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源流なび Sorafull

訂正のお知らせと新情報

先日、読者のP様よりご質問を頂き、調べていくうちに過去記事を訂正しなければならないと気づきましたので、取り急ぎお知らせ致します。

以下の記事の中で、曙立王物部朝倉彦と書いておりますが、出雲伝承において同一人物ではないことがわかりましたので、訂正させて頂きます。申し訳ありません!

気づくきっかけを与えて下さったP様に感謝致します。

 

 

斎木雲州著「古事記の編集室」P.129に〈西軍の曙立王は奈良の磯城郡登美家の分家で、筑後の朝倉に誘われて行き物部軍をひきいて来た〉とあります。曙立王の出自を調べてはいたのですが、この一文、見事に見落としておりました、、、m(_ _)m

谷戸貞彦著「サルタ彦大神と竜」では登美曙立王と記されています。

西出雲王国の終焉において、和秤宮で出雲の山崎帯王と東征軍将軍が講和条約を結ぶ場面で、「古事記の編集室」では将軍として曙立王を、勝友彦著「親魏倭王の都」では物部朝倉彦、「山陰の名所旧跡」では曙立王、と記されていたことなどから同一人物と勘違いしてしまったようです。古事記には曙立王の名前を『大和・磯城・登美・豊・朝倉・曙立王』と書かれていることや、2人がともに行動していたことから結びつけてしまったのだと思われます。以後、このようなことがないように注意致しますので、皆さまも大元出版の出雲伝承と合わない点にお気づきの際は、ご連絡頂けますとありがたいです。

ただややこしいことに、大元出版の伝承本の中でも相違点がありますので、私は迷った時はできるだけ斎木氏を基準とし、また斎木氏の著書の中でも違いがある場合は新しく出版された著書の記述を優先するようにしております。その点はご了承ください。

 

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続いて、頂いたコメントの中の新たな情報を紹介したいと思います。

 

養老の鴨山 

 

Y様は昨年末に柿本人麻呂の痕跡を辿って、終焉の地と言われる千葉県市原市養老へと足を運ばれました。

斎木雲州著「万葉歌の天才」から一部引用します。

流刑地上総国で時々、近所の養老川付近を散策した。石川の南方に鴨村があり、鴨山(松尾山とも呼ばれる)があった。鴨神社は今は合祀されて、高滝神社になっている。‥‥その鎮守の森が鴨山だった。人麿は鴨山を好み、よく登った。そして自分を鴨山に葬って欲しいと言った、と伝えられる。

鴨村や鴨山というのが地図上では探せません。明治時代の古地図にも見当たりませんでした。

Y様はこの養老の鴨山を求めて高滝神社に行かれたのですが、神社関係者の方々は何もわからないということだったそうです。その後も高滝神社奥宮や周辺の神社を訪ねられましたが情報は得られず。今回さらに高滝神社の南方(養老川の上流)10数㎞のところにある大多喜町養老渓谷へ行かれた際に、地元の方から「粟又の滝」の粟又とは昔は高滝とも言っていたと教えて頂いたそうです。

ネット検索で調べたところ、粟又の滝は千葉県随一の有名な滝だそうで、紅葉の時期などは素晴らしい景観のようです。もとはこちらが高滝だったらしく、市原市にダムができてその周辺を高滝と呼ぶようになったとも。ただし高滝神社は平安末期にはすでにあったようなので、実際のところはわかりません。

人麻呂もこの養老川の移ろいゆく景色の中を、ひとり歩いていたのかもしれませんね。

養老の鴨山にはなかなか辿り着けませんが、市原市の市史など郷土資料を探ってみると古い地名がわかるかもしれません。不思議なほど周辺に「加茂」と名のつく公共施設(橋、広場、市役所、郵便局、学校など)が多いですので、大切な名前であることは確かです。

Y様、貴重な現地情報をありがとうございました。

 

 

広田神社の古地図 

 

T様より広田神社境内に西宮市の古地図があることを教えて頂きました。ありがとうございます。

以前参拝した時には見過ごしていたようで、先日改めて行ってきましたので写真で紹介しますね。

光が反射して読み辛いですが、3~4世紀の西宮の入海が描かれています。西宮神社砂州の上にあり、広田神社から西宮神社まで船で渡ったという昔の歌のとおりの地形となっています。この地図では夙川は入海へ向かわず、現代と同じように南へまっすぐに下っています。

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こちらの江戸中期の地図には武庫郡と莵原郡の境が描かれています。

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神門を抜けて突き当たりを右へ行くと拝殿、左へ行くと古地図の看板が立っています。

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神社拝殿です。

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広田神社の詳細はまた改めて紹介します。

 

 

筑紫舞

 

このブログを書き始めた最初の記事は筑紫舞でした。宗家の西山村光寿斎さんと親しくされていたというM様より、コメントを頂きました。光寿斎さんとの交流の日々を思い出して懐かしくなったとのこと。ツイッターで紹介もして下さいました。ありがとうございます。

光寿斎さんは九州王朝説を唱えた古田武彦氏とともに筑紫舞の起源を探られていたのですが、M様によるとのちに光寿斎さんは古田氏から離れてしまわれたそうです。すべてを氏の九州王朝説へ結びつけようとされたのかもしれません。憶測ではありますが、当時より光寿斎さんの古田氏への多少の反発を感じる言葉がみられましたので。

一度は途絶えかけていた筑紫舞ですが、現在は光寿斎さんのお嬢様やお弟子さんたちが地元で継承されており、また宮地嶽神社宮司さんたちが毎年神事として筑紫舞を公開されています。ところがM様の言葉で気になったので調べてみたところ、神社のホームページには「伝承されていたものは宝物だけではありません、それが筑紫舞」「代々宮地嶽神社宮司だけが舞う秘曲がある」などと書かれており、これではまるで古来よりこの神社が筑紫舞を受け継いできたような印象を与えてしまいます。

宮地嶽神社の古墳で神舞を奉納していたのは宮司さんではなく筑紫舞継承者の傀儡師たちであり、また27年前の当時の光寿斎さんの記述では「当神社に関係の有無に関わらず、自分たち(宮司)が習って残すことを努力しましょうと申し出て下さったので、まずは5年間の契約で伝承を始めた」ということです。往古のことはわかりませんが、光寿斎さんが現われる前は宮地嶽神社には何も継承されていなかったという事実を伝えなければ、古墳の被葬者のことも含め、より混迷してしまいます。

 

正史には登場しなかった筑紫舞ですが、だからこそ私たちが見逃している何か重大なことを伝えようとしている存在に思えてなりません。出雲の勉強をしているとつい忘れそうになりますが、でもやはり心のどこかにいつも存在していて、時折波光のようにきらきらとした輝きを放つのです。

いつかこの不思議な存在が、そのベールを取り去るときが来るのでしょうか。

 

 

ブログのご紹介

5月にO様よりコメントを頂いておりましたが、こちらの都合でその頃から長期休暇に入ってしまい、古代史探究からしばらく遠ざかっておりました。今回再開した折、O様がご自身のブログ内でSOMoSOMoを紹介して下さっていたことを知りました。本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。

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 O様も出雲の伝承を研究されており、ひとつひとつ丹念に検証を積まれています。当ブログでは出雲伝承を基本肯定し、その存在を少しでも多くの方に知って頂きたいとの思いから、伝承のまとめブログのような形をとっておりますが、O様のような検証が本来欠かせないものと思います。気になる点をひとつひとつ、非常に深く掘り下げておられます。私も伝承の中に疑問が湧くことがあります。なのでこちらのブログも読ませて頂きながら、自分なりの検証にじっくり取り組んでいけたらと思っています。

詳しいだけでなく、理論的にまとめられている記事もわかりやすく面白いです。

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