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源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛⑵ 振魂命・建位起命・宇豆彦命

 

古代史好きの父の影響で、幼い頃より九州王朝という言葉に馴染んではいました。20年ほど前、古代より伝わるという筑紫舞に接したことがきっかけで、九州王朝の存在を少し意識するようになりました。最近になって出雲王家の伝承を知り、九州王朝とは中国から渡来した徐福の後裔である物部氏の築いた王国であったという情報を得ることで、点と点が結びつくようにして古代日本の情景が浮かび上がってきました。九州王朝を意識していたからこそ出雲の伝承がすんなり入ってきたともいえます。

そんな中で、どうしても引っかかっていることがあり、それが安曇磯良とは何者なのかということです。古代博多湾周辺を支配していた海人族の王のようですが、出雲伝承のいう物部王国とは近いけれど別物という印象があります。地域としても徐福たちの開いた筑紫国筑後川周辺であり、安曇氏の博多湾周辺とは異なります。しかも共存していたわけです。そこで安曇と物部、このふたつの地域を結ぶ存在として、徐福(火明命かつニギハヤヒ)の息子である五十猛が関わっていないかと考えました。安曇氏の系図と、徐福の子孫である海部氏の勘注系図の両方に現われる建位起命(武位起命)タケイタテこそが五十猛ではないかと。前回、イタテ神が五十猛であるらしいことは書きましたが、建位起命のことかどうかの確認をしてみたいと思います。

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海部氏の系図についての説明はこの過去記事の後半にあります。

 

新撰姓氏録とは平安時代初期に編纂されたもので、京と畿内に住む1182氏を皇別、神別、諸藩別に分類し祖先を明らかにして、分岐の様子を記述したものです。

 

以前もこの話をしたので、またかと思われる方もおられるとは思いますが、復習プラス、より踏み込んだ話になりますのでお付き合いください。Sorafull自身も何度も繰り返さないと、すぐにこんがらがってしまうので‥‥。

新撰姓氏録が示す安曇氏の系図を見ると、祖となるのは宇都志日金析命穂高見命)であり、こちらが長男の家系かと思われます。のちに信州安曇野へ移住した一族です。弟の振魂命の子が武位起命となっており、大和国造の祖といわれています。海部氏勘注系図では一伝として建位起命の子は記紀旧事本紀に登場する宇豆彦(珍彦、椎根津彦、槁根津彦)だとし、安曇氏のものと同じになります。

また勘注系図によると丹波国造本記には「火明命の亦の名は彦火火出見尊であり山幸彦と呼んだ」とあるそうです。建位起命が火明命の子であるなら、五十猛(香語山)の可能性が出てきます。

出雲伝承 火明命(徐福、ニギハヤヒ)ー五十猛(香語山)ー村雲

勘注系図 火明命(ニギハヤヒ)ー香語山ー村雲

だとすると宇豆彦とは天村雲かもしれません。五十猛のもう一人の子は、大屋姫との間にもうけた高倉下です。こちらは紀伊国造家の祖となりますので。

こうなると安曇氏系図振魂命は火明命となりますね。振魂フルタマといえば宮中行事の鎮魂祭が浮かびます。11月の新嘗祭の前日に天皇の鎮魂(遊離しようとする魂を体内におさめる「御魂みたま鎮め」と、魂の活動を強める「魂振りたまふり」)の儀式を行って翌日に備えます。

旧事本紀によると、ホアカリニギハヤヒが天下る際に十種神宝とくさのかんだからを天つ神より授かり、「痛むときはこれらをとって、一二三四五六七八九十と唱えてゆらゆらと振りなさい。死んだ人も蘇えるだろう」と『布留ふるの言こと』を教わります。そしてニギハヤヒの子、ウマシマチは神武と皇后のために初めて十種神宝を祀って魂振りの祭祀を行います。これが鎮魂祭の起源ということです。さらに「その鎮魂祭の日に猿女君らが神楽を奏し、一二三四五六七八九十と唱えて歌い舞うのは、この神宝の故事に基づくもの」と記されています。つまり徐福の持ち込んだ道教神道に融合しているようですね。このことは宇佐家伝承にもあり、各氏族のシャーマニズムがどのように融合していったかを述べられていますので、またのちほど紹介します。

 

では安曇氏系図の始祖となる綿積豊玉彦とは、徐福の父である徐猛(オシホミミ)?と考えたくなりますが、それは一旦置いておこうと思います。まずは建位起命と宇豆彦を追求します。

 

丹波国庁に提出した海部氏の系図は、火明命のあと、香語山と村雲を飛ばして宿禰に続きます。この故意に隠された内容を記した秘伝が勘注系図であり、まず前段として上の系図が示され、さらに文中に香語山や村雲の説明がされています。これらは近年まで公開できなかったわけです。(本系図は昭和51年、息津鏡と辺津鏡は62年、勘注系図は平成4年に公開。本系図、勘注系図とも国宝に指定)

★写真は本系図巻頭です。中央あたりに始祖彦火明命とあり、次が三世孫倭宿禰命と書かれています。

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宇豆彦ウズヒコは書紀や旧事本紀では、神武東征の水先案内をする海人あま(小船や亀に乗って現れます。磯良や射楯神のよう)でありながらも、奥まった大和の地理に非常に詳しい人物として神武を導きます。敵兵がわんさかいる中を宇豆彦は貧しい老人を装って宇陀から香具山へ向かい、神武が占いに使う土を頂きから持って帰ってくるほどです。

天香具山は天から降ってきた聖なる山であり、大和の国魂が宿るところと書紀に記されています。霊力をもった山なのですね。天岩戸開きの際も天香具山の鹿の骨や木で占ったり、アメノウズメの装いもすべて香具山の植物です。出雲伝承では香具山は香語山(五十猛)の御霊が祀られているといいます。書紀では崇神天皇の御代に国内に疫病が流行った際、登美家の大田田根子は大物主を祀る祭主にし、市磯長尾市イチシノナガオチを大和大国魂神を祀る祭主に定めますが、この人は建位起命や椎根津彦の子孫です。筋が通っています。

東征の中で行動を共にする宇豆彦と神武の姿は、初代大和大王である村雲と神武を重ねて描いたように思えます。さらに勘注系図旧事本紀尾張氏系図にみられる村雲の2人の息子の母は吾俾良依姫ということですが、神武が日向で娶ったという吾平津姫ととてもよく似た名前です。

そして本当は宇豆彦は天孫の火明命の子孫なので神武と同じく天孫族なのに、古事記旧事本紀では国つ神と名乗っています。宇豆彦の登場シーンからして、土地の有力者が来訪者に服従して出迎える形を描いていますね。山幸海幸の話の中でも海幸彦(海部氏を指す)は敗者として描かれているところをみると、朝廷が万世一系にこだわったことから、大和の海王朝である海部氏とその親戚である安曇氏を封じたのかもしれません。

「出雲と大和のあけぼの」では斎木氏が第1次物部東征の将軍、物部五瀬の末裔の方から直接聞いた話として、五瀬の敵とは高倉下の子孫、ウズ彦だったとのことです。時代、系列ともに少々ずれがあるとはいえ、建位起命の子孫が物部に協力したという記紀の話とは逆ですね。本当は敵であったのを、服従させて描いたことになります。

五十猛は書紀の中で、スサノオとともに天下る話だけがちらりと書き込まれていますが、香語山命記紀には登場せず、霊山としての香具山だけが繰り返し描かれます。村雲の名は書紀に三種の神器である天叢雲剣草薙剣の元の名)としてヤマタノオロチのお腹の中から現れます。現在は熱田神宮御神体です。剣が途中で名を変えることも妙ですが、隠したいのに書かずにおられない心理の現れでしょうか。出雲伝承ではこの叢雲剣とは村雲が初代大和大王になられたお祝いに出雲王家が贈ったものだといいます。ちなみに叢雲剣はスサノオ(徐福)が退治したオロチ(出雲の祀る神)の中から現れます。徐福と出雲、出雲と村雲の関係がここに凝縮されているようです。

旧事本紀と勘注系図、そして出雲伝承に登場する五十猛(香語山)と村雲は、以上を除けば記紀には記されていません。

 

勘注系図では「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた。その児、宇豆彦命、云々」とあります。これを記紀にすり合わせると、武位起命は彦渚武ウガヤフキアエズノ命となります。その子が神武ですので、海部氏系図では天村雲ですね。つまり海部氏は記紀における初代天皇神武を、本来は天村雲であると示しているようです。

旧事本紀も載せてみます。

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この中で豊玉姫側を省けば、海部氏のいうところと全く同じになりなす。

そして勘注系図と出雲伝承によれば、香語山の母は高照姫(天道姫)ですので玉依姫とは高照姫となります。高照姫は出雲王と宗像三女神(多岐津姫)の娘であり、豊玉姫の妹ではなく娘ですね。古事記では豊玉姫が出産時に八尋鰐(書紀では龍)に姿を変えますが、それは出身が龍蛇神を祀る出雲族だということを暗示しているようです。

この高照姫の別名は勘注系図によると屋乎止女ヤオトメです。出雲の聖数八の乙女でしょうか。また、ヤオトメといえば志賀海神社の山誉祭の中に「八乙女の舞」があります。大祓の祝詞の次に8人の老女が舞うのですが、これを舞う8軒の家が決まっていて代理は立てられないそうです。由来はわかりません。山誉祭の最後は船を漕ぐような仕草をしながら君が代を歌います。君とは安曇の君です。歌の最後の言葉は「磯良が崎に鯛釣るおきな」です。

山誉祭の詳しい内容は以下の記事に紹介しました。君が代の全文もあります。 

八乙女という老女と安曇磯良。八乙女が磯良の母であれば、若い乙女でなくても仕方ないですよね。丹後国風土記の残欠(一般に出回っているのは風土記逸文ですが、密かに継承されてきたらしい残欠が古文書として存在します。風土記記紀成立後に提出していますので、朝廷にとって都合の悪い内容は削除されたはず)の中でも、高照姫は天道姫として香語山や村雲とともに何度となく登場し、祖母とじ、老女として描かれています。今でいえば40前後でしょうが。この高照姫が志賀海神社の八乙女であれば、安曇磯良と五十猛(香語山)はますます重なってきますね。

ちなみに旧事本紀では村雲の亦の名を天五多手イタテとしています。他より一世代ずれています。勘注系図にも村雲の亦の名を天五十楯天香語山命と記しているところもあってもはやカオスですが、これを五十猛と香語山が同一人物であり村雲の父であることを示していると読めば(かなりの深読み!)なるほどという感じでしょうか。