そもそも「君が代」のキミって誰?(1)志賀海神社の山誉め祭
2001年初秋、博多へ筑紫舞を観る旅に出た父と私、夫、息子の4人には、もうひとつのミッションがありました。
君が代のキミを探せ。
探すというと少々大袈裟ですが、古代史研究家の古田武彦氏の説かれていた、君が代は古代筑紫地方の王に捧げる歌というのが本当なのか、とりあえず現地へ行ってみようということになったのです。
君が代はどこからやって来た?
元歌は古今和歌集(905年)に題知らず読み人知らずとして納められています。出だしは「君が代は」ではなく「我が君は」となっています。
明治の初め、日本にも国歌が必要ということになり、薩摩藩出身の者たちが地元に伝わる薩摩琵琶の「蓬莱山」よりこの歌を推薦したようです。
島津の殿様が作詞したという蓬莱山の一部に君が代が入っているのですが、元はどこからの採用か。薩摩に古来から伝わる神前神楽にも君が代があるらしく、そこから採ったとも言われます。では薩摩発祥なのか?
ところが、です。
今現在、君が代を神事として昔から歌い継いでいるところが存在しました。
博多湾志賀島にある志賀海神社で4月と11月の山誉め祭にて土地の歌として奉納されているのです。志賀海神社といえば漢委奴国王の金印が発見されたところですね。
そしてこの山誉めの神事が神功皇后の前で行われたことや、それ以前から続いていることが太平記に記されています。太平記は歴史書ではありませんが、伝承を由来としている可能性があるので参考として。
つまり、弥生時代にはすでに存在していた可能性が!
志賀海神社の山誉め祭
第一部 大祓の祝詞(おおはらいののりと)
第二部 八乙女の舞
第三部 今宮社での闇のお祭り
第四部 山誉め祭
昔からこの通りに進行していたのなら、大祓の祝詞の起源もそれほどに古いということですね。祝詞が終わると最後に「おーーっ」という深い声をあげるそうです。
これ、どこかで聞いた話だなと思ったら、筑紫舞の菊邑検校やくぐつ達が洞窟での舞のあと玄界灘に向かって両手を上げて「おーーっ」と神呼びをしていた、というのを思い出しました。
八乙女の舞は8人の老女が2人ずつ立って時々ぐるりと回転するのを2、3度繰り返すだけの舞だそうです。これを舞う8軒の家が決まっていて代理は立てられないというので、特別な存在ということでしょうか。意味がありそうですね。(今では若い人が継ぐのを敬遠して人手が減っているとか。神事の意味もわからない人が増え、急速に継承が難しくなっているようです)
次に本殿から隣の今宮社に場所を移して、暗い中で祈りを捧げます。
最後に本殿の前にて山誉め祭です。前半は山での鹿狩りの話で、狩りの安全と豊猟を志賀大明神に祈願して矢を射ます。後半は海の漁です。櫓を持って漕ぐようにしながら君が代が歌われます。歌うというより述べられます。
君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて苔のむすまで
あれはやあれこそは 我君の御船かや
うつろうがせ 身骸にいのち千歳という花こそ咲いたり
鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば幾世経ぬらなん
香椎路に向いたるあの吹上の浜
千代に八千代まで
今宵夜半につき給う御船こそ たが御船なりけるよ
あれはやあれこそは安曇の君のめし給う
御船になりけるよ
いるかよいるか 汐早のいるか
磯良が崎に鯛釣るおきな
情景を簡単に説明すると、七日七夜のお祭りの最終日前夜、この地の君主、安曇の君を乗せた船が今まさにこちらへやってくる。言わばお祭りのクライマックスで「君が代は千代に八千代に」と讃えられるのです。
安曇の君、何者なのでしょう。
この謎は一旦置いておいて、まずは博多湾沿岸の君が代探しに出てみたいと思います。
こけむすめを探しに
最初に糸島半島付け根あたりの西側にある船越という港を目指します。旧糸島水道(博多湾と唐津湾を結ぶ)の西の端にあたります。そこに目当ての桜谷神社があるそうなのですが、今のようにカーナビのない時代でしたので、夫が運転する車で1時間ほど迷いに迷ってなんとか近くまで来たものの、桜谷神社が見つかりません。
こんな山道を歩き回ってようやく土地の人と出会い、尋ねてみたところ「桜谷神社とは聞いたことがないけれど、コケムスメの神様を祀ってる神社ならこの先にある」と言われます。何年か前にも東京から来たという学者さんらしい男性たちがぞろぞろとやってきた、とのことでした。
この土地では神社よりも神様そのものを語り継ぎ、大事にしてきたということなのでしょう。
6畳ほどの小さな祠の中の額には古計牟須姫命(コケムスメノミコト)と木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)とありました。
木花開耶姫は古事記のニニギノ命に求婚された美しい姫として有名です。姉の磐長姫(イワナガ姫)とともに父の大山津見の神が差し出したけれど、ニニギノ命は醜い磐長姫を返してしまう。大山津見の神は怒って「木花開耶姫を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろう、磐長姫を妻にすれば天津神の御子の命は岩のように永遠のものとなるだろう。木花開耶姫だけであれば天津神の御子の命は花のように短くなるだろう」と告げました。
この醜い磐長姫というのは、きっと木花開耶姫の時代よりも古い神様なのでしょう。その名前の示すように巨石信仰の時代、縄文時代に崇められた神だからこそ、新たにやってきた弥生時代の美しい神様と比較しておとしめられていると考えられます。
古計牟須姫命は伝承には出てきませんが、陰陽石が祀られていることと名前から想像すると磐長姫と同じく巨石信仰時代の神様でしょう。
この地元ではコケムスメとは磐長姫のことだと伝わっているというのですが、真偽はわかりません。
さて次はイワラ(井原)地方へと移動します。