SOMoSOMo

源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛⑸ 君が代から磯良舞へ[後半]

 

 

f:id:sorafull:20181119225840j:plain

 

 5)712年古事記の神話として綿津見神が記される。720年日本書紀では少童タツ命、海神豊玉彦。800年には新撰姓氏録にて安曇氏の始祖を綿積豊玉彦とする。

正史に磯良は登場しませんが、ワタツミ神は安曇連の祖神とされ、新撰姓氏録には安曇氏の始祖として綿積豊玉彦が記されています。このことは安曇宿禰等が自分たちの祖神を大和朝廷の神話の中に組み込んだと考えられます。天武朝の帝紀編集委員には各王朝の子孫が選ばれていますが、安曇連稲敷が入っています。天武天皇の即位前の名は大海人オオアマノ皇子、養育者は安曇連家でした。

安曇氏は地方から中央へ進出し、海人の統率者となっていますので、地方にいる海人とは格が違います。ですので安曇氏にとってはかつての従属者が朝廷の権威の中に入り込むという利点があったのでしょう。

古事記‥‥綿津見三神=安曇連の祖神

日本書紀‥‥少童命三神=安曇連の祀る神

旧事本紀‥‥少童命三神=安曇連が祀る筑紫の斯香神

綿津見はそのまま読めますが、少童命をワタツミとは読めませんね。意味としては小さな子どもでしょう。出雲伝承によると少童命とは徐福とともに渡来してきた海童たちのことだといいます。でも海童たちが志賀神、皇神というのも妙ですよね。気になるのは「出雲と大和のあけぼの」に、出雲に来た海童たちは波に強い構造舟を持っていたから漁業を営むものが多かったとあります。彼らは綿津身の神、海神を信仰していたと。海童たちの祀る綿津見神が安曇連の祀る神であれば、安曇=海童にもなってしまいそうな。

八幡宮御縁起では磯良を磯童と書いており、この少童命から童という字を使ったのか、それとも磯良がまだ少年だった頃のイメージからか。五十猛も丹波で香語山と名を変えるまで少年だったはず。海童と呼ばれてもおかしくはないですね。

⑴から⑸へと変遷していった磯良をまとめると、以下のようになります。

 君が代に歌われた海人族の王 ⇒ 服属儀礼としての磯良舞 ⇒ 祓えの呪力をもった海人族の神

 

さて、磯良舞について最後にもうひとつ、筑紫舞を忘れてはなりません。筑紫舞の記事はこのブログの始まりに取り上げました。

筑紫舞がいつどのように発生したのかはわかっていません。春日大社で伝承されている大和舞のもとになっているそうなので、それよりは古いはずです。

筑紫舞は筑紫傀儡子たちが古来より伝え続けており、それが第2次大戦の頃に途絶えかけた時、九州とは関わりのない神戸に住む1人の少女に奇跡的に伝承されました。筑紫舞にとっては緊急の避難所のような存在だったようです。今は地元九州で再興しています。

少女には歴史的な背景はいっさい伝えられませんでした。昭和7年から11年間で二百数十曲伝承しましたが、最後に教わったのが「浮神うきがみです。最も大事なものだと言われたそうです。これが後年、細男舞と同じものであることがわかりました。浮神も白い敷布を頭からすっぽり被って、青い藻のようなものを頭に下げるそうです。この時の装束だけは少女用に作らず、師がもっているものを着たといいます。これまで習ったものとは全く違って、鳴り物は大皮(大鼓)と笛のみ、琴も歌もなくただ「おー、うー」という唸り声だけ。海から浮かび上がり、はるか彼方を見やるような仕草をするそうです。これが筑紫舞の中で最も大事な舞なのです。実際に見たことはありませんが、春日大社の静かで単調な細男舞とはまた違って、想像するだけでも凄味というか、闇の中に白い光を放って浮かび上がるような、そんな神々しさすら感じてしまいます。

筑紫舞をどの時代も命がけで伝え続けた人々は、表に現れる傀儡子たちの芸とは別に、磯良の本来の魂を秘伝として持ち続け、永続させようとしたのではないかと思います。神戸の少女、のちの西山村光寿斉さんも「浮神」を習う直前に教わった「源流翁」は一生に一回だけ、しかも50歳を過ぎてからでないと舞ってはいけないと言われ、実際に人前で舞ったのは62歳の時だったそうです。「浮神」については教わったあと、あまりにその舞がこれまでとは違う「けったいな舞」だったのでその後存在を忘れてしまい、50年経って春日大社で細男舞を見たときにすべてを思い出したといいます。歴史背景を知らない神戸の少女は「浮神」の背負ったものを理解することはできませんでしたが、結果的に秘伝として継承することになったのかもしれません。

★光寿斉さんに春日大社の細男舞を意図的に見せたのは鈴鹿千代乃氏です。このきっかけがなければ浮神は消えてしまっていたのかも・・・

 

ところで傀儡子くぐつの名の由来は、一説には海人たちが魚介や海草などを入れた籠からきているそうです。この籠はクグと呼ばれる水辺に生えるかやつり草の茎で編みます。くぐの籠なのでくぐつこ⇒くぐつ。

のちにはこの籠に人形を入れるようにもなり、籠は神聖なもので彼らの神でもありました。

丹後の海部氏の籠神社は、奈良時代に真名井社から籠宮へと改名していますが、この名の由来は火明命(ホホデミ)が竹で編んだ籠船に乗って海神の宮に行ったことからだそうです。

海人族=籠

斎木氏著「古事記の編集室」には香語山の「香語」とは「籠」の意味らしいと書かれています。意味はぴったりですが、古くは籠を「こ」と言ったようです。どうなのでしょう。五十猛が海人族(安曇)と関係したことでカゴヤマと名を変えたのだとしたら‥‥。磯タケ⇒籠山?

妄想が止まりません!

 

 昭和11年に西山村光寿斉さんが目にしたという宮地嶽古墳内での筑紫舞と神事のようなものは、光寿斉さんがその時に聞いた話によると、毎年この古墳で行われるものではなく、いろいろ違うところで集まって舞っていたようだったということです。微妙な言葉の違いが、時間が経てば大きく変化してしまうこともあるので、当時のまま伝えることも大事ですね。