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源流なび Sorafull

会稽東治の重み

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会稽東治 ⇒ 東冶 
三国志の各版本には、倭の位置を「その道里を計るに、当まさに会稽東の東に在るべし」となっていますが、後漢書では「会稽東の東」と改定されています。その後の隋書、梁書は「会稽の東」、晋書は「会稽東冶の東」となっていて、三国志の「会稽東」は邪馬壹国と同じく意味不明のため、会稽郡の東冶の間違いだろうと判断されました。だとしても、地図で見ると東冶の東というには無理がありますね。

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ところが、三国志を書いた陳寿の時代には東冶は会稽郡ではなく建安郡に属していたことに気づいた人がいます。またまた古田武彦です。

永安3年(260年)を境に東冶は分郡されて、そこは建安郡と命名されたそうです。陳寿はそのことを呉志に記し、三国志ではきっちりと書き分けているようです。つまり陳寿が現在(280~290年頃)のこととして「会稽東」と書くはずはなかったのです。ではなぜ後漢書の范曄は改定したのでしょうか。

260年以前の後漢、魏の時代‥‥会稽郡東冶

260年以後の魏、晋の時代‥‥建安郡東冶

5世紀南朝宋の范曄の時代‥‥会稽郡東冶、建安郡の消滅

このように魏末期と晋の時代だけが建安郡だったために、范曄は錯覚してしまったのではないかということです。自分が調べている後漢代も今も、東冶は会稽郡だったので。

では范曄にも後の学者にもわからなかった「東治」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか。

下の過去記事で魏略と三国志を比較した際の繰り返しになりますが、もう一度陳寿の文章を見直してみたいと思います。

 

(帯方)郡より女王国に至るまで万二千余里。男子は大小と無く、皆黥面文身す。古より以来、其の使いが中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊龍の害を避けしむ。今、倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚・水禽を厭う。後稍々以て飾りと為す。諸国の文身各々異なり、或は左にし或は右にし、或は大に或は小に、尊卑差有り。其の道理を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。

 

古田氏はこの文脈の中に、二度も会稽が出てきていることに注目しました。このブログでも魏略と三国志の違いとして取り上げてきたところですが、どうしても腑に落ちなかったところを解決する糸口がここにあるようです。

これまで定説となっている解釈は夏王朝六代王、少康の子(越の始祖)が会稽の王に封ぜられた時、髪を短くして体に入墨し、水害から身を守った」というものです。ところが古田氏はこれでは風変りな王になってしまうというのです。夏王朝の王子には水中で魚を獲る趣味でもあったのかと。

おさらいですが、史記によると周の王子である呉の太伯は、同じように会稽の地で文身断髪しましたが、この場合は周の王位継承を弟に譲るため自ら辞退し、しかも都の貴族階級に復帰することを永久に断ち切るために、水辺の民(被統治民)と同じ入墨を体に刻みこみました。そのような太伯を会稽の民は慕ったということなのです。

さて、これまでは「以避蚊龍之害一」を「以て蚊龍の害を避く」と読むのが定説でしたが、「以て蚊龍の害を避けしむ」と使役の用法で読むほうが筋が通ることを古田氏は指摘されています。つまり「避けた」ではなく「避けさせた」となります。原文には使役の助動詞はありませんが文法上はどちらで読むことも可能なので、文脈から適切なほうを選択することになります。また三国志全体の中では「以」をもつ文形によって「以て‥‥せしむ」という使役の用法を表しているところが多いそうです。

では「避けさせた」で読んでみると、

夏の少康の子が会稽王になり統治を布いていた頃、水辺の民が蚊龍の害に悩んでいたので、王は断髪文身すれば害を避けられることを民に教えた。その教化を倭の海人も学び、今に伝えている。

といった内容に変わります。知識そのものは長老たちの知恵なのでしょうが、夏王朝の教化が会稽の水辺の民に浸透し、のちに周の太伯がその地(のちの呉)へやって来た時にはしっかりと根付いていて、今また倭人もその教えを守り伝えているようだ、と。これが陳寿の見た会稽における教化であるということになります。

また、三国志東夷伝序文の書き出しは、

書に称す、「東、海に漸いたり、西、流沙に被およぶ」と。其の九服の制、得て言ふべきなり。

書(書経尚書)の引用は、夏王朝の始祖、禹王の治績をしめくくった有名な句であるそうです。禹王は会稽山に諸侯を集め、五服の制を布き、夷蛮が中国の天子に対して朝貢すべき礼の基準を定めたといいます。史記漢書ともに禹王の治政を締めくくる時、この句を受け継いで書かれているようです。

史記には「帝禹東巡し、会稽に至りて崩ず」とあって、著者司馬遷の付記として「禹、諸侯を江南(会稽山周辺)に会し、計功して崩ず、因りてここに葬る」とあります。

夏の都は長安のあたりで、会稽山の位置はその東方です。

夏王朝の始祖が東巡し、最期に会稽山で夷蛮統治の基準となる五服を打ち立て、それを周王朝が引き継いで六服、九服と発展させ、今なお倭人の中に受け継がれていることを、陳寿三国志の中にしっかりとした縦糸として組み込んでいます。以前の記事「倭人⑴」の時にはどこかぎくしゃくとして思えた陳寿の文章が、この縦糸を理解して読めばすんなりと入ってきます。

倭人の忠実に朝献する姿や黥面文身、大夫(周代の身分)と自称することなど、ここに東夷の教化の成功が明らかに見られ、その倭の位置を計ったところ、まさにあの禹王の東巡した最期の地、禹王の眠る会稽の東に在る、と読み取れます。筋が通っています。であれば「会稽東治」は史記の「帝禹東巡」に始まる東夷の統治から創られた語と思われます。

※ もし陳寿倭人を呉の後裔だと考えているなら、魏略にあったように倭人が「自らを太伯の後という」の一文を挿入すればよかったわけです。そこをあえて省き「自称大夫」と入れたのであれば、夏王朝からの教化を東夷である倭人が素直に受け継いでいることを強調したのだと思います。倭人の出自は非常にわかりにくいけれど、大陸側にあるとはどうしても言い切れず、中国の影響を受けている民だというところで留めているのではないでしょうか。もちろんこれらは陳寿がどう解釈したかの推論ですが。

最後に東夷伝序文を、古田氏の大意で紹介します。

 

書経に禹の五服の制をしめくくる言葉として、「東は海に漸そそぎ、西は流れ(原文は流沙。砂漠地帯を指すと思われます)に被およぶ」という。この五服の拡充としての九服の制。それは夷蛮朝貢の変わりなき典範である。我々は実地に蛮位の地に至り得てこそ、その実質を言うことができるのである。

舜より周までは西域、東夷の朝貢は絶えなかった。ところがその後、西域の場合は、漢の張騫が異域の実地に遠く使した働きによって、漢・魏に至るまでこれらの国々の朝貢は続いている。これに反して東夷の場合は、遼東の公孫淵の反乱により朝貢の道が断たれた。

景初年間、魏の明帝は軍を発して公孫淵を討った。(略。前回記事参照)さらに魏の軍は高句麗等を追って東の大海を臨むところに至った。ところが長老説くに「異面の人がいる。彼らは日の出る所に近い」と。

そこで東夷の諸国を見渡すと、夷狄の国であっても礼儀を保っている。「中国が天子に対する礼を失っても、四夷の方がなお天子への信を抱いている」と聖人が言った通りである。故にこの国々のことを述べ、前史(史記漢書)の欠けている所に続かせようとしたのである。》

 

「聖人の言葉」は漢書にも「孔子の言葉」としてありました。漢書の班固はそれに対して「楽浪海中倭人有り」と結論しています。けれど班固の時代にはまだよくわからなかった倭人のことを、陳寿三国志の中で詳細に記し、前史を補っていくと言っているのです。

三国志の中心といえる魏書において、東夷伝は30巻の最後に収められており、倭人伝はそのラストに置かれています。倭人伝の文字数は他よりも多く、特に朝貢記事においては際立って詳細で、内容共にボリュームがあります。さらに魏の明帝による女王ヒミコへの言葉は驚くほど親密で細やか…。そして倭人伝ラストはヒミコの宗女、壹與による豪華な貢物を披露して締めくくられています。これは魏書における結びの一文でもあります。古田氏はこのことを夏、周から続く魏、晋朝の正統性を示す表現であるとみています。禹王の教化を引き継ぎ成功していることを、倭人の忠実なる朝貢によって示そうとしていると。

前回記事にありましたが、魏の時代、公孫淵を誅したことで東夷の支配も復活し、それは晋王朝始祖である司馬炎の祖父、司馬懿の功績です。晋は魏帝からの禅譲(血縁者でない有徳者に譲ること)です。陳寿は先代である魏の歴史を記しながら、我が晋王朝を称える立場にあります。

遥か遠い倭国からの品々は、東夷伝序文の文頭に掲げられた偉大なる禹王の治政が、2000年という時の中で花開いた証であるとして、陳寿は魏書を結んだのではないかと思えてきました。

 

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 参考図書:古田武彦著「「邪馬台国」はなかった」