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源流なび Sorafull

欠史7代とナガスネ彦とアラハバキ

ヤマトの大王の地位を失ったフトニ王は吉備国王となったのち、大山だいせんの西北にある孝霊山の麓の宮(現高杉神社)で晩年を過ごします。この孝霊山という名はフトニ王の諡いみな(死後の贈り名)です。ヤマトから細姫と福姫が一緒に来ましたが、フトニ王は現地の若く美しい娘を寵愛します。后の二人はそれぞれ息子たちのもとへ転居していきます。王は亡くなった後、楽楽福ささふく神社に祀られ、また高杉神社にはフトニ王、細姫、福姫を祀りました。ところがその後天災が相次ぎ、この地の人々は后たちの祟りだと思い、後妻の村娘役を叩く「後妻うわなり打ち」という神事を行います。すると天災がおさまったので、今でもこの神事が続けられているそうです。なんとも怖い話です…

この話が記紀にも出てきます。神武がヤマト入りをしてオトウカシが宴を開いたときの歌で、神武軍の勝利を喜ぶ歌なのですが、途中から後妻を寵愛する内容に唐突に変わります。

要約すると「コナミ(前妻)が食事を望めば身のないスジ肉を、ウワナリ(後妻)が食事を望めば身のたくさんついたうまい肉を」といったよくわからない内容になっています。どういう意味だろうと思っていましたが、斎木氏によると、第1次物部東征がフトニ王の時期であることを示すために、わざと挿入したのではないかということです。確かに吉備国は出雲戦争では休戦に入ったとはいえ、領土を大きく拡大したのちにフトニ王は隠居し愛人と楽しく暮らしたのですものね。勝利の歌といえばそうかもしれません。それにしてもこんな神事が残るなんて、老齢のフトニ王の愛した村娘、どんな女性だったのでしょうか。

 

記紀では欠史7代といって、3代玉手見タマテミ大王から9代大日々オオヒビ大王までの記述は系譜のみとなっています。出雲の伝承では実力があった大王は海王朝の初代村雲、2代沼川耳、3代磯城王朝の玉手見までで、それ以降は大王家とは名ばかりの、ヤマト地方の3割だけを支配する豪族となり、登美家、尾張家(海部家を含む)の3つの豪族の覇権争いが始まったそうです。

※この時代の大王は天皇とは違います。天皇は日本全体を治めますが、大王は豪族たちをまとめるリーダーのようなものです。

5代カエシネ大王(孝昭)尾張家の姫を后にしてクニオシヒト(孝安)をもうけます。実はこのクニオシヒトとは後漢書東夷伝に記された「帥升」のことだといいます。スイショウと訳してあるのに馴染んでいますが、斎木氏はクニオシヒトの中のアクセントの強い「シヒ」をとって「帥飛」としたのが、草書の字を見間違えて「帥升」と書いたのだろうと推測されています。中国では和名を短く書く習慣があるとのことです。

安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らは奴隷160人を献上し、皇帝の謁見を願ってきた。

奴隷のことを当時は生口いくちといいました。瀬戸内海の生口島安芸国)から若者を捕虜にして連れて行った事件があり、島の名前がついたといいます。

この時、大王自身が後漢に行ったことが後になって問題となります。中国では属国の王や高官の役職のしるしは、本人に直接渡す決まりがあったため、大王が出かけて行ったのですが、記紀を作成した奈良時代ではそれは大王の恥とされ、このことを誤魔化す記事が日本書紀に書かれました。6代大王の名をヤマトタラシ彦クニオシヒト、その兄をアマタラシ彦クニオシヒトとしました。この兄は和珥ワニ臣の始祖であると書かれています。古事記ではクニオシヒトはひとりです。出雲王家ではこの2つの名前は同一人物だと伝承されています。また和珥臣は登美家の分家だそうです。

もちろん日本書紀後漢へ行ったことは書かれてはいませんが、あえて兄弟ということを付け足したのには何か意味がありそうですね。

次が吉備王となった7代フトニ大王(孝霊)です。フトニ王が吉備へ移った後、息子のひとりが8代大王クニクル(孝元)となります。クニクルの后、クニアレ姫は登美家の姫です。ふたりの間に生まれたのが三国志魏書に記された卑弥呼のひとりである百襲モモソと、記紀ニギハヤヒに殺されたとする長髄彦ナガスネヒコ古事記では登美に住むナガスネヒコ(トミビコ)と記されています。大彦のことです。

9代大王となるのはクニクルの別の息子オオヒビ(開化)です。オオヒビは物部と妥協して物部の姫2人を后としました。

これが伝承による、記紀に詳細を記されなかった欠史7代の概略です。描かれないということは、都合が悪いからです。

 

物部東征に入る前に、大彦のことをもう少し書いておきます。

大彦は奈良山の北側、木津の曽根山に宮を構え、オオヒビに次ぐ勢力を持っていました。物部嫌いで有名だったようです。のちに登美家の領地である摂津三島に移ります。

斎木氏が出雲の粟島の近くに住む大彦の子孫から話を聞いておられます。事代主の幽閉された粟島のすぐそばに安倍という地名があって、そこには安倍さんが多く住んでいたそうです。前九年の役(平安後期の源頼義による蝦夷安倍氏征伐)で敗れた安倍一族が、先祖の地へ逃れて来たといいます。子孫の方の話をまとめます。

〈大彦は事代主の血を引いている。大彦とは大兄おおえに相当する言葉である。個人名は中曽根彦で、ナカは龍神(ナーガ)、ソネヒコはスネークに通じる。記紀では長髄彦と書かれた。2世紀末の指導者だったが、紀元前2世紀の豪族に変えられ、初代大王(神武)の敵にされた。大彦は安倍家の始祖である。異民族でもないのに蝦夷とされた。〉

記紀ではモモソ姫も大彦も他の親から生まれたことになっていますが、出雲の伝承によると、物部との戦で苦戦する大彦が出雲の富王家のもとを訪れ助けを求めた時、「自分は磯城王朝クニクル大王と登美家クニアレ姫の息子である」と述べたと伝えられています。大彦は東出雲王家の血筋であることに誇りを持っていたらしく、トミ彦と名乗ったこともあったそうで、息子の名は事代主の后であるヌナカワ姫にちなんでヌナカワワケとつけたほどでした。

富王家は大彦の申し出に対し、軍を分散させるわけにはいかないと断ります。日本海方面の同盟国を頼るようにと助言したそうです。そしてトミ家の名を使わないように求めました。すると大彦は摂津三島の阿武山にちなんで安倍家と名乗ると答えたそうです。大彦はまず琵琶湖東南岸に移住し、銅鐸祭祀を広めました。物部がヤマトに侵攻すると銅鐸を壊してまわったので、人々は地下に隠し銅鐸祭祀は終わりを迎えました。それを大彦はとても悔しがり、近江で復活させたのです。明治から昭和にかけて野洲市の大岩山古墳から24口の銅鐸が発掘され、加茂岩倉遺跡に次ぐ多さであり、日本最大となる高さ135㎝のものも出土しています。

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大岩山古墳出土の銅鐸

※出雲では音を「聞く銅鐸」でしたがヤマトでは中~大型の「見る銅鐸」に変化したようです。

その後追ってきた物部軍と野洲川で戦いますが敗北、北陸へ逃げることになります。大彦は北陸方面を通って北へ向かいます。北陸に残った子孫には、若狭国造となったかしわでの、高志国造となった道公みちのきみがいます。息子ヌナカワワケは伊賀や伊勢を通って東海に勢力を伸ばしました。駿河の安部川付近に都を造ります。伊勢に残った子孫は伊賀臣に。近江に残った子孫は佐々木氏となりました。大彦は子孫が多いですね。幸の神のサルタ彦が重なります。

現在の安倍首相の父方のルーツは、前九年の役で敗れた安倍宗任だそうですので、現政権は事代主ということになりますね。

 

安倍一族は自分たちの勢力地をクナトの国と呼びました。クナガ国、クナ国も同じです。三国志魏書に、卑弥呼の女王国に属さない狗奴クナ国には狗古智卑狗クコチヒコという官がいると記されています。新撰姓氏録によると久々智ククチは安倍朝臣と同祖で大彦の後であるとされています。ですが魏書では狗奴国は女王国の南に位置しているというので、魏書をそのまま読むことではつながりません。

 

さらに物部は駿河にも追いかけてきたので、安倍勢は東北へ逃れ、北上川方面に日高見国を造りました。谷戸貞彦氏の「サルタ彦大神と竜」によると、日高見国はのちに荒覇吐アラハバキ王国と呼ばれたそうです。

Wikipediaの情報ですが、安倍首相の父、晋太郎氏が祖先を調べたところ、青森県の石塔山荒覇吐神社に宗任のお墓があることが分かったそうです。大山祇神社ともいうようで、出雲のクナト王ですね。

アラハバキとは出雲の龍神木信仰を言います。龍神木は斎の木、波波木、宝木ともいいます。(ハハは蛇の古語。波波木は伯耆国の語源です)また神様には恵みの力である幸魂さきみたまと悪を懲らしめる荒魂あらみたまがあり、サルタ彦神は強面で道を守ったので荒神と呼ばれました。龍神荒神といわれます。荒神と波波木でアラハバキです。のちの時代ですが修験道の開祖、役えんの行者は出雲の血筋の人で、幸の神三神を三宝荒神に変えて祀ったと言われています。

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東出雲の阿太加夜神社の龍神木 

 

龍蛇神について詳しく書いています。
somosora.hateblo.jp

 

 ※補足ですが、大彦は鏡を物部の道教的道具として嫌っていたので、東海北陸には鏡が広まりませんでした。