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源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛 ⑹ 鹿島神宮・春日大社

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鹿島神宮

 

中世に書かれた八幡宮御縁起によると「志賀島の明神、鹿島大明神、春日明神、すべて一躰分身、同躰異名」と記されています。八幡愚童訓や太平記では磯良は常陸の鹿島にいたとしています。中世に書かれたということは、記紀や鹿島、春日宮創建などもろもろの影響を受けている可能性もありますが、共通するものがないか辿ってみたいと思います。

それぞれの主祭神をみると、

志賀海神社‥‥綿津見三神

鹿島神宮‥‥‥武甕槌神タケミカヅチ

春日大社‥‥‥武甕槌命経津主命フツヌシ(香取神)、天児屋根命藤原氏祖神)、比売神天児屋根命の妻)順に第1殿から祀られており、藤原氏祖神が下にいます。

 

通説では鹿島神宮藤原氏氏神とされ、のちの768年に創建された奈良の春日社に鹿島神(武甕槌神)を遷して祀ったと言われています。記紀鹿島神宮のことに触れていません。

常陸国風土記では香島の天の大神は天孫の統治以前に天下ったとしており、武甕槌神については触れていません。649年に香島郡が成立し、天智天皇のときに神殿の造営があったとあります。これはいわゆる大化の改新の直後ですね。Wikipediaによると、改新後、東国支配の拠点として朝廷は鹿島社とつながりを強め、その背景に中臣氏があったといわれているようです。東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神だった鹿島社の祭祀を掌握したと。以前の祭祀氏族については明らかではないとのこと。

出雲伝承の「サルタ彦大神と竜」によると、第1次物部東征によって東国へと移っていった大彦の後裔、安倍勢がのちに常陸国鹿島神宮を建てたといいます。そこで出雲の雷神(龍神の化身)を祀りました。その後中臣氏の軍勢が西から攻め、鹿島神宮祭神の武甕槌神(武甕雷神)も奪って自家の氏神に加えたというのです。つまり藤原氏記紀武甕槌神葦原中国を平定させた話を載せ、家の権威を上げたということになります。

谷日佐彦著「事代主の伊豆建国」は、鹿島神宮の神殿の形が出雲神殿と同じ造りだと指摘しています。詳細は省きますが、神魂神社熊野大社本殿と同じ形式に造られているそうです。また景行天皇の時、出雲王家はクヌ国征伐を指示され有志が東国に移住、下総国沖洲神社を建てて出雲井の神(幸の神)を祀りました。主祭神は出雲の祖神、久那戸クナト神です。今は息栖神社と呼ばれ、鹿島、香取とともに東国三社のひとつとなっています。古代には香取海という内海が存在し、両神宮は海に面し、息栖神社も沖洲といったように内海の中に浮かぶ島だったようです。航海の要所だったのでしょう。両神宮は内海の入口を左右から守るかのように建てられていますね。

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現在の東国三社の位置 

斎木氏の古事記の編集室」によると、中臣鎌足中臣御食子ミケコの養子であり、血の繋がりはないそうです。中臣家は辰韓からの渡来人と考えられているといいます。明確ではないようです。宮中祭祀の家系なので、鎌足天皇家に近づくために養子となったともいわれています。

鎌足上総国出身で、その地の国造家の母と鹿島の国造家の父との間に生まれたそうです。両親ともに始祖は神八井耳とされ、天村雲と出雲のタタラ五十鈴姫の子となります。(伝承によっては村雲の子、沼川耳と五十鈴依姫の子)この神八井耳は多臣家の祖であり、後裔は太安万侶です。鎌足の子、不比等太安万侶は親戚だったことになります。記紀の編集では深く関わっており、因縁の相手です。

つまり藤原氏は出雲王家の子孫となります。そして藤原氏が祖神とした武甕槌命は出雲登美家の4代目健瓮槌命です。ちなみに天児屋根命は中臣氏の氏神です。まとめます。

中臣氏 始祖ー天児屋根命(出自はよくわからない)

藤原氏 始祖ー神八井耳(出雲王家)

    祖神ー健瓮槌命(登美家)

不比等は中臣の血を受け継いでいませんので、このふたつの家系は血縁ではないようです。

 

もし志賀島、鹿島、春日の神がすべて一躰分身、同躰異名であれば志賀の神(磯良)と武甕槌神、あるいは天児屋根が同じ神でないとおかしいですよね。出雲伝承でもそこに繋がりがあるとは思えません。

あえて探せば鹿ぐらいでしょうか。

志賀海神社には鹿角堂といって鹿狩りをした際の角が1万本以上も奉納されているお堂があります。山誉祭でも鹿狩りの狩りの安全と豊猟を祈願して矢を射ます。

鹿島神宮では武甕槌命のところへ天照大神の使者が来て、出雲へ行って国譲りの説得をしてくるように言いました。その使者が鹿の神霊だったということから、鹿が神の使いとされました。香島を鹿島と改称したのは723年なので、記紀ができて間もなくのことです。神話に合わせたのでしょう。

春日大社は鹿島から武甕槌命を勧請した時に分霊が白鹿に乗って現れたという伝説から、鹿を神の鹿としています。

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春日大社

このように鹿島、春日は鹿が神ですので狩りをしたり食べたりはしません。ところが志賀島では鹿狩りをするのです。同じ信仰とは思えません。日本では縄文時代から鹿を食べていたわけですので、後から入ってきた信仰や文化によって食べてはならない神の鹿が生まれたのだと思われます。記紀の成立直後に「香島」から「鹿島」へと改称されたことが気になります。

 

ですがそんな鹿だけのつながりでは納得できませんよね。藤原不比等という鬼才が、その程度の策で済ませるだろうかと。もっと何かあるはずです。

不比等が編集の長だった記紀神話を見てみましょう。

タケミカヅチ古事記では建御神、書紀では武甕槌神や武甕男神、建命と書かれており、どれも同じです。古事記では別名を建布都神、豊布都神としています。

タケミカヅチと布津主フツヌシノ神(布津御魂剣)は関係が深いです。タケミカヅチとは猛々しい雷の男神であり、雷は刀剣の象徴でもあるとされています。国譲りの際はタケミカヅチがフツノミタマ剣を持って出雲へ天下り国譲りを成功させ、神武東征でもタケミカヅチがその剣を高倉下に渡し、神武を勝利へと導きます。出雲伝承では藤原氏国譲りの成功を自分の家の手柄として宣伝した、と言います。

鹿島神宮と向かい合って建つ香取神宮では、祭神はフツヌシ大神のみ。鹿島と香取が一対と言われるのも、このペアとなった神様ゆえかもしれません。

フツノミタマと言えば石上神宮のご神体でしたね。物部の祀る神です。(徐福の秦での名前、徐市ジョフツのフツともいわれます)

また徐福の孫である天村雲は父、香語山の御魂をカツラギ国高尾張村の火雷ほのいかづち神社に祀りました。海部氏の極秘伝でも「火明命は別雷命と異名同神である」と伝えられており、この親子はともにに関わります。

雷とフツ、タケミカヅチとフツヌシ。この結びつきは何を表しているのでしょうか。ここでひとつの古文書を紹介してみたいと思います。

 

香取神宮に古来より秘匿されてきたという古文書で、藤原九条今野家に隠されていたものが平成になってから、弓前文書ゆまもんじょとして公開されています。67代当主、池田秀穂氏が時期をみての公開に踏み切られたということなのですが、この方は弓前ゆま一族の末裔になられるそうです。この家系の始祖は天児屋根アメノコヤネ命であり、その子孫が中津・弓前一族、のちの中臣氏です。

中津・弓前一族はもとは九州で大王の側近として祭祀を司り、やがて鹿島・香取の祭祀一族となりました。

この一族には天児屋根命の言葉が代々密かに口承され、7世紀初めになって弓前値成ユマアテナという香取の幹部宮司が、万葉仮名に似た文字と特殊文字を使ってその口承を9枚の板に書き留め、さらに漢文で一族の歴史を加えました。記紀とは内容が違いますし、古事記冒頭の神代の原典とも考えられ、また祓詞の原文など記されているため、世に出すことはできなかったということです。

弓前文書は980文字の弥生語(記紀万葉集以前の言葉)で記され、板に書かれた神文(御親コヤネの伝えた言葉であり、今でいう自然物理学を内包した哲学書)と委細心得(7世紀初めの弓前値成と14世紀の藤原内実が書いた歴史書)から成ります。

67代池田秀穂氏が昭和57年から解読を始め、平成5年に「弥生の言葉と思想が伝承された家」を、平成9年「日本曙史話」を出版されました。その後、池田氏と交流をもたれた元鹿島神宮禰宜の萩原継男氏が平成28年に「古事記、祓い言葉の謎を解く」を出版されています。

池田氏は弥生語を解読するという大変困難な作業から始められ、神文に描かれた自然科学(宇宙及び生命の誕生)を読み取り、それを神の名として記紀が神話の中に当て嵌めていったことを示しています。私たちが馴染んでいる天照大神奈良時代以降の名称であり、弥生語ではアオピルメムチナ。オオヒルメムチの元ですね。弥生語は一音一義であり、現代のようなひとかたまりの語句に対して意味がつけられたものとは違います。ア、オ、ピ、ル、メ、の一音ずつに意味があり、それを合わせることでより複雑で奥行のある本質に近い名称となるようです。

出雲伝承の斎木氏も書かれていましたが、万葉集柿本人麻呂の歌(167)の中に「天照らす 日女ヒルの命」という言葉があり、その影響でヒルメムチという太陽神が天照大神と呼ばれるようになったといいます。この時期が弥生語から大和語への過渡期だったようです。人麻呂は稗田阿礼ではないかともいわれています。

さて、弥生語の解説だけで終わりそうなので、少し本文を紹介します。弓前値成ユマアテナの書いた委細心得の冒頭です(池田秀穂氏の訳)。

もと中津弓前の族は山人の島々に在り。木の実を採り、木肌をすき、畑を耕し水に潜りて漁をなし、大霊の垂力を祀る。時に大君の質しに答うるを以て家の業となすなり。

この短い文章の中にもキーワードがいくつもありますね。Sorafullが素直に読めば、ヤマトの島々に住む海人であった中津弓前の一族は、神を祀り、大王の問われることに対して答えることを家業としていた、となります。これを池田氏が読み解くと、九州の五島列島から博多を本拠地とした倭人天(海人)族は、黄海東シナ海で交易をしていた海洋民族であり、中津弓前の一族は大王の側近として祭祀を司り、占いによって大王の問いに答えていた、ということになります。このふたつの訳の違いは、倭人伝に添いながら弥生語として一語一義を読み解いているかどうかということです。

歴史の読み解きに関しては、委細心得に描かれた古代史に基づく推測であり仮説だとされています。池田氏、萩原氏ともに中国の文献に記された倭人伝や記紀に描かれた神武東征などを参照にし、弥生語で読み解いた大王の名をそこに照らし合わされているようです。本文には大王の名称などは見当たらず(見逃しているのか?)「天の大君」「国の大君」として記されているだけです。なのでこのブログではそこは断定せず、弥生語の示す世界観を受け取ってみたいと思います。

 

長くなりましたので、続きは次回。鹿島、香取の創立の過程や、不比等とは何者かについて紹介したいと思います。