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源流なび Sorafull

隠された物部王国VSヤマト王国の誕生

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 筑後一宮、高良大社久留米市高良山)の祭神である高良玉垂命こうらたまたれのみこととは誰なのか。古代史界では謎の存在であるようです。

九州王朝説の古賀達也氏によると、4~6世紀の九州王朝の都が筑後地方にあり、この高良玉垂命は天子の称号で歴代倭王であるとしています。さらに玉垂命の最後の末裔とされる稲員いなかず家の家系図があり、初代玉垂命とは物部保連やすつらであると記されています。また高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡だと、穏やかではないことが書かれているそうです。

古賀氏は2008年に自身のホームページの中で「天孫降臨以来の倭王物部氏であったとは考えにくい」とし、これらの文書がうまく理解できないと書かれています。その後どういった見解になっておられるのかまだ探せていませんが、九州王朝を研究されている方でも、物部氏という存在はそれほど見えにくいものなのかと驚きました。

出雲の伝承では筑紫は2世紀まで物部王国だったそうです。蘇我氏出身の推古天皇(在位593~628年)が587年に蘇我物部宗家を滅ぼしたことを気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡に経津主ふつぬしの神(物部の祭神)を鎮めるための社を建てました。その地を物部の郷といったそうですが、記紀に物部のことが書かれなかったことから忘れられていったといいます。

高良玉垂命は4~6世紀なので、大和への東征に参入しなかった物部の一派がその後も筑後に残っていたということでしょう。

古田武彦氏の九州王朝説では7世紀まで太宰府を首都とする王朝があり、白村江の戦いに敗北したのち大和王朝によって滅ぼされたといいます。この大和王朝とは九州王朝の分家であり、1~2世紀の神武東征によって近畿に勢力を移した王朝だとしています。

 出雲の伝承によると、2世紀半ばに筑紫の物部軍が大和を侵略するため四国の南岸を通り紀伊熊野に上陸したのが第1次物部東征であり、続いて3世紀半ばの卑弥呼の時代に、物部と豊国の連合国が瀬戸内海から大和へ攻め込んだのが第2次物部東征であるとしています。記紀はこの2度の東征をひとつにまとめ、神武という架空の人物を描いているようです。

さて、物部東征の話に入る前に、大和の大王たちの話をしておかなければなりません。

 

向(富)王家を継ぐ者たち

出雲7代主王の天之冬衣と田心姫の娘、高照姫は徐福との間に五十猛をもうけます。注)出雲伝承には高照姫を8代主王と多岐津姫の娘とする場合もあります。

徐福が秦に帰国したのち五十猛は成人し大屋姫大国主・八千矛の孫娘)と結婚し、息子高倉下タカクラジが生まれます。高倉下はのちに和歌山の紀ノ川下流へ移住して、徐福の持ち帰った竹や梅などの植林を行います。木の国⇒紀伊の国⇒紀伊国造紀伊家へと発展してゆきます。子孫には武内宿祢タケシウチノスクネがいます。

五十猛はその後、母や秦族を連れて丹波国に移住し、海香語山アマノカゴヤと名乗ります。そしてニギハヤヒ(徐福)と市杵島姫の娘である穂屋姫と結婚し海村雲をもうけます。海家はのちに海部氏と名乗り、現在の丹後の籠神社宮司です。(国宝海部氏の系図の継承者)

記紀では「天」村雲と変えています。

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 一方、事代主の息子奇日方クシヒカタはまず母の実家である摂津三島へ出雲人たちと移住します。母、玉櫛姫(活玉依姫)は有力な豪族三島家出身だったので、出雲は摂津や瀬戸内の島々、伊予とも繋がりました。玉櫛姫は実家に戻ると水田開発を指導し、川の水を分けて溝(水路)を作り、両脇を板で囲んで杭を打ち込んだといいます。三島溝杭ミゾクイ姫とも呼ばれ、灌漑の神として崇められました。

クシヒカタはやがて奈良地方に王国を作ろうと考え、摂津の人たちも大勢連れて葛城カヅラギ地方、現在の御所市付近へ移住します(のちにカツラギに変わります。)当時奈良盆地の中央は沼地だったので、住めるところではなかったようです。

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クシヒカタは登美家を名乗ります。出雲では富をトビと発音し、そこから登美の漢字に変えたそうです。また神をカモと発音したことから登美家は葛城のカモ家とも呼ばれ、しだいに鴨の字に変わったそうです。やがて葛城から磯城方面に移り磯城登美家とも呼ばれました。

富家⇒分家の登美家=鴨家(加茂家)=磯城登美家

クシヒカタは出雲の人々も呼び集めて開拓し、タタラ製鉄をこの地に広めました。葛城川の左岸に屋敷を構え、父の八重波津見(事代主)を祀る鴨都波カモツバ神社を建てます。その西方に登美家の分家が住んで女性が代々サルタ彦大神を祀ったので猿女サルメと呼ばれました。その南方に一言主ヒトコトヌシ神社ができました。一言主とは悪事も善事もこの神の一言で決まると言われ、事代主が主祭神です。古事記では雄略天皇を震え上がらせた神として上下関係を示していますが、日本書紀では対等の関係に変わっています。

クシヒカタの妹はタタラ五十鈴姫と呼ばれました。タタラは製鉄法の名前であり、イスズは川砂鉄をすくいとる意味のユスギが変化した言葉であるとか、五十(たくさん)の鈴(銅鐸)という意味だともいわれます。のちに初代ヤマト王、海村雲の后となる人です。(記紀では神武天皇の后です。)

一部の出雲人は伊勢国に移住し、幸の神を椿大神社つばきおおかみやしろに移したそうです。伊勢で最も古い社で、サルタ彦大神を祀っています。伊勢津彦が移したそうですが、この伊勢津彦とは勝友彦著「山陰の名所旧跡」では神門臣家の多岐都彦のことと書かれ、斎木雲州氏の著書では向家の子孫のように記され、よくわかりません。

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注意: 青い囲みはおおよその磯城地方と葛城地方を指したものなので正確ではありません。

神門臣家を継ぐ者たち

八千矛(大国主)と多岐津姫の孫多岐都彦はクシヒカタを頼って家来を連れて葛城へ移住します。葛城川の上流に住んで高鴨家と呼ばれます。父味鋤高彦アジスキタカヒコや叔母の下照姫、夫のアメノワカ彦(建葉槌)を高鴨神社に祀りました。近くには御歳ミトシ神社があり、向家の高照姫を祀っています。注)高照姫は神門臣家の可能性もありますが、ちょうど両家の間に祀られていますね。

多岐都彦の妹大屋姫も息子の高倉下とともに葛城に移住しました。高倉下はそこから紀伊へ。

 

海村雲の葛城進出

紀元前2世紀、香語山の後を継いだ海村雲アマノムラク丹波からヤマトを目指します。数千人の武装したハタ族とともに船で琵琶湖を進み、宇治川から木津川を通って葛城山麓に到着したといいます。その後数年かけて1万人ほどの丹波の人々が移住し、先住の出雲勢よりも優勢になったそうです。

村雲はクシヒカタの村の北西にある笛吹に宮を建てました。そこは高尾張村とも呼ばれ、村雲の家系は尾張とも呼ばれるようになりました。笛吹の地に建てた火雷ホノイカヅチ神社や天の香具山に、父の香語山を祀りました。子孫は笛吹連むらじと呼ばれましたが、この時は陶塤(中国の土笛)ではなく竹笛だったそうです。

ここで出雲勢との戦いはなく、尾張家は登美家とともに製鉄を行ったといいます。それでも登美家はハタ族に押され三輪山方面の磯城に移り、クシヒカタは磯城地方の首長となります。そして事代主、幸の神、太陽の女神(幸姫命)を三輪山に祀りました。

クシヒカタは天日方奇日方と呼ばれます。天の奇しき力を持つ日(太陽)を祭る人、という意味です。

妹のタタラ五十鈴姫三輪山の太陽神を祀る最初の女司祭者、姫巫女ヒメミコとなります。三輪山の西北に出雲屋敷と呼ばれる斎宮を建てました。タタラ五十鈴姫は葛城の人々から、三輪山の女神のように崇められたそうです。

三輪山の名の由来は、出雲の伊和の大神が酒造りを教えたという言い伝えがあり、酒を入れるカメをミワと呼んだことにあるそうです。

村雲はこのタタラ五十鈴姫を后に迎え、ヤマト国の王権を確立しました。出雲と丹波連合王国の誕生です。ただし王国といっても大和地方とその周辺を支配するのみでした。村雲はのちに記紀では海でなく天村雲と書かれ、天孫降臨に結びつけられます。

海王朝では代々登美家と磯城家から后を迎えることとなり、2代目沼川耳王はタタラ五十鈴姫の妹五十鈴依姫を、3代目玉手看王はクシヒカタの娘渟名底仲姫を迎え、3代目からは海家よりも出雲王家の血が濃くなった磯城王朝と言われました。出雲王国とも親しい関係でした。

古代日本は母系家族制なので、生まれた子どもたちは母の実家で育ちます。なのでDNAだけでなく、女性側の文化の影響が強くなりますね。

三輪山の祭祀も出雲王国と同じく代々の王の后が司祭者となり、その姫巫女の人気が王国を牽引する力となってゆきます。宗教と政治が一体となったマツリゴトです。いわゆるヒメ・ヒコ制であり、政治家のヒコよりも司祭者のヒメのほうが尊敬されたようです。

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 参考文献

「「新・古代学」古田武彦とともに第4集より、九州王朝の築後遷宮」古賀達也

「山陰の名所旧跡」勝友彦