SOMoSOMo

源流なび Sorafull

倭人⑴太伯の後と自称大夫

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 「SOMoSOMo」は、古代史を研究していた父のバトンを受け取る形で始まったと何度か書きましたが、今日は母の話を少し。

母は万葉集が好きで、故犬養孝氏(万葉学者)の万葉ハイキングへせっせと足を運んでいました。見向きもしなかった私に「あなたも中年になれば必ず古典に興味を持つはずよ」と。ありえなーいっ!なんて言っていた自分が恥ずかしい。古代史を調べる上で万葉集の存在は、時を超えて輝き続ける“宝石”のように今は感じています。

そんな母も先日、父のもとへ旅立ちました。私が古代史にハマった時、母はすでに記憶を失っていました。結局、古代史も万葉集も、ふたりと語り合う時間はありませんでした。つくづくタイミングの悪い娘です。

母は終戦とともに朝鮮から引き揚げてきました。当時高校生だった母は、朝鮮での暮らしも鮮明に覚えています。終戦は今から70年余り前のことですが、母の記憶にある日本人と朝鮮人の関係と、現在混迷を極めている日韓関係で取りざたされる過去の事柄とが重なりません。たった70年ほどで、歴史認識の違いはこれほどの溝を生み出すのですね。

それに比べ古代史が扱うのは桁違いの遠い昔です。たとえ生き証人がいたとしても言い分が違うであろうものを、古からの伝承(記紀を含め)に頼らざるを得ないのです。それでも各地に残る多くの古墳や様々な遺物、その土地特有の習慣、地名や神の名前、そして私たちの言語やDNA。そういった今存在するものの起源を、残された伝承とともに探ることで、誰かの「言い分」ではなく、遠い先祖たちから私たちへ繋がる「筋道」がやがて見えてくるのではないかと、そんな微かな希望をもちながら、今日もあれこれ考えてみたいと思います。

  

記録された倭人

下の過去記事では徐福集団を日本へ連れてきたのは誰かというテーマで、安曇族とは呉や越から逃げてきた渡来民か、それとももっと以前から日本列島にいた倭人なのかということを探ってみました。

今回は中国の文献に記録された倭人を辿ります。 

まずは、なぜ倭人が呉からの渡来人であると言われるのかを探ってみたいと思います。

 中国の王朝の歴史を記したものとして「二十四史」と呼ばれる正史24書があります。伝説とされる黄帝から明までの歴史です。実際にはこれら以外にあまたの書が存在したでしょう。

一覧をWikipediaからお借りしました。今回参照するのは上位数冊のごく一部ですが、それぞれの巻数を見ると、中国というのは書き残すことにおいては並々ならぬ意欲をもっているようです。

二十四史
  書名 作者 巻数
1 史記 前漢司馬遷 130
2 漢書 後漢班固 100
3 後漢書 范曄 120
4 三国志 陳寿 65
5 晋書 房玄齢 130
6 宋書 南斉沈約 100
7 南斉書 蕭子顕 59
8 梁書 姚思廉 56
9 陳書 姚思廉 36
10 魏書 北斉魏収 114
11 北斉書 李百薬 50
12 周書 令狐徳棻 50
13 隋書 魏徴長孫無忌 85
14 南史 李延寿 80
15 北史 李延寿 100
16 旧唐書 後晋劉昫 200
17 新唐書 北宋欧陽脩宋祁 225
18 旧五代史 北宋薛居正 150
19 新五代史 北宋欧陽脩 74
20 宋史 トクト(脱脱)他 496
21 遼史 トクト(脱脱)他 116
22 金史 トクト(脱脱)他 135
23 元史 宋濂 210
24 明史 張廷玉

 

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魏略の「太伯」と三国志の「大夫」

日本の古代の様子を知るには三国志魏書東夷伝に記された倭人が特に詳しく、邪馬台国の描写でも有名です。この三国志よりも少し前に書かれた魏略という歴史書があり、三国志魏書のもとになっているとも言われています。ただしのちの唐代に失われて逸文しか残っておらず、それも唐代の翰苑カンエンという辞書に注として付けられたものがほとんどです。全体像はわかりません。

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魏略逸文三国志魏書よりもかなり簡潔であり、三国志が魏略を参照したというよりは、他にもととなる文献があって両者がそれを参照したという感じがしないでもありません。翰苑に注を付けた者が魏略を省略して書いた可能性もありますが。

このほぼ同時代に書かれ、内容の重なるところも多い書物の中で、明らかに食い違う部分があります。それが倭人の出自に関したところなのです。

「昔の話を聞くと、自らを太伯の後という魏略

(原文)旧語自謂太伯之後

太伯というのは呉の建国者の一人。倭人はその後裔にあたると自称しているようです。この一文から倭人(あるいは倭人の一部)は呉の後裔ではないかとも言われます。日本の南北朝時代にもこれを巡って論争があったようです。

同じ個所を三国志と照らしてみると、前後は同じですが、

「古より使者が中国へ来るときは、みな自らを大夫という三国志

(原文)古以来其使詣中国皆自称大夫

と全く変わっています。

Wikipediaによると、大夫とは中国で周の時代に使われた身分であり、周王室、諸侯に仕える小領主を大夫、その上が卿といって国政に参加したそうです。三国志邪馬台国の記述の中にも、大夫難升米などがあります。

次に 太伯について。太伯は周の後継者のひとりでした。周の起こりは殷の支配下にあった黄河流域の村ですが、古公亶父の時代に周の地に移住します。司馬遷史記によると、3人の息子のうち末っ子に男児が生まれ、その子に聖人としての兆しがみられたため、兄の太伯と虞仲は皇位をその甥っこに譲るために自ら周を離れます。呉の地へ至って首長となり建国したふたりは、土地の者に倣って髪を切り体に入墨を入れました。もう周へは戻らないという覚悟の意思表示ということです。

その後、長兄の太伯には子ができず、弟虞仲の子孫が呉を継いでいきました。なので「太伯の後」というのは血筋というよりも呉の国の者という意味合いでしょう。儒家経典の春秋左氏伝には「呉は周の後裔」「太伯の後裔」という言い方がされているようです。

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三国時代の前にあたる後漢時代を記した後漢書には、三国志と同じ一文があります。

建武中元2年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉って朝賀す。使人、自ら大夫を称す倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」後漢書

志賀島から出土した金印(倭奴国王印)の記事ですね。朝賀す、とありますが、朝献、朝見といった「朝」がつく場合は、使者が直接朝廷に貢物を持ってくることであり、献見、貢献といった場合は出先機関朝鮮半島の楽浪や帯方など)に貢物を持っていくと、そこから役人が朝廷へ届けてくれるという違いがあります。ですので57年の場合は倭奴国の使者が魏王朝の都(洛陽)まで出向いていったことになります。そこで自分のことを大夫であると名乗ったと。

三国志ではこのニュースを「漢の時に朝献する者あり」としか記していません。こちらは三国時代がメインなので後漢時代のことは端折ったのでしょう。

これらの史書が年代順に書かれていればややこしくないのですが、実は後漢書三国志から150年ほど後に書かれました。上の年代図を見て頂くとわかりますが、三国志や魏略はほぼ同時代のことを記述しているのに比べ、後漢書後漢滅亡から200年ほど経って書かれています。なので三国志などを参照したとされていますが、三国志には書かれていない後漢時代の倭人の事柄を取り上げています後漢書は、後漢時代からも存在した八家後漢書などと呼ばれる多くの史書を参照しながらまとめられたと言われています。後漢書以外はのちにほとんど失われてしまいましたが。三国志や魏略の編者もそれらを目にしていたでしょう。

 

地図では東漢とありますが、後漢のことです。こんな大国の中枢部に倭人は出向いていったのですね。使者の勇気に頭が下がります。

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ここで史書の書かれた年代順に並べて、比較してみたいと思います。

 

魏略(一部抜粋)

帯方より女国に至るには万二千余里。その俗男子はみな点而文す(点による入墨)。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。夏后小康之子、会稽に於いて封ぜられ、断髪文身し、以って蚊龍之害を避く。今倭人また文身し、以って水害を厭わずなり。注)文身とは入墨のことです。

 

三国志魏書(一部抜粋)

(帯方)郡より女王国に至るまで万二千余里。男子は大小と無く、みな鯨面文身す。古より以来、その使いが中国に詣るときはみな、自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身して以って蚊龍の害を避く。今、倭の水人好んで沈没して魚蛤を捕え、文身するもまた以って大魚水禽を厭えんとしてなり。

 

後漢書(要約)

前半では倭の位置、土地柄、風俗(男が入墨をする話なども)習慣を述べ、後半に入ってから先述した倭奴国の使者が都にやって来たことを記します。使人、自ら大夫を称す。

続いて107年に倭国王帥升が皇帝の謁見を願ってきた話、さらに倭国大乱、そしてヒミコの話へと年代順に進みます。

 

こうして並べてみてみると、三国志魏書の不自然さが目立ちます。魏略では倭人の男が入墨をしていることから、彼らが太伯(呉の始祖)の後裔であると言うと記し、そういえば夏王朝の少康の子(越の始祖)が会稽の王にされた時、髪を短く切って体に入墨をして、蚊龍の害を避けた。倭人もまた入墨をして水害から身を守っている、と話が進んでいます。呉も越も同じ越族なので、魏略は倭人を越族につながると強調したかったのでしょうか。

三国志では倭人の入墨の話から、唐突に「昔から中国へ使者が来たときは大夫と名乗っている」と言いだし、続いてまた入墨といえば夏王朝云々‥‥と脈絡のない話になっています。写し間違えというよりも、魏略にあった一文をあえて訂正したように感じます。

後漢書には大夫のことを書いています。後漢時代の文献に記されていたのだろうとは思いますが、三国志を参照した可能性もゼロとは言えません。

魏略も全体像が残っていないので、57年の倭人朝見の記事と大夫のことを書いた上で、入墨と太伯の話を別ものとして扱ったのかがわかりません。

のちに書かれた晋書に至っては、倭人の入墨の話の後に「自ら太伯の後という。また昔、使者が中国を訪れた時はみな大夫を自称した。夏王朝云々‥」として両方取り入れています。編者の困惑と諦めの痕跡が見えるようです。

 

 次回はさらに周の時代まで遡って検証します。