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源流なび Sorafull

景初二年・ヒミコの決断

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三国志倭人伝には、邪馬壹国の女王が魏に初めて使者を送ったのは、景初二年と記されています。ところが後に景初三年の間違いとされ、今も一般的な見方となっているようです。

江戸時代以降、景初二年(238年)というのは魏と遼東の公孫淵が戦争中であるため、使者を送ることはあり得ないという説が持ち上がりました。そして日本書紀神功皇后紀39年に、「魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王が大夫難升米らを遣わして帯方郡に至り」とあり、さらに中国の梁書(636年成立)にも「魏の景初三年公孫淵誅せられて後に至り、ヒミコはじめて使を遣わして朝貢す」と書かれていることがその証拠となったようです。(その後の翰苑にも「魏志のいう景初三年」とあったりと、梁書以降にこれが定説化していきました。)

つまり、ヒミコが帯方郡へ使者を送り魏と国交を開こうとした時、相手国が戦時中か終戦後か、それが問題となっているのです。

今回も古田武彦氏の説に基づきますが、Sorafullの解釈で話を進めていこうと思います。

まずは時系列でこの時代を見てみましょう。主に三国志を参照しますが要約です。

 

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3世紀の朝鮮半島 Wikipediaより
 

2世紀 後漢の皇室の堕落と政治腐敗、さらに天災や飢饉が続いた。民衆から道教新興宗教が起こり、184年には黄巾の乱へと発展。後漢は衰退していく。

189年 公孫氏が後漢から遼東太守に任命され、勢力を広げていく。

220年 後漢滅亡。魏が建国され、呉と争うようになる。一方、魏の遼東では公孫氏が力を強め、楽浪郡帯方郡を支配した。倭・韓は帯方郡に所属することとなった。

228年 公孫淵が4代目遼東太守となると、魏の敵国である呉と密かに結びつく。(魏志公孫伝)

233年 呉の孫権が遼東に大船団を送り、公孫淵を燕王とする。しかし気の変わった公孫淵は呉の使節らを斬り、その首を魏へ送った。(魏志公孫伝)

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237年(景初元年) 魏より公孫淵に出頭命令が出るが拒否し反撃。公孫淵は自立を宣言して燕王と称し、年号も新たに立てた。(魏志公孫伝)

237~239年(景初中) 魏の明帝は密かに帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、渡海して帯方楽浪を平定させた。(魏志韓伝)

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238年正月(景初二年) 明帝は公孫淵討伐の詔勅を発し、司馬懿に軍の統率を任せた。(魏志帝紀

同年6月 魏軍が遼東に至る。公孫側は大敗し襄平城に籠城する。(魏志公孫伝)

同年6月 倭の女王ヒミコの使者、大夫難升米が帯方郡へ。太守劉夏は役人を遣わして使者らを魏の都まで送って行かせた。(魏志倭人伝

同年8月 司馬懿公孫淵を捕らえ、斬首。海東の諸郡を平定。(魏志帝紀)公孫氏滅亡。

同年12月 倭の女王に明帝から詔が出る。親魏倭王として金印紫綬と豪華な賜り物を与える内容の長文。(魏志倭人伝

同年12月 明帝が病を発し、薬水の効果なく悪化。(魏志帝紀

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239年1月(景初三年) 司馬懿が帰還し、明帝は後の事を託すと言って崩御(36歳)。養子の斉王が後継者となった。(魏志帝紀)まだ斉王は8歳であり、司馬懿、曹爽が補佐となる。

同年12月 斉王は詔勅を発した。「正月より明帝の喪に服してきたが、これより夏正(夏王朝の暦)をもって始める。翌年の建寅月(陰暦1月)を正始元年正月とし、建丑月(陰暦12月)を後の12月とせよ」(魏志三少帝紀)㊟景初暦は夏正ではないようです。景初元年正月は前年12月にあたります。

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240年(正始元年) 帯方郡太守弓遵は梯儁らを遣わして、倭国へ詔と印綬、賜り物を持って行かせた。(魏志倭人伝

 

こうして順に書いてみて驚いたのは、もし定説のように景初三年六月にヒミコが使者を送ったのだとしたら、使者が拝謁したのは8歳の斉王なのですね。もちろん詔は補佐側で作ったはずですが、それにしてもあの長く親密な、そして情緒的な文章は、8歳の王にはまったくそぐわず、補佐の代筆としてはやりすぎでは…。何より、遠方より朝献してきたヒミコと使者への過分な労いと、豪華すぎる賜り物の数々をみると、王以外の言葉とは思えないのです。そこに戦乱における疑心暗鬼とならざるを得ない王の孤独や不安が見え隠れするような。深読みしすぎでしょうか。

そして日本書紀の「明帝の景初三年六月」とは不思議な表現であり、すでに明帝は亡くなっているので、梁書は「魏の」としているように、せめて「斉王の」とか「故明帝の」とかしなければおかしいですね。

 

魏志倭人伝に書かれた「景初二年」にヒミコが使者を送ったとして、その時の帯方郡の状態はどうだったのかが問題になってくると思われます。

三国志東夷伝序文に次のように書かれています。

「景初中、大いに師旅(軍隊)を興おこし、淵を誅す。又、軍を潜めて海に浮かび、楽浪・帯方の郡を収め、而しかして後、海表謐然、東夷屈服す」

ここでは景初年間中のこととしています。景初二年八月に公孫淵を誅殺したことと、楽浪帯方の二郡を平定したことが「また」で結ばれ、どちらが先かわかりません。「而して後」は二郡平定した後、東夷を支配したということですが、それが公孫淵を誅殺する前か後かはわかりません。東夷というのも、倭国の貢献を指すとは限らないでしょう。

魏志韓伝では景初中として「魏の明帝は密かに帯方太守劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、渡海して帯方楽浪を平定させた。」とあり、ここでも平定した正確な時期はわかりません。ですが「密かに」という一語から、公孫淵に知られてはまずい時期なわけで、誅殺した後であればその必要はありませんよね。なので誅殺後に二郡平定したのではないことがわかります。

むしろ戦略として考えれば、魏の大軍が遼東を囲い攻めする前(景初二年六月以前)に、公孫淵に知られないよう海を渡って奇襲作戦を開始したと思われます。挟み撃ちです。もし司馬懿と同時にスタートしていても、海路のほうがより速いでしょう。しかも司馬懿には4万の兵を与えていますが、太守たちにはそのような気配はありませんので、戦闘によらない平定だったのかもしれません。

またヒミコの初回遣使の時(景初二年六月)の帯方太守は劉夏であり、二郡平定に向かった太守劉昕とはすでに交代しています。交代した理由も時期もわかりませんが、劉昕はヒミコの遣使が到着する以前の太守であったことは明らかです。

 

戦中遣使の可能性

二郡平定が遼東攻撃よりも先に成功していたとして、それをヒミコが知って急遽使者を帯方郡へ向かわせた、ということはあり得ないことでしょうか。もちろん現代のような情報伝達のスピードとは比較しようもないですが、海人族たちの情報網は今私たちが古代を想像する以上に、発達していた可能性もあるのではないかと思います。

そうだとすれば、ヒミコの魏への貢物が驚くほど少なかった理由は、急遽駆けつけたことが一因になりそうです。戦乱が収まらないうちにやって来たからこそ、明帝は心から喜び信頼し、使者を自ら労い、ヒミコに対しては「我甚はなはだ汝を哀れむ(非常に健気けなげに思う)」「魏の国が汝を哀れむ(慈しむ、愛おしく思う)がゆえに、鄭重ていちょうに汝に好物を賜う」と言って、ヒミコの届けた貢物にはまったくそぐわないほどの数々の品物を返礼品とし、さらにヒミコにはそれ以上ともいえる品々(銅鏡百枚を含む)を賜ったのだとすれば、納得がいきます。

そして明帝が詔を出したのが景初二年12月であるのに、実際に金印紫綬や賜り物が届いたのはそれから1年以上経ってからの正始元年のことでした。魏志帝紀にあるように1年ほど喪に服した後、斉王が元号を改め、諸行事の再開となったのでしょう。そうであれば初回の遣使である難升米らは先に帰国し、のちに帯方郡から梯儁らが賜り物を持って倭国へやって来たことになりそうです。

明帝の詔には、賜り物はすべて封印して難升米らに持たせるので着いたら受け取るようにとあります。ですが実際に届いたのは1年後ですので、これは通常とは違います。そこが景初三年の間違いではないかと言われるところでもあるようですが、上記の流れでみると、明帝が崩御したことによる、例外的な事態が起きていたといえそうです。

 

もし定説通り、景初三年の戦後の遣使だったとすれば、まだ喪中です。喪中に国交を開きに行くだろうかとも思います。旧知の仲であれば挨拶に行くことはあるでしょうが。しかも貢物がやけに少ないです…。タイミングとしては喪が明けて、斉王が正式に帝として新元号とした時を狙ったほうが、外交としては効果的なのでは。

※ 出雲伝承の斎木氏は景初三年の遣使とし、新帝即位の慶祝外交だったと考えておられます。

 

まとめ

以上のことから、三国志倭人伝に記された「景初二年」に、ヒミコが遣使を送っていたという説をとりました。可能性がある限り、原文を改定するのは控えたほうがよいのでは、という思いでもあります。

とはいえ、本当にヒミコがすべてを把握して好機を逃さなかったのか?と不思議に思う気持ちもあります。たまたまなのでは?とも考えましたが、景初二年が正しいのなら、帯方郡公孫淵から解放されたことを知らない限り、魏に遣使を送るなどという無謀なことを実行するはずがありません。やはり二郡平定の情報を得たからこそ、そのタイミングで遣使を送ることを決断したのでしょう。その結果、魏の後ろ盾を得た物部豊連合国の第2次東征は、より勢いを増してゆきます。ヒミコはもしかして、ずば抜けた策謀家だったのか、それとも神勅を得る能力が特別秀でていたのか…。

 

ちなみに出雲伝承では、大夫難升米は韓国語が話せて漢文の読める田道間守タジマモリだと言われます。辰韓の王子ヒボコの子孫ですね。副使節物部十市であると。

 

最後に倭国の貢物と魏の下賜品の一覧を紹介して終わります。

107年の倭国王帥升

生口(奴隷)160人

景初二年のヒミコ遣使

使者2人、男生口4人、女生口6人、斑織の布二匹二丈

魏の下賜品

倭国への返礼品:深紅地の交龍模様の錦五匹、深紅地のちぢみの毛織10枚、茜色の絹50匹、紺青の絹50匹

ヒミコへ:紺地小紋の錦3匹、小花模様の毛織物5枚、白絹50匹、金8両、五尺の刀二振り、銅鏡100枚、真珠と鉛丹各々50斤

正始四年のヒミコ遣使

使者8人、生口、倭の錦、赤・青の絹、綿入れ、白絹、丹、木の小太鼓、短い弓と矢

壹與の遣使

使者20人、男女生口30人、白珠5000、青い大勾玉まがたま2枚、めずらしい模様の雑錦20匹

 

参考図書:古田武彦著「「邪馬台国」はなかった」