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源流なび Sorafull

西宮えびす(西宮神社)⑴ヒルコの神と西てふ神

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前回の投稿から長らくのお休みを頂きました。

春よりライフスタイルの変化がありまして、まとまった時間を持てなくなっておりましたが、また少しずつ発信していこうと思っております。今後は不定期の投稿となりますが、よろしくお願い致します!

なおコメント欄はこれまで通り設けさせて頂きますが、すぐに返信できない場合もございます。すべて読ませて頂いたうえで、今後は私の対応できるご質問のみ、本文の中でお答えさせて頂くという形に変更したいと思っております。コメントが無表示となりますこと、ご了承下さい。

当ブログを始めて1年が過ぎましたが、温かい励ましのお言葉や興味深いご意見、ご質問など送って下さった皆様、本当にありがとうございました。そして数ある情報の中、ここへ辿り着いて下さった皆さまとのご縁に心から感謝し、これからの励みとさせて頂きます。  

源流なび☆Sorafull

 

 

戎ノ社えびすのやしろ西宮神社

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さて、再始動1回目は阪神間の人気スポット、えべっさん西宮神社)です。毎年1月10日の早朝に福男選びと称する徒競走がニュースになり、関西以外の方でもご存じではないでしょうか。これは十日えびすと呼ばれる商売繁盛を祈願するお祭りで、10日の本えびすの開門神事がこの福男選びです。宵えびす、本えびす、残り福の3日間で100万を超える人々が集まります。Sorafullは神戸大阪間をいつも車で行き来していますが、この時だけは西宮神社前の主要道路を避けるようにしています。

西宮神社のホームページによりますと、ここは福の神、えびす様をお祀りする神社の総本社。昔、神戸の和田岬の沖から出現された神様を、西宮の鳴尾の漁師がお祀りしていましたが、ご神託によってそこから西の方にあたる西宮に遷し祀られたのが起源とのことです。年代は不詳ですが、平安後期には戎えびすの名が文献に記されています。えびす神は初め、漁業や航海の神として信仰されていましたが、やがて市の神、商売繁盛の神様としての人気が高まり崇敬されていきます。

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 本殿は日本唯一の三連春日造りという珍しいものだそうで、向かって右から第一殿に蛭児ヒル大神、中央の第二殿に天照大御神大国主大神、第三殿にスサノオ大神がお祀りされています。

大国主が祀られているのは、もともと西宮の地に大国主西神社があったことからだそうです。ここ、重要ポイントですのでのちほど改めて。

またえびす神と蛭子神は同一神とされています。

 

えびす神と蛭子ヒル神と事代主

神社発行の西宮神社史話から要約します。

〈すでに室町時代には戎社えびすのやしろ海社うみのやしろといっていた。海社という表現は重要な意味をもっており、神様の性格を端的に表したものといえる。最初は海の彼方から来られたために外国の神様と思い「エビス様」と名付けて呼んだが、後になって古事記日本書紀に出てくるイザナギイザナミの御子として海に流された蛭児神であることがわかり、改めて海神蛭児神として祀られることになった〉

もともとは漁師がお祀りしていた海の神様であり、海上安全と大漁を保障してくれるという信仰だったのでしょう。これは出雲の事代主が海の神、えびす神となり、島根の美保神社を総本社として祀られていることと源が同じかもしれません。Wikipediaには〈えびす神は複数あり、イザナギイザナミの子である蛭子命か、大国主の子である事代主神とされることが多い〉とありますが、西宮神社史話によると、本来は海の神様としての信仰であったことがわかりますね。

実はSorafull自身、記紀への大きな疑問のひとつとして、海に流された蛭子のことが気になって仕方なかったのです。わざわざ最初に生まれた子を骨のない蛭子として海に流し去ってしまう、そんな物語の必然性とはなんなのか。しかも蛭子が生まれた理由を、女性から男性を誘ったせいだとしています。あからさまな男尊女卑。何か気になる‥‥。もしかするととても大切なことを隠すために、そしていつか解き明かされるために、あえて引っかかる表現を使ったのではないか。形を変えてでもどうしても書かなければならなかったこととは何か。そう考えている時に、このえびす神と蛭子神のことを知ったのです。

イザナギイザナミといえば出雲、幸さいの神の女夫神であるクナト大神と幸姫命サイヒメノミコトですね。その子孫となる御子は大国主や事代主です。そして日本は元来母系家族制であり女性が家の主でした。記紀ヒルコの話は、女性の力を封じるとともに、最初に誕生した国である出雲王国の王家子孫を蛭子として消し去った。そう解釈すれば、なぜ蛭子が最初に生まれたことを記紀が書かなければならなかったかが理解できます。

また天照大神は太陽の女神ですが、日の女の尊で日女ヒルメノ尊と呼ばれます。もとを辿れば出雲の太陽の女神、幸姫命です。

日の子の神は日子ヒル神。

記紀では天照大神天孫族として崇め、大日孁貴オオヒルメムチとし、天孫に負けた出雲の事代主は低く見せるために蛭子の字をあてたということなのでしょう。

そして海の彼方から漂流して現れる神といえばもうひとり、出雲の美保の岬の向こうからやって来たスクナヒコナがいます。この神のモデルは出雲王家副王の役職名である少名彦スクナヒコです。主王である大名持オナモとともに王国を治めました。8代目少名彦は八重波津見、記紀では事代主として描かれています。伝承では美保の海辺に釣りをしに出掛けた事代主は行方不明となり、のちに洞窟で遺体が発見されたと伝えられています。暗殺者は渡来人である徐福と秦人たちということです。このことを記紀では出雲の国譲りの際に、天孫族に迫られた事代主は天孫に従うと返事をすると、乗っていた船を自身でひっくり返して水中にお隠れになった(自死)という話にしているようです。その後、事代主の御霊はまた海の向こうから光輝きながら現れ、大物主として大国主のもとへやってきます。このように事代主は外来神ではなく、海と結びついた神として祀られていきました。

事代主は記紀の中ではスクナヒコナと大物主であり、時代を経てえびす神、蛭子神として蘇り語り継がれていくのです。

 

 

ではなぜ「えびす」という名がついたのかですが、西宮市史によると《エビスとは、夷・戎・狄などの字の訓であるが、平安初期まではエミシと訓じていた。日本書紀には愛瀰詩の字をあてたりしている。エミシは平安時代中期ごろからエビスと変じたらしい》とあります。

神武東征では愛瀰詩エミシ、景行記になると蝦夷エミシです。

平安末期の記述に、夷は海老主、江比須に同じとするとあります。

エミシ⇒エビス

出雲伝承の谷戸氏は西宮の戎について、東国の蝦夷エミシとの関係をあげています。事代主の子孫、大彦(記紀ではナガスネ彦)は物部東征軍に抵抗し東国に逃げた末、安倍氏となってクナ国を作ります。その後は日高見国と名乗りましたが、のちの中央政府からは蝦夷エミシと呼ばれます。事代主も蝦夷エミシと呼ばれ、平安末期以前にエビスに変わったのではないかと。

また「戎」とは古代中国で西方に住む野蛮人を意味し、西宮は平安京の西にあるためこの字が使われたとしています。

 

西宮のえびす神が文献に現れるのは平安末期になってからで、蛭子神が現れるのは鎌倉中期~末期です。西宮神社の伝承通り、最初はえびす様として信仰が始まり、のちに記紀を勉強した者たちが蛭子神と重ねていったという流れなのでしょう。

蝦夷(出雲王家子孫)⇒えびす⇒蛭子

 

 

 

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注)現在の神社や川と、昔の海岸線のイメージを合わせたものです。古代の入海などは省略しています。

 

広田神社

戎ノ社といえば広田神社を語らないわけにはいきません。かつて広田神社は六甲山全体までも領地とし、武庫地方第一の大社として存在していました。最初の社地は甲山周辺の高台であろうと言われ、しだいに南へ下り、現在の大社町へと移されたのは1728年です。

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日本書紀によると、神功皇后新羅遠征を終え難波に向かっていると船が進まなくなった。武庫の港に戻って占いをすると、天照大神が「わが荒魂を皇后の住む地域に近づけてはならない。広田国(現西宮市、広田神社の地)に置くのがよい」と言われたので、山背根子の娘、葉山姫に祀らせた。また稚日女ワカヒル尊が「自分は活田長峡国(神戸市生田神社)に」と言われ、海上五十狭茅ウナカミノイソサチに祀らせた。さらに事代主命が「自分を長田国(神戸市長田神社)に」と言われ、葉山姫の妹の長姫に祀らせた。

広田神社 ⇒ 天照大神の荒御魂

生田神社 ⇒ 稚日女尊

長田神社 ⇒ 事代主

 

平安末期から鎌倉初期に書かれた古辞典、伊呂波字類抄には、広田神社がお祀りする五座は、八幡、住吉、広田、南宮、八祖神

摂社末社は、矢洲大明神、南宮、夷、児宮、三郎殿、一童、内王子、松原、百大夫、竈殿

とあります。

 

 

西の宮

さて、戎ノ社に話を戻しましょう。広田神社の真南には別宮として浜南宮があり、同じ神々を祀っていたそうです。海側の遥拝所といったところでしょうか。創建は不明ですが遅くとも平安中期には建っていたことがわかっています。

現在広田神社に保管されている有名な如意宝珠(劔珠といって水晶の中に劔の形のヒビが顕われたもの。日本書紀に記されている)も古くは浜南宮にありました。

この浜南宮は現在の西宮神社全域にあたる社地だったそうです。また浜南宮と称する社域におさめられた末社は、児御前、衣毘須エビス、三郎殿、一童社、松原社でした。

西宮神社発行の西宮神社史話」によると、平安末期の歌合で詠まれた文言や当時の記事から察すると、広田社、浜南宮、西宮戎社はそれぞれ別の社殿ではあるが、全体をひとつの神社と捉えていたとしています。ただし浜南宮と西宮戎社は同一の社域にあったということです。

そしてこれら三社を含めて「西宮」と呼んだというのです。(※広田神社では西宮とは広田神社の別称だと主張しています)

西宮 ①北社・・・広田神社

   ②南社・・・浜南宮と戎ノ社(現・西宮神社

 

10巻本伊呂波字類抄を基に作成(平安最末期から鎌倉初期)

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1199年、業資王(のちの白川伯王家)が神衹伯になって最初の神拝のときに、「下向西宮」と記して、まず広田神社に参ってから次に南宮、五宮、次に戎三郎、次に内王子、次に松殿に参ると記されています。この全体が西宮参詣であったということです。

 注)「西宮神社史話」は昭和36年発行、著者は当時の宮司・吉井良尚。平成14年の改訂版は次代宮司・吉井良隆によるが筋書は変更せずとのこと。

 

写真は西宮神社境内に鎮座する南宮神社です。広田神社に向かうよう北向きとなっています。阪神淡路大震災で本殿は全壊し、新たに建て直されました。

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主祭神豊玉姫古事記の海幸山幸のお話では、豊玉姫が潮干珠潮満珠を山幸彦に渡します。宝珠繋がりでしょうか。神功皇后月神を祭る家だったので豊国とも関係が深いですね。そして市杵島姫。豊玉姫の母系祖先にあたり、お二方とも出雲王家と宇佐家の血筋です。そして大山咋神は出雲のクナト大神。葉山姫は広田神社で天照大神の荒御魂を祀った人です。

ここで面白いことがわかりました。広田神社の五座に南宮とありますが、いったいどんな神さまを祀ったのだろうと思っていたところ、なんと諏訪大明神のようなのです。事代主と越の沼川姫の御子、建御名方富タテミナカタトミノ命です。(記紀では大国主の御子)

西宮神社の前宮司・吉井良隆氏の「えびす信仰辞典」によると、吉田神道の吉田家によって戦国末期に書かれたと言われる「諸神記」には、広田神社五社(五座)の諸説の中に南宮を諏訪と記しています。

さらに古くは1336年足利尊氏の奥書のある諏訪大明神絵詞」の中で南宮を諏訪南宮と記し、さらに広田五社として本社、八幡大菩薩諏訪・住吉二神及び八祖宮と書かれています。また諏訪大社に伝わる御狩神事は、古くは広田、西宮両社においても行われていたそうで、この諏訪大明神絵詞の中に、諏訪の御狩神事で捕えた猪鹿を西の宮の南宮に奉ったことが書かれています。

諏訪大社諏訪湖を挟んで上社と下社の二座に分かれており、湖東の下社に妃神を、湖南に建つ上社に建御名方神が祀られています。こちらを諏訪南宮とも呼んだらしく、その名をもって西の宮で勧請したということです。

現在、この西宮神社では南宮の主神が海神・豊玉姫となっていますが、本来は出雲、事代主の御子、建御名方神だったようです。

 

  

それでは、なぜ「西宮」と呼ばれたのか。

方角であればどこかから見て西だということです。神社史話の中では「都からみて西に在す宮と考えるのが妥当」としていますが、疑問も残るようです。

平安末期の歌合で詠まれた中に、「西てふ神(西という神)」「西の宮」という言葉が現れます。

平安初期の延喜式神名帳に記された摂津国莵原郡、大国主西神社(所在地は不明、現在は西宮神社境内社)を指すのだろうという説があります。この「西」は方角が地名となったものだとし、西という場所に鎮座する大国主を祀る神社であり、それが西宮の起こりだろうと。ところが西を地名とすると言葉の順序がおかしいのです。地名(通常は漢字二字)のあとに神名が原則だそうです。さらに鎮座地が武庫郡ではなく西隣の莵原郡にあることも納得がいかないと。

もうひとつ疑問をあげています。浜南宮の末社三郎殿というのがありますが、どういう神様なのかがわからないとのこと。平安末期から鎌倉時代にかけて多くの人々の崇敬を集めたそうで、「戎社と三郎殿」さらには「戎三郎殿」とひとつにした表記もみられます。

 

ではこれらを踏まえて、出雲の伝承を見てみましょう。

延喜式神名帳とは、平安初期に書かれたものであり、当時官社に指定されていた全国の神社一覧です。ここに記載されたものを延喜式式内社式内社、式社と呼びます。

 

出雲伝承による西の宮

いつもながら驚きの話ですが、もったいぶらずに結論を言いますね。

大国主西神社とは大国主幸の神を祀っていたというのです。

幸の神 ⇒ 西の神

もうおわかりですよね。山陰地方では「幸」か「斎」であった字が「西」という字をあてられ、やがて訓読みに変化していった。

「西ニシてふ神」はそもそも「幸サイてふ神」であり、「西の宮」とは「幸の宮」が変化したのだろうということになります。

神戸の長田神社には事代主命を祀り、大国主西神社に大国主と幸の神を祀り、後者が現在の西宮神社の基となっていると。

この話にはSorafullもさすがに笑ってしまいました。西が幸であったとは‥‥。みんなが頭を抱えていた難問に、そんな単純なオチで返すのかと。とはいえ、そうは言われても簡単には頷けないのが本音です。たとえ答えはこれだと見せられても、筋道をつけたいのが人の心理です。

次回は西の宮が本当に幸の宮であったのか、疑問を解きつつ迫ってみたいと思います。