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源流なび Sorafull

古代淡路島と平群王朝

皆さまから頂くコメントが、少しずつ手元に溜まり、何度も読み返しているうちに自分の中の情報やイメージと交錯し、思わぬ扉を開けることがあります。

今回はそのひとつを紹介させて頂きます。

T様は古代の淡路島の情報をよく教えて下さいます。その中で次のようなお話がありました。

地元の伝承として、淡路島の旧津名郡小井には古来、清水が湧き出ており、皇室ではこれを御井おいの冷水(霊水)」と称えて毎日船で乗り付けて樽に組み入れて持ち帰り、天皇の御膳や重要な儀式等に使われていたと伝えられているそうです。調べてみると古事記仁徳紀に記されていました。毎日朝に夕にと汲みに来ていたとあります。大阪(難波)からですよ。ただ事ではないですよね。

 

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淡路島はイザナギイザナミの国生み神話の中で、最初に創られた島です。そしてイザナギが余生を過ごした場所でもあります。それが多賀にある伊弉諾いざなぎ神宮とされていますが、元の幽宮かくれみやとして淡路島北端の石屋いわや神社のそばの洞窟(恵比須神社奥の岩樟神社)だという説もあります。神功皇后三韓併合の戦勝祈願に訪れています。

また島からは銅鐸、銅剣がたくさん出土し、鉄器の製造所跡が見つかったりと、なかなか賑やかな場所なのです。2015年に南あわじ市で出土した松帆銅鐸7個は銅鐸の中でも古いタイプであり、最古型がひとつ、そして出雲の加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した銅鐸と同じ鋳型で作られたものが各々ひとつずつあるそうです。年代は紀元前4~2世紀頃。

国生み神話の初めに描かれるだけの理由がありそうに思えますが、ところが出雲伝承では淡路島に関しては、第2次物部東征の後にタジマモリが淡路島へ逃げたという話くらいしか見当たりません。古代出雲の連合国は香川や播磨にも及んでいたので、淡路島が含まれていてもおかしくはないですけれど。

 

記紀で淡路島が描かれるのは、イザナギのあとは応神天皇から允恭天皇の期間です。

応神-仁徳-履中-反正-允恭-安康-雄略

この中から倭の五王とするのが定説となっています。ただし応神と仁徳天皇記紀の中で重なる逸話が多く、同一人物の事績をふたりに分けた可能性もあると言われています。出雲伝承では神功皇后没後の応神天皇は、かろうじて政権を保持していたと伝えています。そしてこの三者に血縁関係はないようです。

 

応神の代で安曇族が海人の統率者となります。淡路島の海人をまとめていたようです。

履中元年、安曇連浜子が住吉仲皇子スミノエノナカツミコのために天皇暗殺を謀ったことでその地位を剥奪されます。その際刺客となった賊が淡路島の野島の漁師でした。

允恭天皇の時、日本書紀に次のような話が描かれます。

天皇が淡路島へ狩りに出掛けましたが獲物が全く獲れません、占うと島の神(イザナギ大神)が現れ、「赤石(明石?)の海の底に真珠があるからそれを私に供えて祀れ」と言われました。海人を集めて潜らせたけれど深すぎて誰も底に着くことができません。そこで阿波国の長邑ながむらの男狭磯おさしという海人に潜らせると、真珠を採ることには成功しましたが、男狭磯は息絶えます。狩りはお告げの通り大猟となり、男狭磯は厚く葬られ、今もその墓は残っているということです。※赤石は徳島(阿波国)の海沿いにもあって、すぐ南に那賀川が流れています。

T様によると地元伝承では、そのお墓が石の寝屋いわのねや古墳だと伝えられているそうです。それから「天皇が狩りに出掛ける」とは、軍事訓練や軍事行動を意味すると言われます。また長邑の男狭磯を「長尾某」とT様は書いておられ、そこから大和大国魂神社の祭主、市磯長尾市イチシノナガオチ倭国造)を連想されています。この長尾某というのがどこに記されているのか見つけられなかったので、長邑の男狭磯として見てみますが、確かに長・男(尾)・磯(市)、男狭おさは長おさと同じです。とても似た名前です。そして淡路島には二宮として大和大国魂神社があります。

市磯長尾市は建位起命タケイタテの子孫であり椎根津彦シイネツヒコ(宇豆彦ウズヒコ。倭氏の祖)の7世孫です。過去記事に何度も書きましたが、建位起命は五十猛命と重なります。椎根津彦は村雲命に。大和大国魂神とは五十猛のことのようです。(日本書紀では天香具山には大和の国魂が宿ると記され、出雲伝承では香語山の御魂が祀られているとのこと。初代大和大王の村雲でもあるように思いますが。)さらに淡路島の海人を統率していた安曇氏とは親族。

また淡路島の地図を見ていると、やたらと大年神が多いことが気になっていました。そして出雲伝承の新刊「出雲王国とヤマト政権」を読んでいると、五十猛は丹波で香語山と名を変える前に、出雲で大年神の信者となり大年彦と名乗ったとあるではないですか!(大年神とは幸の神の正月祭りの神)

住んでいた島根の大屋には大年神社が建てられたそうです。それで調べてみたところ、大年神社は播磨に密集しています。Yahoo!地図で数を調べた方がおられ、全国427社のうち280社が兵庫県にあるそうです。地域性が強いですね。播磨には播磨国総社、射楯兵主イタテヒョウズ神社があります。射楯神は五十猛、兵主神は古代斉国(徐福の故郷)で信仰された八神のうちの蚩尤シユウ、戦の神です。西方を守る武神なので、村雲は三輪山の西方にある穴師の地に射楯兵主神社(現在は穴師坐兵主神社)を建て、父を祀りました。これがのちに播磨国の八丈岩山に分遷されたそうです。現在は移されています。(兵庫の名前はここから来ているのか?)

淡路島には古代出雲との交流と、次に海部氏(倭氏)、安曇氏が深く関わっていたようです。

 

脱線しますが、 大年神について古事記では、スサノオ大山津見神の娘、神大市姫の息子とし、宇迦之御魂神(秦氏の祀る穀物神)とともに生まれています。たくさんの神をもうけますが、系譜しか記されていません。一般にはお正月の神であり穀物の実りの神として祀られています。丹後風土記(残欠)にも、五十猛が丹波地方に稲作を広めた様子が描かれています。

大年神の親神をみると、五十猛の両親である徐福と高照姫が重なります。御子神の中には大国御魂神がいたり、韓神や曽富理ソホリ神といった新羅から来たような名があったり、白日神という筑紫神(白日別神)を思わせる名や、香語山をもじったような香山戸カグヤマト臣神などもみられます。古事記には五十猛はまったく現れませんが、ここにいるぞといわんばかり。それにしても五十猛は変幻自在というか、多方面のご利益がありますね。

木の神、植樹の神、穀物の実りの神、船の守り神(射楯神)、音楽の神、製鉄の神、武神、筑紫神。山も平野も海も芸術も戦も制覇しています‥‥。

地域をみても筑紫地方から石見、丹波紀伊、大和、播磨、淡路。きっとまだ他にもあるでしょうね。

どれだけ日本の発展に貢献した存在なのかと溜息が出そうです。混乱を生んだとはいえ、徐福は大陸の文化を日本へ持ってくるという大きなきっかけを作った人であり、それを実際に広め、定着させた最初の人が五十猛なのではないでしょうか。

 Sorafullはこの「五十猛」という謎めいた人物を探す旅をしているのかなと思うことがあります。

 

平群王朝の皇位争い

話を戻しますが、履中天皇を暗殺しようとしたのが安曇氏であり、その理由が天皇の弟、住吉仲皇子スミノエノナカツミコのためということでした。日本書紀には仲皇子が倭直吾子籠ヤマトノアタイノアゴと親しかったと記され、クーデターの際にも最初は仲皇子を助けようとしたけれど、途中で天皇側に寝返ったことが描かれています。天皇采女を差し出すことで許されました。

香語山-村雲(倭氏の祖)‥市磯長尾市‥倭直吾子籠

仁徳天皇の4人の皇子のうち、仲皇子だけが後継者になれませんでした。記紀では4人とも摂津の住吉大社を建てたソツ彦王の娘の子です。出雲伝承ではソツ彦王とは武内宿祢の子孫であり、もと日向水軍のソツ彦王。神功皇后の実質的な夫であり、三韓併合の最大の功労者です。記紀では武内宿祢として描かれています。

大和へ凱旋し摂津国住吉大社を創建して住吉三神を祀った後、葛城地方へ移って葛城(長江)ソツ彦王となった人です。ところがこの後に権力を握るのがなぜか親戚の平群ツク王なのです。出雲伝承ではツク王もしくはその子孫が仁徳天皇だといいます。このツク王が三韓から得た年貢を保管していた紀伊国の倉庫管理をしていたところ、しだいに力をつけていったようです。

ここでT様が面白いことを指摘されています。以前の記事で仁徳天皇は大雀オオサザキと呼ばれるけれど、サザキの由来はスズメ目の小さな野鳥、ミソサザイ。それに大とつけるなんておかしな名前だと書いたところ、T様より「もとは小者(スズメ)だったのが、倉庫の糧をツツク(横領)うちに肥太り、大きく羽ばたいて大王になった事を暗喩しているのでは?」とありました。なるほどですね。

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この古代大阪湾の地図は国土交通省のものをお借りしています。小さいのでぼやけますが、古代の河内平野は湖のような入海でした。下の図は仁徳天皇が堀江の治水工事をした説明図になります。

住吉大社は住吉浜にあったので、もとは海が目の前となります。このすぐ南に仁徳天皇陵といわれる大仙陵古墳があります。海から見る巨大古墳群は圧巻だったでしょうね。

仁徳天皇の高津宮は堀江のそばにあり、長男の履中天皇オホエノイザホワケの名前から、大江(堀江の近く)に支配地があったと思われます。次男がスミノエ、三男がタジヒノミヅハワケで丹比(住吉浜の東南)、四男がオアサツマワクゴノスクネで朝妻(葛城山の近く)とわかりやすいですね。

平群王朝以降、身内の皇位争いが激化し、兄弟間の殺し合いの連続です。さらに仁徳天皇の后も嫉妬深いことから次々と騒ぎを起こしますが、かなり権力ももっているよう。この后はソツ彦王の娘であり、夫への嫉妬とは記紀の見せかけであり、別の意図があるような気もします。

ソツ彦王も平群ツク王も同じ武内宿祢の子孫で、出雲伝承によると皇位を横取りされた感のあるソツ彦王の子孫は、平群王朝にたびたび反乱を繰り返していたと伝えられています。

履中天皇暗殺計画もそのひとつを示しているのでしょう。もしかすると住吉仲皇子だけがソツ彦王の血を受け継いでいたのかも。住吉大社とも関係がありそうです。

仲皇子のクーデターは失敗に終わり、加担した安曇氏も力を失います。仲皇子の配下に安曇氏がいて、水軍を支配していたと思われますが、もともと安曇氏の祖神は綿津見三神(志賀の大神)であり、住吉三神綿津見三神の発展したものと言われています。仲皇子と安曇氏は近い関係だったのかもしれません。水軍同士ですしね。

そして四男の允恭天皇と海人の男狭磯の不思議な話は、平群王朝が海王朝の子孫である倭氏、親族の安曇氏、そして葛城ソツ彦系を従属し、水軍を掌握したことを示すエピソードと読めないでしょうか。

最初に紹介した仁徳紀の「御井の冷水」については、もしかすると平群王朝が淡路島へ勢力を広げようとしていたということなのかな、とまで思ってしまいました。応神(仁徳?)天皇の代から淡路島へ狩り(軍事行動?)に出掛けていたようなので。

 

最後にもうひとつ、T様より教えて頂いた情報を紹介します。

大阪の住吉大社から見て、神戸市東灘の本住吉神社夏至の日の入りの方角のランドマークであり、同様に住吉大社から見て、淡路島の洲本市の古茂江海岸にある住吉神社冬至の日の入りの方角にあたるということです。

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神戸の本住吉神社は大阪の住吉大社の本源だと主張されています。Sorafullも日本書紀に描かれた内容からいくと、こちらが先ではないかと思うのですが、夏至冬至の日の入りに関わるのだとしたら、大阪の住吉大社がもとということになりそうですね。

日本書紀では神功皇后紀伊から難波に向かう途中に船が進まなくなり、武庫の港に還って占いをしたところ、住吉三神が現れ「我が和魂を大津の渟名倉の長峡に祀れ」と告げたので、そのように祀ったとしています。この大津の渟名倉の長峡が不明なのでいろいろな説があるようですが、そもそも難波に行けなかったのだから、すぐそばの大阪の住吉大社に祀るというのは無理な話です。なので武庫に近い東灘の海辺に本住吉神社を建てたと考えるほうがスムーズかなと思っていました。でもこういったエピソードは後付けのこともありますので。

 

それからこの位置関係を調べている時に気づいたのですが、東灘区岡本の山に建つ保久良神社が、淡路島の住吉神社本住吉神社を結んだ線上にあるんです。

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この保久良神社というのはなかなか不思議な神社で、巨大な磐座がたくさん境内外に並んでおり、古代の祭祀場だったようなのです。ストーンサークルとも言われています。石器時代から弥生時代後期の遺物まで出土しています。

神社は椎根津彦(宇豆彦)が主祭神。古代より「灘の一ッ火」と呼ばれる常夜灯が点る灯台で、ヤマトタケルもこの灯火によって難波へ帰ることができたと記されています。

淡路島の住吉神社の社伝によると、白髭の老人が現れ「吾は住吉明神である。此処に永久に鎮座しようと思う。よろしく祀るべし」と告げたそうです。(T様より)

海部氏の椎根津彦(宇豆彦)と安曇氏の綿津見神(のちの住吉三神)の繋がりを思うと、この保久良神社の灯火が淡路島の住吉神社へと、まっすぐに明かりを届けているのかなと、そんな空想も浮かんできます。

 

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 T様より頂いた情報をもとに、今回いろいろと調べたり考えたりすることで、深まるところが多々ありました。ありがとうございました! 

 

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