮、次に戎三郎、次に内王子、次に松殿に参ると記されています。この全体が西宮参詣であったということです。

 注)「西宮神社史話」は昭和36年発行、著者は当時の宮司・吉井良尚。平成14年の改訂版は次代宮司・吉井良隆によるが筋書は変更せずとのこと。

 

写真は西宮神社境内に鎮座する南宮神社です。広田神社に向かうよう北向きとなっています。阪神淡路大震災で本殿は全壊し、新たに建て直されました。

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主祭神豊玉姫古事記の海幸山幸のお話では、豊玉姫が潮干珠潮満珠を山幸彦に渡します。宝珠繋がりでしょうか。神功皇后月神を祭る家だったので豊国とも関係が深いですね。そして市杵島姫。豊玉姫の母系祖先にあたり、お二方とも出雲王家と宇佐家の血筋です。そして大山咋神は出雲のクナト大神。葉山姫は広田神社で天照大神の荒御魂を祀った人です。

ここで面白いことがわかりました。広田神社の五座に南宮とありますが、いったいどんな神さまを祀ったのだろうと思っていたところ、なんと諏訪大明神のようなのです。事代主と越の沼川姫の御子、建御名方富タテミナカタトミノ命です。(記紀では大国主の御子)

西宮神社の前宮司・吉井良隆氏の「えびす信仰辞典」によると、吉田神道の吉田家によって戦国末期に書かれたと言われる「諸神記」には、広田神社五社(五座)の諸説の中に南宮を諏訪と記しています。

さらに古くは1336年足利尊氏の奥書のある諏訪大明神絵詞」の中で南宮を諏訪南宮と記し、さらに広田五社として本社、八幡大菩薩諏訪・住吉二神及び八祖宮と書かれています。また諏訪大社に伝わる御狩神事は、古くは広田、西宮両社においても行われていたそうで、この諏訪大明神絵詞の中に、諏訪の御狩神事で捕えた猪鹿を西の宮の南宮に奉ったことが書かれています。

諏訪大社諏訪湖を挟んで上社と下社の二座に分かれており、湖東の下社に妃神を、湖南に建つ上社に建御名方神が祀られています。こちらを諏訪南宮とも呼んだらしく、その名をもって西の宮で勧請したということです。

現在、この西宮神社では南宮の主神が海神・豊玉姫となっていますが、本来は出雲、事代主の御子、建御名方神だったようです。

 

  

それでは、なぜ「西宮」と呼ばれたのか。

方角であればどこかから見て西だということです。神社史話の中では「都からみて西に在す宮と考えるのが妥当」としていますが、疑問も残るようです。

平安末期の歌合で詠まれた中に、「西てふ神(西という神)」「西の宮」という言葉が現れます。

平安初期の延喜式神名帳に記された摂津国莵原郡、大国主西神社(所在地は不明、現在は西宮神社境内社)を指すのだろうという説があります。この「西」は方角が地名となったものだとし、西という場所に鎮座する大国主を祀る神社であり、それが西宮の起こりだろうと。ところが西を地名とすると言葉の順序がおかしいのです。地名(通常は漢字二字)のあとに神名が原則だそうです。さらに鎮座地が武庫郡ではなく西隣の莵原郡にあることも納得がいかないと。

もうひとつ疑問をあげています。浜南宮の末社三郎殿というのがありますが、どういう神様なのかがわからないとのこと。平安末期から鎌倉時代にかけて多くの人々の崇敬を集めたそうで、「戎社と三郎殿」さらには「戎三郎殿」とひとつにした表記もみられます。

 

ではこれらを踏まえて、出雲の伝承を見てみましょう。

延喜式神名帳とは、平安初期に書かれたものであり、当時官社に指定されていた全国の神社一覧です。ここに記載されたものを延喜式式内社式内社、式社と呼びます。

 

出雲伝承による西の宮

いつもながら驚きの話ですが、もったいぶらずに結論を言いますね。

大国主西神社とは大国主幸の神を祀っていたというのです。

幸の神 ⇒ 西の神

もうおわかりですよね。山陰地方では「幸」か「斎」であった字が「西」という字をあてられ、やがて訓読みに変化していった。

「西ニシてふ神」はそもそも「幸サイてふ神」であり、「西の宮」とは「幸の宮」が変化したのだろうということになります。

神戸の長田神社には事代主命を祀り、大国主西神社に大国主と幸の神を祀り、後者が現在の西宮神社の基となっていると。

この話にはSorafullもさすがに笑ってしまいました。西が幸であったとは‥‥。みんなが頭を抱えていた難問に、そんな単純なオチで返すのかと。とはいえ、そうは言われても簡単には頷けないのが本音です。たとえ答えはこれだと見せられても、筋道をつけたいのが人の心理です。

次回は西の宮が本当に幸の宮であったのか、疑問を解きつつ迫ってみたいと思います。

古事記と日本書紀~ふたつの影法師⑶

 

  

 消された出雲王国

天武天皇帝紀の編集に関わった忌部子人は、その経験から古事記の最初の部分を担当したようです。物部の時代から宮廷祭祀を担ってきた忌部氏は、日本の神々や神社に詳しく適任でした。もとは徐福の第2次渡来時にやってきた氏族なので、道教的要素を持っています。例えば出雲では8が聖数であるのに対し、道教は7を聖数とします。そこで最高神を天之御中主として、上位の神を7神としました。神話に7と8が多く使われるのはそういう背景があるようです。

708年に忌部子人は出雲国司となりました。国司とは中央集権国家となってから始まった、国から派遣された官吏です。それまでの国造よりも上の存在です。不比等は子人に出雲王国の歴史を調べるよう求めた可能性もあります。

子人は古代史に詳しいため、出雲王国から記すつもりでした。ところが当時の出雲国造はホヒの子孫、果安ハタヤスであり、ホヒというのは徐福の第1次渡来前に密偵として出雲にやって来た渡来氏族で、その後事代主や大国主の暗殺に関わり、さらに末裔が出雲王国滅亡に加担するなど、出雲の人々にとっては苦々しい存在でした。果安はそんな祖先のことをできるだけうやむやにしておきたい気持ちが強く、出雲王国を国史に載せない方向で子人に交渉したと思われます。神武王朝の始まりを出雲王国初期の頃まで引き延ばせばいいと。(出雲が王国として成立したのは紀元前6世紀頃であり、神武天皇の即位は紀元前660年です。)

子人は子人で忌部氏と中臣氏の宮廷祭祀の権力争いが始まっており、子人は出雲の神の寿詞を出雲臣にさせることで、中臣氏による天神寿詞奏上を止めさせたいと企んでいました。このような子人と果安の互いの利得のために、国史は出雲王国を省く方向へと傾いていったといいます。

また果安は自分が神社の神職になることを望み、(国造の権力は落ちていたこともあるよう)出雲市多芸志たぎし出雲大社を建てることを子人に伝えます。それで古事記に「出雲国多芸志の小浜に天の御舎を造る」と早々に書かれたそうです。実際には予定地が変わり、出雲大社は716年に創建されたので、日本書紀には「出雲の五十田狭いたさの小浜」と書かれ、現在の稲佐の浜のことですね。多芸志は今は内陸ですが、当時は内海に近かったようです。大社建立には両出雲王家が出資したのですが、記紀には大和政権が建てたように書かれています。

出雲神寿詞奏上に関しては、旧出雲王の神霊が大和政権に服従し、天皇の御代を祝福することを都の貴族たちが望んでおり、不比等はこの手柄を藤原氏のものにしたいという思惑があったので、話は進みました。このようなこともあって、忌部子人の国司としての出雲滞在期間は8年にも及び、子人は出雲国内に領地を拡大し、松江市には忌部の地名もできて忌部神社も建てられました。

この間に出雲国造果安に出雲の神話や事件を書かせ、それを古事記を書く人麿に知らせていたと考えられています。出雲国司を辞めた後も、太安万侶日本書紀編集のアドバイスをしていたと思われます。

また果安は徐福という名を出さずにスサノオに変えてほしいと頼んだとか、大国主の名前は不比等からの指示であったなどと書かれているのですが、それが出雲の伝承なのかどうか出所がわかりません。こういうところを区別して示して頂けたらと思います。果安についてはとても詳しく書かれているので、これは出雲国内の出来事を探る秘密組織からの情報かもしれませんが。

 

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 ふたつの史書とふたりのゆくえ

古事記序文では、稗田阿礼が習った歴史の記録をもとにして太安万侶がまとめたとされていますが、斎木氏は実際にはその逆であるとし、安万侶が役所から持ってきた歴史記録と、出雲国造の考えた出雲神話と、忌部子人がまとめた記録をもとに、人麿が古事記を書いたとするほうが可能性が高いと言われます。日本語的な漢文を書ける上に、古事記に記された格調高い和歌や世俗的歌謡など、当時、人麿以外に誰が書けるのかと。

人麿は庶民向けに読みやすくなるよう物語性を重視し、和歌を織り交ぜ、そして後世の人が史実と違うことに気づけるよう、考え抜かれた例え話を混ぜたと思われます。人麿は万世一系にするという制約の中、できるだけ真実に近づくように知恵を搾り、一方安万侶は撰善言方式に従い、資料に基づいて詳しく書くことに徹したと思われます。日本書紀の神代に頻繁にみられる「一書に曰く」という記述は帝紀編集時に豪族たちの提出したレポートでしょうか。安万侶の律義さ真面目さが現れているようです。このふたつの方向性の史書をまとめることは無理であり、結果2冊の史書ができていったのではないかと考えられます。

この2冊に同じ和歌や歌謡が使われたわけを想像すると、政府の圧力というものを越えたところでの、ふたりの個性の違う文学者が互いに綴られた言葉を通して感じあう時間もあったのだろうなと、そこだけはやわらかなものが伝わってくるようです。

こうして国史編集に力を注いだふたりの名前は、どこへいってしまったのでしょう。

 

人麿の最期

ここからはさらに推測となりますが、日本書紀は朝廷に都合がよく、古事記は世間には発表しない方向へと向かっていったかもしれません。それを知った人麿が提出用のものから写本を作って密かに残そうと考え、安万侶はそれを見て見ぬふりをした、もしくは安万侶も写本を作っていた可能性も。実際に古事記が今私たちのもとにあるということは、何らかの経緯で写本が存在し守られたということでしょう。

古今集序問答」に、人麿が聖務天皇の后と密会したため明石に流され、3年後に赤人と名を変えて都に帰った、という記載があるそうです。時期が合わないので聖務ではなく文武天皇の后であり、明石は石見の間違いとして、そのような何かの冤罪によって人麿は石見国に監禁されます。のちに上総国へ流刑となったといいます。そして724年に77歳で亡くなりました。

妻の依羅ヨサミ姫と長く離れ離れになっている間の歌のやりとりから、斎木氏はとてもロマンチックな話を想定されています。依羅姫は人麿と親子ほど年が離れており、流刑となった年老いた人麿は若い妻が自分を待たないようにとの想いから、自分が死んだことにしたというのです。その歌を友人に託して妻へ届けたと。それが石見国で亡くなったとされている所以です。実際にはその後も上総国で幽閉され、77歳で亡くなり、人麿の実家である綾部家に死亡年月日が通達され、遺髪が送られました。

他にも依羅姫が亡くなったかのように読める歌を、友人が人麿のために詠んだとか、山辺赤人太安万侶)がのちに依羅姫のもとへ通い、人麿の昔詠んだ歌を集めたとか、ただならぬ話もあり、ここでは紹介しきれませんので、興味のある方はぜひ「万葉歌の天才」を読んでみてください。

 

古事記国史として採用されず闇に消え、時を経て現れると漢文で書かれた序文が添えられていました。そこには古事記を書いたのは私、太安万侶だとあります。この序文がもし安万侶自身のものであるなら、そうさせるだけのただならぬ想いを感じてしまいます。国史編集に費やした人生を踏みにじった不比等への憤りは当然だと思います。けれど同じ痛みを味わった同胞であるはずの人麿の功績を闇に葬る、という行為を犯してしまうほどの動機とは……

もちろん後世の人が序文を書いた可能性もあります。

 

最後に

また個人的な話を少しだけ。

父が病に倒れ、まだ意識がはっきりしていた頃のことです。父に人生でやり残したと思うことは?と尋ねたことがありました。父の返事は思いがけないものでした。

「柿本人麿に、あなたが命をかけて伝えようとしたことは、今、この現代にしっかりと受け継がれていますよ、と伝えたい」

父らしからぬ、なんともファンタジックな言葉を聞いた時、私は正直、この期に及んで!?と呆れてしまいました。それほどまでに熱い想いだったのかと。しかもこちらの世界にいては果たせそうにないじゃないかと。

まさかその後このようなブログを自分が書くことになるとは思いもしなかったのですが、今になって、あの父の言葉が遺言のようなパワーを持って私を動かしたのかもしれないと、そんな気もしています。

遺言とは故人の大切にしていたものにダイレクトに触れるメッセージなのかもしれませんね。そうやってエネルギーを受け継いでゆく。

私と父の人麿像はきっと少しズレがあるでしょう。父はツッコミたくてうずうずしているかもしれませんが、私はそれもよしと思っています。古代の人々と今を結ぶ熱い想いがここにある限り。

 

 

古事記と日本書紀~ふたつの影法師⑵

 

 

斎木雲州著「古事記の編集室」「万葉歌の天才」を主に参照しますが、物語風に記されているところも多く、それが研究による推測であることも考慮し、そういった箇所は断定せずに紹介していきたいと思います。

 

天武天皇による帝紀の編集

天武10年(683年)に帝紀の編集が始まりました。12人の委員のうち半数は皇族で、残りは各豪族を代表する人物です。柿本人麿が当時仕えていた忍壁皇子も入っているので、稗田阿礼とされる人麿を目当てにしたと考えられます。豪族たちは以下になります。

 

安曇連稲敷(海部氏の子孫、海部王朝

難波連大形(出雲系大彦の子孫、磯城王朝

忌部首子人物部王朝時代の宮廷祭祀を司った、徐福2次渡来集団の古代氏族)

上毛野君三千(宇佐家ホムタ大王の親族、応神王朝

平群臣小首(武内宿祢の子孫、平群王朝

中臣連大嶋(宮廷祭祀を司る、忌部氏の競合相手)

この人選を見ると、天武天皇は各古代王朝についてほぼ正確な歴史を書こうとしていたかのようです。天武天皇が育ったのは海部氏の分家である安曇家であり、「大海人」皇子の名は海部からきています。この時の編集チームが国史を完成させていたら、ヤマト王朝初代大王は神武ではなく海村雲から始まることになっていたかもしれませんね。ただし物部王朝の子孫は選ばれていないので、物部東征については除外する予定だったのでしょう。

ところが編集作業は難航し、一旦休止となってしまいます。各王朝の子孫たちなのですから、王朝交代の争いについてはそれぞれの言い分もあるでしょうし、後世に残ることを考えれば、先祖のことを悪く書くことは避けたいところです。互いに事実から離れた有利な話を書いて提出したとすればまとめようもありませんよね。結局各氏族の提出したレポートだけが残されたようです。

 

持統天皇の撰善言司

天武天皇が亡くなると、サララ皇后(のちの持統天皇。父は天武の兄とされる天智天皇)が実権を持つようになります。刑部省長官の石上麻呂物部氏)を重用、さらに中臣鎌足の息子の藤原不比等刑部省判事に任命します。天武亡き後すぐに大津皇子が死刑となったり、サララ皇后の実子である草壁皇子が急死したりと不穏な事件が続きました。そして皇后は持統天皇として即位します。

持統天皇は即位直前に撰善言司よきことえらぶつかさという委員会を作ります。これは史話を良い話に変えて教訓的な説話集を作ることが目的です。つまり事実を捻じ曲げてでも聞こえのいい良い話に変えるということです。この委員に選ばれたのが伊予部馬飼です。(浦島太郎のもととなる話を書いた人。天女の羽衣伝説やかぐや姫の作者である可能性もあり)

このチームは間もなく解散となりましたが、その時提出されたレポートがのちに記紀に使われたといわれます。

 

藤原不比等による国史編纂始まる

鎌足の長男、定恵が635年に遣唐使とともに唐へ渡り広く学んで帰って来たことが、天武天皇帝紀編集のきっかけとなった可能性があります。これから東アジアで他国と渡り合うためにも、国史が必要であると。その大きなプロジェクトが頓挫したままになっていたのを、不比等が再び進めたようです。けれど持統天皇は撰善言司にみられるように、歴代王朝の熾烈な争いなどをそのまま記すことを拒み、不比等からの万世一系方式の提案を受け入れることで、国史の方針が決まったと考えられます。つまり、各王朝を連続したひとつの王朝として描き、できるだけ良い話となるように撰善言方式をとること

 

ここで不比等の血筋をみてみましょう。

父の鎌足は中臣家へ婿養子として入りました。なので中臣氏と藤原氏は別の家系です。鎌足の生誕地である上総の母の系図では先祖は出雲王の子孫、八井耳命ヤイミミノミコト。鹿島の豪族である父の先祖も八井耳命だといいます。

※八井耳命とは海村雲とタタラ五十鈴姫(事代主の娘)の御子、もしくは孫にあたります。伝承に2通り書いてあります。

太家の始祖でもあります。太臣家の臣は出雲王家親族のしるしです。つまり不比等太安万侶の先祖は同じということになります。両家は古くから親しかったようです。

中臣家は宮廷祭祀の家柄なので、鎌足天皇家に近づくために中臣家に婿として入ったとも考えられます。ところが息子、定恵や不比等はまた別の女性の子です。それが車持与志古娘であり、一説では不比等は天智帝の落とし子とも言われています。(この話はかぐや姫の記事で紹介しています)

このような血筋のこともあってか、不比等は出雲王国のことを国史に書くつもりだったと斎木氏は言います。だからこそ八井耳命の子孫であり出雲の歴史に詳しい太安万侶を選んだというのです。さらに九州大宰府に勤めていた可能性が高く、中国語がわかり中国の史書にも詳しく、漢文も書けるということであれば適任です。696年に安万侶の父の官位が突然上がっていますが、24年も前の壬申の乱での功績が理由です。この時から安万侶の新たな仕事が始まったのでしょうか。

前回の帝紀の編集が失敗に終わったことを踏まえて、不比等は外部に漏らさないように計画したことも考えられます。編集者を最小限にして秘密を守らせ、隠れた場所で作業をさせたと推測されます。

 

中央集権国家の誕生と人麿の監禁

696年、太政大臣として尊敬され人望の厚かった高市皇子が、大津皇子と同じく冤罪で死刑となり、翌年、持統天皇の孫である軽皇子が15歳で即位し文武天皇となりました。その4年後に大宝律令が定められ、日本は中央集権国家と変わりました。不比等は大納言として大宝律令の作成に関わっていますが、中心人物だったのでしょう。不比等は法律の制定、首都の建設、国史編纂という国家の基礎となる大事業を表に立たずに(天皇を楯にして)やり遂げ、驚くほど有能な人物と思えます。さらに娘たちを天皇家に嫁がせ、藤原家を外戚として着実に地固めしていくところなど、この人にはどんなビジョンが見えていたのだろうと思うと身震いしそうです。

 

707年に25歳の若さで文武天皇崩御され、母が元明天皇として即位します。翌年には不比等が右大臣に、石上麻呂(物部連麻呂)が左大臣になりました。この左大臣を味方に引き入れるために、不比等物部氏の祖、ニニギノ命(徐福)が九州に降臨する話を書くことになったのだろうということです。実際には徐福は筑後平野に上陸しましたが、日向王国を取り入れ「筑紫日向の高千穂の峰」に変わりました。その際に記紀製作に協力した豪族たちの祖も一緒に降臨することとなります。

 

斎木氏は柿本人麿の残したたくさんの和歌を解読し、この頃から監禁状態で古事記の執筆をさせられていたとしています。すでに太安万侶が始めていた編集作業に人麿も加わり、安万侶の監視のもと小治田の宮跡(飛鳥時代推古天皇の宮)にこもり、稗田阿礼として苦しい生活を強いられていたと。

例えば長歌「乞食人ほかひびとの詠」(万葉集3885、作者不記載)は、鹿と狩人を自分と不比等に重ね「偉い人が多くの弓矢を持って自分を捕えようと狙っている、すぐに殺されるだろう、と鹿が嘆いて言います。角は飾りに、耳は墨壺に、目は鏡に、毛は筆に、肉は膾なますに…老いた私の一生が7回栄誉に輝いた上に更に8回も栄誉に輝くようになるよと誉めそやすお偉い方よ、おだてたいならどんどんおだて下さいまし」と歌います。これは生活費を恵んでもらうために不比等の乞食になっていることを自虐的に表しているとし、そのタイトルが乞食の歌であるのは「古事記を書く乞食」と暗示しているからだと説かれています。

※和歌については「万葉歌の天才」に非常に詳しく書かれています。

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注)人丸と書かれていますが、これは平安期以降の表記です。

 ここで人麿について少し解説をしておきます。人麿の出自については前回のかぐや姫の記事で紹介しました。

『人麿の母親は漢アヤ氏の部民である綾部家の者でした。綾部家は「語らい家」(語り部の技術をもつ歴史に詳しい者)です。古事記序文に書かれた稗田阿礼ヒエダノアレですね。

実は人麿の父親が天武天皇と伝承では言われており、天武天皇の幼名が漢ノ皇子です。安曇家(海部氏の分家)に預けられて育ったので大海人オオアマノ皇子と呼ばれました。綾部人麿は大海人皇子の縁者に連れられて都へ行き、柿本家の養子となります。(柿本家は磯城王朝5代カエシネ大王の分家です。)人麿の母親の身分が低かったため、天武天皇は人麿が息子であることを伏せていたようです。』

人麿は幼少の頃より記憶力に優れ、天才が現れたと評判になるほどで、母が語りを詠み唱えるのを聞いてすぐに覚えてしまったそうです。柿本人麿となってからは、天武天皇の御子たちの舎人として働くことになり、また宮廷歌人としても大きく花開いていきます。仕事での功績はあったものの、出自が災いしたのか位階はほとんど上がらず、人麿はただ黙々と努力を続けます。また人麿は政府の在り方に疑問をもてば、それを歌に込めるという歌人としての自由さ、率直さも持っていました。慕っていた皇子の突然の死に対しては、我が身を守ることなく長大な挽歌を捧げました。このように飛びぬけて優秀で、芸術家的自由さと情熱を持ち、かつ歴史にも詳しいとなると、隠したいことの多い政府としては警戒するのは当然かもしれません。

 

史書には一切記されていない人麿を知るには、残された万葉集を辿るしかありません。Sorafullは残念ながら和歌には疎いので、歌聖と称えられた人麿の歌の素晴らしさをお伝えする力はありませんが、日本人の言葉に対する感受性を、この時代に一気に高めた存在なのではないかなと、そんな空気感はひしひしと感じています。その秀でた才能ゆえ政治に利用され潰されたのであれば、人麿の生まれながらに背負った宿命に底知れぬ悲しみを覚えます。

 

つづく

 

 

古事記と日本書紀~ふたつの影法師⑴

通説では中大兄皇子天智天皇)の時代、乙巳の変において蘇我入鹿が自宅に火を放ち自害した際に書庫も炎上し、天皇記などの歴史書が焼け、残った国記だけが天皇に献上されたといわれます。その後の壬申の乱によって天武天皇が即位し(673~686年)失われた国史の編纂を命じます。(なぜかその国記も現存しておらず、こんなに何もかも消えてしまうとは不思議です…)

実際に古事記が完成したのは3代後の元明天皇(707~715年)になってからで、712年に献上されたということが古事記序文に書いてあります。

太安万侶が書いたとされるこの序文によると、諸氏族の伝えていることはすでに虚偽が入り交じっているため、天武天皇は自ら選び定めた帝紀(歴代天皇の日継ぎの伝え)と旧事(古の出来事の伝え)を舎人とねり稗田阿礼(28歳)に誦み習わせ、正しい国史を作ろうとしたが完成には至らなかった。元明天皇の代になって、太安万侶稗田阿礼の言葉を書きとってまとめるよう命じられ、安万侶は日本語的な漢文で記した全3巻を712年に献上した、と経緯を説明しています。また稗田阿礼は聡明な若者で、目に見たものは即座に言葉に置き換えることができ、耳に触れた言葉は心の中にしっかりと覚えこんで忘れることはないと形容されています。この序文は漢文ですが、本文は漢文をベースにしつつ万葉仮名を取り入れた形式で書かれています。著者が同じなのに文体が違います。

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真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本

 

一方720年に完成した日本書紀には製作の経緯は書かれておらず、その後に書かれた続日本紀(797年)に、天武天皇の命によって舎人親王(天武の息子)らが日本紀の編纂に当たり完成させたと記されています。日本書紀は漢文です。この続日本紀古事記のことは一切書かれていません。

日本書紀の注釈書「弘仁私記」(812年)の序に、日本書紀舎人親王太安万侶らが詔勅を受けて編集したと書かれています。さらに稗田阿礼についても古事記序文と同じことが記されています。これを書いたのは太安万侶の子孫の多人長だそうです。古事記に関しての初めての記述です。完成から100年、古事記がどのような状況にあったのかはわかりません。

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平安時代に書かれた日本書紀の写本

 

なぜほぼ同時期にふたつの史書が作られたのかの説明として、通常は、古事記は国内向けの天皇家の正統性を示すもの、日本書紀は外国に向けた大和朝廷の公式な歴史書という顔を持っているからと言われます。

でもこの説明には違和感を覚えます。古事記天皇家の正統性を示すのであれば、あのような描き方をするかなと思うのです。天孫の神々は内面的にもなんだか軽く描かれていて、反対に出雲の大国主のことを徳のある英雄として細やかに描写を重ねています。この国のもとを一生懸命に造った大国主から、国を譲れといって簡単に奪ってしまった天孫族の好感度は決して高いとはいえません。そして日本書紀大国主については大幅にカットされ、淡々と皇位継承について話が進められます。結局日本書紀だけが史書としての扱いを受け、古事記続日本紀にその製作経緯についてすら記されず、完成後から時を経ていつの間にか世の中に現れました。そのため偽書と言われたり神話や伝説の扱いとなっていったことを考えると、同時期に作成されたこのふたつの史書の背景に隠された意図を感じてしまいます。

 

さて、出雲の伝承にこの時代の驚きのワンシーンが伝えられています。旧出雲王家の向家が716年に杵築大社(現・出雲大社)を創建後、出雲の熊野大社から杵築大社へと移転して間もなくのことです。密使がやってきて、向家当主に国庁近く(松江市竹矢町)の太オウ家の屋敷のほうまで来てほしいと頼みました。当主が行くと、山辺赤人ヤマベノアカヒトと名乗る人物が待っていました。斎木雲州著「古事記の編集室」から抜粋します。

 

『かれは自分と柿本人麿が、古事記日本書紀を書いた、と話した。出雲の歴史は書かない予定だったが、自分が書くことを主張して書くことになった、と話した。つまり、出雲王国を出雲神話に変えて出雲国造は隠したが、古事記に17代にわたる出雲王名が書かれたことを、話した。向家の当主は出雲人を代表してお礼の言葉を述べた。また赤人はそのうちに、カズサの国に行く予定だ、とも言った。向家では後で国庁役人に確かめたら、オウの屋敷には太安万侶が住んでいた、と教えられた。それで向家では、太安万侶の屋敷に住んでいた山辺赤人から話を聞いたと考えていた。その屋敷跡にはその後サイノカミの祠ができて、地元の人は「オウ(意宇)の杜」と呼んで祭っている。太安万侶の墓ができた頃、大社町山辺赤人の供養塔が建てられた。その場所はのちに赤塚という地名になった。同じ頃その北の小土地という所に山辺社が建てられたらしい。出雲国風土記の出雲郡に山辺社の名前が書かれている。それは今、赤人神社の名前となっている。』

 

伝承では、太安万侶の屋敷に住んでいた山辺赤人と会った、ということになっているようですが、斎木氏はふたりは同一人物だろうと言われます。古事記日本書紀の編纂に山辺赤人が関わったということは記されていないので、やはり同一人物とするのが妥当かと思います。

山辺赤人(山部と同じ)は生没年不詳の万葉歌人で、史書には名が記されておらず下級官吏だろうということです。724年から736年に歌人として活動していたようで、柿本人麿を継承する歌人ともいわれました。

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ではなぜ太安万侶が偽名を使わなければならなかったのでしょうか。

 

1979年に太安万侶の墓が奈良市の茶畑で発見されました。墓誌も出土し、723年8月に没したことが記されています。日本書紀の完成から3年後です。当時墓誌というのは極めて珍しいものだったようです。

 

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太安万侶墓誌

「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」

 

一方、山辺赤人は762年6月8日に没し、お墓は千葉県にあります。斎木氏は奈良で発見された太安万侶の墓は偽物ではないかと考えておられます。これは柿本人麿が古事記を書いた後に冤罪によって流刑となったのと同じく、日本書紀を書いた太安万侶も幽閉されたのち、別の人物として生きる道を許されたため、太安万侶は死亡したことにして山辺赤人として後半生を上総かずさの国で生きたという可能性です。

赤人の子孫の方から斎木氏に手紙が届き、そこには「先祖の山辺赤人は、予定より早く政府高官により退職させられたことを、生涯恨んでいた」と書かれていたそうです。

※斎木雲州著「万葉歌の天才」によると、赤人の供養塔を大社町に建てたのは向家であり、赤人への感謝の気持ちだったといいます。でもそうなると先述の「太安万侶の墓ができた頃に赤人の供養塔が建てられた」という文は辻褄が合いません。赤人が亡くなったのはそれより随分あとのことなので。時期が正しいとすれば、ふたりが同一人物と知っていたということでしょうか。

 

683年 天武天皇帝紀の編集を命じる

686年 天武天皇崩御

689年 撰善言司を設置(委員の1人は伊予部馬飼)

690年 持統天皇即位

701年 大宝律令制定

710年 平城京遷都

712年 古事記完成

716年 日本書紀の事実上完成か(続日本紀太安万侶を氏長とする記事あり)

717年頃 山辺赤人が向家当主と会う

720年 日本書紀完成、藤原不比等死去

723年 太安万侶死去(58歳)

724年 柿本人麿死去(77歳)

724年~736年 山辺赤人歌人として活動

762年 山辺赤人死去(97歳)

 

それでは次回、斎木氏が記紀編纂について書かれていることをまとめてみたいと思います。

 

 

 

【告発書】かぐや姫の物語に託されたもの⑵

 

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5人の貴族とそのモデル

石作イシヅクリの皇子石作氏は丹比氏と同族⇒丹比真人島

庫持クラモチの皇子車持与志古娘の息子がのちの右大臣・藤原不比等

左大臣・安倍御主人ミヌシ⇒大納言・安倍御主人

大納言・大伴御行ミユキ⇒大納言・大伴御行

中納言石上麻呂イソノカミマロタリ⇒のちの左大臣石上麻呂(物部連麻呂)

 

⑴ 石作ノ皇子

かぐや姫に出された難題は「仏の御石の鉢」を持ってくることです。これは釈迦が悟りを開いた時に四天王から得た光る鉢で、天竺にあると言われています。皇子は今から天竺へ行ってまいりますと偽って3年後、大和の山寺にあるすすけた石鉢をかぐや姫のもとへ持っていきました。もちろん光を放つはずもなく、あっけなく失敗に終わり、皇子は未練たらしい歌を詠んで帰っていきます。

《補足》

 丹比真人は皇族出身で、八色の姓で最高位の真人を授かっています。

 

⑵ 庫持ノ皇子

「東の海にあるという蓬莱山に行って、根が白銀、幹が黄金、実が真珠の木からその枝を持って帰る」という難題。皇子は探しに行くといって西に向かって船を出し、3日ほどでこっそり帰ってきます。そして国の至宝である鍛冶職人を6人集めて偽の枝を作らせるのです。人に知られないように3重の柵を巡らせた小屋まで建てました。

枝が完成すると皇子は船で帰って来たように見せかけ、疲れ果てた様子でかぐや姫のもとを訪れます。その本物と見間違うほどの出来栄えに、誰もが騙される寸前、鍛冶職人たちが押しかけます。その代表者、漢部アヤベ内麻呂が言うには、3年もかけて作ったのにまだ報酬をもらえていない。代わりにあなたが払ってほしいと。かぐや姫は呆れ、支払います。職人たちは帰り道で皇子に襲われ、彼らがもらったお金を捨てられた上、とことん傷めつけられました。皇子はそのまま深い山へと入り、人目につかないよう隠れてしまいました。

《補足》

藤原不比等鎌足の子ですが、天智天皇と車持与志古娘の落とし子ではないかという説が古くからあるようです。不比等持統天皇の側近として頭角を現し、娘たちを天皇家に嫁がせ、揺るぎない地位を築いていきます。

ここで漢部内麻呂が出てきました。これは柿本人麿を指しているということです。人麿の母親は漢アヤ氏の部民である綾部家の者でした。綾部家は「語らい家」(語り部の技術をもつ歴史に詳しい者)です。古事記序文に書かれた稗田阿礼ヒエダノアレですね。

実は人麿の父親が天武天皇と伝承では言われており、天武天皇の幼名が漢ノ皇子です。安曇家(海部氏の分家)に預けられて育ったので大海人オオアマノ皇子と呼ばれました。綾部人麿は大海人皇子の縁者に連れられて都へ行き、柿本家の養子となります。(柿本家は磯城王朝5代カエシネ大王の分家です。)人麿の母親の身分が低かったため、天武天皇は人麿が息子であることを伏せていたようです。

この物語の中で庫持ノ皇子のしたことは、藤原不比等が人麿にこっそりと偽の史書である古事記を書かせ、その後事実が漏れないように冤罪を着せて生涯幽閉したことを示しているようです。古事記を書いていた場所も誰にも見つからないような旧宮跡の建物だったといいます。物語のように皇子が最後に隠れてしまうということはありませんでしたが。

 

⑶ 左大臣、安倍御主人

唐土(中国)にある火ネズミの燃えない皮袋」という難題です。財力の豊かな左大臣は、家来に大金を持たせて唐に買いに行かせます。家来の持って帰った皮袋をかぐや姫に渡すと、実際に燃えないかどうか試してみましょうということになります。火をつけたとたん、メラメラと燃えてしまいました。偽物をつかまされたのです。

 

⑷ 大納言、大伴御行

難題は「龍の首の中にあるという五色に光る珠」です。大納言は家来たちに取ってくるように命じますが1年経っても帰ってきません。皆逃げてしまったのです。そこで自分が船を雇って筑紫の国から出航します。この弓矢で龍を射れば珠など簡単に手に入ると豪語しながら。すると突然大嵐となって雷が閃光を放ちます。大納言は船頭に言われ、龍神様に必死で謝り祈りました。すると嵐はおさまり、船は岸へと帰り着くことができました。大納言はすべてを諦めて帰っていきました。

《補足》

昔、不老不死の薬を探していた秦の始皇帝のもとへ徐福が現れ、東海に三神山があり仙人がいるので子どもたちを連れて行かせてほしいと頼みました。童男童女数千人を連れて旅立ったけれど成果なく帰ってきます。そして再び始皇帝に、蓬莱山の近くに大サメがいて進めません。弓の名手を連れて行かせてくださいと頼みます。海中には銅色の龍神がいたとも言っています。今度は3千人の子どもらや技術者たちを連れて出発しました。この話は中国の史記に記されています。大納言の難題は徐福の話を彷彿とさせます。徐福の2度目の渡来地は筑紫地方でした。

そしてまた、大納言が龍神の首を討とうとすることは、古事記ヤマタノオロチに重なります。これはスサノオ(徐福)がオロチを斬るという話ですが、出雲の神が出雲の守り神である龍神を斬ることはあり得ません。なので出雲を倒した側の作り話です。

 

⑸ 中納言石上麻呂

最後は「ツバメの持っている子安貝」です。ツバメが卵を産む時にお腹に現れると聞いて、大炊寮の食堂の屋根の下の巣から家来たちに取らせようとします。(実際は南の海にいる貝です。)なかなかうまくいかず、待ちきれなくなった中納言自ら、天井から吊るした籠に乗って巣の中に手を入れます。つかんだと思ったものはツバメの糞でした。その時綱が切れて落下、中納言は大怪我をしてしまいます。やがて容態が悪くなって亡くなりました。

《補足》

中納言が落ちたところには八島の釜戸神が祀られていました。古事記には初代出雲王が八島士之身神と書かれ、ここから大八島(日本列島)という言葉ができたといいます。出雲の神の真上に物部の石上麻呂が墜落し命を落とします。なんとも風刺的な一文です。

 

 

以上5人の難題について紹介しましたが、龍神の話以外はどれも偽物ということがテーマになっていますね。

記紀が作られた時の左大臣と右大臣は石上麻呂藤原不比等です。彼らが偽物の史書を作らせ、そして柿本人麿は書かせられ、残りの3人は虚偽の話が作られていくことを黙認したとして悪者に描かれていると、斎木氏は指摘しています。※参照「古事記の編集室」「お伽話とモデル」

追記2018.5.3

686年に天武天皇が亡くなり、その1ヶ月後に政務の中心だった大津皇子が謀反を企てたという偽の告訴を受けて死刑となりました。次の天皇が即位しないまま皇后が実権を握ります。3年後に不比等刑部省(警察や刑務所)の判事に任命され、その2ヶ月後、草壁皇子が急死します。そして皇后が持統天皇として即位し、高市皇子太政大臣となりました。この皇子はとても尊敬され慕われていたらしく、持統天皇としては孫の軽皇子を早く即位させたかったので脅威を感じていたようです。持統天皇10年(696年)7月に高市皇子は亡くなります。大津皇子の二の舞だったようです。人麿はこの時高市皇子の舎人とねりとして香具山の宮に務めていました。とても長い挽歌を捧げています。その中に死の理由が詠みこまれていると斎木氏は言います。この時の右大臣が丹比真人です。前回紹介しましたが、日本書紀に書かれた持統天皇10年の記事、「丹比真人、安倍御主人、大伴御行石上麻呂藤原不比等に舎人の私用を許す(要約)」という記述は高市皇子が亡くなって3ヶ月後のものです。人麿も含め失業した舎人たち380人の次の勤務先が、この5人の高官たちだったのです。かぐや姫の物語は香具山の宮に居られた高市皇子の冤罪に関わった(黙認した)人への批判でもあるようです。

 

その他の登場人物について

かぐや姫に名前を付けた三室戸忌部と、帝の宮中女官の中臣房子は当時宮廷祭祀を受け持っていたふたつの氏族です。忌部氏(のちの斎部氏)と中臣氏。古いのは忌部氏で徐福の渡来の時にやってきた氏族だと言われています。朝廷祭祀は先に忌部氏が就いていましたが、しだいに中臣氏が力を増し、伝統を変えていく傾向がみられました。両氏の争いは続き、807年には斎部広成による「古語拾遺」が書かれ、忌部氏の伝統と中臣氏への批判が記されています。

 

それから天人たちから姫を守るよう命じられたのが高野大国タカノノオオクニです。これは竹野タカノ姫が高野と漢字が変わって名字となり、大国は出雲の大国主です。海部氏と大国主の家は昔から婚姻関係があり、丹波王国と出雲王国を示しているようです。

 

不死の薬と富士山

物部の勢力の一部は蓬莱山を駿河国の富士山だとして「不死山」と名付けて崇拝していたという伝説があるそうです。もともと道教では不老不死の薬を求めます。それを燃やしたというこの物語は批判的でもありますね。

 

 

当時のことにこれほど詳しく、そして体制に批判的でありながら、このような物語としてまとめることのできる人は、地位や能力を含め限られてくると思います。斎木氏の推測では、かぐや姫の話は伊予部馬飼がまとめ、200年経って当たり障りのない時期に、彼の意志を継いだ子孫が発表したのではないかということです。実際この話は年代も作者も不詳であり、源氏物語の中では「物語の出て来はじめの祖おやなる『竹取の翁』」と書かれているほどの最古級の物語です。

 

Sorafullの考察

最後にかぐや姫自身について考えてみたいと思います。

物語の中で気になる表現がありました。かぐや姫のセリフに「昔の契りがあって、こちらの世界へ来ました」とあり、また月から迎えに来た王の言葉には「かぐや姫罪を犯したので、償いのためにこの汚い世界へ送った」とあります。

※天人たちはなんとも冷ややかに描かれていますが、これは記紀の中に描かれた天孫に対する体制批判なのかなと思います。天上の神たちはいつも唐突に自分たちの都合で地上を支配するので。

「契り」という言葉は、約束や男女が深い関係になるという意味と、前世の因縁というかなり重い響きの意味も含んでいます。安直に考えれば男性との禁じられた恋などが浮かびますが、そもそも月の世界の天人は人間のように思い悩むことがないわけですよね。なので罪を犯したのは地上の話と考えます。

そして月の女神であり、物部東征の時代の豊来入姫を重ねるとすれば、作者の伊予部馬飼の立場から見れば、物部豊王国の東征によって出雲も海部氏も敗北したわけですので、それを「月の女神の犯した罪」と言っているように思えてきます。ですが豊来入姫が大和を追われてからの孤独な逃亡生活や、伊勢での最期とその後に貶められた姿など、丹波の歴史に詳しい馬飼であれば理解していたでしょう。

この作者の物語作りのうまさは、過去に罪を犯したというかぐや姫が誰よりも高潔であり、帝の命令にさえ自分の信条を曲げず、そして何より人間に沸き起こる様々な感情こそ、この世に生きている素晴らしさなのだと訴えているところです。人間の弱さ脆さを味わい尽くしたものが、やがてすべての感情を愛として受容してゆく姿が崇高さをもって迫ってきます。

偽物でよしとする大勢の人たちと、それに真っ向から立ち向かうかぐや姫。そんな彼女の内側から輝く光は、人々の心を浄化します。帝でさえ、かぐや姫がいないのなら不死の薬など必要ないと言い切ります。永遠の命よりも愛する人の確かな存在こそが大切なのだと。

 

月の都と地上が交錯するファンタジックな世界観の中で、虚偽と真実というテーマを、美しくも潔いかぐや姫に託して描かれた物語が、日本最古の物語であることに感動を覚えます。そしてこれが単なる作り話ではなく、私たちの歴史の根幹に関わる可能性がとても高いということを、意識していかなければならないと思うのです。

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