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源流なび Sorafull

縄文信仰は出雲の「幸の神」

 

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アマテラスやスサノオ大国主という言葉が現れる以前、この国で長く広く親しまれていた三柱の神さまがいたことを知っていますか?

女夫めおとの神さまとその息子の神さまです。夫婦が円満に睦まじく、そして子宝に恵まれることを人々はこの神さまたちに祈りました。

 結婚式では三三九度を。

三拍子そろっておめでたい!

子どもを授かると神さまへのお宮参りをしたあと、夫婦の神事である餅つきをします。女性の象徴である臼と男性の象徴である杵で餅をついて丸い子宝を作って神さまに供え祝います。

お正月にはしめ縄を張り、夫婦の事始めの儀式が行われます。女正月(満月の日)には母親の仕事を休ませ、夫や子どもが家事をします。夕方になるととんど焼きといってしめ縄やお飾りを火で焚き上げ天へ送ります。とんど焼きの別名は三九郎(産苦労)焼きです。産んでくれた母への感謝の日、母の日の源流なのです。お袋という言葉は古語で、子宮という意味です。(イザナミは火の神を産んだ時にホトを焼かれて亡くなります。とんどは最後という意味で、葬式のことでもあります)

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現代と変わらぬ祈りの風景がありますね。これが「幸の神さいのかみ」信仰の一部です。

古代における出産と子の成長には、厳しい現実が伴ったはずです。母や子の命をあっけなく失うことも日常的だったでしょう。命を授かり健やかであるということが幸せの原点であったかもしれません。

 

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写真は道の神と呼ばれる石神です。室町時代以降に作られました。記事トップの写真は幸の神の女夫神が寄り添う微笑ましいお姿です。そしてこちらが力強い息子神。道の神は信州や関東に多くみられます。道祖神と呼ぶ人もいるそうですがそれは中国のもので、幸の神とは違います。また村を悪いものから守るという意味で塞ぎる神、塞さえの神と呼ばれることもありますが本来は幸さいの神です。岐神さえのかみと言うことはあります。

幸の神は祖先神の集合体であり、子孫の幸いを守る神さまのことだといわれます。日本で最初の人格神です。まずは男女の縁を結び、夫婦円満に(男女の和合)子孫繁栄へと導いてくれる、そんな願いがこめられた大元の神さまたち。この親子三柱の神さまが「幸の神三神」と呼ばれ、主神はクナト大神、女神は幸姫命さいひめのみこと、息子神がサルタ彦大神記紀で言うところのイザナギイザナミ、そして猿田彦神のことです。

 

さて、この幸の神三神の故郷は・・・・インド。

サルタ彦大神とは象の頭をもった、あのガネーシャのこと。びっくりですよね。

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日本では鼻高神とも言われたせいか、いつのまにか天狗に変えられてしまいました。道の神の写真では鼻が高くても天狗とは違います。そういえば大国主神仏習合した姿が大黒天ですが、この神さまの由来もインドですね。

それではどうしてこの日本に、インドから神さまがやって来ることになったのでしょう。

古代出雲王家の伝承を紹介したいと思います。

 

インダス文明の残り香

出雲族は3500年前、鼻の長い動物(象)と龍蛇コブラのいる国(インド)から日本を目指して民族移動してきた〉

という伝承があります。

当時インド半島全体にドラビダ人インダス文明を築いた民族といわれる)が住んでおり、母系家族制の農耕民族として暮らしていました。そこへ西北から戦闘的な牧畜民であるアーリア人が侵入してきて、多くのドラビダ人を奴隷化していったのです。母系家族というのは家で女性と子どもだけが生活しています。時折夜に婿がやってくるという暮らしなので、外部の者が家を襲うことは簡単です。父系家族制のアーリア人は戦いに長けています。多くのドラビダ人は南方へ逃げましたが、クナ地方を支配していたクナト王は民を連れて北へと向かいました。なぜかというと、以前から北の大きな湖バイカル湖周辺に住む商人ブリヤート人であろう)が交易に来ており「シベリアの南の大海原に住民の少ない温暖な島がある」と聞いていたからです。ブリヤート人は2万年ほど前から日本と交易があります。

クナト王は若い男女に声をかけ移住希望者を数千人集め、食料などを家畜の背に積んで、まずは北の山岳地帯を越えました。ブリヤート人に誘導してもらったことでしょう。砂の平原ゴビ砂漠を抜けて広い湖水バイカル湖付近に着くとしばらくそこで生活しました。そして筏と櫂を作り長い川アムール川を流れ下って樺太に着きました。海岸沿いに渡り島(北海道)を進み津軽に上陸。そこから人々は各地に広がり、クナト王の子孫は日本海沿岸を西南に移動し出雲に辿り着きました。

インドでは常緑樹が濃緑色に繁っていますが、この地では〈春に芽が出たときの森の色が目にしみるように美しく〉その色をめでて「出芽いずめの国」と呼びました。音が変化して「いずも」となったそうです。

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大分の宇佐八幡宮社家の宇佐家には伝承があり、ウサ族は出雲族よりもかなり前から日本に住んでいたといいます。まだ狩猟や魚漁、採取で暮らしていた頃に、シベリア方面からサルタ族が移住漂着してきたため、ウサ族は方々へ拡散したということです。サルタ彦神から名がついたのでしょう。

ではなぜ出雲族は出雲の地を選んだのか。それは黒い川、斐伊川があったからなのです。川底や川岸には砂鉄がたまって黒く見えました。上流では日本で最も良質の鉄がとれたそうです。それを簸というザルですくいとったので簸の川と呼ばれました。この聖なる川、支流が8本。クナト大神の妻、幸姫命の俗名が八岐姫やちまたひめスサノオヤマタノオロチを斬ると剣が出てきたという話にぴったりですね。ですがなぜ聖なる川を斬ったのか。そこが古事記のミステリーです。

出雲族は青銅器文化ももっていましたが、やはり鉄で作るウメガイという小刀が人気で各地から求められました。これは武器ではなく、木を削って日用品を作るものです。

出雲方面では古代から野ダタラという製鉄技法によって鉄を作っていました。このタタラという言葉もインド由来で「猛烈な火」という意味です。国語学者大野晋日本語の起源がドラビダのタミル語にもあると指摘しています。アーリア人の侵攻によってインドの南方に逃れたドラビダ人をタミル人と呼ぶようになり、タミル語はドラビダ語の中で最も古いものなのです。それが日本の古代の文法や基礎語として入ってきています。例えば農耕(コメ、アハ、ハタケ、タンボ、モチ、ヌカ)やハカ、カネ、タカラ、ハタ、オルなど、物と名前が一緒にやって来ているのです。中国や朝鮮語ではないところがポイントです。すでに渡来していたということですから。また五七五七七の和歌の形態の由来もタミル語の古代詩以外には見当たらないそうです。大野氏は言語だけでなくタミル人の巨石文化や正月なども比較し共通性を指摘しています。

 

ちなみにドラビダ人が築いたというインダス文明ですが、排水路を完備した整然とした都市を作り、メソポタミアとも交易をもっていました。インダス文字も残っているのですが解読はされておらず、謎が多いのです。(出雲王家ではかつてインダス文字らしき横文字で記録をとっていたそうですが、その紙が虫食いでボロボロになり、最後の1箱は昭和期にT大学教授に貸し出したまま行方不明になったそうです。解読の手掛かりになったかもしれないものを~)

またインダス文明に王権などの存在はなく、神殿も宮殿も王墓もありません。武器類も発達していなかったようです。なんと穏やかな爽やかな文明でしょうか。衰退した原因は明らかではありませんが、気候の変化ではないかといわれています。信仰としては地母神シヴァ神(男女の和合と子孫繁栄)の原型かといわれる獣頭神、樹木や蛇神、生殖器の崇拝が行われていたようです。

アーリア人バラモン教を信仰し、それが衰えると民間に残っていたインダス文明の信仰が復活しヒンズー教となり栄えました。シヴァ神ガネーシャ、龍蛇神ナーガ。なのでヒンズー教と幸の神信仰は似ているのです。

謎多きインダス文明の残り香が、この日本にまで伝わっていました。戦いを選ばず、生命の力を尊ぶ人たちが渡来し、先住の縄文人に文化を伝え融合していったということです。

 

参照文献

「サルタ彦大神と竜」 谷戸貞彦

「日本語の起源」 大野晋

「宇佐家伝承・古伝が語る古代史」 宇佐公康