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源流なび Sorafull

三種の神器~出雲伝承より

まもなく平成から令和へ、皇位継承の儀式「剣璽けんじ等承継の儀」が行われます。西欧風に言えばレガリアですね。まるでおとぎ話や映画のような厳かな儀式が2000年を超えて今に受け継がれている、そのことに深い神秘を感じてしまいます。

 

草薙剣くさなぎのつるぎ

八尺瓊勾玉やさかにのまがたま

八咫鏡やたのかがみ

 

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写真はイメージ像ですが、皇位継承の儀式といえばこの三種の神器の継承かと思っていました。ところが剣と勾玉、ふたつの継承なのですね。他に印章の国璽と御璽も。

現在鏡は伊勢神宮内宮にあり、皇居の賢所には形代(レプリカではなく神の依り代として御魂遷しを行った神器)が保管されています。ところが剣も形代であり、実物は名古屋の熱田神宮に祀られています。勾玉は古代のものだということです。どうして鏡だけこの儀式から外されたのかはわかりません。形代とはいえ、皇祖神である天照大神自身とされる鏡ですので、簡単には持ち出せないということでしょうか。

ちなみに皇室の方でさえ神器を目にすることは許されていないので、箱の中身は誰も知らないことになっています‥‥。

さて、この三種の神器について、出雲伝承ではどう伝えているかを紹介したいと思います。

 

天叢雲剣から草薙剣

草薙剣記紀ヤマタノオロチの話に描かれています。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチを斬り刻んでいくと、尾のところで剣の刃が欠け、体内から霊剣が現れます。あまりの神威に驚いたスサノオは、高天原のアマテラスに献上。そしてニニギノ命が天孫降臨する際に三種の神器のひとつとして渡されます。

その後、東方遠征するヤマトタケルの話の中で、大和姫から草薙剣が託されますが、日本書紀では「もとは天叢雲剣あめのむらくものつるぎという」と記されています。中国史書の宋史にも「日本の年代記によると、初めの主は天御中主あめのみなかぬし、次が天村雲尊あめのむらくものみこと」と書かれています。わざわざ記すぐらいですから、かなりの意味があると思われます。けれどどういった存在かについては触れられていません。

ヤマトタケルの死後、剣は妻のミヤズ姫と尾張氏尾張国で祀ることとし、それがのちの熱田神宮であるということです。

 

出雲伝承によると、叢雲剣は海村雲あまのむらくもが大和の初代大王になられたお祝いに、出雲王が贈った銅剣だそうです。村雲は出雲王家の姫を后としました。つまり親族同士です。下図は斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」に掲載された系図をもとに、事代主を中心としてまとめた一部です。文中には向家伝承などによる出雲王家と親族の系図だと説明されています。

【2019.5.18.改定】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」に示された系図等に沿って、高照姫は神門臣家の八千矛王の娘と変更致します。また、海御蔭と神八井耳も変更されています。

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徐福とは火明命でありニギハヤヒノ命です。天村雲は徐福と出雲王家(宗像氏)の血筋の姫たちとの間に生まれていますね。そして后は事代主の娘であるタタラ五十鈴姫です。

ヤマタノオロチの話では、出雲国の始祖となるスサノオが出雲の肥の河(簸の川)でオロチを退治しますが、オロチとは出雲族の神、龍蛇神であり、それを斬り殺すことはあり得ません。記紀の製作者はあえてあり得ない話を書くことで矛盾を示し、スサノオは始祖ではなく侵略者であることを匂わせたのかも?

八岐大蛇ヤマタノオロチとは、砂鉄を産する八つの支流をもった斐伊川を例えていると考えられます。出雲族が出雲に住み着いたのは、そこに黒い川があったからだと伝承は伝えます。川底に溜まった砂鉄が黒く見えるそうです。斐伊川出雲族にとっては鉄を産む聖なる川であり、それをオロチとして侵略者が斬ると、体内から霊剣が現れるという話はこれらを見事に象徴しているように思えませんか。古事記はオロチの描写を「目は赤く燃え、腹は爛れていつも血を流している」とし、スサノオが切り刻んだあとには肥の河は血に変わったと記します。鉄を作る野だたらの燃え上がる火のイメージでしょうか。ちなみに「たたら」とはインド語で「猛烈な火」という意味だそうです。

さて、海王朝が二代で終わり、出雲系の磯城王朝になってからは、叢雲剣は尾張家が持っていて、磯城系の大王には渡さなかったといいます。(村雲は葛城の高尾張村に住んだので、親族は尾張家と呼ばれました。)

その後、剣は熱田神宮に移し、八剣社に神宝として奉納されたそうです。ヤマトタケルとは関係ないとのことです。斎木氏はヤマトタケルが相模の国で国造によって野に火をつけられた時、叢雲剣で草を薙ぎ捨て(草薙剣の由来)焼け死ぬのを防いだ話の中で、地名が焼津となっているけれど、焼津は相模国ではなく駿河国だと指摘しています。古事記の作者はわざと地名を間違え、これが作り話であることを示そうとしたのではないかということです。

668年には叢雲剣は新羅の僧によって盗まれ、その後、天智天皇から天武天皇へと渡りました。ところが天武天皇が病に倒れたため剣の祟りとされ、684年に皇居から熱田神宮に返されます。その時この剣を見た人が、古い出雲型の銅剣だったといったそうです。Wikipediaで調べたところ、熱田神宮に返される前に奈良県天理市の出雲建雄神社に奉斎されたそうなので、その時の話が伝わっているのかもしれません。

また江戸時代に熱田神宮宮司らが盗み見たという記録があり、長さは85㎝ほどの両刃の白銅剣、刃先は菖蒲の葉のようで、中ほどは盛り上がっていて、元から18㎝ほどは魚の脊骨のように節立っていたということです。

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写真は荒神谷遺跡で出土した銅剣ですが、長さは50㎝ほど。魚の脊骨というのはみられませんが、菖蒲の葉というところが出雲の細型銅剣を思わせます。ちなみにこれを盗み見た宮司は流刑となっています。叢雲剣にまつわる歴史的エピソードは他にもたくさんあります。

日本では刀は権威の象徴でもあり、また精神性や芸術性も含まれるように思います。叢雲剣はその大元となる存在ですが、何より宗教性が強いですね。見てはならないということも、よけいに心を揺さぶるのでしょう。2000年という時間の中で、その神威が人々を翻弄し、今もなお謎に包まれた神秘的な存在といえそうです。

 

さて、伝承によると海王朝から叢雲剣をもらえなかった磯城王朝では、勾玉の首飾りを王位継承のシンボルに使ったといいます。この勾玉の首飾りというのは、出雲王国時代、王族と王国内の豪族だけがつける決まりとなっていて、身分を示すものでした。勾玉は胎児の形をしているため、子孫繁栄の象徴でもありました。

 

最後に八咫鏡についてですが、出雲では特に伝承は残っていないようです。鏡は中国の道教の信仰であり、九州の物部勢力が広めたと考えられます。つまり徐福系ですね。

「八咫やた」というのは多い、大きいという意味ですが、実際に長さを推測した一説によると直径46㎝ほどになるとか。国内で最も大きい鏡が、九州糸島半島の平原遺跡(2~3世紀)から出土したもので、直径46.5㎝の大型内行花文鏡(八葉)です。古代の伊都国ですね。三国志の魏書に伊都国の長官として「爾支ニギ」という名が記されていますが、始祖ニギハヤヒの名を使っている可能性が高いです。

神道五部書によると、八咫鏡の模様は八葉八頭花崎形とされていますが、書自体の真偽は不明だそうです。

実際に平原遺跡で写真の内行花文鏡を見たことがあります。大きさにも驚きましたが、それまで目にした鏡とは違って、とてもシンプルでありながらそのデザイン的な美しさに心を奪われたのを覚えています。

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村雲の子孫である丹後の海部氏の伝世鏡二面(前漢後漢時代のもの)も内行花文鏡ではありますが、直径が9.5㎝と17.5㎝なのでかなり小さいです。

海部氏には宗像三女神(三姉妹)のうち二人が関わっています。多岐津姫は海香語山の祖母。下の系図にはのっていませんが田心姫の孫娘、タタラ五十鈴姫は海村雲の后となります。

【2019.5.18.改定】高照姫は神門臣家に変更しています。

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もう一人の市杵島姫は徐福(火明命、ニギハヤヒノ命)の后です。徐福は吉野ケ里に住んだということなので、市杵島姫は丹後ではなく九州にいたことになります。筑前国風土記逸文に、宗像大社辺津宮八咫鏡依代としていたと書かれています。内行花文鏡かどうかはわかりませんが、辺津宮といえば現在は市杵島姫を祀っています。(時代によって祀る姉妹が変わるようです)

そして三種の神器八咫鏡が祀られているのが伊勢神宮の内宮。東征を果たした物部イクメ(垂仁)の娘、大和姫が天照大神(そのご神体が八咫鏡)を伊勢に祀ったとされています。物部の祖先は徐福と市杵島姫の子であるホホデミ。なのでその鏡は市杵島姫に繋がる可能性が‥‥。

日本書紀では八咫鏡の別名を真経津鏡まふつのかがみとしています。フツ(経津、布都、布津)といえば布都御魂ふつのみたまの剣。物部氏氏神である石上神宮のご神体です。葦原中国の平定や神武東征を勝利に導いた霊剣です。ここには布都斬魂剣ふつしみたまのけん、別名十握剣とつかのつるぎも祀られています。ヤマタノオロチを退治したスサノオの剣のことですね。なのでフツといえば徐福、物部系を指すようです。

 

ちなみに出雲伝承では伊勢に祀ったのは三輪山の太陽の女神のご神体であるといわれています。このあたり、ほんとにややこしいです。第一次物部東征後、出雲と大和は銅鐸祭祀を止め、三輪山の司祭者であったモモソ姫(ヒミコのひとり)が物部と協調したことで、大和の磯城王朝は物部の道教的祭祀と融合したといいます。鏡を使い始めたわけです。出雲側はそもそも三輪山に籠る太陽の女神を祀っていましたが、それが物部の鏡と融合して、のちの天照大神のご神体となったということでしょうか。ちょっと大雑把な気もしますが。

 

 

さて、あれこれと考察を重ねてきましたが、三種の神器の由来も出雲伝承に従えば、草薙剣(叢雲剣)は出雲王家から海王朝へ贈られたものであり、勾玉は出雲王朝から磯城王朝へ伝統が受け継がれ、そしては物部王朝に始まり磯城王朝と融合。つまり古代日本を形作ったそれぞれの王朝の文化、エッセンスが集まり、皇室の核をなすものとして今なお大切に受け継がれているということになります。まさに和の国ですね。

もちろんそこには戦いの歴史もあります。矛盾を孕みながらも調和を求め続ける人々の営みとともに、これらの神器は沈黙の中で息づいているように思えてきました。

 

いよいよ30日には退位礼正殿の儀、翌1日には剣璽等承継の儀が行われます。すべての人にとって佳き日となりますように。