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源流なび Sorafull

太陽の女神(オオヒルメムチ)VS 月の女神(ワカヒルメムチ)

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イクメ王の率いる東征軍が生駒山地に逗留している頃に話は戻ります。今回は勝友彦著「親魏和王の都」を参照します。

 

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3人目のヒミコ

大和では磯城王朝10代ヒコイマス大王が亡くなり、娘の佐保姫三輪山の姫巫女となっていました。三輪山の姫巫女は代々登美家の姫が受け継ぎます。

イクメ王は大和を支配するにはこの姫巫女を味方につけるのが得策と考え、佐保姫を妻とします。佐保姫は大霊留女貴オオヒルメムチと呼ばれました。のちにオオヒルメムチが太陽の女神を意味するようになったといいます。この女性がいわゆる3人目のヒミコです。

佐保姫の兄、佐保彦(磯城王朝11代ヒコミチノウシ大王の異母兄弟)は和邇の都を守るため佐保川周辺に軍を配置していました。しかし妹がイクメ王の后となったため一旦休戦せざるを得ません。

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★軍の位置関係をおおまかに示したものです。範囲には意味がありません。

 この時、遅れて大和入りした豊来入彦率いる豊国軍は、物部軍の南側で陣営を張りました。そしてイクメ王が大和の佐保彦と休戦したことを知ります。豊来入彦は母、豊玉姫(ヒミコ)が魏より親魏和王に任命されたことから、自分の方がイクメ王よりも後継者として相応しく、妹の豊来入姫を大和の姫巫女(月の女神)にするよう考えていました。なので先にイクメ王が三輪山の姫巫女(太陽の女神)である佐保姫と組んだことに不満を抱きました。

同時期に魏領の帯方郡から北九州の伊都国に来ていた使節の張政が、文書で豊来入姫を豊玉姫の後継者として指名します。和国は魏の属国なのでイクメ王も従うほかありません。物部勢は再び豊国軍と手を結びます。イクメ王は豊来入彦から佐保姫と離縁するよう迫られ、応じました。

豊国軍はその後鳥見山の登美の霊畤を占領、そして登美家(加茂家)の勢力を追い払いそこに住み着きます。豊来入姫4人目のヒミコとして、大和に月神の信仰を広めました。三輪山に桧原神社を建てて月神を祭りました。この宇佐の月の女神は太陽の女神オオヒルメムチに対してヒルメムチと呼ばれたそうです。

形勢不利となったイクメ王は密使を出雲の向家(富家)に送ります。「出雲兵を大和に派遣して豊国軍を追い払えば、大和に領地を与える」と。それと同時に、豊来入彦に佐保彦軍を追い払うよう仕向けます。

イクメ王はなかなかの策士ですね。物部勢力は第1次東征の頃から他より抜きん出ているように感じます。

さて、豊来入彦の息子、八綱田ヤツナダを将軍とした豊国軍に佐保彦勢は攻め込まれ、近江から尾張国の丹羽郡へ逃げたそうです。佐保彦はさらに東へ向かい、甲斐国にて日下部連と名前を変えました。

豊国軍は山城国まで追い、そこから亀岡に逃げていた道主大王(ヒコミチノウシ大王)を倒しに向かいます。その隙を狙って大和から追い出されていた加茂家のタタヒコが三輪山に侵攻します。すでに出雲から加勢に来ていた出雲軍とともに、もとの領地と磯城王朝の領地の一部を得ます。豊国勢力を追い払った加茂タタヒコは三輪山の祭祀を復活させ、この時から初の三輪山男性司祭者となりました。記紀では大田田根子となっていますが、この人はモモソ姫の世話役だったので時代が違います。タタヒコは子孫のようです。

亀岡では道主大王軍と、加勢していた武内宿祢の軍勢が豊国軍と物部軍に取り囲まれ、ついに降伏しました。

イクメ王は今度は道主大王の娘、ヒバス姫を后として支配力を強めようとします。道主大王は丹波の網野へと去っていき、網野神社を建て、父であるヒコイマス大王を祭りました。道主大王はその後、稲葉(のちの因幡)国造に任命され、青年期の名前、ヒコタツとして移住します。

磯城王朝11代・道主大王=ヒコミチノウシ大王=ヒコタツ

武内宿祢もそれに従いました。道主大王の御子は磯城王朝の直系ということを誇示し「朝廷別王ミカドワケ」を名乗って三河の豪族となったそうです。

イクメは大和の大王(垂仁)となり、この時より大和における物部王朝が始まります。イクメは旧都、和邇石上イソノカミ神宮を建て、政治の中心としました。ヒバス姫の御子、イニシキイリ彦が鉄剣1000本を作って石上神宮に納めたといわれています。物部王朝時代の武器庫でもあったそうです。

イクメ大王は魏との国交を絶ちました。属国からの脱却です。親魏和王、ヒミコの功績を覆した瞬間ですね。このずいぶん後になりますが、日本の史書から豊玉姫(ヒミコ)が消えたのは、魏の属国であった負の歴史を消すためだったようです。

大和から追い出された豊来入姫は兄たちのいる丹波へと逃げました。しかし豊国軍と物部軍の不和によって豊国軍は東方へと移住していき、尾張国に至ります。近辺には豊の地名が残っています。豊明、豊田、豊川、豊橋など。豊来入姫は布教のために丹波に残りますが、詳細は次へ回します。

 

もうひとつの伝承

さて、斎木雲州著「古事記の編集室」によると、少し違う伝承が見えてきます。イクメ王が佐保姫を離縁したのではなく、佐保彦を倒そうとしているイクメ王に対して、佐保姫から離縁を申し出たとされています。イクメ王はそれを許さなかったので、佐保姫は夜中に幼い息子、ホムツワケを連れて兄のもとへ逃げたといいます。その後尾張家を頼って尾張へ至ったと。尾張国風土記逸文にその後のホムツワケの様子が記されているので要約します。

垂仁天皇の世、ホムツワケ皇子は丹羽郡吾縵あづら郷(愛知県一宮市)に住んだが、7歳になっても言葉を発することができなかった。ある夜、佐保姫の夢に多具の国の神、ミカツ姫が現れ「まだ私には祭祀してくれる者がいない。私を祭るなら御子の病を治し長寿を与えよう」と告げた。霊能者(神と交流できる)の日置部の祖、建岡ノ君は美濃国の花鹿山(岐阜県揖斐川町谷汲)に行き、榊の枝で縵かづら(古代のかんざし)を造った。そして占うと、その縵がひとりでに飛んでいって吾縵の地に落ちたので、ここにミカツ姫がいらっしゃるとわかり社を建て、神を祭った。それでホムツワケは言葉を喋るようになった」

今も阿豆良あづら神社が鎮座し、垂仁朝57年に創建、ご祭神はミカツ姫となっています。

このミカツ姫出雲国風土記にも記されています。詳細は省きますが、アジスキタカヒコの妻、御梶ミカジ姫のことのようで、アジスキタカヒコといえば八千矛(大国主)の息子で高鴨家の祖ですね。つまりミカツ姫とは大国主の息子の嫁にあたるわけです。

多具の国とありますが、出雲の松江市鹿島町に多久神社があり、風土記の頃からミカツ姫を氏神様として祭っているそうです。また出雲市多久町にも多久神社があり、こちらは御梶姫を祭っています。ここで息子の多伎都彦を生んだといわれています。

さて、この尾張国風土記が元になって、古事記ではかなりドラマティックな話に変わっています。要約します。

 

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佐保姫と佐保彦、そしてイクメ王の恋

「お前は大王である夫と兄の私と、どちらを愛しいと思っているのか」

そう問われた佐保姫は「お兄さまです」と佐保彦に答えた。

「それが本当であるなら、私とともにこの国を治めよう」そう言って佐保彦は小刀を妹に手渡した。眠りについた大王をこれで殺してほしいと言って。

ある日、佐保姫は自分の膝枕で眠る夫の首を見つめながら小刀を手にした。三度小刀を振り上げたけれどどうしても振り降ろすことができず、涙がこぼれた。大王の頬にその涙が落ちる。大王は驚いて后に尋ねた。「あやしい夢を見た。サホのあたりから叢雨が降ってきて、小さな蛇が首にまとわりついた。どういうしるしだろうか」

その言葉を聞いて佐保姫はすべてを打ち明けた。大王はすぐに軍を仕立て佐保彦を撃とうとした。佐保彦は稲城を作って防備した。兄の窮地を知った佐保姫は王宮から抜け出して兄のもとへと走った。しかしその時すでに佐保姫の体には子が宿っていた。

大王は数多い妻の中でも佐保姫を特別愛おしんでいたため、佐保姫のいる稲城へ攻め込むことができなかった。何ヶ月かが過ぎ、佐保姫に宿っていた御子が生まれ落ちた。佐保姫はその御子を連れて稲城の外に置いて使いの者に言った。

「もしこの御子を大王の子だと思ってくださるのなら、お育てくださいませ」

大王は「佐保彦は憎い。けれど后を愛おしく思う気持ちを抑えることはできない」と言った。そして后を取り戻そうと試みたが、佐保姫は大王の先を読んでうまくすり抜けた。御子は大王のもとに渡った。

その後も大王は何度も佐保姫を取り戻すための言葉をかけた。

「子の名は母がつけるものだ。この子を何と呼べばいいのか」

「御子は火の中に生まれ出たので、ホムチワケ(火内、火中の意)の御子といたしましょう」

「いかにして養い育てればよかろうか」

「乳母を選んで養い育ててください」

「そなたの固く結んでくれた下着の紐は、誰に解かせればよかろうか」

丹波のヒコミチウシ(佐保姫の異母兄弟)の娘らは心根が清くやさしいので、后として選ばれるのがよろしいでしょう」

大王はついに尋ねることがなくなり、これ以上引き延ばすこともできず、とうとう佐保彦の稲城に火を放った。兄の後を追って佐保姫も死んでしまった。

ホムチワケの御子は生まれつき物言わぬ子であった。大王はこの病を治そうといろいろ試みたけれど、ホムチワケは成長しても物を言うことはなかった。

ある夜、大王の夢にお告げがあった。出雲の大神の祟りであることがわかった。我が宮を立派に作り直したならば、御子は言葉を話すであろうと。そこで大王は曙立アケタツと菟上ウナカミホムチワケのお伴をさせて出雲の大神の宮へと向かわせた。出雲で大神を拝み終わったホムチワケは突然話し始めた。この夜、ホムチワケはヒナガ姫と共寝をしたが、実は姫は人ではなく蛇であったという。驚いたホムチワケは慌てて逃げ帰った。

大王はホムチワケが物を言うようになったことを喜んで、菟上を出雲へ遣わせ、出雲の大神の宮を大王の大殿のごとくに作り飾らせた。

 

古事記ではこのように、兄妹の許されぬ愛や大王の狂おしいまでの愛慕を描いた話となっています。でも伝承では佐保姫は尾張へと逃げることができたようですし、ホムチワケも母のもとで育っているので、これほどのドラマはなかったようですね。となるとこの話を描いたのは何を伝えるためだったのか、ということを拾っていったほうがよいでしょう。

政治的な面を見れば、物部東征軍が出雲国を滅ぼした、その祟りによって御子に災いが起きているわけです。そして祟りを解くために出雲へ派遣されたのが菟上王(豊来入彦の息子)と曙立王(物部朝倉彦)(登美家の分家)2018/09/23訂正であり、この2人は西出雲王国を滅ぼした将軍です。曙立王のフルネームが古事記の中で記されていて、倭者師木登美豊朝倉曙立王であり、ヤマト、磯城、登美、豊、朝倉が並んでいますね。すべてに関係した者という意味でしょうか。まるで暗号のようです。

次に兄妹の禁断の愛を描く意図を、Sorafullの推測で説明してみたいと思います。母系家族制かつヒメヒコ制というこの時代特有の兄妹の緊密な繋がりを、こういった物語でなぞったのではないかなと思います。母系家族制では男兄弟は姉や妹たちの面倒を最後まで母の実家でみるわけで、しかも佐保彦が王であれば佐保姫は姫巫女として共に国を治めることもあります。そんな妹が敵であるイクメ王の后となったために、佐保彦は複雑な心情を抱き始めます。一方佐保姫にしてみれば、望んで敵方のイクメ王の后になったはずもなく、本心は兄とともに自分の国を守りたい。でもイクメ王の愛情に接するうちに女としての情も湧いてくる。そんな引き裂かれるような思いの中で、大王に対して、私を信じてくれるのなら命より大切な御子をあなたに差し出します、そして私の命でもある兄とともに死を選びます、と言い放ったように思えるのです。出雲を滅ぼされ、大和まで奪われそうになっている三輪山の姫巫女として、今できることを真摯に貫いた女性の覚悟をここに感じます。

1人目のヒミコである三輪山の姫巫女モモソ姫は、第1次物部東征において物部と協調する道を選び、やがてそのカリスマ性によって敵をも抱きこんでいきました。2人目のヒミコ、豊玉姫は夫によって物部に差し出されますが、その宿命を受け入れ、やがて物部東征の総指揮者として命果てるまで挑みます。

神と繋がること、国の命運を背負うこと、女として、そして母としての想い。

この時代の姫巫女という立場を全うした女性たちの直向きさと悲しみが、佐保姫の物語によって浮かび上がってくるようにも思えるのです。

次回は4人目のヒミコを紹介します。

 

★おまけ★

長くなりましたので「おまけ」として追記しますね。

古事記の中でイクメ大王が佐保姫と御子を稲城から確保しようとしたときのことです。

佐保姫はあらかじめ髪を剃ってカツラをかぶり、玉飾りの紐も腐らせておき、衣も腐らせて身に着けていました。力士たちが御子を受け取り、すぐに姫を捉えようとしましたが、髪をつかむとするりとカツラが取れ、手を握ろうとすると手首に巻いた玉飾りの紐が切れて玉が散り落ち、衣を握ったと思えばぼろぼろになって破れてしまい、姫はするりと逃げてゆきました。それを知った大王は悔しがり、特に玉飾りを作った者たちをひどく憎んで、その者たちの土地を奪い取ってしまいました。今に伝わる諺に「地ところ得ぬ玉作り」と言われています。

と、こんな諺が出てくるのですが、古事記の訳者たちは諺の意味がわからないそうです。なぜ玉作りだけがこれほど憎まれ、しかも土地を奪われるのか。

Sorafullの解釈ですが、玉作りといえば出雲です。勾玉は出雲王国と親戚になった豪族たちが、その証として身に着けるものでした。東出雲王国は玉作りが資金源でもあったようです。第2次物部東征によって出雲王国は滅亡、出雲国を除いた広大な連合国は没収され物部の支配下となります。その後の大和での野見宿祢らの功績は認められたものの、結局大和に領地はもたないままとなりました。加茂家だけが少し取り戻しましたが。このことから「地得ぬ玉作り」という諺ができたのではないのかなと思っています。

ちなみに三浦佑介氏は、竹取物語の中にも共通のパターンがあると指摘しています。偽の真珠の枝を作らされた職人たちもまた、ひどい目に合わされたからです。この竹取物語を読み解くことで、記紀がどのように創られたのかが見えてきます。少し先になりますが、ご紹介したいと思っています。