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源流なび Sorafull

そもそもは幻の筑紫舞、古典芸能の源流へ(3)  宮地嶽神社に蘇った古代の舞

 

 

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somosora.hateblo.jp

 

 

別れ、そして再び

 

太平洋戦争に入ってからは、検校は光子のもとに1度来ると1年中ほとんど家にいて毎日稽古が続きました。

昭和18年の秋、検校から「もう全部伝えました。しっかりと体に入れて後々まで残して伝えてください。私はもうお暇します」と稽古の終わりを告げられました。

家のものが戦時中だからと引き留めましたがだめでした。

光子は泣きながら検校との別れの盃を交わし、その時初めて検校に激しい愛情を感じたといいます。

検校は旅立っていきました。見送りを辞退した検校とケイさんの後ろ姿には、あの洞窟で舞った人々が嬉しそうに取り巻いて歩いている幻が光子には見えたそうです。

 

昭和20年春に光子の友人が長崎で検校とばったり出会いました。友人が何か光子に言づては?と訊くと

「いいえ、何もありません。あの人が私ですから」

と答えたそうです。

夏に原爆が投下され、光子はその日を師の命日としてお祀りすることと決めました。

戦争が終わって1年ほどたった頃、差出人不明の手紙が届き、そこにはケイさんが福岡の川で入水自殺したと書かれた小さな記事が入っていました。

 

 成すべきことを成し遂げ、あとは神に任せる、そんな高僧のように無私無欲な検校、そんな検校に「陰の形に添う如く」の形容そのままのケイさんの姿はまるで殉教者のように思えたと、後年光子は書き記しています。

暗闇の中をふたり寄り添いながら、けれど確かな足取りでかすかな光へと向かって歩いていく。そのかすかな光こそ、光子だったのでしょう。

 

光子はその後、日本舞踊西山村流を起こしますが、やはり筑紫舞への思いが募り、60代ですべてを捨てて九州福岡へと移住、筑紫舞宗家、西山村光寿斉となりました。

70歳頃の光寿斉さんの言葉:

「私は残り少ない年齢になって、やはりかつての検校のように筑紫舞を次の世代の人に教え、伝え、残すことのみ生き甲斐を感じて暮している。他には何も欲しくない。むしろ日一日と、鮮明に一つ一つの検校の動作、語りが思い起こされる。‥‥時間と空間を越えてやっと検校とひとつになったのかも知れない」

 

 

さらに10年後、ソラフルは父と福岡へと向かいます。

父が光寿斉さんの談話会に出席するなどのつながりからお手紙のやりとりもあって、珍しく興味を示した娘のソラフルと一度本場に観にいこうということになったのです。

博多駅に近い筑前一の宮住吉神社での奉納舞でした。お弟子さんたちの舞のあと、光寿斉さんの神舞が奉納されました。当時の私にはただただ別格だなぁという感慨が強く、言葉で表現はできなかったのですが、のちにその時の記事がJR九州のコミュニティー誌に掲載され、光寿斉さん自ら送って下さいました。

記事の抜粋:

「ゆららさららと神が揺るぎ出るような舞である。・・・・ふわふわと波を踏むような足づかい。くるりと手首を返す所作。大きく旋回しながら、高く足を挙げ跳びあがった瞬間、小柄なその躯が宙に止まったように見えた。・・・・ひらひらと踏まれる白い足袋の先からは、神の国常世波が泡立ち、拝殿の中にまで寄せて来るようだった」

 

 

 いつか筑紫舞の話をもっと調べてみたいと思いながら、子育てや仕事に追われるうち、気がつけば今となっていました。

光寿斉さんは2013年に、古田武彦氏は2015年にご逝去され、この春には父も旅立ちました。

まるで父とバトンタッチするかのように古代史に興味を持ち始め、かつてはただの呪文だった言葉が今になってじわじわと意味をなし、パズルを解くような思いで歴史の中へ踏み込んでいます。父の執念の炎が私の中に飛び火したかのようです。

とはいえソラフルの目にうつる古代なので父とはまた違ったものが見えてくるのですが、それでもやっぱり、そもそもは筑紫舞でした。

 

 

そして筑紫舞のことを再び調べていくと、ありました。

検校とケイさんの守ったものは九州の地でしっかりと受け継がれ根付いていたのです。

Web上にはたくさんの記事が掲載され、今では簡単に調べることもできます。筑紫舞は光寿斉さんのお嬢さんたちに引き継がれ、発祥の地で継承されており、さらにあの洞窟の舞が行われていた宮地嶽神社で、毎年10月に宮司らによって筑紫舞が奉納されているのです!

27年前の光寿斉さんの記述によると「幸い、宮地嶽神社宮司が当神社に関係の有無に関わらず、一番近いところにいる私たちが習って、何とか残すことに努力を致しましょうと言ってくださった」とあり、5年間の契約で伝承を始めたそうです。

すでにその契約期間を越え、今では恒例の神事として執り行われています。

昭和初期、消えかかった灯を命がけで守り繋いでいった人たちの想いが、今ここに燃えさかる松明となって闇を照らしているような気がします。

 

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 宮地嶽神社 光の道

 

検校は光子に教えるとき、舞の情景は詳しく説明してくれたけれど、歴史的なことは伏せていたそうです。

光子のもとを去る前に検校は言いました。

「色々難しい事、無理難題を押しつけましたが、私が生涯をかけてやった仕事と思っています。‥‥曲の解釈のことなど、そっくりそのまま持っていて下されば、いつの日か、何十年、いや何百年か先にでも、きっとその色々の謎を解いてくださる方が現れるでしょう。それまで、伝え伝えて、大事にしてください」

 

 歴史の謎はいまだ解かれてはいません。

けれど謎を解くためではなくとも、人々が互いに感じあい、尊びあい、自分にできることを成す、その姿にソラフルは心が震えるのであります。

 

 

 

☆補足☆

宮地嶽神社の浄見宮司のお話によると「自分は次男だったので奈良の春日大社に奉公していたが、その間なぜか大和舞ばかり学ばせられ、嫌になってアメリカへと渡った。ところが兄が急逝しこちらへ戻って跡を継ぐことになり、最初に言われたのが筑紫舞を舞えということだった。やり始めてみるとわかったが、13年間学んだ大和舞の元が筑紫舞だった」

不思議な経緯ですね。なんだか筑紫舞自身が時をつなぎ縁を結んでいくかのようです。

  

 

 参考文献

「よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞」古田武彦

「市民の古代第11集・第12集」新泉社

神道民俗芸能の源流」 鈴鹿千代乃

「旅のライブ情報誌Please175」JR九州