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源流なび Sorafull

第1次物部東征~熊野権現vs名草戸畔

古事記による初代神武天皇の東征ルート

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出雲伝承による第1次物部東征ルート

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徐福の北九州への渡来後、次男ヒコホホデミとその子孫たちによって物部王国が築かれました。ヒコナギサタケ(ウガヤフキアエズ)王の御子、五瀬イツセはヤマトへの遷都のチャンスを窺っていました。やがてヒボコ勢の播磨侵攻、続いて吉備による第1次出雲戦争、いわゆる和国大乱に突入し、それを見計らって165年、五瀬は東征を開始します。

有明海を出航するとまず肥後国の球磨クマ川流域で若い兵士たち(久米クメの子)を集めました。次に薩摩半島の笠沙の入り江に停まり、薩摩隼人を兵士として集めます。

この笠沙の近くに阿多という地があります。コノハナサクヤ姫の別名が阿多津姫であり、阿多の姫ということです。この阿多津姫の父は古事記では大山津見とされており、出雲のクナト王のことでしたね。

また出雲王家の分家である宗像の始祖は阿多片隅アタカタスです。阿多の娘を娶ったか何かしらの関係はありそうです。宗像の娘といえばかの三女神です。古事記では阿多津姫がニニギ(ニギハヤヒのこと)との息子、火照命(海幸彦)と火遠命(山幸彦)を生みます。ニギハヤヒ(徐福)の后となった市杵島姫と重なります。

 

海幸彦山幸彦

古事記では山幸彦が兄の海幸彦に勝ちます。物部と海部(尾張)は異母兄弟であり、物部東征によって弟が兄に勝つという史実を例えているようです。

弟の山幸彦=九州の物部=徐福→ホホデミの子孫

兄の海幸彦=ヤマトの海部、尾張=徐福→五十猛の子孫

山幸彦は竜宮で豊玉姫と結ばれヒコナギサタケウガヤフキアエズをもうけます。この出産時に豊玉姫はワニの姿に変わります。これは出雲族の娘であることを示しているようです。ヒコナギサタケは豊玉姫の妹、玉依姫を娶って五瀬やイワレヒコ(神武)をもうけます。

実際の初代ヤマト大王は海村雲で、后は事代主の娘のタタラ五十鈴姫。その御子の后となるのがタタラ五十鈴姫の妹、五十鈴依姫。ここもよく似ていますね。

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東征の航路

記紀では神武東征は瀬戸内海を通りますが、そこは吉備国支配下にあって実際にはリスクが高すぎます。瀬戸内海を通ったのは第2次物部東征だと伝承は伝えています。記紀では二度の東征をひとつにまとめて時代も変えて描かれていると。

出雲の伝承です。五瀬の率いる大船団は笠沙の岬をまわると、四国西南端の足摺岬を通り過ぎ土佐国の南岸を進みます。土佐湾で一度休憩するため川を遡って川岸でしばらく過ごしました。そのあたりには物部という地名がついて、川の名前も物部川となりました。

物部王国のシンボルは銅矛ですが、戦いながら移住するには大きすぎて不便なために銅鏡に変更します。土佐に移り住んだ人々の村が物部川のすぐ東にあって、香我美かがみという地名がついています。

五瀬の船団は四国東岸を北上し紀ノ川河口からヤマトへ向かって遡ろうとします。

日本書紀を要約します。五瀬たちは河内の白肩津から生駒山を越えようとしたところでナガスネヒコと合戦となり、五瀬に矢が当たります。物部軍は引き返し、大阪の茅渟ちぬの海に出てから紀の国に入ります。五瀬は竃山で亡くなり、そこに埋葬されました。軍は名草村に着いて、そこの女賊、名草戸ナグサトベを殺します。(戸畔トベとは女村長です)そこから海路で熊野へ進軍します。

古事記は名草戸畔のことには触れていません。

 

再び出雲の伝承です。物部軍は紀ノ川河口の左岸から上陸し、近くの名草山に登ろうとした。すると名草戸畔の軍勢によって毒矢を放たれ、五瀬の肘と脛に当たった。五瀬は亡くなり、近くの竃山に埋葬された。数日後、紀ノ川対岸にヤマト王国の大軍が現れた。五瀬に代わって指揮官となった弟は船に戻って移動することを決断。南の潮岬を回って熊野川を遡った。そして熊野川の中州に住んだ。敵のゲリラ攻撃を避けるためには見晴らしのいい中州が適していた。そこに社をたて、五瀬を祀った。のちの熊野本宮であり、熊野権現とは五瀬命のことである。

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大斎原おおゆのはらと呼ばれるところが、旧跡地です。昔の地形とはかなり違うようですが、名残はみえますね。明治の洪水のあと、社は中州から山中に移されました。中州の中に社を建てるのは、道教の「蓬莱島の聖地」を意味しています。丹後海部氏の竹野神社や出雲の海童神社にもみられます。

物部勢力はその後熊野の各地に拡散して住みました。のちに熊野国造となります。

また、旧事本紀尾張家の系図には6世建田背が名草姫を后に迎えたと書かれています。出雲の登美家の系図には奇日方の4世トヨミケヌシが名草姫を后としています。名草戸畔や名草姫は世襲名かもしれませんね。尾張家や登美家が后に迎えるほどの勢力を持っていたのでしょう。

 

斎木氏が物部五瀬の直系子孫の方と直接話をされています。

物部五瀬の子孫の伝承です。長く竃山神社の社家であったが、今は氏子となった。五瀬は東征の最高指揮者であったが、怪我を負ってここで亡くなり埋葬され、息子たちが墓を守るためにここに残った。少人数だったため、敵は攻撃をやめた。敵とは高倉下の子孫の珍彦ウズヒコである。物部東征は瀬戸内海を通っていない。

高倉下の子孫は紀伊の国造家になった。そして日前神宮を建てた。紀伊家と五瀬家は婚姻関係を密に結んだ。五瀬家は日前神宮の横に国懸神宮を建てて五瀬命を祀った。

 

次は名草地方の伝承です。なかひらまい著「名草戸畔、古代紀国の女王伝説」にかなり古い時代からの名草の人々の伝承が紹介されています。その中心となるのは小野田口伝であり、あのルパング島から戦後30年たって帰還された小野田寛郎氏の家に伝わる口伝なのです。小野田氏の実家は名草戸畔の遺体の一部(頭部)を祀る宇賀部おこべ神社で、小野田家は名草戸畔の子孫であるようです。なかひら氏は直接小野田氏にインタビューしています。

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全体にぼやけていて申し訳ないですが、東西に流れるのが紀ノ川です。ピンクの囲みは出雲族の居住区を、黄色の囲みは名草の居住区を示しています。「古代紀国の女王伝説」を参考にしています。

 

小野田口伝の抜粋です。

名草の祖先は何千年も前、宮崎から大分のリアス式海岸に住んで半農半漁の暮らしをしていたが、やがて人口が増えたため、よく似た地形(前の海で魚が捕れ、後ろの田で米が採れるところ)の和歌山に移住した。神武がやって来るよりずっと前のこと。紀ノ川流域にキビが生えていたのを全部田んぼになおした。

神武軍との戦いについては、ニギハヤヒナガスネヒコを斬って降伏したからこちらも降伏したことになった。五瀬はナガスネヒコ軍の毒矢に当たって亡くなり竃山に葬られたが、名草戸畔も戦死した。けれど神武軍は名草軍に撃退されて、紀ノ川を上れずに仕方なく海路で熊野へ行った。その後はヤタガラスが案内した。名草の人たちは負けたつもりはない。降伏したのはナガスネヒコだ。

戦の後、国懸クニカカスと日前ニチゼンが統治しにきたが、名草は負けた意識がなかったので反抗し、うまく治まらなかった。国懸はヤマトへ帰り、紀氏である日前が残ってまとめた。権威を振り回さないから土地の人とうまくやっていけた。

伊太祁曽いたきそ神社は植林を教えた神様。大きい太い木を増やした初めの人、という意味がある。木曽の国はここから植林技術を移した。

 

なかひら氏も指摘されていますが、宮崎〜大分の海岸から和歌山へ移住してきたということから、6,300年前の鬼界カルデラ大噴火の影響が考えられます。南九州には1.2万年前の集落である栫ノ原遺跡や、9500年前の最古の定住型遺跡の上野原遺跡にみられる相当進んだ文化をもった人たちが存在したことがわかっています。彼らはスンダランドから海を渡って北上してきた半農半漁の民だったようです。下記のブログを参考にしてください。

 

 

この大噴火によって人々は南九州から避難を余儀なくされるのですが、黒潮の流れに沿って高知、和歌山、三重、静岡、関東へと移住していった形跡がみられるのです。名草の人々の移住が噴火直後であれば伝承に出てきてもおかしくないので、いったん大分あたりへ避難してからのちのことかもしれません。

また大分の宇佐国造家に伝わる口伝を宇佐公康氏が「宇佐家伝承、古伝が語る古代史」として出版されていて、その中で、

宇佐国造家の口伝によると、木造建築の文化は、古の日子国(日向王朝)から国東半島におよんで木国の文化となり、さらに、その文化は近畿地方に移入されて紀国となったといわれている。」

とあります。どれも名草の人たちと関係があるかどうかは推測でしかありませんが、九州の東岸から和歌山への人や文化の流れはあったようですね。

※ウサ族は日本最古の先住民族として9千年前から山城の稲荷山を根拠地にして原始生活を営んでいたそうですが、8500年前にシベリア方面からサルタ族が漂着したためウサ族を圧迫し、いくつもの集団に分かれて全国に散らばったといいます。出雲族は3500年前に渡来したということなので、年代については大きく差があります。

 

紀ノ川の地図に記したように、出雲族は紀ノ川周辺に住んでいたようで、出雲の伝承にも紀国へ移住した人たちがいると言われています。クナト王を表す船戸という地名もみられます。大国主を祀る神社もとても多いようです。ここでも出雲族は先住民たちへ製鉄技術など新しい文化を伝えながら融合していったのでしょう。

その後、徐福の渡来によって息子の五十猛以降、植林とともに造船の技術も伝わりました。五十猛が祭神の伊太祁曽神社は土地の人からとても親しまれていて、紀氏も五十猛の子孫です。名草は出雲族や秦族たちとうまく融合していったようです。そのおかげで神武軍を撃退するほどの勢力となっていたのかもしれないと、なかひら氏も推測されています。

そして名草の地と民を守った名草姫を、今なお人々は大切にしているのです。

 

五十猛については下のブログも参考にしてください。