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源流なび Sorafull

宮地嶽古墳⑶朝闇の筑紫舞

 

 

筑紫舞についてはこちらの記事に書いています。 

 

筑紫舞宗家の西山村光寿斉さんは、昭和11年に宮地嶽古墳内で筑紫舞の奉納に立ち会っておられます。立ち会うというよりも、ある儀式のようなものを経ることで、筑紫舞伝承者として最後の段階へと進んでいくことになった、そんな特別な場であったようにも思えます。

舞の奉納ということに限って言えば、その時集まった人たちが「去年はあの山の向こうの山の上で木組みをして云々」と言われたそうで、奉納の場所は他にもあったようです。当時筑紫方面太宰府からこの古墳へ度々奉納に来ていたことは、証言もあって明らかですが。

不思議なことに光寿斉さんは昭和11年の奉納の際、あの大きな宮地嶽神社がそこにあるとも知らずお参りもしなかったと言われています。いつもは道端の小さなお社にさえ手を合わせて通る人たちが、この時は光寿斉さんに教えようともしなかったというのです。

古田武彦氏によると宮地嶽神社は昔は小さな祠だったけれど(古宮のことでしょう。神社ホームページのコラムにもありますが、本当に小さなスペースです。昭和5年に現在の位置に遷宮したそうです)、明治維新後「商売の神様」のような形で繁盛していったそうで、古墳を祀る祭りはどうなったのか、筑紫舞と関係あるのかないのかそれもわからないと昭和50年代の調査で書いておられます。神社側も筑紫舞のことは光寿斉さんから話を聞いた上で「当社との関係の有無にかかわらず残す努力をしましょう」という流れになり稽古を始めたようでした。最近では古来より秘伝の舞を伝承しているというイメージがあるようですが、光寿斉さんのお話とは違っています。なので他の奉納場所を探ってみました。

 

昭和初期に、朝倉市柿原古墳の前でそれらしき舞の奉納を見たという方の証言がある(「市民の古代・第12集」新泉社」より)ということで調べてみましたが、すでに柿原古墳群は消失していました。(甘木歴史資料館の方によると、昭和60年代のことのようです)

光寿斉さんと古田武彦氏が昭和50年代に調査した際にも、すでに古墳がかなり減ってしまっていて、その辺りでは現在椀貸穴わんかしあな古墳と呼ばれる古墳だけが残っていたようです。13mほどの墳丘で横穴式石室が開きっぱなしになっており、その上に小さな社が建っていて、それを本殿とした高木神社が鎮座しています。現在は隣に小さな高住神社が建っています。

この近辺の家々は豊前豊後の修験道の神社に属していました。「椀貸」という不思議な名前は、農家で婚礼などお椀がたくさん必要な時、お願いしますと祈っておくと一式のお膳がずらりと並べられたという伝説からきています。付近に修験道の山伏(天狗)たちがいたという意味なのかもしれないと。

 

さて高木神というのは筑紫舞にとって気になる神様です。光寿斉さんの師匠である菊邑検校は多くを語らない謎多き人でしたが、筑紫舞の伝承者である傀儡子くぐつたちの組織の頭領であったのは明らかで、普段は筑紫の男性が神戸と行き来して伝令を務めますが、山伏たちもいたようです。明治中頃の話では、太宰府にいた検校のところへ黒田公が訪れ「検校様、福岡城内を歩かれる時はお忍びで行って下さい」と頼んでいたらしく、福岡から佐賀への移動にも護衛がついていたとか。

検校は歴史については、知っていてあえて一切語らないという姿勢だったようです。そして特定の宗教はもたないという検校に、では信じている神様は?と聞くと「高木の神」と答えたそうです。

  

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 柿原古墳周辺英彦山ひこさんに連なる山々の麓に位置します。英彦山は磐井が逃げ込んだ山ではないかと言われています。三つの峰を持つ1200mほどの険しい山で、古来より山伏の修験道として日本有数の霊山です。筑後国風土記逸文には磐井の乱後、豊前国上膳県に逃れて南の山の峻しい嶺々の間に身を隠して逃げたと記されています。

柿原から10㎞余り山裾に沿って東南にいくと、朝闇神社宮野神社があります。光寿斉さんと古田氏はこのふたつの神社には、筑紫舞を描いた絵馬があることを確認されています。(近くの丘には宮地嶽神社が建ち、周囲を見渡せます。祭神は神功皇后と勝村、勝依大神。福津と同じです)

※朝闇は現在はチョウアン、昔はアサクラと呼んでいたそうです。

朝闇神社の絵馬1833年に奉納されたものです。木こりか山伏のような男性たちが洞窟らしき所の前で筑紫舞と思われる踊りをし(特徴的なルソン足)、殿様風の人が大きな盃でお酒を飲みながらそれを眺め、数人の女官が取り巻いています。画面左奥には岩山がそびえ、そこから山伏たちが現れ女性たちが迎えている様子や、手前にはお坊さんがそっぽを向いている姿も描かれています。この絵馬を見た光寿斉さんは、その足の上げ方が自分たちの舞う足の型だったのでとても驚かれたそうです。

朝闇神社絵馬の一部

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宮野神社の絵馬1850年のもので、こちらは明らかに洞窟の前で山伏が舞い、殿様がいて女官がいて、という同じような図柄と、山伏が御馳走を作って農民たちに振舞っているという変わった場面もあるようです。麓の村人との交流を描いているのでしょうか。

そして宮野神社のほうはすりきれて見えないそうですが、朝闇神社のものは殿様の服装は立派なのに、頭が蓬髪、ざんばら髪。まさか逃げた磐井が山深い洞窟で山伏たちと暮らしている図?!

殿様の背後には、布で仕切りをした入口が見えますが、これを古田氏は洞窟か岩屋の入口を示しているようだと指摘されています。

どちらも江戸時代に描かれており、当時はこれを見れば意味がわかるというものだったのでしょう。この絵を解説できる人はもう現れないのでしょうか。

昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の時、集まった人たちはとても品のいい人ばかりで、中にはよい着物を着ている人もおられたようですが、なぜか皆用意された粗末な衣装に着替え、見ているだけの検校まで同じように着替えたといいます。木こりか漁師みたいなのや昆布みたいにぶら下がっているのや、検校は出し昆布みたいな色の着物‥‥。少女だった光寿斉さんは、なぜこんな汚い恰好で舞うのかと不思議で仕方なかったそうですが、洞窟の中で繰り広げられる神々しいまでの荘厳な舞に、心を奪われていったと。

 

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それから、光寿斉さんがこの朝闇神社を訪れた時、鳥居前右手の小さな猿沢の池(奈良にも同名の池がある)を見て、筑紫舞の「早舟」という舞が奈良ではなく、ここを唄ったものだったのかと合点がいったそうです。他にも娘道成寺など紀州が舞台だと思っていたら、宗像の鐘崎の悲しい話がもとになっていたと知って驚いたとか。筑紫舞が原点であることが多いのかもしれません。

鳥居は小さく、階段を昇るとすぐに拝殿があり、その内側に絵馬が奉られています。拝殿の横手には恵比須様の石像が。

祭神は高皇産霊尊(高木神)とニニギノ尊。ここは別名を大行事社といいます。822年に英彦山神領から七里四方に高皇産霊尊を勧請して結界を張りました。密教の七里結界と呼ばれます。大行事社を48ヶ所置いたそうです。この朝闇神社は七大行事社といって、最も外側で参道入口付近に置かれたところにあたります。(一里は時代によって変わり、律令制では一里約553m、中世は様々で、秀吉が約3.9㎞を導入)

大行事社は明治になって高木神社と名称が変わりました。

甘木歴史資料館の方に教えて頂いたのですが、この地方では皇室に関わってくるような高木神と、民間信仰としての豊前ぶぜんぼうが大切にされているとのこと。高住神社とはこの豊前坊が明治になって名称変更されたもので、筑前国風土記拾遺にも柿原村には豊前坊があったことが記されています。豊前坊については次回紹介します。

大行事社⇒高木神社

豊前坊⇒高住神社

椀貸穴古墳は両方の神様が祀られていますね。

朝闇神社のすぐそばには朝倉橘広庭宮跡があります。斉明天皇皇極天皇であり、天智、天武天皇の母)が661年に百済救援の際に建てたそうです。なぜこの地だったのでしょうね。天皇は宮に着いて2ヶ月余りで崩御されましたが、建設時には神の怒りに触れて宮が壊れたとか、病死者が続出したとか、崩御された後には朝倉山に鬼が現れ喪の儀式を覗いていたなどと日本書紀にも書かれており、天皇は磐井の残党に殺され宮を焼かれたといった説まであるようで、そういう話が出ることに世間の何かしらの思いがあったのでしょう。

ところで長安寺廃寺跡も隣にありますが、もとは朝闇寺、朝鞍寺と書いて「チョウアン寺」や「あさくら寺」と呼ばれていたそうです。ここにも鞍手の鞍が‥‥!

中国の「長安」と当て字されるほど重要な場所だったのではないかとも言われています。そういえば朝闇神社は他の大行事社のように高木神社と改称していませんよね。

長安寺跡からは奈良時代の遺物は出ていますが、朝倉橘広庭宮よりは後の時代と推定されています。

また朝倉の地名の由来は朝闇から来ているともいわれ、そうなるとかなりダークな物語の気配が。前回紹介した筑紫国造鞍橋君の金川家の家譜には「闇路クラジの公」と書かれていました。

菊邑検校が光寿斉さん家族と大本教弾圧の話題となった時に、検校が「真実というのは隠されていてわからないことが多いですよ」と言ったので場が白けてしまい、翌日再びその話題になった時にはぽつりと「くらやみにてあさをまつ」と暗い声で呟いたといいます。ドラマのワンシーンかと記憶に残っていましたが、今回地図を見て驚いたのが、朝闇神社からさらに東南へいった所、英彦山への麓の登り口に「夜明(夜開)」という地名もあったりして、なかなか意味深。さらに東には石井町が。(古事記では磐井ではなく石井)

 

 もう一方の宮野神社は、661年に斉明天皇が戦勝祈願にと中臣鎌足に建てさせた神社です。でも橘広庭宮建設時の暗い話を聞くと、祟りを恐れて祀ったのではと邪推してしまいます。

祭神をみると、大巳貴命、天児屋根命、吉祥女とあります。天児屋根命は中臣氏の始祖、吉祥女とは菅原道真夫人という説も(後世のものでしょう)。末社には金毘羅社(出雲)、さらに「幸神」と彫られた石神さまもありました。またここにも出雲が満載。

 

次は英彦山に祀られた神々について見ていきたいと思います。