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源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛⑶ 鎮魂祭の神楽歌・あちめわざ

 

 

宇佐家に伝わるシャーマニズムについて、宇佐公康著「古伝が語る古代史」を参照しながら紹介します。

 

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宇佐神宮 南中楼門

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1928年撮影の本殿
 

「振る毎に一種ひとくさに拍手一ッ、息都鏡一ッ、辺都鏡一ッ、八握劔一ッ、生玉いくたま一ッ、足玉たるたま一ッ、死反玉まかるかへしのたま一ッ、道反玉みちかへしのたま一ッ、蛇比禮おろちのひれ一ッ、蜂比禮はちのひれ一ッ、品物比禮くさぐさのもののひれ一ッ、一いつむゆなな九十ここのたりや

 

これは石上神宮の十種神宝の行事(振魂の清祓行事)の口伝です。18世紀に縁あって宇佐家に口伝書が伝わったそうです。十種神宝が紹介されていますね。息津鏡と辺津鏡は籠神社(海部氏)の神宝です。

 

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Wikipediaより 石上神宮

奈良県天理市にある石上神宮は布留社とも呼ばれ、布津御魂フツノミタマの剣をご神体とする物部氏氏神です。

フツノミタマのフツとは、徐福の秦国での名前、徐市ジョフツが由来とも。

前回紹介した旧事本紀に記された、ニギハヤヒが十種神宝を授かって天下る話は、石上神宮の「十種祓詞」の中でも述べられます。

石上神宮は物部王朝時代の政治の中心地にあり、大量の武器を保管する蔵があったそうです。

 

阿知女作法 あちめわざ

宇佐家が自家の家伝として行っていた鎮魂祭たましづめのまつりは「あちめわざ」と呼ばれる神楽歌であり、今も宇佐八幡宮の分霊社である石清水八幡宮に伝承されているそうです。

この鎮魂の神楽には韓神カラノカミの舞があって、その前後にあちめわざと呼ばれる呪詞が唱えられ、最初に「あちめ」といい、次いで「おお おお おお」と呼び答えるのが決まりだそうです。アチメとは阿度部アドメノ磯良を呼んでおり、「おお おお おお」とはそれに答える神の声なのです。

宇佐氏によるとアチメとは朝鮮語が由来だそうで、嬰児を孕む水辺の女という意味があるそうです。三韓併合をした神功皇后はすでに子を宿しており、通説では後の応神天皇とされています。(宇佐家、出雲両伝承ともにそれは否定されていますが)

宇佐神宮八幡大神として応神天皇の神霊を571年より御祭神とし、比売大神(宗像三女神)ととともに神功皇后も祀られました。なので「あちめわざ」は応神天皇神功皇后に関係のある神楽であったことに注目しなければならないと宇佐氏は言われます。

宮中における鎮魂祭では笛師や琴師が演奏し、歌人が歌い、御巫の歌舞があり、空桶を伏せてその上に立ち、矛をもって10回桶を突きます。突くたびに中臣は御魂緒の木綿ゆうをひとつひとつ結び、女蔵人(宮中の女官)は天皇の御魂代としての衣を納める箱を振り動かします。そして「阿知女の神楽歌」と呼ばれる鎮魂歌を唱えます。

宇佐家の口伝としての神楽歌を紹介します。「あちめ おお おお おお」を分節の前に毎回挿入しますが、それを端折って紹介します。

 

「天地あめつちに きゆらかすは さゆらかす 神わがも 神こそはきねきこう きゆらいかすならば」

石の上 振の社の 大刀もがも 願ふ其の児に その奉る」

「さつをらが 持有木もたきの真弓 奥山に 御狩みかりすらしも 弓の珥はず見ゆ」

「登り坐す 豊日霎とよひるめが 御魂欲みたまほす 本は金矛かなほこ末は木矛きほこ

三輪山に 在り立てるちかさを 今栄えでは いつか栄えむ」

「吾妹子わがいもこが 穴師の山の 山のやまも 人もみるがに 深山縵みやまかづらせよ」

「魂筥たまばこに 木綿ゆふとりしでて たまちとらせよ御魂上り 魂上りましし神は 今ぞ来ませる」

「御魂上り 去坐いまし神は今ぞ来ませる 魂筥持ちて 去りたる御魂みたま魂返たまがへしすなや」

最後は「一二三四五六七八九十百千万、かんながら、すめみおや、たまちはやませ」と十度読む。

 

この内容を知った時は驚きました。海の磯良を呼ぶのに何故山なのでしょう。しかも石上神社の剣(徐福の御魂ともいえる)三輪山、穴師も出てきました。穴師といえば穴師坐(射楯)兵主神社です。五十猛ではないですか!

注)この神社や他の兵主神社を調べても、祭神がよくわからないらしく、大和国魂神とはあっても五十猛神を祀っていると説明しているところは見当たりません。出雲伝承では兵主神社とは射楯神を祀るとしています。

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Wikipediaより 穴師坐兵主神社

村雲は大和にカツラギ王国を作り、宮は笛吹にあってその辺りは高尾張村と呼ばれていました。のちの尾張氏の名の由来です。笛吹連とも同族です。村雲は火雷ほのいかづち神社を建て父の香語山を祀りました。尾張氏の一部は穴師に移住します。穴師とは金属精錬者のことです。香語山は音楽(笛)と製鉄の神でした。

兵主というのは中国山東半島方面の古代信仰で、徐福がその八神を持ち込んだようです。兵主は蚩尤しゆうという西方を守る武の神です。古代中国の黄帝と戦った軍神です。村雲は三輪山を守るために西麓の穴師で兵主の神を祀ったようです。なんとも猛々しい神様ですね。

石上神社は刀で有名ですが、神功皇后応神天皇を考えると、御神体布都御魂剣ではなく、この大刀とは国宝である七枝刀ななさやのたちでしょうか。石上神社によると剣の銘文より369年に百済で製造されたようです。これが書紀に記された、神功皇后摂政52年に百済より献上された七枝刀であろうといわれています。(この年代が正しければ三韓併合の年代も見えてきます)

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七支刀の実測図と銘文

歌には他に「御狩みかり」や「弓」という言葉もあります。神功皇后対馬で鹿狩りをしたという話からでしょうか。

どれも海人の磯良とは結びつきにくいですが、この「あちめわざ」が本当に磯良を呼ぶ歌であるなら、磯良と五十猛がまた近づきました。

 

本文より抜粋。

《このあちめわざは、古の菟狭国から邪馬台国へ、邪馬台国から応神王朝へと伝わった宇佐シャーマニズムと、崇神王朝に盛んであった鎮魂のシャーマニズムとが、混交融合して宮中祭祀として統一されたものに他ならない》

邪馬台国時代に盛んであった鎮魂のシャーマニズム(原始宗教の一形態)は、応神王朝の成立に伴って、原大和王朝以来、崇神王朝に最も盛んに行われた物部氏シャーマニズムをはじめ、和邇氏や大神氏のシャーマニズムと混交し、宮中祭儀として統一された》

混交したから磯良と結びつかないのかもしれませんが。とはいえ、今に繋がる神道の成立過程の一端がここにあるのでしょう。

 

安曇磯良と朝鮮半島の関わりは、船で行き来することもあったでしょうし、磯良が五十猛であれば、五十猛は日本書紀旧事本紀新羅の曽尸茂梨そしもりに天下ったという話があります。そのあたりに由来するのかと思っていましたが、宇佐氏の話によると、のちの神功皇后の影響という可能性も出てきました。

神功皇后朝鮮半島から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫であり、辰韓新羅の前身です。五十猛を祀った射楯兵主神社のある播磨国はヒボコが渡来した土地であり、新羅しらくにと呼ばれた場所には広峯神社や白国神社があります。

出雲伝承では150年頃に播磨へ海部勢力が攻めてきたとき、新羅系の人々が淡路島や福岡の糸島半島志賀島や古代伊都国の地)へ船で移住し、残った広峯神社には海部軍側がスサノオと五十猛を祀り、その後ヒボコの後裔である息長垂姫(神功皇后)が牛頭天王を祀り、新羅国明神と尊称したそうです。それが後代に祇園へと移されたといいます。この複雑な経緯によって秦国系渡来人と新羅系渡来人との混同が始まったようです。スサノオ牛頭天王の融合もここにあったのかもしれませんね。ということから、新羅系の人々が志賀島へ移住し、その後神功皇后三韓出兵があり、磯良と神功皇后新羅が融合したのかもしれません。

ただし、アチメという言葉が子を宿した女性のことであれば、磯良への呼びかけとしては疑問が残りますが。ということで、磯良と朝鮮の関りは後世に起きたという可能性がでてきました。