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源流なび Sorafull

出雲王国のオオナモチとスクナヒコ

土蜘蛛と土雲

そもそもSorafullが出雲の伝承に行き当たったのは、古事記を読んでいくうちに「土雲」という表記が気になったからでした。

日本書紀風土記では「土蜘蛛、土蛛、都知久母」と記します。このツチグモとは何でしょう。

Wikipediaでは〈上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土着の豪族などを示す蔑称〉としています。単一の勢力ではなく各地に存在すると。国栖くずや八束脛やつかはぎ(スネが長い)とも呼ばれます。ナガスネヒコ!とピンと来た方もいらっしゃるのでは?

日本書紀では土蜘蛛のことを〈身短くして手足長し、侏儒と相にたり〉と表現しています。侏儒とは小さい人のことです。土蜘蛛は近世以降は蜘蛛のような妖怪として描かれます。これは朝廷が土蜘蛛を迫害し征伐したことによる怨霊の意味があると思われます。

 

さて、ここからはSorafullの妄想です。蜘蛛という字をよく見ると、「朱を知る虫」と書かれているのです。朱とは以前安曇氏の記事に書いたように辰砂、丹砂、朱砂のことです。中国の皇帝たちも求めた不老不死の薬であり、錬金術によって金を産むとされた鉱物であり、日本では縄文時代から日常的に使われていました。古代では特に大和で多く産出しました。この辰砂を採掘していたのが土蜘蛛の可能性があると思ったのです。土蜘蛛は岩窟に住むとか横穴のような住居で暮らしていたとされます。先に住んでいた土着の民でしょう。また朝廷が土蜘蛛を征伐する時、誅殺とか誅伐と書かれます。ここにもの字が入っています。罪を咎めて殺すこと、らしいです。記紀風土記を読めば、先住民への虐殺のように思えますが。

そして古事記土蜘蛛を「土雲」と表記しているのを見た時、字が出雲とそっくりなことに気づきました。土蜘蛛は出雲族? 柿本人麻呂ならこうやって暗号のように意味を含ませるかもしれないと思い、出雲のことを調べ始めたのです。そこで出会ったのが古代出雲王家の伝承でした。

記紀では神武天皇が大和に侵攻した時、高尾張村にいた土蜘蛛を征伐しています。のちにその地を葛城と改めたとしていますが、出雲王家の伝承によると、高尾張村には海部氏の祖である尾張家が、葛城には出雲の加茂家が住んでいました。神武東征以前、両者は親戚となって大和の国を治めていました。

さらにドラビダ人の特徴を調べると、Wikipediaでは〈アーリア人よりも肌の色が黒く、背が低いが手足が長い、ウェーブがかった髪〉をしているとあります。土蜘蛛の表現と似ていますね。もちろん渡来したドラビダ人はすでにブリヤート人縄文人らと融合しているでしょうから、見た目がそのままというわけではなかったと思いますが。

ただし出雲の伝承では辰砂と出雲族との関連は何も触れられていません。鉄と青銅のみです。鉄を野ダタラで作る時にも穴ができるそうなので、土蜘蛛は製鉄族だった可能性もあります。なのでこれはあくまでSorafullが古代出雲の伝承に辿り着いたきっかけです。土蜘蛛が朝廷に征伐されたように、出雲も朝廷に消された国なのだと気づくための。

 

 

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マツリゴト

これまで封印されてきた出雲王国とはどのような国だったのか、伝承をまとめてみます。

出雲王国は紀元前6世紀から約700年間続きました。連合国は北九州の宗像から新潟県朝日村(越の八口)に至る日本海側と四国に広がりました。

上の地図はクナト王のこもる大山と、幸姫命のこもる佐比売山、サルタ彦大神のこもる鼻高山の場所を記しています。佐比売山は明治までの呼称です。今はなぜか三瓶山という意味不明な名になりました。土地の名前を変えると歴史が失われてしまいます。

 

出雲王家は2家あって、出雲東部のむかい王家と西部の神門臣かんどのおみ王家です。この二つの王家が主王と副王となって二王制で国を治めました。地図にはそれぞれの王宮のあったおおまかな位置を記しています。

初代主王の王宮は大神山(大山)を望む現松江市大庭おおばの神魂かもすの丘にありました(東出雲側)。春分秋分の年2回、各地の豪族たちが集まって、主王の后が司祭となりクナト大神を遙拝しました。拝所を霊畤れいじと呼び、大祭をマツリゴトといいます。主王と副王が各地に出掛けて、豪族たちに参加するよう声をかけました。力ではなく言葉による統率です。訪れる人はその土地の土産を持って集まるようになりました。

インドの風習と同じく春分秋分それぞれが元日となるので180日が1年です。1年で2歳年をとることになります。

マツリゴトには規則などを決める会議もあります。各地の事件などもここで報告します。それらはユウという樹皮紙に記録されました。梶の樹皮を剥いで加工したものに墨汁で字を書いたそうです。中国の紙よりも古いとか! このユウは九州の湯布院から取り寄せたもので、これが地名の由来です。出雲の分家である諏訪大社の神紋は梶の葉紋です。

王国の条文は出雲八重書きと呼ばれました。

大祭の最後は「イズメ!」の万歳三唱です。

王家と各地の豪族たちは血縁を結ぶことで結束を固めます。血縁ができると「臣」を与えられました。王族を表わす「御身」に由来するそうです。この制度はのちに大和で引き継がれます。

豪族は玉の首飾りをつける決まりになっていて、特に曲玉は縁起のよいものとされました。胎児の形を表わした子孫繁栄の象徴だったからです。下の写真は以前、麦木晩田遺跡でSorafullが作った曲玉です。いびつ、ですね・・・・。太鼓に描かれた三つ巴は、幸の神に由来する神社の神紋にも使われました。太鼓は女神を表わし、ばち(✕印)が男神といわれます。なので太鼓を叩くこと自体が子孫繁栄の神事なのです。

三種の神器のひとつ、八尺瓊やさかにの曲玉の瓊とは宝石のことです。翡翠の産地である越後国糸魚川の支流、瓊の川がヌナ川と変わり、ヌナカワ姫が出雲へ嫁いで事代主の后となってタケミナカタ(のちの諏訪大明神)を生みました。后は美保の郷で過ごし、その港には玉造り職人や商人が住んだので、韓国からも玉類や鉄を買いに来たそうです。

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太鼓に配された三つ巴 撮影Mitsukai  Wikipediaより 

 

 大名持と少名彦 

主王を大名持おおなもち、副王を少名彦すくなひこといいます。役職名です。主王が向家(のちに富家と名乗る)の時は副王が神門臣家となり、交替で就任します。

大名持は野ダタラの穴を作る土地をたくさん持って製鉄を支配していることから、大穴持と呼ばれたことによります。記紀では大巳貴おおなむちと書かれました。少名彦は少彦名と逆さにされています。オオナムチとスクナヒコナは共に力を合わせてこの国を作り固めたというお話です。簡単に紹介します。

大国主が美保の岬にいると海の向こうから小さな神さまがやって来ました。案山子のクエビコ(サルタ彦)だけがこの神さまを知っていて、カムムスヒ神の子、スクナヒコナ神だと教えてくれます。それから2人は共に国々をまわって稲や粟の栽培方法害虫からの守り方などを教えて国作りをしていきます。風土記には2人の旅のエピソードがいくつも記されています。

愛媛の道後温泉の開湯もしたようです。インダス文明にも沐浴施設がありました。神殿の代わりに大浴場があって、身を清めるお祓いの場だったと言われています。聖なるガンジス川では今も沐浴する姿が見られますよね。大阪道修町の薬問屋街にはスクナヒコナ神社が祀られています。医療の神でもありました。

ところがまた突然にスクナヒコナ常世(あの世)へ旅立ってしまいます。伯耆国風土記では、スクナヒコナが実った粟の穂に乗ったところを弾き飛ばされ、常世へ渡った場所を粟島と名付けたと記しています。

出雲伝承では事代主が美保の海辺で釣りをしたあとに行方不明となり、米子の粟島の洞窟で遺体が発見されたとあります。美保港で毎年行われる諸手船神事は、この経緯を再現しているそうです。

古事記では、その後ひとりぼっちになった大国主がどうすればいいのかと憂い悲しんでいると、また海の向こうから輝く神がやって来たと続けます。そして「私を奈良の青垣の東山に祀れば、汝とともに国を作り成そう」と言いました。それが三輪山に鎮座する大物主(龍蛇神)です。事代主の和魂です。

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美保湾越しに望む大山

 

歴代大名持は岩をよく拝んでいたので、岩神、伊和の大神とも言われました。

古事記では大山津見の神が、娘の木花開耶姫コノハナサクヤヒメ石長姫イワナガヒメ天孫ニニギノ命に差し出すも、醜い石長姫は突き返されてしまいます。そこで大山津見の神は怒って「天つ神の命は岩のように永遠のものとはならず、花のように短くなるだろう」と告げました。

古事記の中では大山津見の神の娘が実はもう1人いて、コノハナチル姫です。スサノオ系統の息子の妻ということになっていますが、スサノオ出雲族ではありません。そしてその息子とは出雲3代主王であり、生まれた息子は4代主王です。石長姫とコノハナチル姫は同一人物であることを暗示しているのでしょうか。

石長姫は縄文の女神であろうと言われていますが、詳細はわかりません。Sorafullには出雲を象徴している気がしてなりません。大山津見の神(クナト大神)の子であること、そして大国主が岩の神と言われていたこと、また天孫族の寿命が短くなるということは、インド式の1年で2歳年をとる数え方から現在の1年1歳に変わることで年齢が半分、つまり寿命が半分になるからです。

ここにも柿本人麻呂の暗号が潜んでいるのでは・・・・?

謎の石長姫は地母神であり生命創造の大元の女神、インダス文明に起源をもつ幸の神だったのでしょうか。

 

古事記には17人の主王の名前がすべて記されました。初代大名持は向家出身で、各地の豪族の意見によく耳を傾けたことから八耳ヤツミミ王と呼ばれました。6代オミヅヌ王の息子アタカタスが現福岡の宗像家の始祖であり、あの沖ノ島等で有名な宗像三姉妹の父にあたります。宗像三姉妹のうち2人の姫は7代王、8代王の妻になります。この8代王が記紀大国主と書かれた八千矛ヤチホコです。この時の副王が7代王の息子である八重波津見ヤエナミツミ記紀でいうところの事代主です。

つまり出雲の8代大名持(神門臣家)が大国主で、その時の少名彦(向家)が事代主だったのです。

この8代大名持と少名彦が第三の渡来民ともいえる大陸からの客人によって暗殺されたことから、出雲王国の運命は大きく変わっていくこととなります。