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源流なび Sorafull

魏書に潜む男たちの戦い

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いわゆる邪馬台国の時代、日本は西の物部・豊連合王国と東の磯城王朝が対立していました。都はひとつではなく、都万と大和(この時は和邇)にあったことになります。

それでは今回は外から見た和国の様子を見てみたいと思います。中国の史書、三国志の魏書に記された邪馬台国時代を追ってみましょう。

 

女王国から北の地には一人の統率者を置いて諸国を取り締まっている。この統率者は常に伊都国(北九州)に駐屯し、諸国は畏れはばかっている。〈中略〉帯方郡の使いが和国に行くときはみな、港で荷物をあらため、文書や贈り物に誤りがないかを確かめてから女王に差し出す。不足や食い違いは許されない。

 

豊玉姫(ヒミコ)は魏の使者が自分の住む都(実際には都万国)に来させないようにして、伊都国を通してやり取りし、ヤマタイ国が大和にあるように見せかけていました。

魏より前の漢の時代、大和国の大王が使節を派遣していたので、都万国がその大和を攻めるということは伏せることにしたようです。後漢書を見てみます。

 

倭は韓の東南方の大海中にある。倭人は山の多い島に村落をつくっており、全部で100国余りある。

前漢武帝(BC141~87年在位)が衛氏朝鮮を滅ぼした後(BC108)、漢に使者を送ってきたのはそのうちの30国ほどである。それらの国の首長はそれぞれ王を名乗り、後継者はその家の者が代々務める。その大倭王はヤマト国にいる。

 

初代ヤマト王の海村雲がBC2~1世紀頃なので、海王朝のことでしょう。再び魏書に戻ります。

 

魏の明帝の景初2年(238年)6月、倭の女王卑弥呼は大夫難升米らを帯方郡によこし、魏の天子に直接会って朝献したいと言ってきた。

 

明帝は239年1月に崩御しているので、この景初2年は3年の間違いのようです。豊玉姫は新しく即位した新帝へのお祝いとして使節団を送りました。同年12月、魏からの返事がきます。

 

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親魏倭王卑弥呼へみことのりする。帯方郡太守の役人が送りとどけた汝の正使の難升米、副使の都市牛利らが、汝の献上品である男奴隷4人、女奴隷6人、斑織の布二匹二丈を持って洛陽へ到着した。汝の住むところは海山を越えて遠く、それでも使いをよこして貢献しようというのは、汝の真心であり非常に健気に思う。そこで汝を親魏倭王として金印、紫綬を与えよう。封印して帯方郡の太守にことづけ汝に授ける。国の者をなつけて余に孝順をつくせ。使いの難升米、都市牛利は遠いところを苦労して来たので、難升米を率善中郎将に、都市牛利を率善校尉とし、銀印、青綬を与え、余が直接会ってねぎらい、贈り物を与えて送り返す。

 

この難升米とはヒボコ(辰韓から渡来した王子)の子孫である田道間守タジマモリのことだそうです。そして都市牛利は物部の十千根入彦トオチネイリヒコであると。タジマを難升米と書き、都市牛利の牛は子の写し間違いで、トチネイリ⇨トシネリ。

さてこのタジマモリとはヒボコ5世の子孫であり、但馬の豪族です。韓国人と交流していたので韓国を通過する際の通訳ができ、さらに漢文が読めるということで物部勢から選ばれ、都万国に迎えられました。

一方、物部の十千根入彦は第1次物部東征でヤマトへ行った物部の子孫です。イニエ大王が再びヤマトへ東征するということを知って、西都原に戻ってきた物部勢のひとりでした。

イニエ亡き後、豊玉姫は各地方の有力者を都万国へ集めます。その1人に重要人物がいます。磯城王朝クニクル大王の孫にあたる武内大田根タケシウチオオタネ(のちの武内宿祢)です。紀伊国で生まれ、出雲と物部の血を受け継いでいます。父がクニクル大王と物部の姫君との間に生まれたフツオシノマコト、母が紀伊の高倉下の子孫、山下陰姫です。高倉下とは徐福の息子・五十猛と大国主の孫娘・大屋姫の息子です。海部、物部、出雲、すべての家系を受け継いでいると言えますね。なのでこの先、敵味方の間で揺れ動く、ややこしい存在となります。「宿祢すくね」とは物部が重臣に与える家の敬称で、出雲では「臣」でしたね。武内大田根はイクメ王から与えられました。

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菊池容斎の描いた武内宿祢(明治時代)

大田根には異母弟がいて、尾張の姫君を母にもつ弟を都万に呼び寄せました。額田宿祢(別名・甘美内ウマシウチ宿祢)の敬称をもらいます。この兄弟は記紀ではそれぞれ違う時代に書かれています。魏書を続けます。

 

正始元年(240年)、帯方郡の太守キュウジュンは役人のテイシュンらを遣わして、みことのりと印綬を倭の国に持って行かせ、倭王に任命した。そして黄金、白絹、錦、毛織物、刀、鏡、その他の贈り物を渡した。倭王は使いに託して上奏文を奉り、お礼を言ってみことのりに答えた。

 

和国の使節団と帯方郡の使者が伊都国に着きました。豊玉姫は伊都国に赴き、テイシュンから詔書を手渡されます。お礼を言ったとも書かれていて、急にリアリティーが出てきますね。

さて、この時の贈り物の中で話題となるのが鏡です。ヒミコと言えばなぜか三角縁神獣鏡と結びつけられますが、関係ありません。三角縁は日本で造られたもの。ヒミコがもらった鏡は、魏書では「銅鏡100枚」と書かれています。日本で見つかった三角縁は500枚近くあります。このたくさん出土する三角縁は魏ではなく呉の鏡なのです。呉は道教ではなく仏教の鏡なので仏獣鏡です。出雲の伝承では大和のヒコイマス大王が豊玉姫と魏のやり取りを知って、それに対抗するために和国にいる呉の鏡職人に造らせました。登美家の大加茂津見も数百枚造らせたそうです。

魏との争いで亡命してきた呉の鏡造りの職人たちは、大和国の求めに応じて三角縁の鏡を造りました。(鏡を大きく造るには縁を厚くする必要があり、三角縁としたそうです。)ですから磯城王朝の支配下の者へ配られたものが出土しています。

ちなみに豊玉姫が魏に求めた神獣鏡ですが、当時の中国では道教の乱(黄巾の乱)の直後だったので、道教神の描かれた神獣鏡は禁止されていました。なので溶かす予定の不要となった鏡が和国に渡されたようです。魏書を続けます。

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奈良県新山古墳出土の三角縁仏獣鏡

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熊本県江田船山古墳出土の画文帯神獣鏡(後漢

 

正始4年(243年)、倭王はまた大夫の伊声耆掖邪狗ら8人を使いとして、奴隷、倭の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、木の小太鼓、短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬をもらった。

 

「伊声耆イセシ」は古事記の「伊佐知」であり、イクメイリビコイサチノ命=イクメ王=のちの垂仁天皇です。「掖邪狗ヤシャク」はイクメの異母兄弟、八坂入彦です。いずれ大王になる者が直接外国へ出向くことは良しとされなかったので、イクメは別名で使者の振りをしたようです。当時帯方郡まで出向かなければ銀印は受け取れない決まりになっていたといいます。伝承によれば、イクメはタジマモリや物部十千根印綬を渡されたことを羨んでいたからだとしています。

 

正始6年(245年)、みことのりを発して倭の難升米に、黄色い垂れ幡を帯方郡の太守を通して与えた。

 

黄色はかつて中国のロイヤルカラーでした。皇帝、王家の色だったのです。この幡を掲げることは中国の属領になったことを意味します。これを軍隊の先頭に掲げて進みます。伝承では魏からもらった合計8本の黄色い幡を、豊玉姫が宇佐の社に飾ったことから「八幡宮はちまんぐう」と呼ばれるようになったと言われています。八幡は軍旗なので、八幡宮は月読みの神から武力の神へと変わっていったそうです。

 

正始8年(247年)帯方郡の太守オウキが着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前より仲が悪かったので、倭の戴斯・烏越らを帯方郡に遣わし、攻め合っている様子を述べさせた。(帯方郡のチョウセイらを洛陽に遣わし、魏王からの)詔書と黄色い垂れ幡を難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。

 

「倭の載斯・烏越」というのは武内宿祢です。載は戴の写し間違いでしょうか。タケシウチ⇨タイシウェツ。

そして前回も書きましたが、豊玉姫は自分の敵はクヌ国(大彦の子孫)だと言い通していましたので、魏はあくまで敵国はクヌ国と想定しています。ここで出てきた卑弥弓呼とは、出雲の解釈では磯城王朝の彦道主之御子ヒコミチヌシノミコとしています。省略するにもほどがある感じですが、確かに和名は長いです‥‥。

磯城王朝では和邇奈良盆地東北)に宮を構える10代ヒコイマス大王が老齢となり、彦道主之御子(別名・彦多都御子)が有力となっていました。兄弟のサホ彦よりも大きな勢力になっていたようです。10代大王は第2次物部東征が始まる直前に亡くなります。

さて、倭の使者として帯方郡へ渡った武内宿祢ですが、タジマモリやイクメらのように印綬や位を与えられることはありませんでした。出雲の解釈では、豊玉姫が武内宿祢の才能を恐れ、息子豊彦よりも偉くならないようにイクメと謀って、魏に対して武内宿祢に位を与える要求をわざとしなかったとしています。魏から戻ったチョウセイが詔書と黄色い幡を手渡したのもタジマモリでしたし、この扱いの違いを目の当たりにしてなんとも思わない人はいないでしょう。

この後、武内宿祢は和歌山へ帰郷し、磯城王朝へと寝返ります。そして大和側から内密に頼まれていた中国産の青銅を買い込み、鏡造りの職人も雇って大和国へ運ばせました。この人も三角縁神獣鏡を数10枚作ったそうです。

 

魏書の続きでは、使者のチョウセイが到着した時には、卑弥呼はすでに死んでいたと書かれています。宇佐家伝承ではウサツ姫(豊玉姫)は安芸に6年滞在したことになっているので、241年頃にはすでに安芸にいたのでしょうか。(出雲伝承では246年には瀬戸内へ向けて東征を開始したとされています。)

 

今回は三国志魏書から見えてくる和国の動きを辿りました。この後、物部東征によって東西出雲王国、吉備王国、磯城王朝は雪崩の如く滅亡へと向かっていきます。その先頭に立つのが魏書に登場したイクメ王、タジマモリ、物部十千根、武内宿祢です。イニエ大王から豊玉姫へ、そして次に現れた男たちへ、東征とその後の歴史は引き継がれていきます。