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源流なび Sorafull

古墳の始まり~出雲から楯築、纒向へ

★2018年5月17日改訂★

 

実は古墳が苦手です。見ることではなくて分類が。

種類、時期、地域を考えると、どう整理してよいのかわからず困っていました。なのでどこで古墳の話を挿入しようかと、ずっと迷っていたのです。ところが救世主が現れました!吉備発祥とされる特殊土器。この存在を知ったときに流れがすうっと見えたのです。

ただ、出雲王国時代の個性的な墳墓は「古墳」の仲間には入れてもらってないそうです。3世紀以降の前方後円墳からが古墳とされています。だとしたらここに紹介する出雲のこの巨大なお墓はなんなのだろう、と首を傾げつつ進めたいと思います。

 

出雲の四隅突出型墳墓

吉備国の攻撃による第1次出雲戦争の後、出雲王国は銅鐸など青銅器祭祀をやめ、かわりに王の墳墓を造ることに力を注ぎます。古墳時代前のことです。

西出雲王国は敵の侵入を先祖霊が守ってくれるという思いから、斐伊川沿いの西谷に墳墓をいくつも築きました。それが西谷墳墓群です。サルタ彦のこもる鼻高山も遙拝できます。下地図の左下です。

※西谷はニシタニではなく本来はサイダニだったそうです。荒神谷のもとの地名が神庭斎谷であったように。幸の神を祀るサイダニです。

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2号墓全景。四隅が突出しているのが特徴の四隅突出型墳墓です。高さは4m。突出部を含めると長辺が50mほどになります。墳丘の斜面には貼石(復元)が施されています。

この形式の墳墓は古墳時代に入る前、山陰地方を中心にして北陸までの日本海側に広がっていました。これまで100基近く発見されています。

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3号墓全景。

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3号墓では第4主体の棺から鉄剣と首飾りが、第1主体からは200個以上の玉類のアクセサリーが発見され、王と妃ではないかと言われています。第4主体の棺の周りには4本柱の穴の跡も見つかり、殯もがり(長期の葬儀)の際の屋根を張ったものとみられています。上の写真にその様子が再現されています。遺体は二重の棺に入れて埋葬され、その上で朱を塗った丸い石を置いて遺体の代わりに拝んだようです。

参拝者は壺に土産を入れて墳墓の上に供えました。その土器が柱の穴などから200個以上出土しています。山陰地方のもの以外にも吉備の特殊土器、北近畿や北陸系の土器もあります。土器の形式から2世紀後半の墓であるとされていますが、すでに吉備発祥の特殊器台(あとで解説します)もあることから、この3号墓より吉備の楯築古墳のほうが先に造られたことがわかります。

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3号墓の上の様子。ここで葬儀が行われました。手前が第4主体、4本柱が再現されています。奥が第1主体です。棺の底には真っ赤な辰砂(水銀朱)が敷き詰めれていました。f:id:sorafull:20180114215453j:plain

西谷の歴史

この西谷の丘には全部で27基の墳丘が集まっていて、その中で四隅突出型墳墓の6基は王の墓とみられます。

東出雲王国では安来市の「古代出雲王陵の丘」に、東から侵入する敵を防ぐため、仲仙寺墳墓群、塩津山墳墓群など多くの四隅突出型墳墓を造りました。

墳墓の集まりかたを見ても、出雲には東と西の勢力圏があったことが浮かび上がります。

また、これらよりずっと以前の紀元前1世紀頃に造られた出雲市東林木町(西出雲)にある青木4号墓はすでに四隅が突出しています。また鳥取妻木晩田遺跡でみられる子ども用の小さな2mほどのお墓でも、四隅が突出しているのです。伝承ではこの形は、四角と幸の神のXかけ印が合わさったものだということです。これは男女の聖なる和合によって、生命が再び誕生することを祈る再生のマークです。神が天から見たときにX印がくっきりとわかるよう、四隅突出の形になったと伝えられているそうです。

出雲では王の遺体には防腐剤として口から朱(辰砂)を注ぎ入れます。朱は生命の色。魂の再生を祈って遺体のまわりにも振りかけました。殯もがりの期間は地方の豪族たちが続々とやって来て参拝をしますが、その間も腐臭がしなかったそうです。(この辰砂を遺体に注ぐ習わしは、出雲王家子孫の家では江戸時代まで続いたといいます)

このように、古墳時代(3世紀)に入って前方後円墳が造られ始める前から、出雲地方では大型の四隅突出型墳墓が次々と造られ、その始まりは紀元前にまで遡ることがわかります。

出雲王国滅亡後はこの形式の墳墓は途絶えていきました。その代わりに旧出雲王家の勢力圏や血筋のものは、前方後円墳には手を出さず、出雲の誇りとして四角い巨大方墳や前方後方墳を造り続けます。古墳時代前期では東出雲の大成古墳や造山古墳(1辺60mの方墳)が全国最大級です。のちの大阪春日向山古墳(63×60m)の用明天皇陵、蘇我氏の石舞台などもありますが、蘇我氏は出雲王家の血筋であり、用明天皇蘇我氏の血筋ということで納得です。(蘇我氏がなぜ唐突に方墳を造りだしたかの謎が解けますね)

かつて東出雲王家の向家が蘇我氏先祖の武内宿祢を助けたことから絆が強まり、婚姻関係も繰り返して親族となりました。そんなことから古墳時代に入ってからの東出雲の古墳群などは蘇我氏の援助によって次々と築造することができたということです。造山1号墳からは武内宿祢にもらったと言われる三角縁神獣鏡が出土しています。

 

謎だらけの楯築古墳

次に新たな様式をもって現れる古墳が、2世紀後半に造られた吉備の楯築たてつき古墳(倉敷市)です。フトニ大王の御子、キビツ彦の墓ではないかとも言われています。(西谷墳墓群とほぼ同年代です)

楯築の謎

⑴ 古墳の形

⑵ 不思議なご神体、亀石

⑶ 特殊土器 

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 ⑴ 大変珍しい双方突出円墳(双方中円墳)です。下の航空写真に大まかにでも形がわかるように推測でペンを入れていますのでご了承ください。

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円墳の径が約40m、北東と南西に突き出た方形部が10数mずつあって、全長が72mほどです。この時期では最大級といわれています。方形部は宅地や給水塔を造るために壊されてしまいました。

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 古墳の頂上にはストーンサークルのように大きな岩が並んでいます。

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ここにはかつて楯築神社があり、ご神体として「弧帯文石」と呼ばれる不思議な亀石が代々祀られてきました。明治末期に一時移転しましたが大正になって再びこの場所に戻され、上の写真の石の祠の中で祀ってきたそうです。現在はすぐそばの収蔵庫に保管されています。

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この石の表面全体には帯状の弧帯文様が刻まれています。太い8の字の「」が見えます。メビウスの環、無限マークですね。円の中にはまるで昔のテレビのチャンネルのような突起物があって、これを蛇の目ではないかとする研究者もいます。もともと亀石のことを江戸時代には白頂馬龍神石と呼んでいたそうです。角には人の顔のようなものもあり、その真後ろは帯のない空白部分でお尻ともとれます。

さらに不思議なことに、この亀石の8~9分の1サイズの同じ模様の石が、埋葬された棺の上部から出土しました。しかもそれは火で過熱して粉砕されたようで、バラバラになっていました。復元するともとの亀石の縮小版であることがわかったのです。小石はどれも摩滅していて角がとれているそうです。出雲の西谷古墳でも遺体の代わりに朱を施した丸石を置いて拝んだようですが、ここでも死者への儀式として使われたのでしょうか。

一度バラバラにして、埋める。これは縄文時代出雲族が信仰したというオオケツ姫、豊穣の女神の信仰に似ています。のちには東北のアラハバキ神となりますが、土偶を造りそれを祭ったあとに割って埋める。これは作物の神なので土に埋めると豊かに実るという考えなのです。イメージとしては命の種なのでしょう。

亀石に施された弧帯文は生命誕生の渦巻き模様や蛇のトグロにも見え、再生の願いが込められているようにも思えます。

上の写真ではわかりにくいですが、帯の文様はとても複雑で優美です。この文様は土器にも施され、変遷して弧帯文から弧文(纒向から出土した弧文円板など)、そして直弧文(装飾古墳などにみられるより複雑な幾何学文様)へと繋がっていくようです。

 

 ⑶ 棺の中には剣、首飾り、多数の瑪瑙や碧玉の管玉など、そして出雲と同じように二重になった棺の底には辰砂が30㎏も敷き詰められていたそうです。

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古墳の上では葬儀が行われ、特殊器台脚付き壺といった葬儀葬礼用の特殊土器が見つかりました。下の写真は参考のためのレプリカですが、右ふたつが特殊土器で非常に大型化しているのがわかります。これがのちの円筒埴輪へと発展し、特殊土器自体はほとんど吉備地方に限られ、この短期間にしかみられません。

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これらは楯築発祥とされていて、先ほどの出雲の西谷3号墓からも出土しています。次回紹介する大和の纒向遺跡にある箸墓古墳(3世紀後半の前方後円墳)からも、この特殊器台の後期の形式のものが見つかりました。

楯築の特殊器台は四隅突出型墳墓⇨双方突出円墳⇨方突円墳(前方後円墳をつないでいたのです。

楯築古墳は非常に特異な存在でありながら、その後の古墳時代の先駆けとなっているようです。なので宅地造成のために壊されてしまったことが、本当に残念です。

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上の図で古墳でないのは四隅突出型墳墓のみ。不思議です。

 

出雲の伝承では吉備王国は徐福の道教の影響を受けているので、双方突出円墳の形は道教由来の絵にある、3つの細長い口を持った多口壺から発想を得たのではないかとしています。そして特殊器台はその壺の細長い口の部分を切り取って筒状にしたものではないかと。

ストーンサークルの巨石は中国の四神である東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武(亀)を祀ったのだと。とすれば玄武は確かに亀に蛇が巻きついたものなので、先ほどの弧帯文石の不思議な模様もそのように見えてきます。

真相はいかに。

 

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フトニ大王の御子、大吉備津彦命を祀る吉備津神社は本来は吉備国の総鎮守でしたが、吉備国が三国に分割され備中国の一宮となりました。分霊が備前国吉備津彦神社、備後国吉備津神社になったそうです。

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参考文献

論文「施帯文石(亀石)展開図作成と考察」吉備国際大学臼井洋輔著