アメノウズメと月の女神
古事記の中でニニギノ命が天降ろうとした時、下を眺めると天の八岐やちまた(道の分かれるところ)に見知らぬ神が立っていました。その神は高天原から葦原中つ国まで、照らし輝かせています。天照大神はアメノウズメを遣わせ、なぜ道を塞ぎっているのか尋ねさせます。その神は国つ神のサルタ彦大神だと名乗り、天孫の御子の先導役としてお仕えするために待っているといいます。
日本書紀ではこのサルタ彦大神の容貌を、鼻がとても長く背も高く、目が八咫鏡のように照り輝いて赤いと描写しています。象神ガネーシャの鼻、日本人離れした大きな体と大きな目を比喩しているのでしょうか。時代が下るとこれが天狗の姿へと変わっていきますが。
古事記ではサルタ彦大神が天も地も照らしていることから、まるで太陽神のように描かれていますね。ただの道案内とは思えません。
サルタ彦の先導によってニニギノ命が高千穂の嶺に降臨し、宮を建てて落ち着くと、アメノウズメにサルタ彦を元の国(伊勢)へお送りするよう命じます。さらにその名前を継いでお仕えするようにとも命じ、アメノウズメの子孫は猿女サルメ氏を名乗るようになりました。
出雲の伝承によると、このアメノウズメとは豊来入姫のことだそうです。
豊来入姫は丹波を離れ、伊勢国一の宮、椿大神社つばきおおかみやしろに身を寄せたと伝えられています。ここはサルタ彦大神の総本宮とされています。社家である宇治土公うじとこ家は豊来入姫をかくまうために、宇佐女尊ウサメノミコトと呼ばれていたのをウズメノミコトと変え、サルタ彦大神の后神だと説明したそうです。そのため宇治土公家は両神の名を合わせて猿女サルメの公キミとも呼ばれました。
豊来入姫の名を辿ってみると、
豊姫(豊国)=壱与トヨ(魏書)=豊来入姫(大和)、若ヒルメムチ=豊鋤入姫(記紀)=宇佐女尊(伊勢)=ウズメノミコト=アメノウズメ(記紀)
といった多くの呼び名に変えられています。故郷の豊国から各地を転々としながら、最後は身を隠すように生きていた姫巫女の心細さが伝わってくるようです。
椿大神社の奥に別宮、椿岸神社が建てられ、鈿女ウズメ本宮と呼ばれています。豊来入姫はここで、イクメ大王の差し向けた刺客によって暗殺されたと伝えられています。
日本書紀に次のような記述があります。
「稚日女尊ワカヒルメムチが機殿で神衣を織っておられるところへ、素戔嗚スサノオ尊がまだら駒の皮を剥いで投げ入れた。驚いたワカヒルメムチは驚いて機から落ちて、持っていた梭ひで身を傷つけて亡くなられた。」
イクメ大王は徐福(スサノオ)の子孫です。出雲の伝承と重なるようにも思えます。梭ひは刺客の短刀か、豊来入姫の自決を表しているのでしょうか。どちらにしても、4人目の姫巫女は月神を守りながらの逃亡の果てに、異母兄に命を奪われるという悲しい結末を迎えたということです。
別宮・椿岸神社 Wikipediaより 撮影Bakkai
椿大神社は神楽の発祥地といわれています。天の岩戸の話を作って神楽で上演したからだということです。
閉ざされた天の岩戸の前で、アメノウズメが胸をあらわにして桶の上で踊ります。闇に覆われた高天の原で神懸かりして踊ったのは、実は月の女神でした。
これにより月の女神は太陽の女神より格下となり、月読みの信仰すらも史書の中から消えてしまいました。
※イザナギの禊によって天照大神の次に月読尊が生まれますが、その後ほとんど描かれません。
亡くなった豊来入姫は月神の信者たちによって、ホケノ山古墳(奈良県桜井市、纒向遺跡)に葬ったと伝えられているそうです。大神神社も豊鋤入姫の墓だとしています。
箸墓古墳と比べるとこじんまりとして、形も方部が目立たない初期の前方後円墳のように見えますね。ちなみに出雲の伝承では箸墓古墳に葬られているのは、イクメ大王の娘である大和姫ということです。
ホケノ山古墳からは内行花文鏡、画文帯神獣鏡が出土しており、三角縁神獣鏡はありませんでした。豊玉姫が魏国からもらった鏡を受け継いでいるとすれば、それは三角縁鏡ではなかったことになります。さらに鉄鏃、銅鏃がそれぞれ60本以上出土し、姫巫女というだけでなく、母である豊玉姫のように東征軍の将軍としての顔を持っていたことが伺えます。
この古墳は3世紀半ばに造られたということなので、豊来入姫は短命だったということになります。ヒミコが亡くなったのが247年頃で、トヨが後継者として王となった時、わずか13歳でした。