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源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛⑷ 君が代から磯良舞へ[前半]


 

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 初めに磯良の舞を紹介します。磯良舞については鈴鹿千代乃著「神道民俗芸能の源流」を参照します。

 

細男せいのう舞:春日大社、手向山八幡宮(奈良)

五十良舞:柞原八幡宮(大分)

鞨鼓かっこの舞:志賀海神社

傀儡舞(人形)の細男舞:古表神社(福岡)古要神社(大分)

 

すべて磯良舞のことです。代表的なところを挙げていますが、どれも白装束に顔を白布で覆い首に鼓を掛けて舞います。

中世に書かれた八幡宮の縁起(由来)や本地物(本地垂迹に基づく縁起などの語り物)、八幡愚童訓(八幡神の神徳を説いたもの)などによる磯良の出現する様子はどれも同じように記されています。

三韓出兵のために香椎に赴かれた神功皇后は、住吉大神より「志賀島の海中に住む安曇磯良は海の案内者なのでこれを竜宮へ遣わし、竜王から干珠満珠を借りて、この珠の威力によって攻めれば勝利するだろう」と教わります。磯良は「せいのう」という舞を好むというので、海中に舞台を据えてこの舞を奏すと、磯良が首に鼓をかけ、浄衣の舞姿となって亀に乗り、海中から浮かび上がってきます。けれど長く海中にいたために顔には牡蠣やアワビなどがぎっしりとついていて醜かったため、磯良は浄衣の袖をといて顔に覆い垂れて舞った、というものです。

海の案内者だという磯良が亀に乗って登場するモチーフは、神武を案内するウズ彦と重なります。顔に牡蠣やアワビなどついて醜かったというのは、海人にしてみれば海の幸の豊かさでもあります。醜いといえばニニギノ命に追い返された磐長姫もそうでした。こちらも永遠なる生命力に結びついていました。磯良が袖で顔を覆ったというのは、鈴鹿氏によれば磯良が「この世のものならぬ」精霊であったからにほかならないと言われます。でも磯良を追い続けるSorafullにとっては、やはり隠された存在だからだと思えてしまいます。

柞原八幡宮の五十良舞の歌詞は、

「八幡すの色は浜のまさごのかずよりも 久しきものはつるの毛衣 栄ゆれば国もたのしさ 栄ゆれば宮もたのしさ 栄ゆれば我が君は誰にぞ 千代まで栄えまします」

という征服者へ捧げる祝福の寿詞です。

かつて「君が代」に歌われた安曇の君、海人族の王とは立場が逆転していますね。この落差を生み出したものは何か、年代を追って探ってみたいと思います。

 

1)海人族、安曇氏が君が代に歌われた時代。

後漢書に記された57年の漢倭奴国王印後漢光武帝から受けた金印)は江戸時代に志賀島から出土しましたが、時代と場所から安曇氏のものではないかと思われます。そうであれば後漢との交易権を得たわけです。220年に後漢が滅び、間もなく魏とヒミコが結びついたので、安曇氏は交易権を失うことになります。

万葉集には「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神すめかみ」という歌もあって、皇室の祖先ともとれる表現です。航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、航海を守って下さる志賀の神様を忘れませんという歌ですが、後の時代になってもこのように崇敬されているということが伝わってきます。

 

2)仲哀天皇8年、筑紫の伊都県主の先祖、五十迹手イトテ天皇を出迎え、天皇は褒められて「伊蘇志いそし」と言ったことから、この国は伊蘇国と呼ばれ、変化して伊都国となった。(日本書紀

このイトテが安曇族かは明らかではありませんが、糸島平野の遺跡群を見ると長く支配力を維持した存在がいて、安曇族の可能性は高いと思われます。

このイトテが大きな賢木を根ごと引き抜き船の舳先に立て、そこに八尺瓊、白銅鏡、十握剣を掛けて天皇を出迎えたとあり、三種の神器天皇に献上したともとれます。それを天皇は褒めたのです。この土地の支配権を渡したのは確かでしょう。

翌年の神功皇后新羅出兵において、志賀島の海人に西の海に出て様子を見させた。そして神の教えによって、荒魂を招き寄せて軍の先鋒にし、和魂を請じて船のお守りとされた。(日本書紀

磯良を呼び寄せて、その荒魂、和魂を祭ったということでしょう。実際に船団の先頭で舵をとったのも安曇族だった可能性もあります。

 

3)応神天皇3年、各地の漁民が騒ぐため、安曇連の先祖大浜宿禰を遣わして平定し、漁民の統率者とした。同5年、海人部、山守部を定めた。(日本書紀

出雲伝承で考えると5世紀に入る頃でしょうか。統率者といえば聞こえはいいですが、部民になるということは中央に服従し貢献する側になるということです。服属儀礼が必要となったきっかけかもしれません。

★「阿知女作法」はこの応神以降のはずで、平安中期には完成していたといわれています。

ではどうして海人族はこの時代に中央に服従することになったのでしょう。

下図は大和での物部王朝と次の王朝を示したものですが、右側のヤマトタケルから仲哀へと続くのが記紀の話に添ったもの。左が出雲伝承によるものです。(神功皇后の祖先ヒボコの直系子孫の伝承とも同じ)

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神功皇后は仲哀ではなく成務天皇の皇后であり、子はいません。成務天皇が亡くなると神功皇后が摂政ではなく実質的に大王となります。物部王朝の終わりです。そして日向の武内宿禰(ソツ彦)との間に子をもうけるも幼くして亡くし、同い年で豊来入彦の子孫である竹葉瀬君を養子に迎え、それが応神天皇です。宇佐神宮に祀られるのは当然ですね。後年、本殿に祀っていた豊玉姫(ヒミコ)を二ノ御殿とし、新たに一ノ御殿を建て応神天皇を祀り、三ノ御殿には御蔭の神(宇佐の月神)を信仰していた神功皇后を祀りました。

次の仁徳天皇応神天皇と血の繋がりがなく、初代武内宿禰の子のようです。ここから平群氏の王朝が始まります。

王朝が交代する時、それまでの権力者は力を奪われます。新しい支配者に服従を誓うのです。竹葉瀬君がイニエ王の血筋だとはいえ、その時代はすでに辰韓系の神功皇后が成功をおさめた時代です。出雲伝承の「親魏和王の都」には「物部東征が宇佐の月神を旗ジルシとして磯城王朝を滅ぼし、神功皇后月神を旗ジルシにして、物部の残党を追討したので、大和の王朝では月神を毛嫌いする風潮ができた」とあります。神功皇后は物部を排除しようとしたようです。

安曇も物部とともに力を失っていったという可能性はないでしょうか。

 

4)宇佐神宮では571年より八幡大神応神天皇の神霊)を祀る。八幡三神として応神天皇姫神神功皇后が祀られる。八幡信仰の始まり。

磯良舞は明らかに神功皇后への服従の誓いを示す舞です。そして八幡信仰に隷属する精霊(神ではない)としての磯良となっています。八幡宮の縁起譚ではどれも舞の最後に「舞台は海中に石と成りて今に侍り」といった言葉が添えられています。舞台が石に成るというのは磯良が石に成ったことと同じです。地主神というのは石や岩であることが多く、もともとの土地の精霊が支配者に服従した姿でもあるといいます。

ただし八幡宮の縁起譚は中世期の頃のものですので、八幡信仰が誕生してからかなり後になります。

舞となって蘇った磯良の姿は、海人族にとっては屈辱的なものですが、それでも自分たちの祖神が朝廷の重要な役割を担い、さらに八幡信仰と結びつくということには利点があったのかもしれません。やがて神楽歌の阿知女作法は宮中の鎮魂歌として取り入れられました。

このような形でもいいから祖神を蘇らせ、語り継ぎたい。海人族の誇りはこんなことでは揺らがないんだと、そんな矜持に支えられた傀儡子たちの舞が八幡信仰とともに各地へと広まり、その技がやがて能楽人形浄瑠璃といった日本の芸能へと昇華していったのかもしれません。

神道民俗芸能の源流」から要約します。

《人形(傀儡子)の発生は人間の雛形・人形ひとがたで、それは人間の罪・けがれを移しつけて海や川に流されたり焼かれたりしたひとつの呪物であった。けがれのついたものだから恐れられ、それゆえにこれをまつり、信仰の対象としてきた。人形使い(傀儡子)たちは、けがれを一身に受けた人形を持ち歩き、舞わすがゆえに蔑視された。こうした仕事は大和朝廷服従した部族が行った。

海人族の神々は海の神として本質的に祓えの呪力を持っていた。陸の民よりはるかに神に近い存在であり、神を演じうる人々であったに違いない。

服従の芸は、すなわち祝福の芸にほかならない。神事において祓えと鎮魂の芸を演じ続け、けがれを背負い、代わりにあふれる魂を人々に与えて去ってゆく俳優人わざおぎびとの存在こそ、社会の秩序を保った神ととらえることができよう。》

 

つづく!