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源流なび Sorafull

女帝、神功皇后と3人の王

日本の歴代天皇系図は9代開化天皇(オオヒビ)の次に10代崇神天皇となっています。出雲の伝承によるとオオヒビの後にはヒコイマス、ヒコミチヌシと続き、そこで磯城王朝は終焉を迎えました。

記紀に記された崇神天皇以後の系図をみてみます。

f:id:sorafull:20180421155113p:plain物部王朝はイクメ大王から始まりますが、血筋でまとめると紫の囲みが物部王朝となります。記紀によってヤマトタケルが付け足され、豊前国の豪族である中津彦王が天皇として記され、その后に息長垂姫オキナガタラシヒメ(神功ジングウ皇后)があてられました。伝承によると息長垂姫はワカタラシ大王(成務)の后だということです。つまり物部王朝最後の皇后は神功皇后であったと。記紀では摂政とされていますが、実際には大王とみなされていたそうです。驚きですね。

 

息長垂姫は2世紀初めに辰韓から渡来したヒボコの子孫です。以前の記事でヒボコの渡来について書いていますので貼り付けます。

 

【和国大乱~日矛の渡来と吉備王国】2017‐12‐18の記事より

2世紀の初め、韓国から辰韓の王子、日矛ヒボコが出雲へやって来ました。徐福の時のような大船団ではなかったようです。記紀では新羅の王子とされていますが、出雲の伝承、並びにヒボコの子孫は辰韓だとしています。

船団は出雲の薗の長浜に着きオオナモチと面会します。オオナモチは出雲八重垣(法律)を守ることや先住民の土地を奪わないことなど約束するならと条件を出しましたが、ヒボコは拒否しました。オオナモチは出雲、石見、伯耆国に住むことを禁じます。そこでヒボコは東へ進み但馬国豊岡市の沼地に停泊し船上生活を始めます。そして円山川の河口の狭くなったところの岩石を取り除くと、沼の水が流れ出て豊岡盆地が現れました。そこにヒボコたちは田畑を作って住み始めます。

このことは第2次大戦中に斎木雲州氏の父、富当雄氏が、ヒボコの直系子孫である神床家(1500年に渡り出石神社の社家を務めた)の方と縁があり、互いの伝承を確かめ合ったそうです。さらに斎木氏もその後神床氏と直接話をされているようです。

神床家の伝承では、ヒボコは辰韓王の長男であった。しかし次男を後継者とするため、まだ少年だったヒボコを家来と財宝を持たせて和国に送った。そのためヒボコは父を恨んで反抗的な性格になっていた、ということです。出雲王に反発した結果、家来たちも苦労したのだと。ヒボコは豊岡で亡くなり、出石神社に祀られています。神社裏に禁足地があり、そこがお墓だそうですが、敵が多かったために秘密にしてきたといいます。最後まで苦難の連続だったのですね。

古事記ではヒボコは和人の妻を追いかけてやって来たことになっていますが、実際はそうではなく、父から和人の女性を妻にして早く解け合うようにと言われたことが、和人の妻の話になったようです。

子孫はやがて豪族となり出雲と戦いますが、その後の子孫にかの息長垂姫オキナガタラシヒメ(神功ジングウ皇后)が現れます。母親がヒボコの家系です。ちょうど辰韓の王家が断絶して、家来が新羅を起こした時期にあたります。神功皇后新羅の領土と年貢を自分が受け継ぐ権利を持っていると主張し、そのために三韓遠征が始まるのです。記紀では神功皇后仲哀天皇の后となっていますが、成務大王の后ということです。この神功皇后の男性関係や息子の応神天皇についての驚きの伝承があり、それは出雲と神床家では完全に一致しているそうです。~抜粋終わり~

 

古事記ではどのように書かれているか、簡単に紹介します。

 

成務天皇(ワカタラシ)は近江の高穴穂の宮で天下を治め、武内宿祢を大臣とし、国造を決めたり国の境界と県主を定め、95歳で亡くなった。甥の仲哀天皇(ナカツヒコ)が跡を継ぎ、最初は穴門(山口県)の豊浦の宮で、のちに筑紫の香椎の宮で天下を治めた。大和政権に抵抗する熊襲を討とうと計画している時、天皇が琴を弾いて神託を請うと、神功皇后に神が憑依して言った。「西方に財宝溢れる国がある。その国をそなたに授けよう」と。(熊襲よりも新羅へ迎えということ)

しかし天皇は神託を信用しなかったため、神の怒りに触れその場で息絶えた。この異常事態に、国をあげての大祓おおはらえが行われた。そして武内宿祢が改めて神託を請うと「皇后のお腹の中の御子が治めるべき国である」と言う。さらに神の名を訊ねると「天照大御神の御心であり、また底筒そこつつの男中筒の男上筒の男の3柱の神である」という。

皇后は子を宿しながらも神託に則って軍を整え出航し、三韓を征服して帰国した。筑紫の国に着くと御子を出産した。

 

 

記紀では魏書に書かれたヒミコを神功皇后のことだと思わせるために、武内宿祢を豊玉姫から神功皇后の時代まで生きた人物として設定したと思われます。

それでは出雲の伝承を紹介します。

神功皇后ワカタラシ大王(成務)新羅へ出兵することを求めましたが断られます。その後大王は豊前国の岡県主あがたぬしに攻められて、若くして亡くなったといいます。

次に神功皇后豊前国の豪族である中津彦王(仲哀)に頼みますが、またも断られました。中津彦は長門国で亡くなりました。この中津彦の墓を神功皇后下関市長府の土肥山に造ったそうです。豊浦宮(現・忌宮神社)のすぐ近くです。お墓まで造るとは、ちょっとした知り合いとは思えませんね。

神功皇后新羅出兵を諦められず、筑前国香椎宮を建てて勢力を広め、準備を続けます。そして3人目となる日向ソツ彦王(武内大田根の曾孫)に相談し、協力を得ることとなりました。ふたりは生活を共にしたということです。古事記に登場する武内宿祢はこのソツ彦王のことです。

★☆古事記の中で仲哀天皇が神託に背いて急死する場面も、闇の中にこの3人しか登場させず意味深です。しかもその後に神が「皇后のお腹の中の御子が~」と言った時、武内宿祢がすかさず「いずれの子でしょうか」と尋ねるのです。神は男の子だと答えるのですが、誰の子かを訊いたともとれますよね。

ソツ彦王は総指揮者となり、日向の水軍だけでなく先祖の地である紀伊国の軍船や丹波国の海部水軍も呼び寄せ、大船団となって出航しました。新羅王はこれを見て、戦わずして降伏したそうです。さらに百済、そして高句麗まで和国の属国としました。

ソツ彦王は大和へ凱旋し、まず摂津国住吉郡桑津村に住んで住吉神社を建てたあと、葛城国へと移住します。

一方神功皇后長門国住吉神社を津守連に建てさせ、のちに祭神を大阪の住吉神社に移しました。この住吉神社の祭神は底筒の神、中筒の神、表筒の神の3柱の海の神です。筒とは男神を意味するといいます。日本書紀ではイザナギ日向国の橘の小門おどで禊払いをした時に生まれた神です。つまり3柱の海神は日向方面に関わる男神、中津彦王、ソツ彦王、ワカタラシ大王のことだということです。

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大阪の住吉大社。左奥が第一本宮。右端が第四本宮。

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出雲伝承を続けます。

三韓遠征の成功によって和国は多くの年貢収入を得ることとなり、国は栄えました。神功皇后摂政ではなく大王とみなされたそうです。

皇后は帰国後、ワカタラシ大王の古墳を奈良市山陵みささぎ町に造りました。隣には祖母のヒバス姫も眠っています。その北方に皇后自身の古墳も造ります。近くに八幡宮が建っていますが、息長家は宇佐の月読の神を祭る家だったからです。さらにのちに養子として迎える御子が宇佐家の子孫であったことも関係しているようです。

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やがて皇后は御子を出産しますが、その子は7歳で夭折したということです。ソツ彦王の子でした。日本書紀の成務3年紀には「天皇と武内宿祢は同日生まれだったので、(武内宿祢を)特に可愛がられた」と書かれています。斎木氏はこれを両者が入れ替わった(神功皇后がソツ彦王と結婚した)ことを暗示しているといいます。古事記では皇后は三韓遠征中だったため、身籠っていたけれど自ら出産時期を遅らせたとあります。これも亡くなった天皇の子ではないことを示しているのでしょうか。

神功皇后辰韓王の子孫ということで年貢を受け取る権利があるのですが、皇后の御子が亡くなると子孫が断たれ、その権利を失う恐れがありました。そこで皇后は御子の死を隠します。そして上毛野かみつけの国造家の竹葉瀬タカハセノ君が同じ7歳とわかり極秘裏に養子に迎えます。のちのホムタ大王(応神天皇です。この子は豊来入彦の子孫でした。つまり豊玉姫とイニエ王の子孫ですね。(前回の記事で書きましたが、三河国に住み着いていた豊国勢を、出雲軍が東国の上毛野国や下毛野国へ追い払ったのです)

以上の伝承はヒボコの直系子孫である神床家と一致しているそうです。

のちに宇佐八幡宮はこのことを知り、豊玉姫を祭っていたのを二ノ御殿に移し、新たに造った一ノ御殿にホムタ大王を祭りました。そして息長家は宇佐の月神を祭る家だったので、三ノ御殿に息長垂姫を祭りました。

 

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現在の祭神は以下となっています。

一ノ御殿に八幡大神誉田別尊応神天皇

二ノ御殿に比売大神(宗像三女神

三ノ御殿に神功皇后(息長垂姫命)

宗像三女神についてはヒミコ(豊玉姫=ウサツ姫)の記事で紹介しましたが、宇佐家伝承で「市杵島姫はウサ族の母系祖神である」ということですので、比売大神として女系の祖先たちが祭られているようです。

 

宇佐神宮ホームページの説明によると、「八幡大神応神天皇の御神霊で、571年に初めて宇佐の地にご示顕になり、725年に現在の地に御殿を造り八幡神をお祀りした。比売大神は八幡神が現れる以前より地主神として祀られてきた。八幡神が祀られた8年後の733年に神託によって二ノ御殿が造られ、比売大神をお祀りした。三ノ御殿は神託により823年に建立され、神功皇后をお祀りしている。」とあります。

 

ちなみにホムタ大王は大和の軽島に宮を建て、豊明ノ宮と呼ばれました。祖先の出身地にちなんだ名前です。(豊国の月神の明かりの意)

 

神功皇后も神託を行ういわゆる姫巫女ではありますが、伝承から伝わってくるものが、これまでの姫巫女とはタイプが違うように感じます。残った事績が三韓遠征を中心としているので仕方のない気もしますが、とても主張の強い女性ですね。辰韓王の息子ヒボコの渡来から200年以上経っていても、新羅の領土や年貢を引き継ぐ権利が自分にもあると主張し続け、遠征の協力者を得るためには持てる力を尽くし、自分の子孫が途絶えた時にはよそから連れてくることもいとわない。トップに立つものとしては当然の行動ですが、そこに女性としての情感が記紀や伝承からは伝わってこないという不思議さがあります。まさに勝ち続けた女帝だったのでしょう。ただ、幼い息子を失うという悲しみは、母として消えることのない痛みであっただろうと思います。

 

最後に任那みまなについて。

古代、朝鮮半島南部に任那という日本統治下の地域がありました。近年までこのことは語られていたようなのですが、韓国がこれを否定し始め、今は諸説あるようです。

出雲伝承によると、神功皇后が亡くなったあとホムタ大王の力はそれには及ばず、かろうじて政権を保持している状況だったそうです。そして新羅百済は半島南部の間接支配地域を和国に任せました。和国に送る年貢を集める手間を省くため、和国に直接集めて運ぶよう望んだと言われているそうです。

日本書紀では崇神天皇(イニエ)や垂仁天皇(イクメ)の時代から任那と関りがあったように書かれており、崇神天皇などはまるで任那からやって来たように「ミマキ入彦イニエ」と名前が足されています。