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源流なび Sorafull

倭人⑶東夷の舞

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「昧まいは東夷の楽なり、任は南蛮の楽なり。東夷の楽を大廟に納め‥」礼記、巻14》

倭人⑵でも紹介しましたが、周の第2代成王の補佐として王朝の基礎を築いたという周公が亡くなった時、成王が周公への恩とこれまでの功績を称え、天子を祀る礼式で代々祀り続けよと周公の息子に命じた時の言葉です。その礼式というのが儀式の最後に「東夷の楽である昧と、南蛮の楽である任の音楽を奏でよ」ということでした。

この昧まいとは舞のことなのか?と思っていたところ、後漢書東夷列伝の序文に、

「少康(夏の第6代王)より以後、夷人は夏王朝の王化に服し、やがて王門まで招かれるようになり、彼らの楽舞を披露した」

とありました。さらに序文の書き出しは「礼記の王制篇に、東方を夷というとある」です。東方=夷ですので夷人の楽舞は東夷の楽舞であり、後漢書に従えば、昧は舞であろうということになります。

※少康は三国志後漢書にみられる「夏后少康の子、会稽に封ぜられ断髪分身して‥」の夏王朝の王です。殷の前王朝です。殷も夏も以前は伝説だと思われていましたが、殷墟の発掘に続いて近年夏の遺跡とされるものも現れ、史記に書かれた伝説の古代王朝はすべて実在だったという見方が強くなっています。

夏王朝の王門で舞を披露した東夷が倭人だったかどうかはわかりません。倭人周王朝に鬯草を献じたけれど、それは貢献(出先機関に貢物を託す)であって朝見(都まで赴く)ではないからです。古田武彦氏も周公の霊前に奉納したという東夷の舞は、東夷である倭人が鬯草を献じたことを称える儀礼だったというに留まっておられます。微妙なニュアンスなのですっきりしませんが、たぶん倭人に限らない東夷の舞を奉じたという意味でしょうか。そうであれば、夏王朝の王門で楽舞を披露した東夷も、もちろん倭人とは言えないわけです。

 

次に舞の話になりますが、「東夷の舞と南蛮の任」の形式は、中国を中心として東と南です。これまでSOMoSOMoで繰り返し話題に上る筑紫舞にも、これと同じ形式のものがみられます。

「翁の舞」という筑紫舞の核となる舞があって、地方の王が都に集まって諸国の舞を披露するという設定です。その基本形が「三人立」であり、都の翁を中心に越(加賀)と肥後の翁が舞います。都というのが九州の筑紫地方であった場合(というかそうとしか思えませんが、都がどこかは隠されています)、越は東で肥後は南となりますね。この形が礼記の本文に記された、周公の霊前に奉げる東夷と南蛮の舞楽=東と南の舞楽と同じなのです。

筑紫舞を探求された古田氏は、中国の朝廷における周辺の蛮夷からの奉納舞楽という習わしは、近畿天皇家雅楽などより以前に、筑紫なる九州王朝にまず伝来し、宮廷舞楽もしくは奉納舞楽としてその様式が模倣されたのではないかと考えておられます。周の時代に筑紫舞が存在したかどうかということではなく、様式が伝播したということです。そうであれば、倭人はこのことを知っていたわけで、話を聞いたのか、それとも実際にその場にいたのか‥‥。これ以上の詮索は控えます。

 

ところで、夏王朝というこれまで伝説としか思われていなかった王朝に、倭人が関わっているのか?などと空想すること自体、我ながら大胆になってきたなと思いますが、記録とは関係なく考えた場合、そこまで突飛な話ではないような気もします。

夏王朝は紀元前20世紀から17世紀頃のことなので、日本は縄文時代後期に入った頃です。

これまでの感覚では縄文時代というと、かなり原始的な狩猟生活を想像しますが、東日本では5500年前から1500年も続いた定住型大規模集落、青森の三内丸山遺跡があり、栗や豆などの栽培が始まっていましたし、縄文土器の中でも非常に芸術的な火焔型土器も新潟周辺で同じ頃に作られています。初期の土器になると青森で16500年前のものが出土していて、世界の中でも異例の速さで文明が始まっています。

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三内丸山遺跡新潟県長岡市馬高出土の火焔型土器

さらに海を渡る交易では3万年前から黒曜石を各地に運んでいます。西日本を見てみると鹿児島の上野原台地で、9500年前から定住型集落を作り、7000年前にはすでに壺型土器(雑穀を保存する)を作っていたりと、これまでの縄文時代に対する思い込みを一掃するような発見が続いています。

日本列島には東西を問わず、かなり先進的な人たちが集まっていました。ですので(万が一)4000年ほど前に中国へ舞を披露しに行っていたとしても、実はそれほど驚くことではないような気もします。