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源流なび Sorafull

九州王朝説と出雲伝承

以前、N様より次のようなご質問を頂いておりました。

筑紫君一族と宗像一族、そして百済との繋がりはどうなっているのでしょうかと。磐井の乱の真相、継体天皇の没年における百済本記の真意、宮地嶽古墳の被葬者についても尋ねておられます。これらの質問はひとつの大きな問題を孕んでいます。

九州王朝説をどうとらえるか、です。

本ブログは大半が出雲伝承に基づいておりますが、物部東征以前の九州地方については、九州王朝説の古田氏による倭人、邪馬壹国の論証や筑紫舞の存在を重視しています。

九州王朝説といっても派閥があるようで、古田氏は663年の白村江の戦いで敗北するまで王朝が存在したとし、それ以前の倭の五王までとする説や、7世紀末までとする説もあるようです。Sorafullは出雲伝承の大筋を取りつつも、倭の五王に関してはすんなりと大和朝廷側だと言い切れない迷いを感じていました。宋書梁書記紀を読んだ上で判断するなら、倭の五王は九州王朝では?と思うからです。ですが出雲伝承を知ったことと、記紀編集者が中国の属国であろうとした時代を隠蔽するために操作したということであれば、不可解な点を残しながらも頷くしかありません。

倭の五王をどの大王に比定するかという問題は置いておくとして、三韓征服後に日本が潤い、鉄を仕入れ、河内に巨大古墳群が造られていったことをみると、この時期に朝鮮半島で影響を及ぼしていた倭国の中枢は、九州ではなく平群王朝だったのだろうと思えてきました。

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これらの古墳群からは鉄製の武器や甲冑、馬具が多数出土しています。甲冑は年代を追うごとに急速に進化し、5代目の倭王武の頃に完成度を極めますが、なぜかその後ぱたりと途絶えてしまいます。またこれだけ武器が発達したなら国内でその殺傷痕のある骨が増えるかと思いきや、それもないそうです。ということはこれらの武具は海外に向けて準備された可能性が出てきます。進化しているのであれば、飾りではなく使用もされたでしょう。

写真は大阪大学考古学研究室の記事よりお借りしました。古市古墳群の野中古墳から出土したものです。

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倭の五王の5代目武(雄略天皇と比定されています)が宋に奉った上表文は、高句麗の南下による被害を切々と訴え、まさに高句麗討伐へ向かおうとしていると記されています。そして5代目にしてようやく、宋から朝鮮半島百済高句麗を除く)における軍事指導権を得るのですが、その後倭国高句麗を攻めた記録が朝鮮側にありません。日本書紀には筑紫国から500人の兵を遣わせて百済の王を送り届けたことと、筑紫の安致臣と馬飼臣が船軍を率いて高句麗を討ったとだけチラリと書かれています。小規模な戦だったのかもしれませんね。

倭王武の上表文が478年、その翌年に雄略天皇崩御します。その後中国史書の倭国の記載は途絶え、隋書まで120年余りの空白となります。蘇我王朝の継体天皇即位が507年ですので、平群王朝の衰退が始まろうとしていたのかもしれません。

 

一方、九州においては物部東征後も独自の文化が栄えていたでしょうし、その地理的な要因によって平群蘇我王朝のもと、相当な権力を与えられていた豪族もいたはずです。また朝鮮への出兵は長期に渡り、九州の者たちが多く駆り出され疲弊していったことは想像に難くありませんし、朝廷への反感も募っていったことと思われます。その不満が527年に起きた磐井の乱をより拡大させたのではないでしょうか。

Sorafull自身、結論を出したわけではありませんので、今後も九州王朝を頭に置きながら探っていきたいと思っています。

それでは出雲伝承によるこの時代の記録を辿ってみましょう。

注)倭国倭人の「倭」という字についてですが、出雲伝承では倭を卑字、蔑称として避けるため「和」とされています。当ブログは中国がもともとは「倭」を「委」と記していたことから、もとの読みが「わ」「ゐ」のふたつの可能性があると考え、基本的には「倭」とし、出雲伝承に則る流れにある時には「和」と表記します。これまで曖昧に使っている場面もあると思いますが、ご了承ください。

 

出雲伝承より

4世紀に神功皇后三韓征服を行い、新羅百済高句麗から年貢が納められることになりました。神功皇后の母方は辰韓の王子、ヒボコの子孫です。のちに王家が断絶し、家来が新羅国を起こしましたが、王家子孫である神功皇后は自分に新羅の領地と年貢を受け継ぐ権利があることを訴え、新羅出兵が行われたそうです。各地の水軍が援軍として集まったことで、新羅だけでなく百済高句麗まで和国に朝貢する約束を得ることができました。

韓国南岸に新羅百済に属さない任那みまなと呼ばれる地域があり、そこに年貢を集めて和国へ運んでいたそうです。応神天皇の頃から任那に官家が置かれるようになりました。

下は4世紀末の朝鮮半島地図ですが、韓国の教科書に掲載された地図なので任那の表記はありません。半島南端の伽耶を含む海沿いの地域が任那であったようです。

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5世紀末になると高句麗が南下して、百済の首都が移動していきます。

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三国からの年貢が集まり、和国は栄えたといいます。平群王朝になってからの、古市、百舌鳥古墳群といった大阪平野の巨大古墳群は、その潤った財力のお蔭で造られたようです。

ところが平群王朝からオホド王(継体天皇。出雲富家次男)の蘇我王朝へ交代すると、韓国側が新王朝には年貢を受け取る権利がないと訴えてきました。あくまで神功皇后の血筋のものの権利だったからです。(実は応神、仁徳天皇ともに血縁ではなかったようですが)

 

磐井の乱

斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」から要約しますが、大筋は日本書紀に沿っています。

継体6年、百済任那の4県を欲しいと官家を通して言ってきました。和国の重臣たちは相談の上、了承します。大伴連と官家であった穂積守は百済から賄賂をもらったのだと噂されました。

これを知った新羅は和国に任那の割譲を求めますが、和国は断ります。

この頃の和国は邪馬台国時代と同じように、政府が筑紫にある振りをしており、都は太宰府だということになっていました。本当の都を敵国の侵攻から守るためです。朝鮮からの使節は筑紫の迎賓館止まりとなり、百済の人質も迎賓館に住んでいたそうです。中国との外交は敬遠し、皇帝の新任祝いだけ出席するようにしていたといいます。

筑紫国造は港の管理に留まらず、九州全国の租税徴収権と兵力動員権、外交交渉権も与えられていました。相当な権限をもっていたようです。

新羅筑紫国造の磐井に賄賂を贈り、任那の南加羅とトクコトンを奪います。それに対して朝廷は新羅から2県を取り戻すよう近江の毛野臣に命じました。

21年6月、新羅へ向かう毛野臣の大軍を、磐井が筑紫や豊国から兵を集めて遮ったので、毛野臣は朝廷に援軍を求め、物部連が軍を率いて九州へ向かいました。戦は翌年11月まで及び激戦となりました。日本書紀では物部麁鹿火アラカイに磐井が斬られたことになっていますが、筑後国風土記逸文には、磐井が豊前国上毛野県の山岳に隠れ、その後見つからなかったと記しています。

磐井の息子、葛子クズコ筑紫国糟屋の屯倉を献上して死罪を免れます。

毛野臣軍は任那に到着しますが、毛野臣は病死。後任として上毛野直が赴きます。この人は磐井の乱の時に磐井についた新羅の海岸を征服し、南加羅とトクコトンを奪い返し、任那に戻したそうです。

 

下の写真は福岡県八女市の磐井の墓とされる岩戸山古墳です。九州北部では最大級の前方後円墳。磐井の力を見せつけるようですね。

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写真の石人石馬はレプリカですが、古墳の周りに円筒埴輪を並べる代わりに石人と盾を60個ずつ並べ、古墳の円部先端に四角い造出しを造って裁判の様子を石人で表したとか。筑後国風土記逸文に記されています。また磐井は生前から墓を造っていたけれど戦にやぶれ放棄した、とも。磐井を取り逃がした官軍が石人の手を折り、石馬の首を打ち落としたそうですが、写真でもそのように見えますね。でも子孫はなぜそんな痛々しいものを放置していたのか不思議でした。ここにもし埋葬されなかったのであれば、わからないでもありませんが。

風土記の言うように物部麁鹿火に斬られたのではなく、豊前国に隠れてしまったのが本当であれば、いったいどこへ?

 

百済本記の示すこと

継体天皇扶桑略記によると531年に崩御されました。日本書紀には継体25年(531年)としつつも「ある書によると28年となっているが百済本記には25年となっている」と記されています。百済本記とは百済の歴史書三書のうちの一書で現存はせず、この日本書紀逸文のみ残っています。

百済本記には「日本の天皇、太子、皇子共に没した」という一文もあります。日本書紀はふたつの崩御年を前に、後世に調べ考える人が明らかにするだろうと締めくくっています。継体天皇崩御された年には太子、皇子ともに亡くなってはおらず、これもまた九州王朝の話ではないかと言われる要因のひとつですが、出雲伝承は次のように解説しています。

継体天皇となったオホド王は出雲富家の次男であり、越前国の三国国造、蘇我家の入り婿となりました。やがて北陸や関東方面の中心人物となり、大和朝廷から次の大王として白羽の矢を立てられます。

オホド王は蘇我家と離縁しますが、すでに二人の御子があり大和へ同行します。それが後の安閑と宣化天皇です。オホド大王は大和で平群王朝の血筋である手白香姫を后に迎え、広庭皇子(のちの欽明天皇)をもうけたので、ここに2つの系統、母が蘇我氏系と平群氏系の勢力が生まれてしまいました。 

 

出雲伝承では蘇我氏系の安閑、宣化天皇は暗殺されたと伝えられているそうです。確かに在位期間がふたりとも短く、2年と4年。

継体天皇が亡くなったのは531年であり、2年の空位後に安閑天皇が即位しました。この空位となった2年間とは、前王朝の血筋である広庭皇子が大王になることを求め、重臣がまだ若すぎるとなだめた2年だったといいます。

当時和国には百済王子が人質として住んでいたので、この暗殺事件を母国に知らせた可能性があるとのこと。先ほどの百済本記の引用を要約します。

「高麗軍が531年に任那の安羅を攻めて王の安を殺した。‥‥また聞くところによると、日本の天皇と太子と皇子が共に没した」

同じ年のことではありませんが、日本の皇室内で短い期間に続けて暗殺されたことを匂わしているのでしょうか。

また後日談として、宣化天皇の御子たちがこれを恨み、欽明天皇の古墳に復讐し、家族の墓を壊した跡が残されているそうです。本当に復讐だったかどうかはわかりませんが、そのような言い伝えが残る明らかな確執があったのかもしれませんね。

 

石川家と蘇我家

欽明天皇が即位すると先代の宣化天皇の娘が后となり、さらに石川臣稲目の娘2人を側室としました。こちらのほうがたくさんの子を産んだので、しだいに石川家が力を持つようになります。

この石川家と蘇我家のルーツは武内大田根(初代武内宿祢)の子孫、蘇我臣石河です。もともと河内の石川郡に地盤がありました。ここに残った石川家と、北陸方面に進出した蘇我家に分かれます。

話が前後しますが、継体天皇の大臣を務めた巨勢臣男人(この人もまた武内宿祢の子孫!)は男児に恵まれず、石川臣稲目を養子に迎えました。(宣化天皇の代で大臣となります)

大蔵の仕事も与えられ、租税の管理だけでなく官史の給料、その任命や昇任にも携わっていたそうです。この仕事は石川臣家の世襲となったそうなので、かなりの権力をもつことになったでしょう。

稲目の息子の一人が石川家を継いで石川臣麻古となり、この人が記紀によって蘇我馬子と名を変えられました。

記紀継体天皇応神天皇の子孫だとするために、蘇我家出身(血筋は出雲王家)であることを隠さなければなりません。けれど蘇我家はすでに名家であったため、石川家を蘇我家として誤魔化しました。

越前の蘇我家は斎木雲州氏の実家の親戚だそうで、その家人は「馬子の記事はすべて嘘であり、馬子、蝦夷、入鹿も架空の名前だと代々伝えられている」と言われたそうです。

 

多利思比孤のこと

もうひとつ隠されたことがあります。

推古天皇の両親は稲目(記紀蘇我稲目)の娘、堅塩姫と欽明天皇です。稲目は尾張国にも領地をもっていたので、孫である皇子は「尾治(尾張)皇子」と名付けられました。

604年(推古12年)に尾治大王が即位。冠位十二階や官史訓戒十七条(日本書紀では憲法十七条と変更)を制定した人です。

隋書に記された「倭王、多利思比孤」とは尾治垂彦タラシヒコだと伝承はいいます。隋の煬帝に「日出ずる所の天子が、書を日没する所の天子に送る」と書いた人です。この国書は607年に小野妹子が遣隋使(日本書紀では唐へ派遣)として持参しましたが、この時すでに上宮太子(いわゆる聖徳太子)は斑鳩に引退した後なので、太子が書いた可能性はないとのこと。

尾治大王は蘇我平群の始祖、武内宿祢の血筋であり、もとは紀伊国造家。始祖は高倉下なので父は五十猛。海アマ家です。

600年に隋の文帝に送った書には「姓は阿毎、字あざなは多利思比孤」とありましたよね。

続いて「倭王は天を兄、太陽を弟として、未明のうちに政殿で政治を行い、あぐらをかいて座っている。日が昇ればあとは弟(太陽)に任せる」という使者の説明がありましたが、原文を見ると「天未明時出聽政 跏趺坐」とあって、跏趺坐かふざとは坐禅(瞑想)の姿勢であり、「政マツリゴトを聽く」のこの「聽」の意味は目的をもって何も介さずに直接耳に入れるということなので、未明の天から何かを一心に聴きとろうとしている様子が浮かびます。

徐福は道教の星信仰によって、夜に山に登り天を拝んだといいます。多利思比孤の姿には星信仰と太陽信仰を感じたりもしますが、時代は仏教の流れですので、文帝が「それは道理のないことだ」と倭王を諭して改めさせた、というのも頷けます。

それにしても「尾治大王って誰?!」のレベルですけど‥‥。

推古女帝を中心とした皇位継承の血生臭い策略の果てに、歴史の表には上宮太子が華やかに描かれ、その陰に尾治大王が隠されてしまったようです。上宮太子の御子ふたりが出雲へ赴任したために、都の中枢部の状況が旧出雲王家に詳しく伝わっているということです。とてもややこしい話ですのでまた改めて。

(九州王朝説では、この多利思比孤が大和王朝の大王には当て嵌まらないため、隋と国交を開いたのは大和王朝ではないと指摘されています。)

 

とても長くなりましたので、宗像一族については次回にします。