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源流なび Sorafull

第2次物部東征~日月星・神々の光芒

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中国の三国時代(魏、呉、蜀)について書かれた歴史書三国志」の呉書によると、

呉王(孫権)は230年に1万の兵を夷州(沖縄もしくは台湾)と亶州(九州)に派遣して現地の人を兵士として連れて帰ろうとしたけれど、亶州の場所がわからず夷州から数千人だけを連れて帰った。将軍(衛温と諸葛直)は王の意向に反したとして誅殺された。

とあります。恐ろしいですね。数千人だけ、とさらりと書かれていて。呉王はどれだけの奴隷を欲していたのでしょう。三国時代の熾烈な戦が浮かびます。

この直後から九州の物部勢が2度目の東征の準備を始めたと、出雲の伝承は伝えます。先の話が物部王の耳に入ったのでしょうか。もともと大和を目指して第1次物部東征は行われ、負けはしなかったけれど結果的に磯城王朝に取り込まれたので成功とは言えません。いずれまたとチャンスを狙っていたところ、大陸の戦況を目の当たりにして都を移す計画を実行したのかもしれませんね。

この2度目の東征の主人公は物部イニエ王、いわゆる崇神天皇です。死後の贈り名はミマキイリヒコイニエ天皇、書紀ではハツクニシラススメラミコトとも呼ばれます。ハツクニシラススメラミコト=初めて国を治めた天皇、という意味ですが、どういうわけか神武天皇崇神天皇の2人につけられています。これも出雲の伝承によって第1次が神武(仮の名)、第2次がイニエとすれば、2度の東征をひとつにまとめた記紀の裏側が見えてくるようです。

 

宇佐家極秘口伝書

大分県宇佐神宮宮司であった宇佐公康氏(宇佐国造池守公より57世)が、宇佐家に代々伝わる極秘口伝書の内容を1990年に著書「古伝が語る古代史」にて公開されました。次世代に受け継ぐ者がいないため、一子相伝の「口伝書」と「忘備録」を世に公表して残そうと決意されたようです。ただし引き継がれたそのままの形ではなく、氏が口伝書を考証しながら、その解説として記されているので、内容すべてがそのままというわけではありません。

宇佐神宮は全国4万社以上ある八幡宮の総本社です。一時は伊勢神宮を凌ぐほど皇室と密接になり崇拝されました。

この宇佐家伝承によると、物部氏の原住地は筑後平野で、高良神社が氏神であり、神武東征以前にニギハヤヒが部族を率いて大和へ移ったとあります。そして崇神天皇物部氏の首長であったと。

ニギハヤヒが大和へ移ったとは第1次東征のことでしょうか。それとも初代ヤマト王海村雲のことでしょうか。高良神社については、以前の記事【隠された物部王国vsヤマト王国の誕生】から少し長くなりますが引用します。

 

《 筑後一宮、高良大社久留米市高良山の祭神である高良玉垂命こうらたまたれのみこととは誰なのか。古代史界では謎の存在であるようです。

九州王朝説の古賀達也氏によると、4~6世紀の九州王朝の都が筑後地方にあり、この高良玉垂命は天子の称号で歴代倭王であるとしています。さらに玉垂命の最後の末裔とされる稲員いなかず家の家系図があり、初代玉垂命とは物部保連やすつらであると記されています。また高良大社の文書、高良記(中世末期成立)には、玉垂命が物部であることは秘すべし、それが洩れたら全山滅亡だと、穏やかではないことが書かれているそうです。

古賀氏は2008年に自身のホームページの中で「天孫降臨以来の倭王物部氏であったとは考えにくい」とし、これらの文書がうまく理解できないと書かれています。その後どういった見解になっておられるのかまだ探せていませんが、九州王朝を研究されている方でも、物部氏という存在はそれほど見えにくいものなのかと驚きました。

出雲の伝承では筑紫は2世紀まで物部王国だったそうです。蘇我氏出身の推古天皇(在位593~628年)が587年に蘇我物部宗家を滅ぼしたことを気にして、吉野ヶ里に近い三根の郡に経津主ふつぬしの神(物部の祭神)を鎮めるための社を建てました。その地を物部の郷といったそうですが、記紀に物部のことが書かれなかったことから忘れられていったといいます。

高良玉垂命は4~6世紀なので、大和への東征に参入しなかった物部の一派がその後も筑後に残っていたということでしょう。》

 

このような見えにくい物部氏ですが、宇佐家の伝承の中にその片鱗を見いだすことができます。さらにモノノベという名の由来の説明もありました。

古代の日本人はすべての現象には精霊が潜んでいて、背後から支配しているとして、これをモノと呼んでいた。現代では五感によって触れることのできる物質をモノというが、古代人の観念ではモノとは物そのものの本質であり、精霊のことであったということです。今でも物質ではなく「もののけ」「もの思い」「ものの哀れ」「もの怖じ」など霊的、精神的なことにも用いますよね。つまり見えないもの。

モノノベ氏とは精霊を鎮魂呪術によって司祭する部族だったそうです。そもそも始祖の徐福は神仙術、道教の方士であり、天文学や医薬、祈祷、呪術を極めていたのでそれも当然でしょう。

また宇佐氏によると物部氏神剣(ふつのみたまの剣)の霊能によって外敵を征服し、また死霊や生霊、獣魂などの祟りを鎮めたりしたそうです。のちにモノノベからモノノフ(武士)という言葉が発生し、これが日本の武士の起こりだとしています。

 

 都万王国

さて、物部氏の首長であったという崇神天皇イニエ大王について話を進めます。232年頃、イニエ大王は軍とともにまずは南九州へと向かいます。肥前国風土記にはイニエ大王の時代のこととして、朝廷が肥前国熊本県)の土蜘蛛(抵抗する先住民)を滅ぼさせたと書かれています。風土記記紀編纂の後に各地から提出させられているので、それに合わせ、直接イニエ大王の話とはせずに描いているようです。実際にはイニエは一地方の王であり、九州から外へは出なかったと伝えれられています。

 

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とても大雑把な地図ですみません。国の境界は8世紀以降のものです。なので当時の国を色分けによって大まかに掴んでくださいね。

物部軍はさらに南へ進み、イニエ大王は薩摩の笠沙で阿多の豪族、竹屋ノ守の娘、阿多津姫を后に迎えます。古事記ではコノハナサクヤ姫として描かれました。

✿ニニギノ命が美しい姫と出会い求婚した際、姫の父は姉のイワナガ姫もともにもらってほしいと求めます。ですがニニギは美しいコノハナサクヤ姫だけを妻とします。怒った父の大山津見神から「王の命は花のように短くなるだろう」と呪いの言葉を告げられるというお話です。

イニエ大王は薩摩半島から船で大隅半島をまわり、宮崎の大淀川の河口に上陸します。ここが都万つま国、のちの日向国です。魏書のいう投馬国ですね。家が5万戸余り(和国第2位。邪馬台国が7万戸)あったと書かれています。

阿多津姫は生目イクメ王子をもうけました。生誕地には生目神社が建てられています。記紀ではイクメの母は大彦の娘ミマツ姫であるといいます。けれど大彦とは時代が違います。

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イザナギが黄泉の国から戻って最初に禊ぎ祓いをしたのが「筑紫の日向の橘の小門おどの阿波岐原あわぎはら」でした。現在、大淀川の河口に阿波岐原町があり、その隣が小戸おど町です。すぐ近くの川沿いには橘地区もあります。古事記でこれほど詳細な地名が記されているのはここだけですが、この地名を重要視する人はあまりいないそうです。

★このイザナギの禊ぎ祓いによって神々が生まれます。面白いのは最初に生まれ出たのが「衝立船戸ツキタツフナトの神」、クナト大神ですね。5番目には「道俣チマタの神」、幸姫命でしょうか。

イニエは大淀川から北方の一ッ瀬川を遡ったところに王宮を造りました。近くには西都原さいとばる古墳群が残されています。

阿多津姫はイクメ王子をもうけた後、神話の通り、花のように短い一生を終えました。阿多津姫はコノハナサクヤ姫として都万神社に祀られています。

生目神社の北に生目古墳群がありますが、出雲の伝承ではここにイニエ大王とイクメ王子(のちの垂仁天皇)が葬られているということです。

 

ニニギノ命が筑紫の日向の高千穂の峰に天降りしたときの言葉。

「ここは韓の国に向き合い、笠沙の岬にまっすぐ通じていて朝陽が射す国、夕日が輝き照る国でまことによいところだ」

この「筑紫の日向」という2つの地名が実際には離れていることと、ニニギの言葉をそのまま解釈することは地理的に無理があるために、古代史界では様々な説があります。

出雲伝承の「物部の都万王国」という見方をすれば、物部氏の原住地である筑紫は韓国に向かい、薩摩の笠沙は夕日の照る国で、日向は朝陽の射す国です。筑紫から薩摩、日向の物部氏の支配地を表していると言えそうです。

 

豊王国

第1次東征は、磯城王朝のような「太陽の女神を祭る姫巫女」という権威をもたない物部軍の敗北でもありました。もともと物部氏星の神カカセオを祭っていましたが、さほど人気がなかったようです。記紀ではカカセオ(天津甕ミカ星)は悪神にされていますね。

★☆道教を信仰していた徐福は、宇宙の中心である北極星(北辰)やその周りを巡る北斗七星を崇拝し、夜は山に登って天を拝んでいたといいます。北斗七星は北極星を中心にして一晩で1回転し、柄杓ひしゃくの柄は1年で12方位を指すので天の時計でもあり、道教の聖数7でもあります。星信仰は古代エジプトに始まり、ユダヤ人も影響を受け、彼らの移動によって中国へ渡り道教に融合したといいます。ユダヤ教の最も神聖な数も7です。また徐福を含め渡来した秦族には、イスラエルの血筋が含まれているとも言われています。物部氏の子孫である真鍋大覚氏(1923~1991)は航空工学者でありながら暦法家として著書も遺されています。代々星読みの家系だったようですね。

2度目の東征ではイニエ大王は巫女を立てることにしました。そこで九州で人気のあった豊王国の月神信仰を取り込もうとします。

当時、豊王国は宇佐家を中心として、東九州から西中国、土佐にまで勢力を伸ばしており、宇佐王国とも呼ばれたそうです。宇佐家も古代は母系家族制だったといいます。

宇佐宮の主神は月の女神=月読尊つきよみのみこと=ウサギ神です。ウサギ神は月の模様からきているらしく、古代の人の連想が微笑ましい。

宇佐家伝承によると、兎狭うさ族の天職は天津暦あまつこよみであり、月の満ち欠けや昼夜の別を目安として月日を数える月読みです。暦とはコヨナクヨムの短縮した言葉で、天候や季節の移り変わりをこの上なくうま

く判断して現実に当てはめるという意味があるようです。出漁や農耕の指導もできますね。

記紀では月読尊は夜を統べる神であったり、月の引力と潮の満ち引きの関係から海原を治める神ともされました。実際、月の満ち欠けは地上の生命に影響を及ぼし、女性の月経、動物の産卵、植物の生育など生と死、命の満ち引きに深く関わります。月を崇拝することは古代の信仰としては必要かつ自然なものだったと思われます。

古代日本には早期からこの列島に住みついたウサ族の月信仰、その後渡来した出雲族の太陽信仰、そして徐福たち秦族の星信仰が共存していたのです。記紀によって太陽神アマテラスだけが大きく取り上げられ、月読尊は弟でありながらチラリとしか描かれず、星神カカセオは悪神という扱いです。古代日本では日月星の三つの信仰が存在していたということが、意図的に隠されてしまったようです。徐福とヒミコが国史から消えてしまったように。

 

さて、この豊王国の月信仰を取り入れようとしたイニエ大王は、月の女神を祭る宇佐の姫巫女を后として迎えます。この姫巫女が2人目のヒミコ、いわゆる邪馬台国卑弥呼です。

長くなりましたので、続きは次回へ。