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源流なび Sorafull

夕占(ゆふけ)と母系家族制

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万葉の占いに夕占ゆふけというものがあります。

ゆふけ。なんとも儚く切ない響きをしています。どのようなものなのか、万葉集から見てみたいと思います。

 

☆言霊の 八十やその巷ちまたに 夕占問ふ 占正うらまさは告る 妹はあひ寄らむ

辻で夕占をしたところ「想う娘はあなたに寄ってくるだろう」とお告げがあった

☆夕占問ふ 我が袖におく 白露を 君に見せむと 取れば消につつ

☆八十のちまたに夕占にも卜うらにもぞ問ふ‥‥ 

 

「ちまた」というのは辻(交差点)のことで、岐、巷、衢などと書きます。夕占は夕方、家の門前や近くの辻で想い人のことや自分の運勢を占います。

占いには手順があって、最初に、

「ふなとさへ 夕占の神に 物問へば 道行く人よ 占正にせよ」と呪文を3回唱えます。そして道に境を作り、米を撒き、櫛の歯を3回鳴らした後、その境界の中に入ってきた通りすがりの人たちの話す言葉を聞いて吉凶を占います。

夕方というのは昼と夜の境の黄昏時であり、見える世界と見えない世界をつなぐそのひと時に、神の託宣を聞くことができると感じていたのかもしれません。夕占は室町時代以降は辻占つじうらと呼ばれるようになりました。やがて辻占煎餅というおみくじ入りのお菓子も現れます。今で言うフォーチュン・クッキーですね。

さて、大野晋氏の「日本語の起源」を読んでいるとき、驚きました。この夕占とそっくりな占いが南インドの古代タミル人の詩集に描かれているというのです。

村はずれの道に、米と花や水を撒いて、その中を通りすぎる人の言葉を聞いて吉凶を占います。恋人のことや戦争の成り行きを占うそうです。この占いの名前は「Viricci」で、神意をひらく、という意味ではないかと言われています。時間帯は夕方の場合もあります。呪文はないようです。

谷戸貞彦氏は「サルタ彦大神と竜」の中で、この夕占について触れておられます。要約します。

 

クナト王の妻、幸姫命は八岐姫ヤチマタヒメとも言われ、交差点を守る道の神とされている。平安期には都で道の神に食事を供える祭りが行われた。その祝詞は「大八岐に満つ岩むらの如く、さやります皇神すめがみ等の前に申さく、八岐彦・八岐姫・久那斗と御名は申して、底の国より荒び来む者に、守り奉り、斎いまつれと‥‥」とあり、「クナトの大神と八岐姫、サルタ彦大神が、塞がります皇神」だと表わしている。八岐での夕占の歌が万葉集にあるが、占いは次の文句を唱える。

「フナトの神、サヘの神、夕占の神に物問うならば、道行く人よ、卜いを正しく現せよ」と。この占いの神が八岐姫という。

 

出雲の伝承は、呪文の最初の「ふなとさへ」を「フナトの神、サヘの神」だと説明しています。フナト神はクナト大神であり、サヘは境サエの神(幸の神)に同じです。

谷戸氏は古代タミルの詩集については触れておられませんが、これほどまでに似た占いが両国に存在する不思議さに、感動さえ覚えました。国を超え、夕暮れの光の中でじっと息をひそめて声を待つ人々の心を、とても近くに感じます。

日本では文字として記された万葉集以降の習慣とされますが、出雲族がインドより伝えたのだとすれば、それよりも遥か昔から続いていた可能性も。

私たちはこんなに文明が発達した今もなお、恋や人生を繰り返し占います。なんだか人ってあんまり変わらないのかもしれませんね。

 

 

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待つ女

話は変わりますが、80年代の大ヒット曲、あみんの「待つわ」。このタイトルだけでメロディーが蘇る方もいらっしゃるのでは。

♫ わたし待つわ いつまでも待つわ たとえあなたが振り向いてくれなくても 待つわ いつまでも待つわ‥‥

昭和の終わり頃までは、こういう歌が支持されていましたね。平成になると恋愛の空気感はガラリと変わりますが、この「待つわ」という感覚、万葉集の頃からずっと続いていたのです。

☆君待つと 我が恋ひをれば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

あなたを待って恋しく想っていたら、私の家の戸のすだれが動きました。‥‥秋風が吹いています。(額田王

☆我が背子を 今か今かと出でみれば 沫雪降れり 庭もほどろに

今日は私のいい人が来る日。今か今かとずっと待っていたけれど、ついに我慢ができず庭に飛び出しました。そこにあなたの姿はなく、淡雪が降っていました。

愛しい人を家で待ち続ける姿が浮かんできます。これは現代の感覚で読めば恋人同士の歌ですが、夫婦の歌であるようです。母系家族制ならではの、訪ねてくる夫を妻が自分の家で待つという情景です。

古代のこの婚姻制度を知らなければ、古代を理解することはできないと谷戸氏は言われます。Sorafullも母系家族というものをなんとなくしか理解していなかったので、ここで少し考えてみたいと思います。

 

母系家族制とは 家の跡継ぎが娘、財産もその娘が所有する権利をもつものです。女性が家の主で、刀自とじと呼びました。刀は戸から変わり、自は主と同じ意味です。戸主ですね。紀伊の名草戸畔とべのような女首長は、家だけでなく村~部族全体をまとめる極めて頼もしい存在だったのでしょう。

現代は嫁取り婚ですが、当時は妻問い婚といって夫が妻の家へ通う通い婚か、妻の家に同居する場合がほとんどで、現代のように妻が夫の家に住むというのは、妻のほうがよほど身分の低い場合に限られたといいます。嫁姑問題はなかったということです。

通い婚では、夫は夜道の明るい月夜に実家から妻の家へ行って朝帰りをします(呼合よばい)。妻は月の様子を見ながら夫を待ちます。これだけで歌が詠まれそうですね。

父は他家の人であり、夜だけ訪れる人です。子は母の家で育てられます。集落全体で子を育てるともいえます。

男性は実家の離れで男同士で住み、姉妹のいる実家のために働き、財産の管理運営をします。女性は子を産むことが優先され、食事も男性より良い物を食べていました。なので男性のように逞しかったそうです。三国志魏書にも、和国では父子、男女の差別なしと書かれています。父系家族の中国からは考えられない様子なのでしょう。

夫は子孫を残すために必要な存在なので、一夫多妻になるのは自然かもしれません(多夫多妻もあり)。たとえば縄文時代の平均寿命は14歳です。乳児死亡率の高さの反映でしょう。子どもが生まれ育つということを何より優先しなければ種が絶えるわけですから、日本だけでなく人類は女性を中心とした母系家族から始まっていると言われます。

※ここでは母系家族とは女性に権力があるという意味ではなく、子は母のもとで暮らすことを基本とした社会を指しています。

余談ですが、チンパンジーボノボは同じチンパンジー族で、ヒトに最も近いとされています。ヒトがチンパンジーと分岐したのが500万年前、チンパンジーボノボの分岐が100~150万年前。チンパンジーの雄は縄張りの争いが激しく、別の群れの雄の個体を見つけると追いかけて殺すそうです。ヒトとチンパンジーのDNAの違いはわずか1.6%です。この数字よりも実際には差はないらしく、DNAのスイッチがONかOFFかくらいの違いともいわれます。一方ボノボは同種の争いはなく仲間を殺しません。大変平和的な種だそうです。そのボノボは雌優位の社会なのです。チンパンジーは父系集団です。つまり、ヒトにはどちらの性質も在り、もしかするとDNAのスイッチをONにするかOFFにするかだけで、社会全体が変わる可能性があるのかもしれません。男性性と女性性のバランスを取り戻す道です。

 

妻問い婚では夫の足が遠のけばそれで離縁となります。もちろんその逆もあり。財産も絡まず、嫁姑もなく、どちらかが責任を負うということさえなく、ただ互いの惹かれ合う気持ちによって関係を保つことになるのですから、限りなく純粋に男と女であるわけですよね。反面不安定な関係だからこそ、想いが凝縮し鮮烈な和歌を生むのかもしれません。

また古代は性に対してとてもおおらかであったようで、隠すことなく日常のこととしてオープンだったそうです。和歌も隠語を通してかなり踏み込んだやりとりをしていたとか。女性も歌垣(集団の自由恋活)に参加することが許されていて、うまくいけば臨時の父親の子を得ることができます。私生児という概念はなく、母の実家で大切に育てられます。より多くの子を産むのには適した環境です。農村の家庭で母系家族制が江戸時代まで続いたのは、こういった仕組みもあったようです。

古代末期には豪族たちの間で父系家族制が取り入れられていきます。そして飛鳥時代になると、それまでの豪族たちによる土地と民の支配ではなく、国家としての体制が整い始めます。土地はすべて国の所有となり公地公民制が始まると、6歳以上の者に国が土地を与えるようになりました。割合は女子が男子の3分の2です。税制も始まります。律令国家成立によって、家を守るためには男性の力に頼る方向へと進み始めたのではないでしょうか。

土地をより多く持つ者、商売や物作りで稼ぐ者、そして戦争で財を成していく者。そういった男性たちに女性は従い、室町時代には嫁取り婚へと移行していきます。ですが税が課せられる農漁村は貧しく、家という小さな単位ではなく共同体として生き抜くほかなく、近世まで母系家族制が続いたのかもしれませんね。