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源流なび Sorafull

邪馬壹国から邪馬臺国へ⑵壹、委、倭

 

  

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突然ですが、コンピューターは2進法の原理で成り立っていて、電気信号の on/off を1と0だけで使い分け、すべての情報を表現しているらしいです。詳しいことはわかりませんが、まるで陰陽の二元的世界の象徴みたいだなぁと思います。Yes/No、高/低、光/影、快/不快、善/悪、敵/味方……、キリがないですね。

実は古代中国でも、ふたつの数字に特別な意味を持たせていたようなのです。

前回に引き続き、古田武彦氏の邪馬壹国説を紹介します。

 

「壹」に込められたもの

周王朝の制度を記した周礼礼記儀礼とともに三礼のひとつ)の中に「壹見」という言葉が見られます。

夏王朝始祖の禹王は、天子への朝貢の基準を「五服」として定め、それが周王朝では「六服」「九服」となって受け継がれています。(冊封体制のもととなったようで、天子の場所からみた周辺国との距離によって決まります)

陳寿の書いた三国志東夷伝序文の初めには、夷蛮統治に「九服」がうまくいったと記されています。下の地図を見ると、中国は常に周囲の異民族の国々に目を光らせる必要があったことがわかります。北方から匈奴鮮卑といった騎馬民族たちが押し寄せてくる直前の時代です。

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周礼の「六服」には、朝貢や朝見の代わりに「壹見」という言葉が繰り返し用いられています。特別な意味が込められているようです。

1世紀に漢書を編纂した班固は、天子への貢献について、壹朝、壹友、壹至という熟語で表現しています。また「貳(数字の二)という字を用いて漢と匈奴の間で離反を繰り返した「貳師」という国が記され、三国志にも背反、敵対を繰り返す者の名称としてこの字が当てられています。

古田氏は「壹」とは《天子に二心ふたごころなく見まみえる》という歴史的由来をもつ文字だと分析しています。壹と貳は単に数字としての意味だけでなく、「壹」の反対語として「貳」が在るのだということです。

漢和辞典で「壹、壱」を見てみると、①もっぱら、専一、ひとえに②ひとつ③ひとたび④すべて⑤等しい、とあります。最初の「もっぱら」とは「一途に、一心に」という意味なので「二心なく」に通じますね。

そして三国志倭人では「壹」は壹拝、邪馬壹国、壹與に使われています。「壹拝」と書かれているところは、女王ヒミコが238年の朝貢に続いて243年に大夫伊声耆、掖邪狗ら8人を使者として朝貢した際、《掖邪狗等、率善中郎将の印綬壹拝す》とあります。ヒミコは魏王朝にすれば大変優秀な夷蛮です。1度目は帯方郡はまだ魏と公孫淵との戦乱最中であり、そんな時に僅かながらも貢物をもって魏へ朝貢し、それからたった5年という短期間で今度は立派な貢物を携え、大海の向こうからはるばるやって来るわけですから。通常なら「拝受」でよいところを、あえて「壹拝」としたのでしょう。天子への二心ない忠誠心と見たのです。

またヒミコの後継者となる宗女、壹與に付けられた「壹」の意味は、魏略の一文から古田氏は次のように分析しています。

西国において周辺の国々を統率し朝貢してきた車師後部王に対して、魏朝が与えた称号が「壹多雑」でした。(多雑=各種の小国)

対する東の倭国の女王は多くの與(与)国(=同盟国)を従えて朝貢してきたので「壹與」と表したのではないかと。東西の優秀な周辺国の王への称号です。

古くは夏の兎王に始まり、周代も夷蛮の教化に力を注いできましたが、周辺国は思うように統治できません。ですが漢書に示されたように、天性柔順な東夷、楽浪海中の倭人はやはり、魏の時代になってもなお兎王の五服を守っていたのだとして、「壹」の字を倭人伝の中に3度も使用したのではないかということです。

 

「ゐ」から「わ」へ

邪馬壹国の「壹」の字は、本来、邪馬国であったのを、壹に置き変えたのだろうと古田氏は言われます。

江戸時代に志賀島から出土した金印の「委奴国」という字によって、倭と委は同義であることがわかりました。倭は委に人偏がついたものなので委が原型で、ともに「ゐ」と発音したと考えられます。古田氏は倭は「委の人」を意味するようになったのではないかとも。

では「ゐ」から「わ」へいつ頃移行したのかですが、これは1世紀に書かれた漢書「楽浪海中倭人在り」に対して、代々付けられた注を順に読み解くことで見えてきます。

①魏の如淳が「墨の如く委面(入墨した顔)して、帯方東南万里に在り」と注を付けた。

西晋の臣讃がこれに対し、倭は国名だからその表現はおかしいと指摘。

③唐の顔師古が、倭の音は「一戈反=わ」であり、今もそこに倭国が存在している。委国ではない。

以上すべて要約ですが、①の委面は「ゐ面」としか読めません。②は音のことには触れていません。委(ゐ)は人ではなく倭(ゐ)という国名だと指摘しています。それに対して③は倭の音は「わ」であって、委(ゐ)と書くのは間違っていると言っています。

唐の顔師古は3世紀以前は倭を「ゐ」と呼んだことを知らないわけですね。

中国の古代文字、説文解字の研究者である張莉氏の「「倭」「倭人」について(2014)」の論文によると、唐代には倭は説文では「yi=ゐ」、顔師古は「yua=わ」といい、ふたつが混在していたようです。説文とは後漢の許慎によるもので、西暦100年に成立しています。

そうであれば後漢書が編纂された5世紀の音は「ゐ」となりそうですね。范曄は南朝宋の人で、顔師古は祖父の代から北朝の学者です。ただし張氏はこの音の変化を、日本側が自らを「わ」と呼んでいたことによるのではないかと言われます。唐代までは中国側の漢字表記が委であっただけで、実は倭人はずっと「わ」と自称していたのではないかと。張氏は倭人を中国南方の出自とみておられ、その辺りの民族が自らを「wo」と呼ぶことから、それが「wa」へ転訛したと考えておられます。でも現在の中国では倭を「wo」としか読まないようで、「yi」が消えているのなら中国側の変化ではないのかな、などと考えてしまいますがどうなのでしょう。

 

後漢書に戻ります。57年に光武帝が賜った金印には「奴国」とあるのに、范曄は「奴国」と記していたり、倭国倭奴国を区別しているところを見ると、范曄は金印の詳細な情報を見たことはなく、日本の通説と同じく「倭の奴国」の王(全体の王ではなく地方の王)に銅印あたりを賜ったと思っているのかもしれません。

※ 古田氏は倭奴国は「倭奴ゐどの国」のことだと言われます。Sorafullも倭奴は匈奴と同じく倭人に対する蔑称としての奴であり、倭人の国=倭奴の国=倭国と考えています。史記によると匈奴も鯨面文身していたらしく、説文解字では「奴婢とは古の辠(罪)人」とあり、辠は鼻に入墨をすることで、奴婢は罪人として入墨をされていたようです。(張莉氏論文より)

また「委」という字には、任せる、ゆだねる、任せて従う、という意味もあるので、柔順な東夷にふさわしい漢字であろうと思います。

ちなみに後漢書の中に出てくる「倭」の文字は、「倭、大倭王倭奴国倭国倭国王、倭種」です。三国志には倭奴国という表記はなく倭国なので、金印を賜った漢代は倭人の国を委奴国または倭奴国とし、魏代には奴(蔑称)を省いて倭国としたのではないでしょうか。そう理解すれば、旧唐書の「倭国は古の倭奴国なり」がすんなりと読めます。もし倭の奴国であれば「倭国=古の奴国」でいいわけですから。

 

「壹」から「臺」へ

范曄の時代にはすでに「壹」の意味を理解できなかったとしたら、夷蛮の国名に「壹」の必然性はないとみて「臺」へと置き換えることを躊躇わなかったかもしれません。

張莉氏は邪馬国は邪馬国から、邪馬国は邪馬大倭国からきているのではないかと言われています。

後漢書に「その大倭王は邪馬臺国にいる」とあり、大倭王の大は美称です。壹⇒臺への変更には違和感がありましたが、⇒大倭たいゐであったとしたら、それほど飛躍した変更には思えません。張氏はのちの隋書で倭国が「俀たい国」と書かれたのも、この大倭国からきているのではないかとみておられます。

5世紀の夷蛮における臺字の流行と、山の多い島にいる(山島に依りて居を為す)ことから、土を高く積んだ高台を表す「臺」へ改定したという説の可能性はどうでしょうか。

もうひとつ気になるのは、5世紀の日本での現地音はどうだったのか。その場合、九州から大和への都の移動があったのかを含めて考えなければなりません。范曄の時代は宋書に書かれた倭の五王の前半期に重なります。回を改めて見ていきたいと思います。

 ※ 張氏は中国史書に使用する漢字には必ず意図があるとし、変更された場合にもそこに理由があることを見出す姿勢で読まれています。また倭奴国のように熟語を単純な音の表記とするか、意味の結合としてみるかで解釈が変わり、「倭国⇒倭奴‐国」のように意味の結合による熟語の存在を指摘しています。そして史書は必ず古いものを参考にして書かれ、過去の文献の意味を名称の微妙な変更によって指し示していく傾向があると言われます。(前回記事の李賢注については、張氏は邪靡惟から邪摩堆たいへの音の変遷だと捉えておられます。あえて同じ「隹」で示したのだと)

 

次回は委面(異面)、倭面土国、東鯷人、会稽東治についてです。