西宮えびす(西宮神社)⑶沖のえびすと三郎殿。えびす信仰について
沖ノ戎 おきのえびす
明治5年に現荒戎町より西宮神社境内に移された沖恵美酒神社です。南のえびす門を入って左手になります。
恵美酒エビスに「酒」の字が使われていますが、西宮は灘の酒の産地です。また事代主は三輪山でも酒の神として祀られています。なるほどとは思いますが、こんなふうに字が変わっていって意味まで変化するということが起こるわけですね。
古代の地層の話に戻りますが、この辺りは川が運んだ砂レキ層の上に成り立っています。この砂レキ層を流れる六甲山からの地下水と、古代入海だったところを流れる栄養豊富な地下水とが合流する500m四方の場所にだけ湧く宮水(西の宮の水)が、酒造りには最高なんだそうですよ。ここに灘の名門酒蔵の井戸が密集しているんです。
さて、続いて三郎殿についてです。西宮神社史話の中でもどのような神かわからないとされていました。
出雲伝承を「七福神と聖天さん」より紹介します。
《大国主西神社では三郎殿を建て、同じ出雲の神の事代主を大国主の三男としてまつった。平安末期に書かれた「伊呂波字類抄」に、西の宮には夷社と別に三郎殿という社があって、そこに南宮の神と百大夫の神などがまつられたとの記事がある。》
記紀では事代主は大国主の息子ということになっています。出雲伝承では別の王家血筋です。なので親子ということはないのですが、記紀を参考にした者が類推して三男だということにしたのだろうということです。古事記の中では大国主とヤガミ姫の間にキノマタの神、次にタキリ姫との間にアヂスキタカヒコネ、3番目にカムヤタテ姫との間に事代主が生まれています。
伊呂波字類抄によると三郎殿には主神である事代主とその息子、諏訪の建御名方神(記紀では大国主の御子)、そしてサルタ彦大神も祀られていたということです。なんだか出雲御殿みたいです。
三郎殿の建てられた場所についてですが、これがなかなかわかりにくいのです。西宮神社史話には書かれていません。「七福神と聖天さん」から読み解けば、沖ノ戎と三郎殿が同じものを指すということが見えてきました。
上の地図に沖ノ戎があったと言われる現在の荒戎町を囲みました。「貞享三年古絵図」(1686年)には戎ノ社の境外南西二、三町ほどの田んぼの中に、沖ノ戎ノ社が描かれているそうです。奥戎社とも書くようです。通称、荒戎アラエビス。
戎ノ社より海側に建てられています。事代主は豊漁の神、海運の神ですからね。
出雲伝承では、西宮は海上交通がますます盛んになったために、大国主よりも海の神・事代主をお参りする人が増え、やがて西宮の本殿に事代主を祀るようになり、戎ノ社と呼ばれるようになったといいます。そして大国主西神社は摂社に移されたと。
海側の三郎殿もえびす神(事代主)を祀っているわけですので、戎ノ社がふたつできたことになり、そのため三郎殿は沖ノ戎と呼ばれるようになりました。そして本殿の戎ノ社は和魂を、沖ノ戎は荒魂を祀ることになったということです。
ただ、これを南北朝時代(1336~1392)のこととして書かれていますが、違和感を覚えます。えびすの名は平安末期から現れていますし、大国主西神社の名は延喜式神名帳以来みられません。南北朝(室町)ではなく源平の頃(平安末期)であればわかります。
出来事と時間の経過をみるために書いてみました。式内社にまでなった大国主西神社が消えていくとはどういうことだろうと思っていましたが、浜南宮が勢いをもつまでに200年も経っています。今から200年前といえばペリーが浦賀にやってくる35年前です。多くの人が自分の先祖のことすらよくわからない遠い時代ですよね。今は学校教育やテレビ、本などから知識を得られるので江戸時代の風習をなんとなくでも知っていますが、そうでなければごく一部の人しか知り得ないことがほとんどでしょう。
たけき者もついにはほろびぬ‥‥。
大国主西神社が浜南宮に取り込まれていくとき、西の宮という呼び名だけが残ったということが可能性として高いわけですが、大国主の名がどうして消えてしまったのか、腑に落ちません。祭神として八祖神などと名を変えなくとも、大国主として残っていてもおかしくないのになと。
そして平安末期に文献上突如現れる「えびす」という神の名が、実は蝦夷エミシ(出雲王家子孫が東国に築いた国の人々)から来ているというのなら、これこそが大国主ではないかと思い始めたのです。
※エミシという言葉には、普通の人の100倍も強いという意味もあります。葬られた出雲を陰ながら慕う人たちから生まれたイメージかもしれません。
当時の中央政権は東北方の蝦夷に対する守護神として、四天王のうち最強の毘沙門天を祀ったそうです。(「七福神と聖天さん」より)
ところが、えびす神が神仏習合した際の本地仏は、毘沙門ビシャモンや不動明王なのです。何かおかしいですよね。
横道にそれますが、毘沙門天について説明を加えます。
仏教の毘沙門天は武神ですが、もともとインドではクベーラ神と呼ばれ、ワニを畏れ祀ったのが始まりだそうです。のちに財宝を授けるヒンズー教の神に変わります。出雲ではクンピーラと呼ばれワニ神とされ、金比羅神社で祀られます。讃岐では金刀比羅宮、コンピラさんですね。祭神は大物主となっていますが、大国主、事代主のことでしょう。出雲の神さまたちがここには祀られています。つまり毘沙門天の始まりは出雲の神さまなわけです。
日本で初めて四天王を祀ったのは聖徳太子。大阪の四天王寺ですね。その後、中央政権は蝦夷から都を守護するために毘沙門天を祀ることになるわけですが、これってもとは出雲の神だと知らずのことなのでしょうか。敵の祀る神でもって敵から身を守る。おかしなことになっています。
どちらにしても、出雲と蝦夷と毘沙門天には強い繋がりがあったのです。その代表者としての大国主が「えびすの神」ではないのかと。
う~ん、でもやっぱりえびす様といえば事代主。それを大国主だというのは無理があるのかなぁ‥‥。出雲伝承ではそれに繋がる話は見当たりません。
気になってさらに調べていたところ、西宮神社の先代宮司である吉井良隆氏の著書「えびす信仰辞典」に出会いました。この本には三郎殿についても詳しく書かれています。一世代前の吉井良尚宮司のまとめられた西宮神社史話では三郎殿については不明だとされていましたが、それぞれに研究され見解が違うところもあるようですが、とても興味深いので紹介したいと思います。
えびす神の源流
注)本の中で夷と表記されているところは、ブログ内で揃えるために戎と変えています。
まず、三郎殿は事代主であることは間違いないとされています。さらに面白いことに、えびす神は大国主であると。伊呂波字類抄に記されたようにもとは戎と三郎殿は別の神格、社をもっていたものが、いつのまにか戎三郎殿とまるで一つの神として祈るようにもなったのは、それらが同族であるからだと。
平安の頃に西宮から分霊したとみられる東大寺八幡の「八幡宮神社記」には、二ヶ所の戎社があり、共に祭神は二座で、大国主と事代主とを祀ったということが伝えられているそうです。西宮本社とは別に古説を伝えたものと考えられるそうです。
室町時代の吉田兼俱(吉田神道の創始者)は、戎は大黒であり、大黒はもと大国主であるとしています。
江戸中期の辞典「和漢三才図絵」には西宮の祭神三座は天照大神、蛭子神、素戔嗚神とし、相殿に大已貴オオナムチ(大国主の別称)、事八十(兄弟八十の間違いで、大国主の兄たちのこと)の二神を加えて全部で五神としています。「諸社一覧」「神社啓蒙」にも同じことが記してあります。
吉井氏はさらに、記紀以前は日神のヒルメと、海神的性質をもったヒルコが天下の主たる者として対立していたとし、記紀によって敗者ヒルコが蛭子として貶められ、海の彼方へ去っていったとみています。ですので古くは、
三郎殿(事代主)=敗者としての蛭子神
として認識されていたものが、しだいにヒルコ神が忘れ去られてしまった。つまりえびす神の原初の姿は蛭子ではなくヒルコであると。
これは出雲伝承で言われるところの、日女であるヒルメと日の子であるヒルコに近い解釈だと思います。出雲の太陽の女神・日女を祀る幸姫命とその子孫=日の子である大国主や事代主。それが記紀では天孫の天照大神・オオヒルメムチとなり、敗れた出雲の王は蛭子として描かれ海に流されたわけです。
西の宮の主体は本来大国主西神社であり、主祭神大国主こそがえびす神の源流であり、それが事代主と変わったのは、西宮が海辺の町として発展していく中で、人々が海の神を必要としたからであり、海に流され帰ってきた蛭子神がそこへ重ねられたということのようです。
もとは摂社末社であったはずの三郎殿が戎本社よりも人気が高まり、その結果戎社は三郎殿によって維持されるような形となった。(出雲伝承の伝えるところの、沖ノ戎から本殿に事代主を移し、大国主西神社を摂社としたということか)
本来は戎社と三郎殿の二社であったものが、特別に親しい間柄だったために戎三郎とも呼ばれ、あるいは戎といえば三郎も含み、三郎といえば戎も含んで、ついには戎三郎と一社のように思われていきました。戎三郎というひとつの神として民衆の間でも祈られるようになった時、そこには魚を抱えたえびす様の神像が投影されていったということでしょう。
西宮の傀儡子たちが室町時代以降、人形芝居を行った演目の中で、えびす様は津美波八重という名の事代主であるとか、少名彦はえびす様の別名であるという台詞も含まれており、すでに「えびす=事代主」と受け止められていたようです。(「七福神と聖天さん」より)
以上、出雲伝承ではありませんが、えびす神の源流は大国主であるという説の紹介でした。
さて、戎社は平安以来、文献にみられるだけでも厳島に始まり、石清水八幡宮、東大寺八幡宮、日吉大社、北野天満宮、住吉大社、そして鎌倉になると鶴岡八幡宮、聖福寺へと勧請されました。全国の信者たちが遠く西の宮まで行かずとも手軽に参詣できるようになったのです。有名どころだけでなく、もともと大国主や事代主を祀っていた神社がえびす神へと変わっていった神社も含めれば、どれほどの数にのぼるでしょう。現代でも西宮や大阪今宮戎の十日えびすの人気をみると、えびす信仰の根強さに驚きを覚えますが、もとを辿ればこの国で2000年を超えて慕われ続ける大国主や事代主がその源流にあるからなのですね。突然現れた外来の神といったものでは、ここまで深く根付くことはできなかったでしょう。
遥か古の出雲王国時代に、主王の大名持オオナモチ、副王の少名彦スクナヒコが共に全国を巡りながら国を治めていったその姿を、王国滅亡後も長きにわたる時代の変遷を越えて戎三郎殿として、そして今では大黒様とえびす様の並んだお姿として私たちが目にしているという奇跡に、なんとも不思議な宇宙の采配を感じます。
そしてここには闘う武神としてではなく、米俵や魚、財宝といった恵み、豊かさの象徴として人々の願いを叶えてくれる親しみやすい神さまのお姿があります。まさに出雲王国時代の穏やかな神々のお姿です。
主王・大名持=大国主(八千矛)=えびす=大黒
副王・少名彦=事代主(八重波津見)=三郎殿=えびす
3回にわたって西宮神社を紹介してきましたが、最後にまとめを。
そもそも、西の宮とは
広田神社 ⇒天照大神の荒御魂=幸姫命
三郎殿=沖ノ戎 ⇒事代主
南宮 ⇒建御名方(諏訪大明神)
百大夫神社 ⇒サルタ彦大神
であるので、ここは出雲の幸の神の宮、「幸の宮」だったということになりますね。
長くなったので、おまけになりますが、西宮神社境内の紹介しきれなかった神さまのお写真を。
梅宮神社。祭神、酒解神。
宇賀魂神社。祭神、宇賀御魂命。
市杵島神社。祭神、市杵島神。
松尾神社。出雲のお酒の神さまです。
神明神社。祭神、豊受比女神。
六甲山神社。祭神、菊理姫命。六甲山頂に往古より石宝殿があり、のちにここへ勧請したそうです。
火産霊神社。祭神、火皇産霊神。俗称、愛宕あたごさん。出雲に先祖をもつ役行者が京都の愛宕山に出雲族の信仰する雷神を祀ったことから、のちに火伏の神とされて愛宕神社になったと伝承は伝えています。
庭津火神社。祭神、奥津彦神、奥津比女神。昔は荒神でした。祠はなく、塚形の封土を拝むようになっていたそうです。
児社。南宮神社の末社。