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源流なび Sorafull

東鯷人のゆくえ

 

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漢の時代の歴史書である漢書後漢書には、倭人東鯷人について次のように書かれています。

漢書地理志、呉地「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

漢書地理志、燕地「楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」

漢の呉地と燕地に分けて書かれていますが、不思議なほどきっちりと対をなしていますね。その400年後(南朝宋の時代)に編纂された後漢書では、東鯷人は東夷列伝「倭」の中の終盤に記されます。

 「会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す」 

漢書を編纂した1世紀には、東鯷人が前漢呉地・会稽郡と、倭人のほうは燕地・楽浪郡と関わっていることがわかっていたけれど、このふたつは同じ民族ではないかと思われたので、あえて対をなす記述として残し、答えは後代に任せたということだと思われます。そして後漢書では「倭」の中に組み入れられたと。

 

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この図は過去記事「倭人に迫る・九州西北部」でも紹介しましたが、亀山勝著「安曇族と徐福」の中で古代海人族の安曇族が使ったと思われる航路が示され、それをSorafullがひとつの図にまとめてピンクの太矢印で書き込んだものです。いつもの通り手描きです。正確さは保証できませんのでご了承ください!

朝鮮半島楽浪郡は、地図上部の切れたすぐ上あたりとなります。この航路図でみると、博多の志賀島を出発地として会稽へ向かうには、そのまま南西ではなく、一旦少し北上してから途中でUターンして会稽まで南下することになりますね。とにかく黒潮を避けるほかありません。

帰路は長江河口から志賀島までとした時、秒速6mの風の中で船速が時速7㎞であれば、ざっと5日ほどということです。現代のヨットのような帆船で風にうまく乗れば20時間というデータもあるそうです。

 

国史書に倭人より遅れて登場した東鯷人ですが、黥面については触れられていないので、倭人とは見た目が違った可能性があります。しかも国の数が1/5です。住んでいる所が同じ方角なのか、言葉が似ていたのか。

漢書後漢書の間に書かれた3世紀の三国志には東鯷人の記載はなく、107年に朝貢に行った倭(面土)国王帥升倭人とみなされていたのでしょう。やはり黥面だった?(家来たちが黥面だった可能性も)

三国時代には会稽は呉にありますが、呉志にも記載がないということは、この時代には東鯷人の貢献はなかったということでしょう。

そして5世紀になると、漢書に記された東鯷人は倭人と同じ民族であることがわかり、けれど会稽コースをとっていた別の集団と見ていた、と考えられます。(5世紀のこととしては東鯷人に関する記述はありません)

古田武彦は著書「倭人伝を徹底して読む」の中で、東鯷人の「鯷てい」という字を次のように解釈されています。

高句麗の「麗」が時に「驪」という字で書かれる場合があって、この付け足された馬偏は高句麗の特産である馬に由来すると思われ、同じように東鯷人の場合は魚偏を取って本来は「是てい」だと考えることができます。魚を献上していたのかもしれません。この「是」には端っこという意味があり、東鯷人は東の端っこの人ということになります。倭人も東夷で東の人ですので、倭人よりもさらに東側にいる人を指しているのだろうということです。

「会稽海外」という表現についてですが、これがもし「海中」だったとしたら会稽からみて九州西海岸あたりを指し、そのもうひとつ向こうを指したい場合に「海外」と表現されるということです。

古田氏は倭人博多湾を中心にした銅矛、銅戈、銅剣圏の人たちのことであり、東鯷人は銅鐸圏(九州ないし出雲から始まった)の近畿を中心とする文明圏の人たちだと考えておられます。

 

それでは出雲伝承ではどうでしょうか。

斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」P.74で、東鯷人のことに触れています。

後漢書では東鯷人の話に続いて、徐福が始皇帝に派遣され澶洲に行き子孫を増やしたこと、そして時折澶洲の人々が会稽の市にやって来るとあり、さらに会稽郡東冶県の人が海で嵐に遭い、澶洲まで流されたという逸話で終わっています。斎木氏は澶洲を九州だとしています。そして東鯷人の「鯷」は「鮷」と同じであるから「東に住む弟の人」であり倭人を指すのだとしています。つまり中国からすれば徐福の子孫が繁栄した国なので弟の国だということを言われているのですが、これでは倭人と東鯷人の違いがわかりませんし、すべて九州の話ということでしょうか。

 

後漢書の范曄の時代は、宋書に記された倭の五王の前期にあたります。古田氏や張氏は倭の五王も九州王朝だと言われますが、出雲伝承では大和の平群王朝ということです。

また伝承では継体天皇以降の6世紀頃の都は九州太宰府にあると見せかけ、朝鮮の使節は迎賓館より先には行けず、中国との外交は日本から出向くだけにしていたということです。物部豊連合国時代の邪馬台国と同じように、都を隠していたことになります。たぶん5世紀もそうであったのだろうと思われます。この出雲伝承に従えば、范曄の時代には日本の使者は倭国の都はこれまでと同じ所(九州)にあると言い、東にある本当の都は別の国だと思わせていたのかもしれません。その東側の国が古くは中国に貢献していたことがわかれば、范曄はそれを漢書のいう東鯷人と判断したのかもしれません。推測ですが。

出雲伝承では、九州王朝のヒミコは大和の磯城王朝が中国に貢献していたことを知っていたので、磯城王朝より先に、強国となりつつあった魏と国交を結ぶために使節を派遣したのだといいます。そして魏に対して大和へ侵攻するつもりだとは言えず、敵は拘奴国(出雲王家と磯城王朝の血を引く大彦の安倍勢が築いたクナ(ト)国、クヌ国、のちの蝦夷)だと言い続けたのだろうということです。

ということは、九州王朝と磯城王朝が中国へ貢献していたことになり、倭人と東鯷人という中国側の区別もこれに基づいている可能性が出てきました。

 

ところで、斎木氏の「古事記の編集室」では、三国志魏書に書かれたヤマタイ国とはヤマト国の聞き間違えだとしています。都万のヒミコの使者が魏の人に「ヤマト国(日本全体の意味)の使者だ」と名乗った可能性があるというのですが、これは日本の定説通りです。(三国志ではヤマイ国と書かれており、ヤマタイ国となるのは5世紀の後漢書以降ですので)

勝友彦氏の「親魏和王の都」P.104では、後漢書に書かれた倭国を近畿のヤマト国と解釈しておられます。後漢書は邪馬臺国については三国志を参照していますし、三国志漢書倭人を受けて書かれていますので、それは無理があるような。

例えば帥升とは誰かという問題にしても、大和の磯城王朝は漢へ貢献していたという伝承があるのか、それとも中国史書を読んでクニオシヒト大王をそこに充てたのか? そこが知りたいです…。

やはり本来の伝承と、後代の研究、解釈とを区別して示して頂ければと思います。たとえ中国史書と相容れない内容であったとしても、伝承そのものの価値は時代によって変わる解釈とは次元の違う、本当に貴重なものなのですから。

【2019.6.6.追記】新刊「出雲王国と大和政権」にはオシヒト大王が生口島で160名の若者を買って後漢に引き連れていったと伝わっていると書かれています。安帝に謁見を求め、ヤマト国が後漢の属国になるので、自分が和国の大王であることを認めて欲しいと求めたと。そして王から綾織物などの土産物をもらって帰国し、豪族たちに配ったということです。出雲の伝承にあることがわかりました!

 

さて、漢代以降、中国史書の中の東鯷人の行方は不明です。

220年に後漢が滅亡し、三国による戦乱の時代を迎えます。三国志呉書の230年の記事に、呉王の孫権が将軍衛温と諸葛直に1万の兵を与えて夷洲と澶洲の捜査をさせたが、澶洲は見つからず、夷洲から数千人を連れ帰った。これは失敗とみなされ二人の将軍は誅殺された、とあります。(夷洲は台湾や沖縄の説がありますが、中国から近いと考えれば台湾の可能性が高いです。またこの記事中に、澶洲は海中にあって大変遠い所であり、徐福が童男童女数千人を連れて渡り数万家となったという先述の後漢書と同じ内容が記されています)

呉は人手が足らず、兵や奴隷を他国に探していたわけです。このような状況であれば、東鯷人がわざわざ渦中に飛び込む必要もありませんよね。

東鯷人が大和の磯城王朝であるなら、2世紀後半からは王朝の内乱、出雲と吉備、ヒボコ勢との戦争、そして第1次物部東征とこちらも戦乱状況が続き、中国へ使者を派遣する余裕もなかったかもしれません。

そんな中、物部豊連合国のヒミコが第2次東征の機を見計らいながら、勢いを増す魏へ先手を打ったということなのでしょう。