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源流なび Sorafull

宗像一族。そして宮地嶽古墳⑴


 

引き続き、N様より頂いたご質問に今回もチャレンジしてみたいと思います。

その前に、N様がご紹介下さった「海の民、宗像」という漫画がありまして、これは宗像市世界遺産登録推進室というところが編集しておられます。発行から2年後に見事登録されました!

本の内容は、弥生時代から現代までの宗像一族をいくつかの時代を取り上げ、ストーリー仕立てにしてわかりやすくまとめられています。最後にコラムとして古代の詳しい解説もついています。

常に西の一大勢力(渡来人のよう)の脅威を感じつつ一線を画し、大和朝廷からも圧力を受けながら対等であることを望み、なんとか協力関係を保ってきた苦しい立場が描かれます。6世紀には朝鮮半島で戦が激化し、宗像を含め九州は直接その影響を受け続けます。そんな中、磐井の乱が起こり、宗像は朝廷か筑紫側かどちらに付くのか選択を迫られる場面もみられます。物語では友好関係にあった大和朝廷に表向きは加担すると決めますが、あくまで宗像の民を守るためであり、筑紫の軍と戦うことはなかったとしています。

先日TV番組を観ていると、宗像の海女の方が海に入る前のお詣りをする場面が映されました。もうほとんど海女となる人はいないそうですね。

小さな神社(恵比須神社だったような)の隅に祠がふたつあり、それが出雲の幸の神の小さな石祠だったのです。周りには黒と白の石がたくさん積まれ、上にアワビの殻が乗せてありました。毎回こうして石を供えて海の安全と豊漁を祈るそうです。丹後風土記には大巳貴命と少名彦命が白と黒の真砂をすくい持って、天火明命に向かい「これらの石は私の分霊であるので、この土地で祀りなさい」と詔りしたとあります。黒の真砂は砂鉄だそうです。

宗像地方はやはり出雲の文化が生活の中でも受け継がれているんだなと見入ってしまいました。でも海女の減少のように、あっけなく途絶えてしまうことも現実味を増しているんですね。

 

さて、「海の民、宗像」の物語の中では、宗像一族が連続しているように描かれていますが、実際にはそうではなさそうだというところもあって、複雑です。

現在の宗像大社では一族に伝わるという「西海道風土記」に記された宗像三女神と天神の御子、大海命との子孫だと言われているそうです。これに関する資料が他にないためになんとも言えません。

古代出雲王国と宗像家、そして徐福との婚姻の時代(宗像三姉妹)があり、次に応神から雄略に至る大和王権との海上の道を巡る関係を保った時代と天武天皇と婚姻関係を結んだ宗像徳善の時代があり、そして平安時代に入ると大宮司職という権力を持って政治的色合いの濃い時代へという変遷があります。

出雲伝承では宗像一族は出雲族が開拓した大和、三輪山の南方(桜井市)へ移住したとありますので、その後分家が残った可能性はありますがわかりません。

また日本書紀には筑紫の水沼君等が宗像三女神を祀るという記述もあって、この水沼君と宗像家との関係は不明です。旧事本紀にはニギハヤヒの子、ウマシマジの14世孫、物部阿遅古連公が水沼君等の祖であると書かれています。筑後川下流域を本拠地としており物部系ということで徐福の后となった市杵島姫と関わるのかもしれませんが、それが後に宗像家とどう関わるのかはわかりません。

折口信夫谷川健一はミヌマという言葉から、水中の女性の蛇や水中の蛇を祀る巫女を指すのではないかと指摘されています。そうであれば出雲の龍蛇神(コブラ⇒海蛇⇒ワニ)にぴったり符合しますが、断定もできません。

沖ノ島祭祀はわかっている範囲で4世紀後半から10世紀初頭までの500年余りとされ、ちょうど大和王権との協調時代にあたりますね。

平安期に大宮司家となった時の初代が宇多天皇の皇子とされており、この辺りから神社としての在り方も変質していったようです。そこから16世紀の79代氏貞を最後に宗像家は断絶しました。

 

次に宮地嶽古墳の被葬者は誰か、というご質問ですが、これはかなり難問です。

宮地嶽神社側の見解としては磐井の子孫(孫)を祀っており、安曇氏であるとの情報がネット上は見られるのですが、神社の正式な発信が見つけられないので保留としています。

今回調べ直すうちに新たに見えてきたこともありますので、長くなりますがそれを含めて考えてみたいと思います。

まず古墳の造営は6世紀末から7世紀前半と言われています。被葬者として名が挙がる宗像徳善ですが、娘の尼子娘と天武天皇との間に高市皇子が654年に生まれていることと、その11年後に胸方君が朝臣八色の姓)を与えられており、宗像徳善の墓はもう少し後の可能性が高いと思いますが、没年不明のため不確定です。

それから宮地嶽古墳は津屋崎古墳群に指定されていますが、宮地嶽古墳の地区だけは宗像一族とは思えないのです。下の地図は福津市古墳群整備指導委員会が平成20年に作成した地図を参照して、津屋崎古墳群の4つのゾーンを書き込みました。名称はそのままにしていますが囲みは大まかです。宮地嶽神社の奥宮が古墳となります。このゾーンだけ向いている方向が博多方面となっていて、一線を画していたという筑紫君一族のほうを向いているというのもおかしな話ですよね。他のゾーンは沖ノ島沖津宮を遥拝する位置にあります。

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宮地嶽神社の「光の道」が最近有名になりましたが、これは古宮から相島がまっすぐに見通せるということです。

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相島には積石塚群という4~7世紀頃に造られた古墳が、100mほどの海岸に254基もあって、この中の1番大きな前方後方墳と古宮が一直線に繋がっているといいます。5世紀中頃までに造られたとされ、長軸が20mあります。でもこの上空からの写真で見ると、前方後方墳というより、方墳に大きめの造出しがついているような。

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円墳と方墳が半分ずつあるそうです。

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相島は新宮町に含まれ、古来より宗像ではなく糟屋と関わりが深かったと、神社ホームページコラムにはありました。そうなると安曇族の領域になりますね。

 

次に筑紫舞についてですが、この古代より継承されてきた謎多き舞の中で、西山村光寿斉さんが最後に伝授されたのが「浮神うきがみ」という舞であり、これが筑紫舞の最も大切なものと教わったそうです。伝授された時点ではそれが何を意味しているのかは一切教えられず、50年の歳月を経て春日大社で安曇磯良を表した「細男舞せいのうまい」を観た時に、「浮神」も安曇磯良の舞だったことを知ったという印象的なエピソードがあります。なので筑紫舞は安曇磯良へと繋がり、それが昭和初期に宮地嶽古墳で奉納されていたことから、素直に考えれば安曇磯良の末裔がそこに埋葬されているのでは、ということになりますが、これについては後程詳しく書くつもりです。

 

まずは隣接する宮地嶽神社の現在の祭神を見てみましょう。戦中までは宗像三女神も祀られていたそうですが今は消されています。

神功皇后

勝村大神

勝頼大神

この勝村、勝頼大神とは三韓征伐で活躍した武人らしいです。

昭和19年の福岡県神社誌に由緒として「宮地嶽大明神安倍相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神藤助麿云々」とあります。神功皇后三韓征伐前に宗像三女神に祈願し勝利したので三女神を奉斎し、「のちに神功皇后を御同座に祀る」とあります。勝村、勝頼大神については、帰還後にこの地の祖神として祀られたということです。同じような内容が筑前国風土記拾遺(江戸時代の地誌)にもあるようです。

宮地嶽大明神⇒安倍相丞(相亟、亟相とも)

勝村大神⇒藤高麿

勝頼大神⇒藤助麿

となりました。藤といえば藤大臣トウノオトド高良玉垂命が浮かびます。大善寺玉垂宮(高良大社の元宮)の社伝によると、藤大臣は三韓征伐で大功があったといいます。

玉垂命が誰かという説はたくさんあって断定できませんが、末裔の所蔵する家系図によれば、初代玉垂命とは物部保連ヤスツラであると。

勝村、勝頼大神は物部か?

では安倍相丞とは誰でしょうか。

相丞しょうじょうを逆に丞相じょうしょうとすれば、古代中国で君主を補佐する最高位の官史のことになります。

そして安倍氏といえば出雲伝承の重要人物、大彦(磯城王朝8代孝元大王の皇子。異母弟に開化大王。記紀ではナガスネヒコとされた)の子孫です。子孫たちは物部勢に北へ追われながらもクナ国、日高見国を築き、朝廷からは蝦夷と呼ばれた大勢力です。

なので安倍といってもこれはちょっと違うのでは?と思っていましたら、斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」に磐井は大彦の子孫であるとサラっと書かれているではないですか。

確かに日本書紀には、孝元天皇の第一子の大彦命は安倍臣など7族の先祖であるとし、そこに筑紫国造も含まれていました。先代旧事本紀の国造本紀にも、大彦の5世孫、日道命(田道命)が初代筑紫国造とあります。筑紫氏の祖が田道命となっています。出雲伝承でも北陸から越後で国造となった大彦の子孫たちを「道の公家みちのきみけ」と呼ばれたといいます。道といえば日本書紀崇神天皇が派遣したという「四道将軍」が大彦、息子の武渟川別命丹波道主命吉備津彦ですが、みんな物部に追いやられた人たちであり、それを隠した作り話となっています。

また日本書紀磐井の乱の中で、磐井が大和王朝側の毛野臣に「昔の仲間ではないか。肩を擦れ合い同じ釜の飯を食った仲だろう」というセリフがあります。斎木氏はこれを、都で同じ大王に仕えた時のことと付け加えておられます。磐井は大彦の子孫であって本来の筑紫の人ではなく、大和王朝から派遣された国造ということでしょうか。つまり筑紫君一族(いわゆる九州王朝の血筋)の入り婿?だとすれば息子の葛子クズコが筑紫君の血筋となりますね。

葛子は糟屋の屯倉を献上するだけで死罪を免れたということですが、糟屋はもと安曇の領域でしょう。安曇物部系統の匂いがします。また日本書紀では磐井は筑紫国造と書かれるの対し、葛子は筑紫君となっています。(書紀を編纂した太安万侶大宰府に勤めていたとの話もあり、筑紫国造については詳しかったからか、それとも朝廷からの派遣だと印象づけるためか。毛野臣へのセリフを敢えて加えた真意とは‥‥)

次は磐井と大彦の繋がりを探ります。

 

※ 丹後の出雲大神宮についてご質問を頂きました。元出雲とも呼ばれるそうで、出雲大社とどちらが先なのかということですが、これまでの伝承の中で出雲大神宮については触れられていないかと思います。元出雲という意味がよくわかりませんが、716年創建の杵築大社(現出雲大社)より古いという意味なのか、元はここに出雲の神を祀っていたということなのか。後者であれば出雲地方のほうが元であるのは明らかかと思います。出雲大神宮については私の見落としがあるかもしれませんので、どなたかご存知の方があれば教えて頂けると有難いです!

【2021.9月追記】

2020年末に出版された富士林雅樹著「仁徳や若タケル大君」のP.170に出雲大神宮について記されています。3世紀、磯城王朝最後の大君といわれる道主御子が丹波国南端の亀山(現在の亀岡)に本拠地を移し、その後第二次物部東征で降伏し磯城王朝は終わります。ヤマトには三輪山の麓に三輪王朝があり、一時期はふたつの王朝が並立していたようです。そして出雲の人々がヤマトへ行く際に途中で宿泊するのが亀山の地であったため、そこに出雲の人が多く住むようになり、クナト大神を祀る神社として丹波国一之宮・出雲大神宮がつくられたということです。最初は出雲の古い形の神社でしたが、のちに出雲系の推古女帝によって社殿も大きくつくり変えられました。(神社では元明天皇和銅二年に初めて社殿を造営したと説明)

出雲の杵築大社が出雲大社と呼ばれるようになったのが明治時代からだったので、先に出雲を名乗った出雲大神宮は「元出雲」と呼ばれているそうです。