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源流なび Sorafull

弥彦神社と伊夜比咩神社

今回は頂いたコメントの紹介をさせて頂きます。

 

御所市の「くじら」 

第1次物部東征で物部軍が熊野からヤマトに向けて侵攻する際に、記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も描かれていますが、出雲伝承では戦いはなかったと言われます。

記紀は物部軍が勝利するたびに天皇に歌わせますが、その中のひとつにクジラが出てきます。

「宇陀の高い山城で、鴫しぎを獲る罠を張った。ところが私が待っている鴫はかからず、大物のクジラがかかった」

鴫というのは川辺に住む鳥です。それを山に捕まえに来たら海の王者、クジラがかかったというのです。シギというのは磯城シキ王朝にかけているとして、クジラとは何なのか。

例えば物部軍を先導した八咫烏とは出雲伝承によると登美家です。登美家は事代主の子孫。事代主は海の神、えびすでもあります。えびすは漁業の神としてのクジラのことでもあります。つまり出雲の事代主をクジラと例えたのではないかと考えました。この記事に対して、S様より葛城山の麓、御所市に櫛羅くじらという地名があります」と教えて頂きました。

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地図の葛城山東麓にある一言主神社(出雲伝承では一言主とは事代主のこと)の北方が櫛羅です。この地域は出雲から移住した加茂家(登美家)や高鴨家(神門臣家)が集まっています。火雷神社は高尾張村と呼ばれた村雲たちの地にあります。

また伝承によると金剛山は古くは高天たかまと呼ばれ、山の東に高天たかま村があったそうです。ここは出雲の神門臣家が祖先を葬る土地で、高天原たかあまはらと呼ばれる聖地だったと。現在は高天原の石碑が建っています。祖先神たちの住む天上界のモデルとも考えられます。

記紀に描かれた物語では、神武天皇は宇陀で土蜘蛛(土着の民)を征伐していきます。宇陀はここからは離れていますが、葛城の一言主神社境内には土蜘蛛塚が、高天原にある高天彦神社そばには蜘蛛屈と呼ばれる住居跡があり、物語のモデルとなっているのかもしれません。

つまり神武の歌は、ヤマトの磯城王朝(尾張家と登美家の連合国)を倒しに来たら、出雲の登美家(八咫烏)が罠にかかった、という意味を含んでいると考えられるのでは。

 

 

「英」という字

九州の霊山、英彦山。読みは「ヒコサン」です。

もともとは日の子(天照大神の御子)である天忍穂耳命主祭神としていたので日子山であったのが、彦山となり、18世紀に「英」の尊称を贈られ英彦山となりました。

M様はこの「英」の字を調べられたそうで、読みは「はなぶさ」「はな」であり、元来の意味は「美しい花」を表しているとのこと。つまりハナ+ヒコ=美しい(≒立派な)ハナの彦。やはりサルタ彦大神でしょうかと。

日の子とは、太陽の女神である幸の神の幸姫命の御子と考えればサルタ彦大神ですよね。そうであれば「英」という尊称を贈られたことは、天狗という後世のイメージとは違う本来のサルタ彦大神のお姿として祀られておられるようで、うれしくなります。

「英」には「ひいでる」といった意味もあり、突出して優れているイメージにも重なり、突き出た(サルタ)鼻のサルタ彦大神への尊称として相応しいなと思います。

 

 

弥彦神社の伊夜彦大神

日本には「三彦山」と呼ばれる山があり、英彦山雪彦山(兵庫)、弥彦山(新潟)です。どの山も修験道の霊山です。

N様は新潟の弥彦やひこをご神体とする弥彦いやひこ神社へ参拝されました。越後国一宮です。

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大鳥居(背後に弥彦山Wikipediaより

奥宮のある弥彦山の頂上には御神廟があって、天香山命妃神熟穂屋姫命が祀られているそうです。

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奥宮の御神廟

天香山命は徐福の長男である五十猛、のちの海香語山。穂屋姫は徐福と市杵島姫の娘であり、この異母兄妹のもとに村雲が生まれます。熟穂屋姫の「熟」は「ニギ」ハヤヒ(徐福)からきているのでしょうか。

N様が神職の方に祭神について伺ったところ、伊夜彦大神、大屋彦命、大彦命、高倉下命という別名があって、古事記の話にあるように神武東征の際に熊野で手助けした功績として、越の国に派遣された神様であるとのお話だったそうです。和歌山には天香具山神社や神倉神社があるけれど、過去の文献にはどのように記されていますかとのご質問でした。

出雲伝承で弥彦神社について目にしたことはありません。なので推測になることをご了承下さい。

 

まず物部東征で熊野で手助けしたのは記紀では高倉下となっていますが、時代が違うので子孫だとしても伝承にはありません。第2次物部東征の時に八咫烏と呼ばれた登美家の者が協力しています。

高倉下は香語山と大屋姫(大国主の孫)との間に生まれました。その後香語山は穂屋姫を妃として迎えます。紀国に移住したのは高倉下であり、その地に父を祀ったのでしょう。コメントには天香具山神社とありますが、和歌山では見つかりませんでした。五十猛(香語山、大屋彦)を祀る伊太木曽神社などがありますが、植樹をしていったのは高倉下のようです。

また伝承では熊野には先住の出雲族がいて、幸の神信仰を持っていたといいます。神倉神社花の窟いわや神社も幸の神の女神を祀っていました。倉は御袋(子宮)を意味します。どちらも巨大な磐座がご神体です。割れ目のある岩を御袋岩、ほと岩、女神岩、琴引岩などと呼びます。

神倉神社のゴトビキ岩は、南出雲にある日本一大きな御袋岩「琴引コトビキ岩」と同じ名前を付けたといわれます。岩の下から銅鐸も出土しています。男神が琴(女性)を引くようなイメージから琴引岩と呼ばれたとのこと。

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神倉神社のゴトビキ岩

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花の窟神社・七里御浜から見たご神体の巨岩  Wikipediaより

もともとは出雲族の信仰でしたが、のちに神倉神社は熊野速玉神社の摂社に、花の窟神社の女神は熊野那智大社に勧請されました。

 

さて、弥彦神社ですが、香語山や高倉下が祀られているといわれても繋がりが見つかりません。別名の中に大彦がありますので、こちらなら頷けるのです。

出雲の富家の親族である大彦の子孫は北陸で勢力を持ち、若狭、加賀、越国の国造家になっています。国造の支配領域がはっきりとはわかりませんが、弥彦神社であれば越後の高志深江国造(大彦の子孫、ソツ鳴海の後裔)と思われます。弥彦神社の社家は明治まで高橋氏で、大彦の子孫の高橋氏でしょうか。

万葉集には伊夜日子、9世紀の続日本後紀には伊夜比古神と記されていたのが、17世紀以降の縁起には祭神が天香山や高倉下となっているようですので、もともとは伊夜彦神だったのが後に変化したという可能性も。伊夜彦神がどのような神さまなのかはわかりませんが、山そのものがご神体というところに、原初の古代信仰を感じます。

ちなみに弥彦神社の分布をみると、北海道から東北、北陸に集中しています。

それから弥彦神社では珍しく鎮魂祭が行われており、石上神宮物部神社と関係があるように見えます。ところがなぜか11月の年1回ではなく、4月と11月の年2回行われます。出雲の春と秋の大祭のようですね。

もうひとつ気になるのが、神社で参拝する際、通常は2拍手ですが、4拍手するところがあって、出雲大社宇佐神宮弥彦神社の3社となっています。

 

最後に、石川県の能登島にある延喜式内社、伊夜比咩いやひめ神社で行われている火祭りのことに触れておきたいと思います。

7月のオスズミ祭りでは、年に一度、越後の国を作った伊夜彦神がここを訪れ、巨大な松明の火に降臨するといわれています。つまり夫婦の逢瀬です。

男衆が手に持った燃え盛る藁の松明を振り回し、合図とともに30mもある大松明に火をつけていきます。その火柱は10㎞離れた場所からも見えるほどだそう。やがて大松明は倒れ、その方角によって豊作豊漁を占います。また大松明の先に付けられた御幣を取った者に、幸運が訪れると信じられています。(御幣とは出雲伝承では男性の種水を意味します。)

実は先に紹介した熊野の神倉神社でも、御燈祭りという火祭りが行われます。こちらは旧正月のお祭りで、姫初めを意味するそうです。社の前に男神の象徴である大松明があり、男衆は争うようにしてその火を自分の松明に移します。火は男性の種水です。彼らは松明の火で女神のゴトビキ岩を叩き(種まきの意味)、それから数百段ある石段を火を掲げて駆け下りていきます。男神と女神の和合を祝うお祭りなのです。

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御燈祭りの様子 Wikipediaより
 

 熊野の那智大社にも火祭りがあり、これは花の窟神社から夫須美フスミ大神を勧請したことに始まるそうです。夫須美大神とは幸の神の女神で子宝の神様ということです。

長野には野沢温泉村道祖神祭りという幸の神信仰の「とんど焼き」の巨大版といった火祭りが続いています。道祖神祭りという名ですがサイノカミとも呼ばれ、神様は八衢ヤチマタ彦と八衢姫の夫婦神。クナト大神と幸姫命ですね。小正月に向けて2日かけて大きな社殿を作り、祭り当日はそれに火をつけようとする松明をもった村人たちと、防ごうとする厄年の男衆のまさに命懸けの戦いが行われます。

このように古くからの火祭りは出雲に起原があることが伺えます。

けれど能登の伊夜比咩神社の祭神は大屋津姫となっています。大屋津姫(大屋姫)といえば出雲の八千矛王(大国主)の孫であり、香語山の后(いわゆる正室)。弥彦神社に香語山と妃の穂屋姫が祀られるようになってから、あえてここに大屋津姫を祀ったのか、それとも最初から?

伊夜比咩神社は加宜かが国造家の領域にあって、大彦の子孫、ソツ鳴海の後裔です。弥彦神社はおそらく高志深江国造家の領域で、こちらもソツ鳴海の後裔となります。ここにふたつの神社の繋がりがあるのかなと、今はこの辺りで留めておきたいと思います。

 

ご質問へのお返事がいつも遅くなってしまい、申し訳ございません。コメントを送って下さる皆さまには大変感謝しております。今回もありがとうございました。

次回に続きます。

 

 

  

大嘗祭の儀式から見えてくるもの

明日11月10日には、台風で延期となっていた天皇陛下ご即位のパレード「祝賀御列の儀」が行われます。お天気にも恵まれそうですね。

先日の即位礼正殿の儀では、皇居に架かる虹が大きな話題となりました。激しく降り続いていた雨も、天皇皇后両陛下がお姿を現される直前には弱まり、雲の隙間から注ぐ光の下、儀式は粛々と行われていきました。まるで神々の祝福に包まれているかのような不思議な時間でしたね。

天皇陛下は学生の頃より水についての研究を続けておられ、水運に始まり「足りない水」から「多すぎる水」つまり水害の対策へとその研究の幅を広げてこられたそうです。10月の相次ぐ水害に、研究者としても心を痛めておられたでしょう。そんな中で行われた正殿の儀の、奇跡ともいえるひと時の晴れ間と虹は、令和の時代への希望を後押ししてくれたような気がします。代々語り継がれること、間違いありません。

 

さて、続く14、15日には大嘗祭「大嘗宮の儀」が予定されています。

大嘗祭とは即位した新天皇が行う新嘗祭です。全国から集まった農産物を神に供え、国の安寧と五穀豊穣を祈ります。天皇の一代一度の特別な儀式であり、その中心となるのが大嘗宮の儀。ようやく令和の大嘗宮も完成したようですが、ここでどのような儀式が行われるのか、これまで公にされたことはありませんでした。

今年の4月と10月に放送されたNHKスペシャル「日本人と天皇」の中で、その儀式が初めて再現されました。研究者の方々や平成の大嘗祭に関わった人たちへの取材を基にしています。

 

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令和の大嘗宮 Wikipediaより


写真の模型には大きな神殿が3つありますが、写真上方が主基殿(西)、左下が悠紀殿(東)です。

大嘗祭は戦国時代から200年ほど中断し、江戸時代中期に復活した時には簡素な小屋を建てて行っていたといいます。貞享4年の大嘗会調度図には主基殿と悠紀殿しかみられません。ふたつの神殿を囲む塀も、古代の村にありそうな細枝を束ねたような簡素なものです。昔は大嘗宮の建築期間は5日ほどだったそうで、今のような立派なものになるのは大正以降であり、長い歴史からみるとごく最近の変化です。

 

儀式は夕方から未明にかけて行われます。まず悠紀殿ゆきでん天皇が入ります。8m四方の内陣と呼ばれる部屋は、菜種油で灯しただけの薄暗さ。その時すでに神が降りてきているとのこと。

中央には神が休むための寝床が敷かれています。

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大嘗宮内部の図(宮内庁Wikipediaより

 

伊勢神宮の方角に神座しんざが置かれ、天皇天照大神とすべての神々と向き合うように、御座ぎょざ(90cm四方の畳)に座ります。

この部屋の中では2人の女官がお手伝いをします。天皇は各地から集められた食材を受け取り神に供えます。その年に収穫した米、粟、海産物、栗や干し柿などの果物で、これらは神饌しんせんと呼ばれます。饌は「け」とも読み、古語で食物を指し、神にお供えする食物の意で神饌=御饌みけ

神饌はお重のような箱に一品ずつ整然と納められ、神座と御座の間に並べられます。天皇はそれらを柏の葉でできた32のお皿に1時間半かけて丁寧に盛り付け、右手に並べていきます。それから伊勢神宮の方角に向かって拝礼し、御告文おつげぶみを読みあげます。

「伊勢の五十鈴の川上におわします天照大神。(略) もろもろの民を救わん。よりて今年新たに得たるところの新御物を奉る」

儀式を締めくくるのは直会なおらいと呼ばれる神との食事です。天皇は米、粟、酒を神と一緒に口にします。

この後、同じ儀式を主基殿すきでんでも行います。

 

ここで、出雲伝承をみてみましょう。

新王が跡を継ぐ際、「幸さいの神」の特別な収穫祭が秋に行われ、王宮横にユキの社スキの社が建てられました。

※幸の神については以下の記事に書いています。 

 

ユキの社の斎壇上には、矢を入れるゆきが祀られ、スキの社では田を耕すすきが祀られます。「靫」はその機能から女性の象徴という意味があり(男性である矢を納める)、幸の神三神の幸姫命サイヒメノミコトのご神体です。「鋤」は田(女性)を耕すという機能から男性の象徴とされ、クナト大神のご神体とされています。

幸の神三神とは出雲族の祖先神であり、クナト大神、幸姫命、サルタ彦大神。クナト大神と幸姫命はイザナギイザナミのモデルとなった夫婦神。息子がサルタ彦大神。幸の神は子孫繁栄の神とされ、縁結びと子宝の神でもあります。

ユキの社=矢を入れる靫ゆきを祀る=幸姫命

スキの社=田を耕す鋤すきを祀る=クナト大神

 

幸姫命は「田の女神」ともいわれ、子宝に恵まれることと田の実り(結実)が重ね合わされ、豊穣を祈ったということでしょう。

縄文時代土偶と呼ばれるものの多くは女神像であり、人々は安産や多産を祈願しました。祀ったあとには割って田畑に埋めたそうで、これも女性の生み出す力を信じて作物の実りを願いました。古事記にはオオゲツ姫という、体から食べ物を次々と生み出す女神が描かれています。オオゲツとは「大いなる食物」という意味です。しかもスサノオに殺された後には、体から五穀の種を生み出します。縄文の女神像に重なりますね。

ちなみにスサノオの后は櫛稲田姫ですが、出雲の初代主王である菅之八耳王スガノヤツミミの后が稲田姫です。実家は須賀にあったと。古事記ヤマタノオロチ神話にはこれらの名前が使われています。

 

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長野県棚畑遺跡「縄文のビーナスWikipediaより

 

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長野県中ッ原遺跡「仮面の女神茅野市ホームページよりお借りしました。

 

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青森県亀ヶ岡遺跡「遮光器土偶」(アラハバキ女神像)


最初の「縄文のビーナス」は縄文中期。2枚目の「仮面の女神」は縄文後期のもの。どちらも妊娠した女神像ですが、仮面の女神がなぜ逆三角の顔になっているかというと、古代の世界では逆三角形は女性の下腹のビーナスの丘、三角の丘を表していたからだそうです。上向きの三角形は男性の象徴となります。このふたつの三角が重なればいわゆる六芒星となり、男女和合を表しますユダヤ人だけのものではありません。古代の世界ではX印や十印も男女が重なる姿(和合)を示し、渦巻模様は妊娠を表すというように、ホモサピエンスの共通イメージ力というものが脳の機能に備わっているのかもしれませんね。

さて、3枚目の「遮光器土偶アラハバキ土女神像)」は縄文晩期~とされています。

斎木雲州氏によると縄文時代には素焼きの女神像が作られ、オオケツ姫と呼ばれ、多産を祈った後には砕いて畑に蒔くと豊作になると信じられていたといわれます。弥生時代になってからは東北人がアラハバキ土女神像を使っていたと。当時からこの名で呼ばれていたことが伝わっているそうです。(「出雲王国とヤマト政権」P. 255~に詳細が載っています)

須恵器で作られたアラハバキ女神像は頭上に灯火皿が付いていて、夜に出産する妊婦の足元に置かれたので出産土女神とも呼ばれました。閉じた大きな目が特徴的ですが、これは亡くなった母系祖先を表しているとのこと。イヌイットが使っていたゴーグルに似ていることから遮光器土偶と名付けられていますが、古代の人々の切なる思いを想像すると、土偶土人形)とは呼べなくなりますね。

 

話が逸れてしまいましたが、出雲王国の新王による特別の収穫祭の続きに戻ります。富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」から抜粋します。

新王はユキの社に入り、幸姫命の御心霊ととともに神酒を飲み、新米のご飯を召し上がる。中央には寝床が設けられ、二つの枕が置かれる。片方の枕には幸姫命が宿り、その横の枕に新王が寝る。そして新しい王の名が唱えられた時、先祖神の霊を身に受けて、神から新王と承認されたことになる。后はスキの社に入り、やはり同じ儀式を行う。それで神から王の后として承認され、新司祭者としての神威が強まったと考えられた。》

 

現在の大嘗宮の儀では、悠紀殿と主基殿で同じ儀式を天皇が行います。新米の収穫地として東日本の悠紀地方と西日本の主基地方の2ヶ所が選ばれることからも、東と西を分けなければならない理由は何だろうと考えてしまいます。

ところが出雲王国の場合は幸姫命とクナト王に対して、新王と后がそれぞれ結びの儀式を行い、祖先神に認めてもらうということになります。(后はマツリゴトの司祭者として大きな役割をもっていました。)

男女の和合と食物の実り(結実)を重ねて豊穣を祈る古代の収穫祭です。これならばふたつの神殿で同じ儀式をすることは理解しやすいです。

出雲王国の儀式の一部が現在の天皇家にも引き継がれているのだとすれば、いつしか女性(姫巫女ヒメミコ)の力が失われ男性優位の社会へ移行した結果、后の出番はなくなり、天皇がふたつの神殿で同じ儀式を行うことになったとも考えられそうです。

 

天村雲の霊水と神饌

さて、以前の記事で大嘗祭のもうひとつの起源にまつわる話を紹介しました。記事後半になります。 

 

記事の中では、春日大社や摩氣神社に祀られる天忍雲根命アメノオシクモネを、初代大和大王の天村雲命アメノムラクと同一人物ではないかという仮定で進めています。

丹後国風土記残欠や丹後の籠神社、摩氣神社の伝承には、天村雲命が天の水と地上の水を合わせて霊水とし、神饌を料理して奉ったことが記されています。また春秋に田を耕して稲種をまき、それを広めて人民が豊かになったと。天村雲命は水と農業、食物の神として崇められているようです。

それまで陸稲だったところに、大陸から水稲がもたらされ日本の国土は豊かになりましたが、紀元前200年頃に大陸から渡来した徐福(村雲の祖父)らの水稲技術が広まったことも大きな要因と考えられます。

※徐福は日本名でホアカリまたはニギハヤヒと名乗り、記紀ではニニギノ命やスサノオとして描かれています。

丹後の伝承の、天の水と地上の水を合わせるというところが、天孫族(天)と出雲王国(地)の連合国を大和に最初に築いたといわれる村雲らしいなと思いませんか。

 

古事記では出雲の国譲りの際、大国主が天神の使いのタケミカヅチ服従を示すためにご馳走を用意する場面が描かれます。新しく臼と杵を作り、新たな「火」を切り出して最高の食事を作ります。そして大国主はこの火を未来永劫焚き続けましょうと宣言します。

平安時代に編纂された「延喜式」によると、大嘗宮の儀において天皇が内陣に入る直前には、女官が臼と杵で粟をついたり(稲舂いなつき)、神饌の米ご飯、粟ご飯は切り火で起こした火で蒸されたものであったりと、出雲との繋がりが見られます。幸の神信仰では臼は女神で杵は男神、ついてできた餅は子宝と考えられ餅つきは神事として行われていました。

また出雲ではヒノキで作られた火切り臼と呼ばれる板の上で、杵を錐きりのように擦って火を起こし、その火で神に供える食事を作っていました。これを「火切り神事」といいます。ヒノキのヒは出雲王の霊を意味しています。

そしてこの火で炊いたご飯を一生食べる人が、出雲王の代理者となることを「火継ぎ神事」といいます。出雲王の御霊を受け継ぐという意味なのでしょう。

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大嘗祭用の臼と杵(宮内庁Wikipediaより

 

神武天皇のモデルのひとりと考えられる初代大和大王・天村雲の霊水と、古代出雲王の火(霊)。そして日本各地で収穫された食材。これらがひとつとなったものが、大嘗祭の神饌として供えられているのかもしれません。

出雲伝承によると紀元前200年頃、大国主と事代主を失った出雲の半数の人々が大和へ進出し、そこへ丹後から天村雲率いるハタ族が移住してきたため連合国を作ります。初代大王として村雲を迎え、その后は事代主の娘、タタラ五十鈴姫です。大王就任のお祝いに出雲王が銅剣を贈りましたが、それが三種の神器のひとつである村雲(叢雲)の剣。クナト王が日本に持ってきた矛を真似て作られたと。

 

これらの伝承を通して大嘗祭を見てみると、遠い祖先たちが遺してくれた大切なものがそこに詰まっているようです。出雲族の子孫繁栄の願いと、ハタ族(徐福の渡来集団)の五穀豊穣の祈り。そして民族の協力と和合。

それらは儀式の「形」として継承されてきただけではなく、二千年という長い時の中で、祖先を敬い子孫たちの繁栄と幸せを願う人々の想いによって今へと繋がることができたのだと思えてなりません。

21世紀に入り、この文明をもってしても抗えない自然の猛威を知ることが日常となった今、皇室を始め祖先たちの積み重ねてきた祈りの重みを、改めて感じています。

大嘗祭は皇室の行事とされていて、関心のない方には他人事になりがちですが(以前の私‥)、すべての国民の幸せを祈って行われる誠に有難く尊い儀式なのです。

 

 

 

宮地嶽古墳⑹翁の舞と山の能。そして磯良舞


 

宮地嶽古墳の埋葬者は誰なのか、6回に渡り探ってきましたが、そろそろ今回でひと区切りとしたいと思います。

 

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)を祀っていて(埋葬者?)、それは安曇氏であるという情報があるようです。磐井の孫というのは年代から可能性ありと思われますが、安曇氏というのは現段階ではまだ繋がっていません。筑紫国造家と安曇氏に婚姻関係があったという根拠に辿りつけませんでした。

宮地嶽神社のかつての祭神、宮地嶽大明神「安倍相丞」から、大彦の子孫とされる筑紫国造磐井を辿ってみたところ、物部ばかりが現れ、そこに高木神の存在が透かし見えるようでした。

「勝村大神(藤高麿)」と「勝頼大神(藤助麿)」については物部の血筋である可能性は高いようです。

シリーズ最初の記事で、津屋崎古墳群の中では宮地嶽古墳だけが博多に面しており、宗像氏の古墳とは思えないと書きましたが、調べていくうちに、相島がもとは大彦の子孫である安倍氏の領地であった可能性も考えられることや、宮地嶽古墳(岩屋不動)が明治以前までは修験道支配下にあったことなどから、宗像氏のものではなくとも安倍氏に関わる場所ではないかということも頭に置いておく必要があると思い始めています。宮地嶽神社の以前の宮司家が阿部氏であったことも気になります。

そして宮地嶽大明神・安倍相丞とは、この流れでいくと磐井の御魂を祀っているとしたいところですが、やはり可能性のひとつというところで留めておきます。

 

さて最終回の今回は、宮地嶽古墳と安曇磯良を繋ぐ筑紫舞の本質について、考えてみたいと思います。

 

筑紫くぐつ舞の「翁の舞」

筑紫舞の決め事として、神前か神社の境内でしか舞ってはならず、投げ銭をもらうこともダメ。神社からお札をもらってそれを売ることで収入としていました。すべてが神様に対するものであり、見物客は神様のお相伴です。またそれぞれの神社の祭神に奉げる舞を持ち、同じ神でも地方によって舞ぶりを変えていたそうです。

基本の動きには「神に近づく技」「人々の穢れを身に受ける技」といった意味がつけられ、さらに「鳥飛び」「波足」「水けり」など水辺の名前が多くみられます。海から神様がやって来て砂浜で舞うというのも多いらしく、海人族由来ということも頷けます。

舞は大きく「神舞(神に奉げる舞)」と「くぐつ舞(祭礼の時に人々に見せる舞)」に分けられ、菊邑検校はこの違いについて、

「神舞は、わが身をいとわねばならぬと思うて舞う翁。くぐつ舞は、人の身をいとうて舞う翁」

と教えたといいます。ということはすべて「翁の舞」になりますね。鈴鹿千代乃氏は、傀儡子たちは神社の祭礼でくぐつ舞を舞うことによって人々の穢れをわが身に受け、それを神主のいないような神社で神舞を舞うことによって神にゆだねて神から魂をもらっていたのではないかと言われます。西山村光寿斉さんが少女の頃、神舞を奉納していたのが神主不在の神社とか、誰もいない海辺だったということからそう思われると。

国としては天皇が祭祀者となって国中の大祓を行い、天皇が自ら受けた穢れを祓戸四神に託し、川から海、海底から地底へ、そしていずこかへと持ち去って消滅させてもらいます。「水に流す」という文化はここから始まっているようです。天皇や神々と同じ祓の力を持つ者が、漂泊民である傀儡子だというところに、不思議な繋がりを感じずにはいられません。国の最高位の存在と、体制の外側をさすらう者が同じ力を持っているのです。

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日本の古典芸能の源流ともいえる筑紫舞には、この国の古い歴史が刻まれている可能性もあるようです。

筑紫くぐつ舞の中心には「翁の舞」があります。別名、国問いの翁。先ほどの翁は広義であって、今度は狭義の翁の舞についてです。これは神舞ではなくくぐつ舞なので、人の穢れをわが身に受ける祓え舞です。

菊邑検校は翁とは神に近い長老で、おじいさんではないと言いました。翁は仮名か、できれば片仮名でオキナと書くようにとも。発音は「沖のう」に近かったそうです。

古田武彦氏はこの翁の舞を古代中国の宮廷舞を模倣したものだと言われます。諸国の翁が集まってそれぞれが名告り、諸国の舞を舞うという形をとります。舞うといっても能のような幽遠さ、荘厳さです。三人立、五人立、七人立、十三人立とありますが、光寿斉さんが教わったのは七人立まで。

三人立⇒都、肥後、加賀の翁

五人立⇒上記+出雲、難波津より上りし翁

七人立⇒上記+尾張、夷の地より参りし翁

検校は歴史的な背景を一切語らなかったので、主に古田氏の推測となりますが、都の翁は筑紫舞の本拠地である太宰府辺りかと言われています。検校は「その時々の都です」と言ったそうですが。

三人立は最も古い形と考えられ、都の翁が中心となっています。古田説では古代中国の礼記に記された「東と南の二方の蛮夷の舞楽」の形式を真似たものとして、都からみて辺境である東方の越と南方の肥後、という形ではないかと。

ところが五人立からは肥後の翁が中心になります。磐井の乱後、表向きは筑紫は大和王朝の支配下となったけれど、装飾古墳の分布を見ると、阿蘇山を中心として肥後から筑後、豊後の辺りが栄えており、これは磐井の乱でダメージを受けなかった肥後に主力が移行したと考えられるのではないかということです。実は菊邑検校は肥後の出身です。

 

時代が下りますが、11~16世紀頃の肥後の菊池家「山の能」という舞楽が伝承されており、能舞台で能太夫が演じ、その中心に「翁の舞楽」があったことを古田氏は見つけておられます。菊池家が断絶したために途絶えてしまい現存せず、筑紫舞との関連は謎のままですが、光寿斉さんの伝承している「翁の舞」の能のような幽玄さというところに、肥後の「山の能」とを結ぶ微かな可能性を感じます。

菊池家は能面を使い、検校の伝える筑紫舞は能面を使いません。理由があってのことだそうです。肥後国誌には17世紀に旧菊池郡の隈府で山の能を伝承していた座中が、能面は自分たちのものだと主張し裁判になったが解決したと記録されています。その後菊池家滅亡に伴い山の能は消滅したと。菊池と菊邑。何か関係があるのでしょうか。

ちなみに菊池家の家紋は鷹羽紋です。ここにも高木神が現れましたね。もとは日足紋だったのが、12世紀頃、夢に阿蘇の神が現れ鷹羽紋を与えられたそう。能面を霊宝として祀っていた北宮神社は、ちょうどその頃に阿蘇大明神を勧請しています。戦国時代では家紋を変える時、血筋が変わるということもきっかけになるらしく、実は出雲伝承では菊池家は出雲忍者の出身だったと。楠木正成と親戚であり、分家子孫には西郷隆盛も。例えば鷹羽紋に通じる血筋となってから菊池家の「山の能」が始まったとして、それが出雲忍者(山伏)であるとか?「山の能」という名前に山伏や洞窟の舞を連想しますね。

【補足】菊邑検校は「面を付けて舞うのは技量が足りないからであり、演じる者が神になりきれば面など必要ない、祓えには必要ない」といった趣旨のことを言われています。鈴鹿千代乃氏は人形や面は、穢れをそれらに吸収させ自らには受けまいとする防護であり、筑紫くぐつ舞は素面で、命懸けで祓えの芸を演じた人々であって、それが能面を使わない理由だと言われます。

 

翁の舞に戻ります。名告りの様子と光寿斉さんに教えた人を記します。昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の後、翁の舞の稽古が始まり、全国から光寿斉さんのもとへ次々と教えに来られたそうです。翁の舞を教わった人は必ず次世代の人に伝えておかなければならず、受け取った人は何十年先であっても、いつでも舞えるようにしておかなければならいのだと。)

肥後の翁はどっしりと総大将のように「われは肥後の翁」と名告ります。検校とケイさんが教えました。

加賀の翁はさわやかに「加賀かんがの翁」と。富山の人だったのではないかと。

都の翁は水のような透明感をもって性別もなく「都の翁」と。伊勢から来た人ではないかということです。

五人立では出雲の翁が加わりますが、大国主のように袋を担ぐような格好をして「われは出雲のオーキナにておじゃる」と機嫌をとるように(へつらうように)名告ると、ぺこっとお辞儀をします。検校は大国主ではないと言ったそうですので、出雲王国滅亡後の出雲国造家(ホヒの子孫)を表しているような。出雲から来た人だったようです。

難波津より上りし翁は大和か難波かわかりませんが、あえて「より上りし」と説明が加えられ、水をかき上げるような中腰になってチョンチョンと出てきて名告ります。筑紫のほうが上であることを婉曲な表現で伝えているのかもしれません。西宮神社の近くから来た人で「えべっさんにお参りして、百太夫さんにご挨拶して来ました」と言われたそう。

七人立尾張の翁は「われこそは尾張の翁」と淡々と落ち着いて。愛知県海部郡津島町から来た人でした。

夷の地より参りし翁は軽々と鳥飛びで現れ「夷の地より参りし翁」と左右をキョロキョロ見ます。群馬県から来た「ケノのシロミさん」と呼ばれていました。毛野でしょう。

十三人立については、光寿斉さんは昭和11年の奉納舞で一度見ただけとのことです。この舞はその時の奉納舞を仕切る役の人への労いのものらしく、他と違って砕けた雰囲気で、光寿斉さんは習わずじまいでした。中心はタカクラの翁(アサクラかも)。他に吉備の翁、熊野の翁、オオエの翁、酒匂カニの翁、機織りの長、です。この13人とオトという女役で舞われます。

オオエの翁は大江山酒呑童子の伝承を語ってくれたそうで、丹後ですね。タカクラは高倉、紀伊でしょうか。吉備については地域によって、検校が神様の向きが違うと言って奉納を避けたところがあったようです。

この翁の舞に歴史が刻まれているかもと想像すると、ミステリーの謎解きのように引き込まれてしまいませんか。

 

鈴鹿千代乃氏は昭和52年頃から光寿斉さんより伺った話を記録しておられ、十三人立の熊野の翁については平成4年になってようやく思い出されたそうです。それに伴い、肥後の翁を中心とした舞だけでなく、奉納する土地によって中心となる翁が変わるということも思い出されました。長くなるので省きますが、伊勢神宮、出雲、尾張での奉納舞も伝承されています。

鈴鹿氏、古田氏と光寿斉さんの縁がなければ、筑紫舞についてこれほどの内容は記録されなかったのではないかと思います。両氏に出会われたことで多くの記憶が蘇り、昭和11年の洞窟舞の場所も探し出すことができました。筑紫舞というあまりに膨大な内容を、少女一人の身にたった11年間で授けられた特殊な状況を想像した時、現在しっかりと次世代に継承されているこの奇跡の陰に、光寿斉さんを初め伝承に関わる方々のどれほどの努力があったのかと頭が下がります。

 

筑紫舞と安曇磯良

長くなりましたが、最後にSorafullに残されたふたつの疑問について、書き留めておこうと思います。

ひとつは古事記に描かれた、天孫を先導したサルタ彦のその後です。

伊勢の阿邪訶あざかの海で漁をしていたところ、サルタ彦は比良夫ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまいます。その時、三つの御魂が現れました。沈んでいった時に底度久ソコドク御魂が、海水が泡立った時に都夫多都ツブタツ御魂が、泡が弾けた時に阿和佐久アワサク御魂が。

不思議な話です。サルタ彦が海で溺れて三御魂となります。どちらかというと山のイメージがありましたけど。そしてヒラブ貝という貝は存在しないそうです。貝とは女性のホトを指すらしく、サルタ彦がアメノウズメに溺れたという解釈が多いようですが、漢字を見ると阿曇比羅夫(比良夫)や阿倍比羅夫を連想させますよね。2人とも7世紀半ばに水軍を率いて活躍した将軍です。古事記が完成する50年前のことです。

同時代に同じような功績を残した2人が同じ名前というのもまた不思議な偶然。(2人とも斉明天皇の命で百済救援に向かい、間もなく阿曇比羅夫は白村江の戦いで戦死、安部比羅夫は大敗した後のことはわかりません。)あえてこの比良夫という名前を使ったところに、隠された意味があるのかなと勘ぐってしまいます。

古事記の作者はなぜサルタ彦を海で溺れさせ、比良夫貝という架空の貝をその原因とし、そして安曇族の祀る綿津見三神のように海の三御魂を生じさせたのか。まるでサルタ彦を安曇氏、安倍氏に繋げようとするかのように。

 

もうひとつの疑問は、西山村光寿斉さんが最後に伝承したふたつの舞についてです。

「浮神(うきがみ)」は磯良の舞ですが、これを習得する前には「源流翁」という舞を先に学ばなければならないそうです。源流翁とは「都の翁」のことで一人立です。この舞は一生に一度だけ、しかも50歳を過ぎなければ舞ってはならない、そんな決まり事があると。

最も大事な舞が磯良舞であるなら、その前に習得しなければならない、一生に一度だけ舞うものとはいったい何なのでしょう。都の翁とは誰なのか。

磯良舞についてはこの記事に書いています。

 

検校自身はこのふたつの舞を光寿斉さんに伝えるつもりはありませんでした。舞う機会はないからと。まわりの者がそれでもと頼み込んだことで、光寿斉さんに伝えられたのです。それによって筑紫舞が安曇磯良と結ばれていることが明らかになりました。けれど不思議なのは、筑紫舞を命懸けで守ろうとしてきたのであれば、その中の最も大切な舞をなぜ検校は光寿斉さんに教えようとしなかったのでしょうか。永遠に消滅してしまうかもしれないのに。

春日大社志賀海神社、大分の柞原八幡宮、古表・古要神社にもみられる服属儀礼としての磯良舞は、海人族と八幡信仰が結びついて生まれたものであり、本来の安曇磯良の姿ではないから? 確かに祖先の変容させられた悲しい姿をむやみに舞う必要はないですよね。

それとも傀儡子たちが筑紫舞を継承してきたことで、祖先である安曇磯良を伝え残す術としての磯良舞であり、本質は「翁の舞」にあるのだから、光寿斉さんが筑紫舞として覚える必要はないと考えたのか。もし後者であれば筑紫舞の出発点は海人族⇒安曇族だけれど、しだいに物部の歴史(九州王朝)を反映するものへと変化していったということもあるかもしれません。

ただ、筑紫舞の「祓の力」ということを考えた時、王権やその推移といったことよりも、人々の営みによって生じざるを得ない穢れの浄化や鎮魂が、筑紫舞本来の存在意義だったのではないかと思えるのです。翁について「日本に48州あればそのすべてに翁がいる」と検校が言ったそうです。神に近い存在である翁がその土地の穢れを祓うための舞であったのでしょう。だからこそ翁の舞は神に奉げる神舞ではなく、穢れをわが身に受けるくぐつ舞なのでは。

検校の残した言葉に触れていくと、王権というよりも民衆に寄り添い生まれたものが筑紫舞の土台にあるような気がします。そして体制の外側に生きる者たちによって掬い上げられた滅びの歴史が、必然として舞の中に織り込まれていったのではないでしょうか。

 

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菊邑検校の話をもうひとつだけ。

地唄舞の中では曽我物語だけがタブーのようになっていて、光寿斉さんが頼んでも曽我に関わるものは絶対に教えてくれなかったそうです。このことは、以前は6世紀末に物部氏蘇我馬子に滅ぼされたからかと思っていましたが、それより前の磐井の反乱と称して継体天皇蘇我王朝)によって九州の勢力は最終的に抑えられ、大和朝廷に飲み込まれていったこともあるのかなと思うようになりました。

 

さて、N様から頂いたご質問から始まった「宮地嶽古墳の被葬者とは誰か」を探る旅は、方々へと寄り道をした結果、謎を残したまま一旦終わりを迎えることになりました。ですが新たな発見がとても多く、今回チャレンジする機会を与えて下さったN様に、心から感謝しております。

そして迷走ばかりの長文の連続にお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。

 

参考文献(大元出版の出雲伝承以外)

「よみがえる九州王朝」「古代の霧の中から」古田武彦

「市民の古代」第11集、第12集、新泉社

神道民俗芸能の源流」「穢れと芸能(論文)」鈴鹿千代乃著

記紀万葉の新研究」尾畑喜一郎編より「筑紫舞聞書」鈴鹿千代乃著

 

【皆様へ】コメントを送って下さる皆さま、本当にいつもありがとうございます。頂いたコメントでこちらから紹介させて頂きたい場合もあるのですが、もし非公開を望まれる内容がございましたら、ひと言添えて下さると助かります。今回もS様より嬉しいご報告を頂けたのですが、ご紹介してよいのかどうかわからず控えさせて頂きました。よろしくお願い致します。

 

宮地嶽古墳⑸筑紫神楽舞とサルタ彦の苦悩

 

 

 サルタ彦大神の七変化

「サルタ」とはドラビダ語で「突き出たもの、出っ張り」という意味で、猿とは無関係です。サルタ彦は象神のガネーシャなので鼻高彦とも呼ばれますが、山岳仏教の中でそれが天狗に変わってしまいました。(ガネーシャの鼻は男性の象徴。子孫繁栄の源です)

サルタ彦は他にも田畑を守るカカシや、山や湖を造るダイダラボッチ、厄払い人形、信楽の笠ダヌキ、山彦まで、姿を変えて人々を守ってくれる存在です。

下の写真は「岩手さわうち食の普及会」で紹介されている厄払い人形です。

https://sawauchisyoku.com/?pid=134346189

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奥羽山脈の谷底にあるという旧沢内村は豪雪、貧困、多病多死など非常に厳しい暮らしだったそうです。近くの西和賀町では厄払い人形が古くから伝わり、人形を担いで歩くことでその土地の疫病神を背負わせ、そして村境の木に結び付けて外からの疫病神が入ってくるのを防いでもらうという習わしがあるといいます。道の神ですね。

写真の人形は高齢者生きがいセンターで作られたものだそうですが、すべて引き受けるぞといった気迫と精悍さに感動してしまいました。次世代への継承が気になるところです。この人形はすでにSOLD OUTですが、写真を眺めるだけでも自分の中の邪気が祓われていくような気がします。

これを一本足にするとカカシのような。

 

出雲では太夫もまたサルタ彦大神が百のお姿になって善人を守ってくれるものと伝わっています。七変化どころではありません!

太夫神社は西宮神社(西宮えびす、古くは大国主西神社)の境内末社として祀られていますが、九州では田川郡採銅所村(宇佐神宮放生会で造る神鏡の採銅所にある古宮八幡宮の境外末社行橋市長尾の正頭八幡神社では本殿に合祀、また宇佐神宮境外の百体殿(隼人を埋めたとされる)は本来は百太夫神社です。やはり豊日別宮の周辺はサルタ彦大神と繋がっていますね。

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傀儡子たちは百も千も人形を作って奉り、サルタ彦大神に守ってもらおうと祈ったそうです。でもどうして海人族由来の傀儡子がサルタ彦?と思っていましたが、英彦山、豊日別宮に由縁があるのかもしれません。

傀儡子は神社の周辺に住み(散所)、雑役をして課役を免れ、人形舞など種々の芸をしながら漂泊民として暮らしていました。古要神社の近くには中世に散所があり、宇佐神宮に隷属する傀儡子たちが住んでいました。古表神社、古要神社の傀儡子は放生会の際に人形による傀儡子舞を奏したそうです。それは三韓征伐時の磯良舞なのですが、表向きは隼人の霊を鎮めるためであり、朝廷側にとっては隼人の服従の表明という意味があったと思われます。

祖神の安曇磯良の舞、百太夫信仰、隼人の鎮魂、そしてえびす信仰へ。傀儡子たちの移動とともに、それぞれの土地の信仰を芸能へと変容させていきました。それは単なる芸ではなく、鎮魂、祓えの力を伴っていたのです。表の歴史から零れ落ちた敗者の悲しみに、寄り添い続けた存在なのかもしれません。

写真は中津市のホームページからお借りしました。古要神社の古要舞と神相撲です。人形にはそれぞれ神の名が付けられていますが近世になってからのことらしく、本来名を持っていたのは二躰の磯良神だけだったと。写真はありませんが、顔を白布で覆っています。

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【補足①】古宮八幡宮は最初、香春三ノ岳の麓に豊比咩トヨヒメ神社として祀られており、709年に現在地に遷りました。9世紀になって神功皇后応神天皇宇佐神宮から勧請し八幡社となります。三ノ岳で採掘された銅を使って、宇佐神宮のご神体である神鏡をここで鋳造し納めていました。これが前回紹介した豊日別宮にも納められたのです。香春神社の元宮と言われますが、香春神社は放生会には関係していません。

豊比咩命は宇佐の比売神、第2次物部東征の豊玉姫と思われ、豊日別神もそうではないかと考えていましたら、古宮八幡宮の現在地が高巣の森(古くは鷹巣)でした。神紋も鷹羽です。英彦山では豊日別神は鷹巣山に鎮座していましたよね。宇佐の豊玉姫は物部イニエ王との婚姻で高木神と結びついたのかもしれません。(田川郡の古名も鷹羽といわれています)

 

【補足②】宇佐への神幸の際、豊日別宮を出発すると祓川で禊をしたそうです。この祓川は英彦山の頂上辺りから湧き出ているのですが、地図を見ると犀川という地名が祓川に添って至る所に付けられ、平野部では大きな集落となっています。地図に水色の斜線で大まかに示してみました。

幸の神を祀る三輪山から流れ出る狭井川は、本来の意味は幸川だったそうです。信州安曇野を流れる犀川は地元伝承の「龍の子太郎」の中で、出雲(諏訪大明神)を象徴する川として現れます。祓川ももしかすると本来は犀川(幸川)で、のちに始まった放生会によって祓川と呼ぶようになったのかな、と想像しています。幸の神も邪を祓ってくれますし。

 

写真は西宮神社内の説明板です。

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 下記事の後半に百太夫について書いています。

 

サルタ彦大神に戻ります。

九州には中国の庚申信仰がとても多く、これもサルタ彦と結びついています。出雲伝承の谷戸貞彦著「七福神と聖天さん」によると、庚申は平安時代には貴族の間で始まっており、室町になって農民にも浸透、江戸になると神道家が申を猿として日本古来のサルタ彦大神を祀れと主張したそうです。

庚申信仰とは道教密教神道修験道などが合わさったもので、庚申の日の夜には人の三尸さんしの虫が体から抜け出し、天帝に悪事を報告し、寿命や死後の行き先が決まるといわれ、その夜は眠らずにお酒を呑んだりしながら過ごすというものです。下の掛け軸は青面金剛といって仏教で祀られ、猿と鶏が描かれています。実は鶏の鶏冠信仰もサルタ彦だそうですよ。

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不動尊については修験道密教不動明王を信仰し、寺を守る不動明王と村を守るサルタ彦大神が似ていたことから、仏教を庶民に広めるために、サルタ彦信者に不動尊を拝むように勧めたということです。

比叡山日吉大社日枝神社山王信仰もサルタ彦大神を祀ります。豊臣秀吉日吉大社の神主家、樹下家と親しかったことから木下という名を使ったそうです。信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が復興させています。サルと呼ばれたのもここに由来するのですね。忍者出身だとも。

 

サルタ彦大神の変容ぶりをざっと見てきましたが、本当に古くから様々な祈りを受け止めてこられた神さまですね。出雲王国時代の幸の神が広い地域でしっかりと根付いていたことを感じます。

宇佐国造家の口伝ではシベリア方面からサルタ族が漂着したと伝わっており、出雲族ではなくサルタ族という名で通っていたようです。九州特有のものかはわかりませんが。記紀では幸姫命とクナト大神の名はイザナミイザナギに変わってしまいましたが、幸いなことにサルタ彦大神だけはその名を残すこととなりました。幸の神三神の役目を一身に引き受けているかのようです。

ところで豊日別宮に降臨したサルタ彦大神は修験道以前なので、幸の神として捉えることができそうです。豊前坊の天狗神奈良時代以降に生じたと思われます。磐井の岩戸山古墳には猿田彦塔がありましたが、これは近世に祀られた庚申です。とはいえどちらもそこにサルタ彦大神ありきでしょう。

 

出雲系の山の秘密組織(山伏、忍者)と筑紫舞の繋がり、そして海人系の傀儡子たちのサルタ彦信仰。これまでは出雲と傀儡子の接点がつかめず気になっていましたが、英彦山と豊日別宮のサルタ彦大神がその鍵を握っているのかもしれないと、今は考え始めています。そして山伏と傀儡子は共に独自の情報伝達網を持ち、場合によっては協力し合うこともあったのかなと。

 

筑紫神楽舞

西山村光寿斉さんの継承した筑紫舞は、筑紫傀儡子たちによって伝えられてきたので「筑紫くぐつ舞」とも言えます。こちらが歴史の裏街道を歩んできたとすれば、表に存在していたのは筑紫地方に伝わる「神楽」です。

古田氏は福岡市の田島八幡神社で継承されている神楽に偶然出会っておられます。60年ぶりに上演されるという日に、たまたま居合わせたそうですよ。田島八幡社に伝わる明治19年に記された由来書を要約します。

「明治以前は筑紫の各神社の神官が神楽を行っていたが、明治の一新によって神社の制度が変わりそれができなくなった。そこで社中の者が集まり神楽舞いの伝授を受け、以後これを筑紫舞として伝えることとした」

明治の一新というのが平田神道以外は偽物とされたことであり、神仏習合もダメ、修験道もダメ、となって神主さんたちは食べられなくなり、神楽もできなくなったという大変な時期があったそうです。明治維新とともに平田派国学者らが神仏分離神道の国教化を推進しました。

由来書には神楽を筑紫舞と言うようになったことが書かれていますが、古田氏が実際に見た感想はやはり里神楽風で、あの荘厳な筑紫くぐつ舞とは異質の芸であり、「翁の舞」(筑紫くぐつ舞の中心となる舞)もありません。ですが共通する要素がいくつもみられ、これらは同根異系のものと認めざるを得ないと。

この田島八幡の演目にとても興味深いものがあります。「猿舞」「猿」というタイトルで天孫降臨の場面を演じるのですが、それが記紀とは様子の違うものとなっています。

 

神楽「猿舞」「猿」

天照大神の命でニニギノ命が筑紫へ天降ることになりましたが、サルタ彦が承知しません。来てほしくないと頑なに拒否するのです。困惑した天の神々のうち中富親王が解決に当たることとなり、アメノウズメを使って色仕掛けでサルタ彦を誘惑する、といったことが延々と続けられます。

記紀ではサルタ彦は天孫の先導役として描かれています。ニニギノ命が来るのを自らの意志で待っているのです。先導できるのですから土地勘があり、天孫より前からここを治めていた存在であるのは明らかです。ですがそうであれば記紀のように、気前よく先導するというのは嘘くさいですよね。出雲王国の激戦の果ての滅亡を、聞こえの良い「国譲り」と変えたのと同じ構造です。この神楽ではサルタ彦の本音が描かれているように思えます。

田島八幡の他、高祖神社や朝倉内の神社で行われる神楽も、大変似通っているということです。

ところでこの「中富親王」ですが、古田氏はなぜここに登場し、かつ何の説明もなく物語が展開するのか疑問であると言われます。説明がないということはかつては誰もがよく知っている人物であったからだと。田島八幡の方は「神主の祖先」や「天孫降臨の侍従官」と捉えておられます。中臣神道の関係という説も。名前からはアメノコヤネを想像します。

 

中臣村と中富親王

豊後国風土記を見ると、景行天皇が「豊前国仲津郡の中臣村」に到着したとあります。この中臣村はその後「草場村」と呼ばれたことが太宰管内志(江戸時代に編集された九州の地誌)に書かれています。前回紹介した豊前豊日別宮(別名、草場神社)の所在地のようです。欽明天皇即位元年(539年)に創建、サルタ彦大神が天照大神の分神として祀られました。

豊後国風土記では景行天皇が中臣村に滞在した際、豊国の直らの祖先となる菟名手に豊の国を治めるよう命じたとあります。豊玉姫(ヒミコ)の宇佐家が宇佐国造⇒豊国直へ。

天皇が菟名手とともに滞在したという中臣村ですので、有力豪族がいたのでしょう。

出雲伝承の谷日佐彦著「事代主の伊豆建国」によると、第2次物部東征の後、垂仁大王は豊国軍に東海の狗奴国を攻めるよう命じ、関東北部の上毛野国、下毛野国へと至ります。豊国軍を率いた豊来入彦は物部イニエ王と豊玉姫の御子なので、物部の血筋となります。常陸国の中臣氏と豊国勢力が接近して開拓していたことから親しくなり、豊国人が豊国に里帰りして上毛郡下毛郡を作っ時、中臣家の人々も郎党を連れて共に移住し、豊国に中臣村を作ったという伝承があるようです。伝承では中臣氏は鹿島から始まるとしています。

これらを併せて考えると、垂仁から景行に至る間に移住があったということになります。3世紀末から4世紀初めでしょうか。でも宇佐家の勢力下の土地で突然よそ者が力をつけるのも難しいですから、やはり物部東征時のイニエ王とともに中臣氏も宇佐家と付き合いがあったと考えるほうが自然かと。(記紀では神武の侍臣であった天種子命天児屋命の孫で中臣氏の遠祖)にウサツ姫を娶わせたとしています。宇佐家極秘伝では神武に差し出して子をもうけたということです)

サルタ彦大神を祀った豊日別宮周辺を治めていた中富親王(中臣)が、問題解決に当たる姿を描いた神楽とみることはできないでしょうか。

※ かつてはこの辺りに中富姓の方がおられたような情報もみられますが、現在は見当たらず、福岡の博多に集中しています。

 

神楽舞で天孫を拒むサルタ彦大神を描き、それが筑紫地方特有のものだということに大きな意味があると思われます。天孫降臨の本来の姿を出雲で演じるなら筋が通りますよね。ですが天孫側(徐福子孫)の筑紫地方で上演する意味を考えると、これはニニギの天孫降臨ではなく、大和朝廷に抵抗を続けた磐井の姿、物部麁鹿火や香月君らの軍に攻められ戦った磐井の姿を重ねてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。神楽をみた人々は、そこに込められた意味を理解し、末代にまで語り継ごうとしたのでは。

また日本書紀に描かれたナガスネ彦の最期のシーンは、これまで違和感がありました。ナガスネ彦(大彦)がニギハヤヒ(物部)に仕えている設定、妹がニギハヤヒに嫁いだという設定(出雲伝承にはありません)、そしてなぜニギハヤヒが忠実な臣下を殺さなければならなかったのかと。

『大和へ攻め込んできた神武(朝廷)に対し、ナガスネ彦はニギハヤヒこそが本来の天孫であると、それを証明する天羽々矢(高木神)を神武に示します。

「自分の妹がニギハヤヒのもとに嫁ぎ、今はニギハヤヒに仕えている。どうしてあなたもまた天神だといって人の土地を奪おうとするのか」と。

天神と人は全く違うのだということを理解できないナガスネ彦を、ニギハヤヒは自らの手で殺害します。』

ナガスネ彦を磐井と置き換えた時、すんなりと読めました。物部と親族となった磐井が、大和朝廷に抵抗し、物部によって殺されたということです。

 

次回は最終回です。

 

 

宮地嶽古墳⑷英彦山とサルタ彦大神

 

英彦山の神々を見ていきましょう。

地図は南北を反転させています。

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 英彦山神宮主祭神天忍穂耳命アメノオシホミミです。天照大神の御子なので日の子の山、日子山と呼ばれています。(のちに彦山⇒英彦山

天忍穂耳命は高木神の娘、栲幡千々姫タクハタチヂヒメとの間にニニギノ命、火明命をもうけました。つまり徐福の父ということになります。古事記では正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命という勝ちまくっているような名のわりに、さほど存在感がありません。忍穂耳命は天照大神から降臨するよう命じられますがうだうだとして、やがて息子が生まれ、その息子ニニギに行かせることにしたのです。徐福の父は渡来しなかったということでしょうか。

 

出雲伝承では徐福が秦国から連れてきた母は、和名が高木栲幡千々姫と伝えられ、幡は秦を意味します。最初はJR佐賀駅の北側辺りの高木に住み(高木姓も多い)のちに筑紫の南部に住んだそうです。亡くなった後に高木の神として祀られたと。筑紫の南部とは久留米の高良山

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高木神の伝承で不思議な話があります。高良山に鎮座していたところ、高良玉垂命がやってきたので一夜の宿として提供しました。ところが結界を張られ、高木神は戻れなくなってしまい麓の高樹神社に遷ったというのです。時代による神様の交代を示していると思われますが、徐福の母を退けた人物とは誰なのでしょうか。玉垂命が物部であれば合祀ということになりそうなものですが。高良大社では仁徳天皇の御代(367年か390年)に玉垂命が鎮座したとしています。年代だけでみれば神功皇后応神天皇の時代ですね。

ちなみにここは磐井と物部麁鹿火の最後の決戦地、御井です。

出雲伝承では徐福の二度目の渡来は有明海沿岸の浮盃辺りから上陸し、金立山から吉野ヶ里へ移っていったといいます。また筑紫野市天拝山でも道教神を拝んでいたそうです。宝満川を挟んで東に宮地岳があって、昔は天山と呼ばれていました。麓には高木神社が建ち、その上方には童男丱童女の船繋岩と呼ばれる大岩があり、徐福が連れてきた童男童女たちの船に由来があると言われています。山の西側、豊満川に沿って今も水田が広がっています。

豊満川といえば、菊邑検校が「宝の満ちている川。宝とは子どもです」と言ったそうで、筑紫舞の傀儡子たちはこの川に捨てられた子どもたちを育て、舞を伝えたといいます。九州の子どもだけに伝えるのだと。大陸から連れてこられた子どもたちも、二度と親に会うことのないままこの地で一生を終えたと思われます。

 

さて、英彦山神宮のもととなる霊泉寺(古くは霊仙寺)の由来によれば、継体25年(531)北魏の僧、善正が彦山の洞窟で修業し開山したとしています。伝承には日田の猟師藤原恒雄が一頭の白鹿を射た時、鷹が現れて白鹿を生き返らせたので神意を悟り、善正の弟子となってここを開いたというものもあるようです。鷹は高木神の化身や使いといわれます。善正よりも先に鎮座していたのでしょう。上宮の手前、産霊むすび神社に高皇産霊神(高木神)は祀られています。

徐福の母、高木神の信仰は筑前筑後で紀元前から始まっていたようですね。英彦山神宮も次に紹介する高住神社も神紋は鷹羽紋。神話では高木神は天羽々矢を天から放つ伝承(返し矢)もあります。(鷹の羽は和弓に用いられる矢羽根)

天忍穂耳命英彦山にどうも馴染まない感じがあって、新たにやってきたような。

 

豊前坊高住神社 は江戸時代までは豊前ぶぜんぼうと呼ばれていました。古名は鷹栖宮。高住は鷹住?

主祭神豊日別トヨヒワケ大神とされ、豊前豊後の守護神、国魂神です。もとは鷹巣山に祀られ、病苦を救い、農業、牛馬、家内安全の神として崇められてきたそうです。

天狗磐という巨大な磐座があり、そこに食い込むようにして社殿が建っています。社殿奥にある天狗磐の窟いわやが本殿です。

継体23年(529)に「我、この磐根に居る事年久し、我前を斎き奉れ」とのお告げがあり、豊後国藤山恒雄(彦山第二世座主)によって社殿が創建されました。

英彦山神宮ともに藤山(藤原)恒雄が関わっており、ほぼ同時期のことですね。磐井の乱が終わったのが継体22年。磐井が逃げ込んだとも言われる英彦山に、翌年神のお告げが下ったことになります。

藤原恒雄については資料がなく、日田の猟師としかわかりません。日田の地名の由来のひとつに朝日と鷹の伝承もありますが(江戸時代の「豊西記」)。 日田国造の鳥羽宿祢は高木神の子孫とされ、石井神社に祀られています。鳥羽は鷹羽のこと?

またここでは豊前坊天狗神が有名で、九州の天狗群の頭領格といわれています。配下の天狗を使って欲深い人を諫め、心正しい人には願い事を遂げさせ守護するといいます。そして天狗といえば、その由来は出雲のサルタ彦大神

 

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ところで豊日別神についてですが、福岡県行橋市にある豊日別宮(草場神社)の社伝に気になる話があります。欽明天皇即位の年(539)に神が老翁の姿となって現れ、神官の大伴連神牟弥奈里継体天皇に仕え磐井の敵であった大伴金村の孫)に「我は猿田彦の大神なり。天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げ、翌日に大神が降臨し「猿田彦天照大神の分神なり。豊日別大神を本宮とし、猿田彦を以て別宮となす」と告げたことで社殿を建てて祀ったのが起源であるということです。豊日別大神とサルタ彦大神の御神徳がほぼ同じ。宮の古名は佐留田比古社。豊前坊天狗神はサルタ彦大神なのでは?

しかも天照大神の分神としています。この場合は出雲の幸の神だとすればスムーズです。幸の神三神は幸姫命(太陽の女神)とクナト大神、その御子神のサルタ彦大神です。

社伝の続きには「欽明28年(567)には洪水、飢饉などが各地を襲ったが豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇された」とあります。日本書紀には「国々に大水が出て飢える者多く、人が人を喰うことがあった」と記されており、かなり深刻な被害だったようです。豊日別宮の神と関わりのある祟りとでも思ったのでしょうか。

さらに続きを要約すると、720年に隼人が反乱し朝廷が征伐したが祟りが起こり、宇佐八幡神の宣託によって隼人たちの霊を鎮める放生会ほうじょうえを毎年行うことになった。放生会の際、朝廷の勅使が一旦豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮とも呼ばれた。官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造し、それを豊日別宮に併せて祭り、本社の神輿とともに宇佐への神幸が行われた、とあります。宇佐神宮に並ぶような扱いですね。

 

山伏と出雲散家

出雲伝承では出雲兵は忍者の祖といわれています。王国滅亡後は各地に散らばったので出雲散家さんかや出雲忍者と呼ばれました。あの謎めいたサンカですね。伊賀や甲賀の忍者は大彦の子孫のようです。山家やまが、山の人と呼ぶこともあったとか。彼らは秘密組織を作り、各地の事件の真相を旧出雲王家の富家に報告しました。出雲散家の子孫は明治頃まで忍者として活躍したといいます。彼らはサルタ彦大神を崇拝しました。

豊前坊で修業をした人の中には修験道の開祖、役小角えんのおずぬ役行者(634~701伝)もいます。この人は出雲系の葛城出身だそうで、幸の神三神を三宝荒神に変えて祀ったといわれています。荒神は幸神の言いかえですね。サルタ彦大神は強面の道の神として邪を祓ってくれるので、荒魂の要素があり、サルタ彦人形を荒神とも呼びます。大彦勢が東北で幸の神を広めましたが、それがアラハバキ信仰です。

修験道とは日本古来の山岳信仰に、密教道教の要素が混ざっていったものですが、そこに幸の神も伴っています。修験者には多くの出雲忍者が含まれていたと伝承にあります。修験者のことを山伏と呼び、もとは山臥と書いたそうですが、これも山家ヤマガと関係あるかも。

英彦山だけでなく福津の宮地嶽古墳も古くは岩屋不動と呼ばれており、江戸時代までは山伏たちの勢力下にあったようです。明治になると平田神道以外は偽物とされ、修験道も廃止になったのですが、ほとんどの神道が平田神道以外のものだったそうです。宮地嶽神社は明治以降に栄えたというので、修験道と入れ替わったのかもしれません。

 

継体21年(527)磐井の乱が起こり、翌年平定

継体23年(529)に豊前坊の社殿を創建

豊日別神はそれ以前に鷹巣山に鎮座していたので、英彦山に社殿を造ったというのは新たにサルタ彦大神を祀ったことがきっかけだった可能性もあります。のちの天狗神

継体25年(531)に北魏の僧、善正が開山(英彦山神宮の元)

いつしか主祭神天忍穂耳命に。

欽明天皇即位元年(539)に豊日別宮を創建

天照大神の分神、サルタ彦大神が祀られました。

欽明28年(567)各地で洪水と飢饉あり、大和朝廷が豊日別大神に祈願

平安時代(822)に高皇産霊尊(高木神)を勧請して七里結界を張る

この時大行事社を置きましたが明治で高木神社となります。もともと鷹巣山には高木神信仰があったと思われます。

 

 つづく

 

 

宮地嶽古墳⑶朝闇の筑紫舞

 

 

筑紫舞についてはこちらの記事に書いています。 

 

筑紫舞宗家の西山村光寿斉さんは、昭和11年に宮地嶽古墳内で筑紫舞の奉納に立ち会っておられます。立ち会うというよりも、ある儀式のようなものを経ることで、筑紫舞伝承者として最後の段階へと進んでいくことになった、そんな特別な場であったようにも思えます。

舞の奉納ということに限って言えば、その時集まった人たちが「去年はあの山の向こうの山の上で木組みをして云々」と言われたそうで、奉納の場所は他にもあったようです。当時筑紫方面太宰府からこの古墳へ度々奉納に来ていたことは、証言もあって明らかですが。

不思議なことに光寿斉さんは昭和11年の奉納の際、あの大きな宮地嶽神社がそこにあるとも知らずお参りもしなかったと言われています。いつもは道端の小さなお社にさえ手を合わせて通る人たちが、この時は光寿斉さんに教えようともしなかったというのです。

古田武彦氏によると宮地嶽神社は昔は小さな祠だったけれど(古宮のことでしょう。神社ホームページのコラムにもありますが、本当に小さなスペースです。昭和5年に現在の位置に遷宮したそうです)、明治維新後「商売の神様」のような形で繁盛していったそうで、古墳を祀る祭りはどうなったのか、筑紫舞と関係あるのかないのかそれもわからないと昭和50年代の調査で書いておられます。神社側も筑紫舞のことは光寿斉さんから話を聞いた上で「当社との関係の有無にかかわらず残す努力をしましょう」という流れになり稽古を始めたようでした。最近では古来より秘伝の舞を伝承しているというイメージがあるようですが、光寿斉さんのお話とは違っています。なので他の奉納場所を探ってみました。

 

昭和初期に、朝倉市柿原古墳の前でそれらしき舞の奉納を見たという方の証言がある(「市民の古代・第12集」新泉社」より)ということで調べてみましたが、すでに柿原古墳群は消失していました。(甘木歴史資料館の方によると、昭和60年代のことのようです)

光寿斉さんと古田武彦氏が昭和50年代に調査した際にも、すでに古墳がかなり減ってしまっていて、その辺りでは現在椀貸穴わんかしあな古墳と呼ばれる古墳だけが残っていたようです。13mほどの墳丘で横穴式石室が開きっぱなしになっており、その上に小さな社が建っていて、それを本殿とした高木神社が鎮座しています。現在は隣に小さな高住神社が建っています。

この近辺の家々は豊前豊後の修験道の神社に属していました。「椀貸」という不思議な名前は、農家で婚礼などお椀がたくさん必要な時、お願いしますと祈っておくと一式のお膳がずらりと並べられたという伝説からきています。付近に修験道の山伏(天狗)たちがいたという意味なのかもしれないと。

 

さて高木神というのは筑紫舞にとって気になる神様です。光寿斉さんの師匠である菊邑検校は多くを語らない謎多き人でしたが、筑紫舞の伝承者である傀儡子くぐつたちの組織の頭領であったのは明らかで、普段は筑紫の男性が神戸と行き来して伝令を務めますが、山伏たちもいたようです。明治中頃の話では、太宰府にいた検校のところへ黒田公が訪れ「検校様、福岡城内を歩かれる時はお忍びで行って下さい」と頼んでいたらしく、福岡から佐賀への移動にも護衛がついていたとか。

検校は歴史については、知っていてあえて一切語らないという姿勢だったようです。そして特定の宗教はもたないという検校に、では信じている神様は?と聞くと「高木の神」と答えたそうです。

  

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 柿原古墳周辺英彦山ひこさんに連なる山々の麓に位置します。英彦山は磐井が逃げ込んだ山ではないかと言われています。三つの峰を持つ1200mほどの険しい山で、古来より山伏の修験道として日本有数の霊山です。筑後国風土記逸文には磐井の乱後、豊前国上膳県に逃れて南の山の峻しい嶺々の間に身を隠して逃げたと記されています。

柿原から10㎞余り山裾に沿って東南にいくと、朝闇神社宮野神社があります。光寿斉さんと古田氏はこのふたつの神社には、筑紫舞を描いた絵馬があることを確認されています。(近くの丘には宮地嶽神社が建ち、周囲を見渡せます。祭神は神功皇后と勝村、勝依大神。福津と同じです)

※朝闇は現在はチョウアン、昔はアサクラと呼んでいたそうです。

朝闇神社の絵馬1833年に奉納されたものです。木こりか山伏のような男性たちが洞窟らしき所の前で筑紫舞と思われる踊りをし(特徴的なルソン足)、殿様風の人が大きな盃でお酒を飲みながらそれを眺め、数人の女官が取り巻いています。画面左奥には岩山がそびえ、そこから山伏たちが現れ女性たちが迎えている様子や、手前にはお坊さんがそっぽを向いている姿も描かれています。この絵馬を見た光寿斉さんは、その足の上げ方が自分たちの舞う足の型だったのでとても驚かれたそうです。

朝闇神社絵馬の一部

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宮野神社の絵馬1850年のもので、こちらは明らかに洞窟の前で山伏が舞い、殿様がいて女官がいて、という同じような図柄と、山伏が御馳走を作って農民たちに振舞っているという変わった場面もあるようです。麓の村人との交流を描いているのでしょうか。

そして宮野神社のほうはすりきれて見えないそうですが、朝闇神社のものは殿様の服装は立派なのに、頭が蓬髪、ざんばら髪。まさか逃げた磐井が山深い洞窟で山伏たちと暮らしている図?!

殿様の背後には、布で仕切りをした入口が見えますが、これを古田氏は洞窟か岩屋の入口を示しているようだと指摘されています。

どちらも江戸時代に描かれており、当時はこれを見れば意味がわかるというものだったのでしょう。この絵を解説できる人はもう現れないのでしょうか。

昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の時、集まった人たちはとても品のいい人ばかりで、中にはよい着物を着ている人もおられたようですが、なぜか皆用意された粗末な衣装に着替え、見ているだけの検校まで同じように着替えたといいます。木こりか漁師みたいなのや昆布みたいにぶら下がっているのや、検校は出し昆布みたいな色の着物‥‥。少女だった光寿斉さんは、なぜこんな汚い恰好で舞うのかと不思議で仕方なかったそうですが、洞窟の中で繰り広げられる神々しいまでの荘厳な舞に、心を奪われていったと。

 

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それから、光寿斉さんがこの朝闇神社を訪れた時、鳥居前右手の小さな猿沢の池(奈良にも同名の池がある)を見て、筑紫舞の「早舟」という舞が奈良ではなく、ここを唄ったものだったのかと合点がいったそうです。他にも娘道成寺など紀州が舞台だと思っていたら、宗像の鐘崎の悲しい話がもとになっていたと知って驚いたとか。筑紫舞が原点であることが多いのかもしれません。

鳥居は小さく、階段を昇るとすぐに拝殿があり、その内側に絵馬が奉られています。拝殿の横手には恵比須様の石像が。

祭神は高皇産霊尊(高木神)とニニギノ尊。ここは別名を大行事社といいます。822年に英彦山神領から七里四方に高皇産霊尊を勧請して結界を張りました。密教の七里結界と呼ばれます。大行事社を48ヶ所置いたそうです。この朝闇神社は七大行事社といって、最も外側で参道入口付近に置かれたところにあたります。(一里は時代によって変わり、律令制では一里約553m、中世は様々で、秀吉が約3.9㎞を導入)

大行事社は明治になって高木神社と名称が変わりました。

甘木歴史資料館の方に教えて頂いたのですが、この地方では皇室に関わってくるような高木神と、民間信仰としての豊前ぶぜんぼうが大切にされているとのこと。高住神社とはこの豊前坊が明治になって名称変更されたもので、筑前国風土記拾遺にも柿原村には豊前坊があったことが記されています。豊前坊については次回紹介します。

大行事社⇒高木神社

豊前坊⇒高住神社

椀貸穴古墳は両方の神様が祀られていますね。

朝闇神社のすぐそばには朝倉橘広庭宮跡があります。斉明天皇皇極天皇であり、天智、天武天皇の母)が661年に百済救援の際に建てたそうです。なぜこの地だったのでしょうね。天皇は宮に着いて2ヶ月余りで崩御されましたが、建設時には神の怒りに触れて宮が壊れたとか、病死者が続出したとか、崩御された後には朝倉山に鬼が現れ喪の儀式を覗いていたなどと日本書紀にも書かれており、天皇は磐井の残党に殺され宮を焼かれたといった説まであるようで、そういう話が出ることに世間の何かしらの思いがあったのでしょう。

ところで長安寺廃寺跡も隣にありますが、もとは朝闇寺、朝鞍寺と書いて「チョウアン寺」や「あさくら寺」と呼ばれていたそうです。ここにも鞍手の鞍が‥‥!

中国の「長安」と当て字されるほど重要な場所だったのではないかとも言われています。そういえば朝闇神社は他の大行事社のように高木神社と改称していませんよね。

長安寺跡からは奈良時代の遺物は出ていますが、朝倉橘広庭宮よりは後の時代と推定されています。

また朝倉の地名の由来は朝闇から来ているともいわれ、そうなるとかなりダークな物語の気配が。前回紹介した筑紫国造鞍橋君の金川家の家譜には「闇路クラジの公」と書かれていました。

菊邑検校が光寿斉さん家族と大本教弾圧の話題となった時に、検校が「真実というのは隠されていてわからないことが多いですよ」と言ったので場が白けてしまい、翌日再びその話題になった時にはぽつりと「くらやみにてあさをまつ」と暗い声で呟いたといいます。ドラマのワンシーンかと記憶に残っていましたが、今回地図を見て驚いたのが、朝闇神社からさらに東南へいった所、英彦山への麓の登り口に「夜明(夜開)」という地名もあったりして、なかなか意味深。さらに東には石井町が。(古事記では磐井ではなく石井)

 

 もう一方の宮野神社は、661年に斉明天皇が戦勝祈願にと中臣鎌足に建てさせた神社です。でも橘広庭宮建設時の暗い話を聞くと、祟りを恐れて祀ったのではと邪推してしまいます。

祭神をみると、大巳貴命、天児屋根命、吉祥女とあります。天児屋根命は中臣氏の始祖、吉祥女とは菅原道真夫人という説も(後世のものでしょう)。末社には金毘羅社(出雲)、さらに「幸神」と彫られた石神さまもありました。またここにも出雲が満載。

 

次は英彦山に祀られた神々について見ていきたいと思います。

 

 

 

 

宮地嶽古墳⑵磐井と大彦、鞍手の伝承


大彦についての過去記事です。

 

出雲伝承には九州の情報がそれほどありません。なので独自の伝承がとても多い九州に踏み込んでいくと、道標なしには翻弄されてしまいそうだな、というのが正直な印象です。まだまだ未知の情報がありますし、現段階はひとつの答えを求めるよりも、出雲伝承の視点に立ちつつどういった歴史が見えてくるのかを探っていけたらと思っています。

 

前回は筑紫国造磐井は大彦の子孫であり、以前は大和で大王に仕えた朝廷側の国造なのか?というところで終わりましたが、もう少し丁寧に見てみたいと思います。

日本書紀にある毛野臣へのセリフの意図は、九州王朝勢力が存続しているのではなく、磐井はあくまで筑紫国造だと強調したかったともとれます。であれば本当は磐井は大彦の子孫ではなく、もと九州王朝の大王に通じる存在だったのを隠そうとしたということでしょうか。

まずは磐井と大彦の接点になるかと思われるところを、いくつか辿ってみます。 

 

岩戸山古墳

磐井が生前に築造したといわれる岩戸山古墳ですが、そこに接するようにして吉田大神宮が建っています。以前は墳丘上部に祀られていた伊勢社を遷したそうです。写真は跡地の石碑。

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祭神は大日孁貴尊オオヒルメムチ天照大神としないところが古さを感じます。伊勢社が祀られているのは、朝廷に反乱を起こしたとはいえ神武に連なる皇統の血筋だからでしょうか。(出雲伝承では磯城王朝の皇子)

大正11年には菅原道真(出雲王家子孫)が合祀されています。さらに石造猿田彦塔や大山咋命(クナト大神)を祀る松尾宮(出雲の酒の神)まであります。出雲の匂いがプンプンしますね。

吉田大神宮は大正時代に、古墳のくびれ部に接して建てられました。このくびれ部から後円部中心にかけて地下室があることが、平成9年の電気探査で確認されました。ここに磐井が埋葬されているのかどうかはわかりません。最近ピラミッドの内部を素粒子で透視する技術が日本でも開発されているので、そういった技術の進歩に期待しています。

 

安倍高丸

中世に書かれた八幡宮縁起の中で、仲哀天皇の腹心として安倍高丸助丸が記されています。それをもとにした石見神楽の「塵輪じんりん」という演目があります。要約します。

仲哀天皇の時、新羅国から数万の兵が豊浦宮に攻めてきました。天皇は5万の兵で迎え討ちますが、塵輪という鬼神が黒雲に乗ってきて人々を殺していきます。安倍高丸と助丸に門を守らせ、天皇が弓矢で退治。ところが流れ矢が天皇を傷つけてしまいました。

下関の忌宮神社にも同じ話が伝わっていますが、安倍高丸、助丸は討ち死にしたことになっています。筑紫国造始祖の田道命は仲哀天皇先代の成務天皇の時代なので、同族の安倍家が活躍していた?

日本書紀仲哀天皇の御代で安倍氏に関わると思われるところは、天皇皇后が山口から香椎宮へ向けて行幸中、出迎えた岡県主遠賀郡先祖の熊鰐ワニ阿閉アヘノ(相島)を献上したり、船が遠賀川河口で動かなくなった時に船長の伊賀彦を祝はふりとして祀らせると船が動いた高倉神社の由来)といった話があります。相島は古くは阿閉島といって、これは大彦の子孫の阿閉臣と同じ名です。また伊賀彦も大彦の子孫。伊賀にも高倉神社があり、市内には大彦を祀る伊賀国一之宮敢國アエクニ神社があります。福岡の高倉神社は毛利元就の三男、小早川隆景が再建しているらしく、毛利家は出雲王家富家の子孫です。大彦は富彦と自称するほど富家の祖先を崇敬していました。

大彦の子孫とされる7族‥安倍臣、膳臣、阿閉臣(阿敢臣)、沙沙城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣

岡県主の祖先熊鰐についてはわかりませんが、遠賀郡から相島までを支配していた豪族なのでしょう。単純にワニといえば出雲の気配が。出雲の宗像家といえば宗像三姉妹ですが、宗像家は三輪山の南方に移住したと伝承にあります。

続いて神功皇后の御代では、新羅出兵前に吾瓮アヘノ海人に西の海に出させて国があるか確かめさせ、次に磯鹿シカの海人に見させた、とあって、津屋崎辺りと博多の海人(安曇族)を分けて描いたとすれば、阿閉、吾瓮ともに大彦系の安倍阿部に繋がるかも。

また安倍高丸を調べると、平安時代初期に征夷大将軍坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の首長と同名でした。蝦夷なので大彦勢でしょう。安倍高丸は悪路王として有名で、数多くの伝承が各地に残されています。安倍氏悪事の高丸、鬼、などと記され、その拠点は岩手県西磐井郡達谷窟たっこくのいわやだったそうで、ここで田村麿に討たれました。昔は「磐井の郷」とでも呼ばれたのでしょうか。

九州で仲哀天皇の腹心だった安倍高丸も、描かれたのは中世になってからなので、悪路王としての安倍高丸と何らかの関係があるのかもしれません。

※ネット上では藤高麿、助麿が安倍高丸、助丸のことであるとの情報が出ているのですが、その出典は見つかりません。

それから、詳しくはわかりませんが神社研究者の百嶋由一郎氏が、宮地嶽神社のもとの宮司は阿部氏だと言っておられたようで、現在の浄見氏とは違ったようです。

 

鞍手の伝承

物部氏ゆかりの遠賀川中流の旧鞍手郡は、とても興味深い話の宝庫です。その分ややこしいですが。

遠賀川周辺から鞍手にかけては剣神社、八剣神社が驚くほど密集しています。ざっくりまとめると剣はスサノオ、つまり徐福の布留御魂を祀り、八剣はヤマトタケルとミヤズ姫、草薙剣にまつわる伝承があって、後から熱田大明神を勧請したようです。

まず下地図の鞍手南方の六ヶ岳を見て頂くと、東の麓に劔神社、西の麓に六岳神社が鎮座しています。六ヶ岳は宗像三女神が最初に降臨した地と言われており、山頂に祀られていましたが、のちに六岳神社へ遷されます。劔神社のほうはもとは倉師大明神と呼ばれていたようで、ここにはイザナギイザナミに始まり十拳とつかの剣から生まれた神々が祀られています。宗像三女神スサノオの十拳剣から生まれていますね。

六ヶ岳南麓にはニギハヤヒ(天照国照彦火明櫛玉饒速日尊)を祀る天照神も鎮座しています。垂仁16年に笠木山に降臨したとのこと。

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次に北側の剣岳には、ヤマトタケル熊襲征伐で訪れた際に登ったという伝承があって、安閑天皇の御代になってから剣岳に八剣神社が建てられました。日本武尊、ミヤズ姫が祀られています。天智天皇の時代には草薙剣(叢雲剣)が盗まれる事件があり、途中この剣岳に置いてあったとか、古物神社に飛んできたなどといった伝説もあります。

時代順にみていきます。

劔神社直方市下新入)の由緒によると、筑紫国造田道命が成務天皇の時、筑紫物部を率いて神々を祀った神社であり、古くは倉師くらじ大明神と呼ばれました。もともとは六ヶ岳の東嶺に鎮座していたそうです。田道命の子孫である長田彦が神官を務めました。

倉師大明神は鞍手の名の由来という説もあり、高倉下タカクラジ(徐福の孫であり、香語山と大国主の孫の間に生まれた紀伊家の始祖)のことではないかと言われています。記紀では神武が熊野で倒れた時に布都御魂(剣)をもって現れ助けます。とはいえこれは8世紀初めに完成した話ですし、実際に物部東征の際に高倉下の子孫たちが物部を助けたわけではなく、紀の川で大彦勢と共に戦っています。

ただし先述の高倉神社も高倉下が祀られているという説もあるので、何か別の理由、例えば水軍の守り神とか、出雲王家と徐福に繋がる先祖を祀ったなどということであれば、あり得るでしょうか。

六ヶ岳神社の由緒は鞍手町によると、宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、成務天皇7年に室木里の里長、長田彦が六ヶ岳崎門山に神籬を営んだのが始まりということです。その後も子孫が長く神官を務めたといいます。どちらも長田彦ですね。

★ 筑前国風土記逸文には西海道風土記の示すところに宗像大神は最初に崎門山に居られたとあり、鞍手町誌はこの崎門山は六ヶ岳の一峰と比定。地名辞書では宗像郡の北端にある鐘埼の古名としていますが、山とは言えないような。また宗像神社文安元年の縁起に「室貴六嶽御著きあり、則ち神輿村に着き給ひ、その後三所の霊地に御遷座あり」と記されています。筑前国風土記拾遺にも同じ内容と「六ヶ岳とは風土記にいう埼門山これなり」と付け足されています。

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下地図は直方市教育委員会より縄文時代遠賀川の地図をお借りしました。大きな入海だったようで、古墳時代にはもう少し狭まっていたのでしょうが、宗像三女神が降臨した六ヶ岳(339m)は水際に立つ山だったということになります。先述の高倉神社も海のそばとなりそうです。

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鞍手町誌、香月文書などについては谷川健一著「白鳥伝説」と福永晋三著「倭の興亡」同氏ブログ「神功皇后紀を読む会」を参照しています。

この両神社の神官を務めたという長田彦(小狭田彦)とは、香月カヅキ文書によるとニギハヤヒの御子、天照日尊と市杵島姫の間に生まれた子孫で、本名・常盤津彦命のことであるいいます。天照日尊の15世孫だそうです。徐福の子孫ですね。市杵島姫であれば物部系でしょう。(小狭田彦はオサダヒコと呼ばれますが、原本ではササダヒコとかなが付されているそうです。福永氏は旧香月領の笹田が拠点だったと。)

小狭田彦は田道命の子孫ということなので、小狭田彦が徐福の男系子孫であれば、大彦の子孫である田道命の家系と女系で結びついたということでしょうか。

月氏は勝木とも書かれ、祖は小狭田彦。孫が日本武尊熊襲退治で功があって香月君の号を許されたそう。「香月文書」とは六岳神社と十六神社の宮司柴田家に伝わる文書であり、新北の熱田神社にも写しがあると。「香月世譜」は井原家に伝わっており、これは貝原益軒の養子が香月牛山のまとめたものを書写したものだそうです。(福永)

香月文書の系譜には物部の名前がチラホラ見えるそうです。

以上のことから、成務天皇の時に市杵島姫の子孫である小狭田彦(物部系)宗像三女神の祭祀を始めており、それは第2次物部東征で大和へ進出した後に景行、成務天皇らが各地を平定していったという時期に重なります。出雲王家と宗像三姉妹が婚姻していた時代(紀元前2世紀)のずっと後の時代(4世紀初め~)になりますね。

それから前回も書きましたが、日本書紀に水沼君が宗像三女神を祀ったとあり、水沼君は旧事本紀では物部阿遅古アジコ連の末裔でしたので、この六ヶ岳で繋がりが見えてきました。水摩(水沼)の姓は鞍手郡鞍手町に集中しているそうです。旧事本紀によると物部阿遅古連は物部麁鹿火アラカイと従兄弟らしく、そうであれば磐井の乱の後、水沼君がこちらへ進出してきたのでしょうか。

 

次に香月文書によると、小狭田彦の娘、常磐津姫と日本武尊の間に生まれた御子、小磐削ノ御剣王が父とともに東征し駿河の焼津で軍功があったので、祖父の景行天皇から武部ノ臣の称をもらったとあります。(出雲伝承では景行、成務、仲哀天皇の事績のいくつかを架空のヤマトタケルのこととしていると伝えています)

日本書紀には日本武尊の子の子孫に武部君という名がみえます。また日本書紀景行13年に天皇日向国の御刀媛を妃として豊国別皇子をもうけ、日向国造の祖となったとあります。御剣王と御刀媛、親子みたいな名前ですね。香月氏葛城襲津彦の末裔でもあるらしく、出雲伝承では日向襲津彦のこと。どこかで繋がるのかなと。

香月家譜には「香月君が、東方に遠征した日本武尊の帰還を、香月の地で待っていた」とあるそうです。出雲伝承の「親魏和王の都」によると、景行大王の代になると、大和副王の加茂家には関東の国造家から多くの貢物が届いたけれど、大王家にはそれもなく、税も集まらず、軍に参加する豪族も少なかったといいます。景行大王は仕方なく自ら遠征に出掛け、まずは物部の旧支配地九州へと向かいました。ところが豊前国で后の八坂入姫が亡くなってしまい、勝山に行宮を建てて留まりお墓(綾塚古墳)を築きます。その地方は「京都みやこ郡」と呼ばれました。さらに祖父のイニエ王崇神の墓を日向国の生目に築いたそうです。九州平定を終え東国へ遠征した後、近江国の高穴穂宮に着きますが、結局大和へは帰れずに没したということです。主に景行大王の事績を辿らせたというヤマトタケルも大和には帰れずに、帰郷の想いを募らせる歌があの「大和は国のまほろば‥‥」(古事記)です。日本書紀では景行天皇が日向で詠んだとしています。鞍手の地で日本武尊の帰還を待っていたのは、共に戦った息子、御剣王でしょうか。

香月文書の続きを要約すると、日本武尊4世孫に加那川彦王がいて、新北の神主になったとあり、金川家の始祖であるようです。この金川とは剣岳麓に建つ熱田神社宮司家です。神社由緒によると、景行27年に日本武尊がこの地に立ち寄ったことに始まり、鎌倉時代になって尾張国の熱田大明神を勧請したとのこと。宮司家に伝わる古文書があるそうですが公表はされていません。ネット上ではその内容として、磐井は大彦の血を引く筑紫国造であるとか、鞍橋クラジノ君は金川家の祖先であり、葛子の弟という情報も見られます。鞍手町誌によると金川家の家譜には「闇路公」という字も見られるとあります。

筑紫国造鞍橋君とは日本書紀の欽明15年(554)に弓の名手として記されている人です。大和朝廷軍として百済救援に向かい、百済の王子を助けたことで褒めたたえられています。

まとめると、葛子の親族の鞍橋君が金川家の系図にみられ、磐井の乱から27年後の欽明天皇の御代で大和朝廷軍として活躍したということになります。なので磐井が金川家の姫と婚姻関係にあった可能性があります。田道命と小狭田彦の家系は親戚間で婚姻が続いていたのかもしれません。

 

香月文書に戻ります。小狭田彦の子孫、加那川彦王金川家始祖)は新北、室木の神官を任ぜられ、それとは別に孫の大満子は香月本家を継ぎ香月君となりました。大満子は養嗣子(跡継ぎのための養子)として倭男人を迎えますが、この人は磐井の乱において朝廷側の物部麁鹿火を助けて戦ったそうです。つまり香月君は朝廷側についたのです。親戚内での分裂ということになります。また磐井の子、北磐津が許しを乞うたので、倭男人が憐れんで奴僕としたとも書かれています。北磐津は金川家の伝承には現れないようなので、また別の母を持つのでしょう。

かなりややこしくなってきましたが、あと少しです。

鞍橋君は金川家の血筋を持ち、先祖はニギハヤヒと市杵島姫であり、なおかつ日本武尊(おそらく景行天皇)の子孫です。葛子については可能性はありますが断定できません。また香月は勝木とも書くそうで、宮地嶽神社の祀る勝村、勝頼大明神の勝と関係があるのかも。そして景行天皇の血筋であれば物部。藤大臣(物部)とも繋がります。

勝村大神=藤高麿

勝頼大神=藤助麿

ヤマトタケルの東国遠征での香月君の軍功と、神功皇后三韓征服で軍功があったという藤大臣を重ねているとか。

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)で安曇氏を祀っていると言われているそうですが、今回調べた鞍手の神社や小狭田彦の家系の伝承に従えば、香月家の血筋の者とは考えられないでしょうか。そうなると物部王朝の後継者となり、安曇氏とはまたちょっと違ってきますが。

  

最後に大彦の子孫、安倍宗任アベムネトウについて少し。

時代が下りますが、前九年の役(~1062年)で源氏に敗北した陸奥国安倍宗任は、その抜きんでた才覚によって死罪にするのは惜しいと源頼義親子が朝廷から貰い受け、伊予⇒太宰府⇒宗像郡の大島へと流され、そこで宗像氏のもとで日朝日宋貿易を手伝い活躍したそうです。子孫には肥前の水軍、松浦党を起こした者や、宗像大宮司神職についた者もいて、宗像地方に安倍や阿部姓が多いのは宗任の子孫の可能性もあるようです。宮地嶽神社の元宮司といわれる阿部氏もそうなのでしょうか。それとも筑紫国造田道命以後の時代でしょうか。

九州北東部は古来より出雲分家の宗像家だけでなく、筑紫国造田道命、東北の安倍氏など大彦の子孫の繋がりが濃いことが見えてきました。これまで九州においては安曇族の阿部、安倍ととらえてきたところをもう一度確認する必要がありそうです。

 

次回、いよいよ筑紫舞に迫ります。