太陽の女神と龍蛇神がやってきた
出雲が王国として成立した紀元前6世紀頃、幸さいの神に名前をつけ、宗教として体系化されました。出雲は権力による支配ではなく、同じ信仰によって結ばれた王国です。
今回は「幸の神三神」以外の話を紹介します。
出雲族は太陽信仰をもっていて、朝の薄暗いうちに起き、東の山から昇る朝日を家族揃って拝む習慣がありました。幸姫命サイヒメノミコトはインドの太陽神を受け継ぎ太陽の女神となりました。母系家族制の影響が女神にしたようです。アマテラスの原型です。
出雲族は「三」とともに「八」を聖数としていました。朝日が八方に光を放つ姿からきています。八雲立つ、出雲八重書き(法律)、八岐姫ヤチマタヒメ、初代王は菅之八耳スガノヤツミミ、大国主の本名は八千矛ヤチホコ、など。記紀では八百万の神、大八島、八咫烏、八尺勾玉、八尺鏡など八がたくさん出てきます。
幸の神の他に、もうひとつ大事にしている神が龍蛇神りゅうだしんです。ガンジス河の神であるワニと、森の神であるコブラが合体した龍蛇神ナーガをドラビダ人は崇拝しました。ワニもコブラも怖がられ神に祀りあげられたとか。
出雲族はワラで龍を作り木に八回巻き付けて拝みました。この木を斎の木と呼びます。龍神が斎の木を伝って昇天し、また天から地へ戻るといいます。今でも出雲ではこの龍神祭りが行われ、龍神を荒神やオロチと呼ぶ村もあります。古代中国ではこの出雲の神木を「扶桑」と呼んだそうです。
☆ 八回巻きはハチマキの起源でもあり、ヘビの霊力で幸せになるという願いです。
阿太加夜神社境内
龍ではありませんがヘビ信仰は古代の世界各地に残っています。これはヘビが何度も脱皮することを生命の若返りや再生として憧れたことや、生殖力の強さにあやかろうとしたようです。雌雄のヘビは何十時間も絡まりあい交尾をすることもあります。その姿を現したのが日本ではしめ縄です。単に生殖というものを越えて、生命を創造する神聖な力で邪気を祓うという意味があります。
出雲族の龍蛇信仰はヘビ信仰でもあり、出雲系の神社ではヘビがトグロを巻いて山型になっているトグロ石がみられることもあります。円錐の砂山としてこのトグロ石を表している神社もあります。写真は上賀茂神社です。(加茂氏は出雲王家の分家)
このトグロ石に似た形の山は神がこもる神奈備山かむなびやまとして崇拝されました。大山だいせんにはクナト大神の魂がこもるといわれています。大山は昔は火神岳といわれ、のちに大神山となり、大山へと変わります。クナト大神は古事記では大山津見の神となりました。
東方に大神山がよく見える大庭おおばという場所で幸の神の祀りが行われ、クナト王直系の子孫が司祭となり、氏子の広がりが出雲王国となりました。
きれいな円錐形の大山
出雲の主要な神社の神紋は六角紋。これは通説の亀甲紋ではなく実は龍蛇神オロチのウロコ、龍鱗紋なのだそうです。
下の写真は出雲大社の神紋です。また出雲王家である富家の紋章は龍鱗枠の中が銅剣の交差紋となっています。交差する銅剣は戦いの印ではなく、生命創造を表した男女和合の✖かけ印。男女が重なる神聖なシンボルです。あの荒神谷遺跡から出土した銅剣の✖印ですね。この✖印は出雲だけでなく古代には世界で多くみられるものです。
ただし出雲王家は親戚内での戦争(吉備国との第一次出雲戦争)が起きたことなどから、強くなった親戚に注意し目立たないように生きることを学び、名前を変えたり、のちには紋章の銅剣は大根に、そして宮殿の場所も移転しました。
また出雲地方の古墳の形は四隅突出方墳ですが、これも上(天)から見ると✖印を表現したもので、再生の祈りが込められているそうです。
西谷墳墓群2号墓
☆ 出雲族はコブラに代わるセグロ海ヘビを見つけて御神体にしたので、そのウロコの六角紋を紋章にしました。また日本にはワニもいなかったので、サメのことをワニやワニザメと呼ぶようになりました。
記紀ではワニやヘビがよく出てきます。
三輪山(三諸山)に鎮座する神、大物主おおものぬしとは伝承によると事代主の和魂にぎたまで、この大物主、時折夜になると素敵な若者に変化して美しい姫君のもとへ訪れます。その正体がオロチ、ヘビだったりするのです。あの有名な因幡の白兎にもワニが出てきますね。それから海幸山幸の竜宮の豊玉姫も出産のときワニの姿に変わります。ヘビやワニは出雲と関りがあることを示しているようです。
三輪山と大鳥居 撮影Sha-shin4 Wikipediaより
写真は奈良の大神おおみわ神社。社殿はなく奥に見える三輪山が御神体そのものという原初の祭祀の姿を残しています。また大神神社の拝殿奥には禁足地との結界として、とても珍しい三ッ鳥居が置かれています。神社によると起源は不詳とのことですが、出雲伝承では幸の神三神を意味しているそうです。
下の写真は長野県の美和神社(主祭神大物主命)のものですが、三つの鳥居が並ぶ門構えです。出雲の長浜神社にも同様のものがあり、幸の神三神を祀っています。
以前紹介した信州安曇野地方に伝わる「龍の子太郎」の昔話を覚えておられるでしょうか。出雲族のタケミナカタ諏訪大明神の化身である犀龍さいりゅうが、安曇族の白龍王との間に生まれた太郎とともに松本盆地を開拓したという民話です。この犀龍の名前は開拓時にできた蛇行する犀川さいがわからとったものだと思われますが、幸姫命の名前が浮かびませんか。
三輪山の麓にも狭井さい川が流れ、大神神社境内の狭井神社には幸の神が祀られました。(そのすぐそばには久延彦クエヒコ神社があり案山子カカシの神が祀られています。サルタ彦大神のことです)
三輪山の西麓ではワラヘビの龍神祭りが今でも続いているそうです。
ではなぜ出雲と三輪山と信州が同じ幸の神信仰で結ばれているのか、これから出雲王国の歴史とともに紐解いていこうと思います。
最後に前回の補足をしておきます。
日本とインドを結ぶ研究あれこれ
遺伝子研究では斎藤成也氏が、日本列島人は3段階の渡来民によって形成され、その第2段階が4千年~3千年前に渡来した出雲民族ではないかという説を発表されています。ただし氏はその渡来民の起源の地ははっきりしないとした上で、可能性として朝鮮半島、遼東半島、山東半島に囲まれた沿岸及び周辺ではないかと言われています。
出雲伝承を書かれている勝友彦氏が著書「親魏和王の都」の中で、遺伝子検査により「出雲族にはドラビダ人の血の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが明らかになっている」とあります。この詳細についてはわかりません。
日本語の起源を研究された大野晋氏は、日本にはかなり古い時期からの南方系の音韻組織をもったなんらかの言語があり、そこへ縄文晩期以降にタミル語がかぶさったという説を展開されています。それまでの研究ではウラル・アルタイ語系(ブリヤート人含む)が文法的には最も近いとされてきましたが、共通する語彙が少なすぎるという大きな欠点がありました。タミル語の文法はウラル・アルタイ語系です。
言語からみても旧石器~縄文時代にかけて日本列島にやって来たのは南方系、北方系、そしてもうひとつの渡来民(インド)ということのようです。
インドとは7千㎞も離れていますが、生活の根源にかかわる多くのものが同時代に平行的に見いだされ、日本人の精神生活の基礎をなすヤマト言葉がタミル語と対応しているということを大野氏は重視されています。また伝播ルートについてはタミル語と朝鮮語の対応(特に農耕に関する単語)がみられることから、インド、朝鮮、日本の三角関係を示唆されています。アーリア人の移動に伴い朝鮮や日本へ移住した民により伝播したと。ちなみに最近の稲の伝播の研究では、水稲は日本から朝鮮へ伝わったという説が有力になってきています。以前とは真逆です。
ここでSorafullの疑問です。お米には大きく2種類あって、インディカ米とジャポニカ米です。インドのお米といえばあの細長いパサパサしたインディカ米。中国や日本はジャポニカ米。このジャポニカ米も2種類あって、陸稲と呼ばれる熱帯ジャポニカと水稲に適した温帯ジャポニカ(私たちの主食)に分かれます。縄文中期にはすでに陸稲が栽培されていました。ただし主食米としてではなく雑穀の一種として畑で栽培されていたようです。縄文晩期に出雲族が農耕を伝えたとすればインディカ米が伝来するのではないか? ただし当時のインドで栽培されていたのがインディカ米なのかどうかがわかりません。タイではすでにジャポニカ米が存在しています。佐藤洋一郎氏の仮説では、稲は先にジャポニカ米が誕生し、南へ行くに従い交配を重ね、最近になってインディカ米が現れたとしています。考古学的にはインディカ米がいつ生まれたかを言うだけの古い材料が未だに存在しないそうです。出雲族の農耕、気になるところです。
参考文献
「イネにおける栽培と栽培化」国立民族博物館調査報告(2009)佐藤洋一郎
「日本列島人の歴史」斎藤成也
「古事記の編集室」斎木雲州