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源流なび Sorafull

徐福と牛頭天王・蘇民将来そして宗像三女神

【2019年9月改編】

始皇帝の築いた秦国の滅亡後、100年ほど経ってから司馬遷が記した史記の秦始皇本紀に、徐福のことが書かれています。

紀元前210年、蓬莱島へ不老不死の仙薬を探しに行ったけれど、得られずに帰ってきた徐福が言いました。「薬を手に入れることは可能なのですが、いつも大鮫に苦しめられて島に着くことができません。弓の名手を連れ、弩ど(強い弓)で仕留めましょう」

始皇帝はこの大鮫を退治しに海に出ますが見つからず、その後しばらくして病死します。

また史記の淮南衡山列伝によると同じ年、帰ってきた徐福が言うには「海で神に出会いましたが、始皇帝の礼が少ないため薬を渡すことはできないと言われました。童男童女と五穀の種と技術者たちを連れてくれば叶うそうです」と。問答の途中で神は徐福を連れて蓬莱島へ至り、そこには銅色で龍の形をした使者がいて天に昇って輝いていた、といいます。始皇帝は喜んで男女3千人と五穀の種と様々な専門技術者を与えました。再び出発した徐福は平原と広沢(沼地)のある国を得て王となり、戻ってはこなかったと記されています。

 

古代臨淄のDNA  

2000年に中国科学院遺伝子研究所の王瀝氏と、東京大学の植田信太郎氏、国立遺伝学研究所の斎藤成也氏らの共同研究によって、古代中国の人骨のミトコンドリアDNAが分析されました。山東半島臨淄りんし(徐福の出身地である斉の都があったところ)に住む集団の3つの時代における比較です。

⑴2500年前の春秋時代

⑵2000年前の前漢末期の時代

⑶現代

結果はそれぞれ異なる集団であったことがわかりました。

⑴はヨーロッパ人

⑵は中央アジア

⑶は東アジア人

に近いそうです。徐福は⑴の時代にあたります。ミトコンドリアDNAは母方の遺伝系統を見るものなので、核DNAのように詳細なことはわかりません。それと一部の人骨なので必ずしも徐福がヨーロッパ系だったとは限りません。ただこの3つの時代を見た時に、中国では民族の移動など大きな変遷があったということです。

気になるのは斉国が八神を信仰していたとあり、八神とは史記の封禅書によると天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主とあって天主はユダヤの信仰に基づくと斎木雲州氏は記しています。兵主は蚩尤しゆうという武の神を祀り、日本各地の兵主神社で祀られているようです。

蚩尤とは中国神話に登場し、三皇五帝の1人、炎帝神農氏の子孫とされ、黄帝に反発し戦って討たれます。牛頭を持ち角があったといわれます。日本では神仏習合神道スサノオ(徐福)と習合した牛頭天王ごずてんのう(京都祇園社の祭神)ととても似ています。

 

牛頭天王蘇民将来

牛頭天王の由来を辿ると、アーリア人の信仰していたインドラ神に遡ります。雷神であり闘いの神です。バラモン教が成立すると神々の中心的な存在となりますが、やがて神々から見放された挙句に父を殺し、放浪の旅に出て大蛇退治もします。スサノオにそっくりですね。ヒンズー教になると人気は下がり天界から追放されたりもします。ヒンズー教インダス文明アーリア人がインドを占領する前のドラビダ人の文明)の影響が強いからです。そして仏教ではインドの祇園精舎(釈迦が説法をした場所)の守護神であり武塔神とも呼ばれます。のちに中国で道教の影響も受けました。蚩尤でしょうか。日本の記述では平安末期の伊呂波字類抄という辞典の中で、武塔神牛頭天王であり、インドの北の九相国の吉祥園の城主と書かれています。

869年に日本で疫病が流行り、疫病神である牛頭天王スサノオ)の祟りとされ、封じるために祀られたのが祇園祭の起こりです。

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祇園牛頭天王御縁起によると、この牛頭天王の后は八大龍王の1柱の三女であり、しかも龍宮へ赴いて出会うのです。なんだかこれまで見てきた話と重なります。宗像三姉妹でしょうか。

さらにこの旅の途中で牛頭天王にとある兄弟が関わります。裕福な弟は宿を貸すことはせず、のちに牛頭天王に復讐されます。貧乏な兄である蘇民将来は宿を貸してご飯をふるまったので、願い事がすべて叶うという牛玉を授かり、裕福になったとあります。如意宝珠や潮干珠潮満珠みたいです。

蘇民将来伝説は備後国風土記にも記されていて、そこでは武塔神が私は速スサノオであると自称しています。(「速」はニギハヤヒからきているようで徐福を指します)

インドラ神⇒武塔神⇒蚩尤⇒牛頭天王スサノオ

こうして見ると、日本には西から東へとアーリア、ドラビダ、中国の文化が歴史とともに流れついていますね。

備後国風土記では武塔神が「疫病が発生しても蘇民将来の子孫であると宣言して茅の輪を腰につければ災いを免れる」と告げましたが、これが茅の輪くぐりや蘇民将来のお札の由来のようです。

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記紀で描かれたスサノオは徐福(ホアカリ、ニギハヤヒ)のことですが、スサノオという名前の由来について出雲王家の子孫である斎木雲州氏によると、徐福の故郷に残った徐福一族は蘇州にも移住して発展し、そのことから蘇州の漢字を逆にして州蘇=スサとなり、スサの男でスサノオという名前を作ったと言われています。ですが蘇の読みはソかスなので、スソノオ、ススノオからスサノオに変化したとみるのでしょう。

また富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、蘇民将来の「蘇」はイスラエルの「ス」を意味し、中国江蘇省や蘇州などもユダヤ人に由来するとして、蘇民とはユダヤ人の子孫を示すということです。そういえばユダヤ人のイエスを耶蘇と表記しますよね。

「将来」とは「~から来た人」の意味があって、つまり蘇民将来ユダヤ人のハタ族のことだと言われているそうです。

徐福の故郷である斉国の王族はユダヤ人の末裔と言われ、「徐」は斉の王族の徐氏に由来すると言われます。先に紹介した古代臨淄の人骨のDNAがヨーロッパ系ということと重なってくるのでしょうか。

さらには始皇帝ユダヤ人の末裔という説もあり、もしそうであれば始皇帝と徐福の奇妙な結びつきというか、始皇帝が二度も徐福の策略に乗ってしまったことの理由がそこにあったのかもしれないと思えてきます。

蘇民将来の話はユダヤの「過越し祭」の話と似ており、エジプトで奴隷となっていた時、羊の血を家の門柱と鴨居に塗ったユダヤ人だけが災いを免れたといいます。秦氏の稲荷神社の鳥居は赤く塗られていますよね。まさか、茅の輪って血の輪??

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徐福の再来日

さて、出雲から秦国へ帰国していた徐福は10年後に再び日本へやって来ます。この時は北九州の筑後川流域へ入り、筑後平野に勢力を拡大します。実際のところ出雲王家の高照姫のもとへは帰れるはずもありませんよね。父、八千矛王を暗殺された高照姫の心情を思うと、徐福の妻となった我が身を後悔しつつ、けれど息子五十猛の存在を思えば後戻りもできず、複雑な心境であったことでしょう。

【2019.5.18 追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、事件のあと高照姫は五十猛を置いて実家へ帰ってしまったということです。渡来人の父系制では子は父のものという意識だったようです。高照姫は老年(今の中年)になって五十猛のいる丹波へ移住したと考えられているそうです。丹後風土記残欠にその様子が描かれています。

徐福の人柄などは伝わっていませんが、様々な最先端の知識を持っていたでしょうから、神のように崇拝されるところもあったと思われます。策略家であり始皇帝に勝る豪胆さを持ち、そこに強い支配欲が加わって、ギラギラとした人物像が浮かびます。そんな徐福と女性たちの関りとはいかなるものだったのか。

九州筑紫においては宗像三姉妹の三女、市杵島姫を妻とします。高照姫の叔母にあたります。宗像家から二人も娶るとは、よほど当時の宗像の勢力が大きかったのでしょう。けれど多岐津姫は夫の大国主を失い、田心姫は息子の事代主を失い、その首謀者のもとへ市杵島姫は嫁ぐのです。そうしてでも徐福たち秦族の脅威を少しでも減らさなければならなかった可能性もあります。起こったことに文句を言うよりも、ここからどうするのがより国のためになるのか、その苦渋の決断の連続だったのではないかと、下の家系図を見ていると思えてきます。

もしかすると今なお祀り続けられる宗像三女神は、実際にこの国を救い、守り続けてくれている女神たちなのかもしれません。玄界灘という荒々しい海の守り神、というだけではないだろうとSorafullには思えるのです。

日本の神様の中で最も高貴な尊称である「貴ムチ」が贈られたのは、天照大神の大日靈貴オオヒルメノムチ大国主の大己貴オオナムチ、そして宗像三女神の道主貴ミチヌシノムチだけです。記紀を製作した者たちがいかにこの存在を(密かに)大事にして後世に残そうとしたかが伝わってくるようです。

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 沖ノ島沖津宮の拝殿(田心姫)撮影Indiana jo  Wikipediaより 

 

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大島、中津宮の拝殿(多岐津姫)撮影Soramimi  Wikipediaより 

 

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宗像大社辺津宮の拝殿(市杵島姫)撮影Soramimi  Wikipediaより

 

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参照文献

「遺伝子からみた東ユーラシア人」斎藤成也 地学雑誌vol.111