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源流なび Sorafull

宮地嶽古墳⑷英彦山とサルタ彦大神

 

英彦山の神々を見ていきましょう。

地図は南北を反転させています。

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 英彦山神宮主祭神天忍穂耳命アメノオシホミミです。天照大神の御子なので日の子の山、日子山と呼ばれています。(のちに彦山⇒英彦山

天忍穂耳命は高木神の娘、栲幡千々姫タクハタチヂヒメとの間にニニギノ命、火明命をもうけました。つまり徐福の父ということになります。古事記では正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命という勝ちまくっているような名のわりに、さほど存在感がありません。忍穂耳命は天照大神から降臨するよう命じられますがうだうだとして、やがて息子が生まれ、その息子ニニギに行かせることにしたのです。徐福の父は渡来しなかったということでしょうか。

 

出雲伝承では徐福が秦国から連れてきた母は、和名が高木栲幡千々姫と伝えられ、幡は秦を意味します。最初はJR佐賀駅の北側辺りの高木に住み(高木姓も多い)のちに筑紫の南部に住んだそうです。亡くなった後に高木の神として祀られたと。筑紫の南部とは久留米の高良山

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高木神の伝承で不思議な話があります。高良山に鎮座していたところ、高良玉垂命がやってきたので一夜の宿として提供しました。ところが結界を張られ、高木神は戻れなくなってしまい麓の高樹神社に遷ったというのです。時代による神様の交代を示していると思われますが、徐福の母を退けた人物とは誰なのでしょうか。玉垂命が物部であれば合祀ということになりそうなものですが。高良大社では仁徳天皇の御代(367年か390年)に玉垂命が鎮座したとしています。年代だけでみれば神功皇后応神天皇の時代ですね。

ちなみにここは磐井と物部麁鹿火の最後の決戦地、御井です。

出雲伝承では徐福の二度目の渡来は有明海沿岸の浮盃辺りから上陸し、金立山から吉野ヶ里へ移っていったといいます。また筑紫野市天拝山でも道教神を拝んでいたそうです。宝満川を挟んで東に宮地岳があって、昔は天山と呼ばれていました。麓には高木神社が建ち、その上方には童男丱童女の船繋岩と呼ばれる大岩があり、徐福が連れてきた童男童女たちの船に由来があると言われています。山の西側、豊満川に沿って今も水田が広がっています。

豊満川といえば、菊邑検校が「宝の満ちている川。宝とは子どもです」と言ったそうで、筑紫舞の傀儡子たちはこの川に捨てられた子どもたちを育て、舞を伝えたといいます。九州の子どもだけに伝えるのだと。大陸から連れてこられた子どもたちも、二度と親に会うことのないままこの地で一生を終えたと思われます。

 

さて、英彦山神宮のもととなる霊泉寺(古くは霊仙寺)の由来によれば、継体25年(531)北魏の僧、善正が彦山の洞窟で修業し開山したとしています。伝承には日田の猟師藤原恒雄が一頭の白鹿を射た時、鷹が現れて白鹿を生き返らせたので神意を悟り、善正の弟子となってここを開いたというものもあるようです。鷹は高木神の化身や使いといわれます。善正よりも先に鎮座していたのでしょう。上宮の手前、産霊むすび神社に高皇産霊神(高木神)は祀られています。

徐福の母、高木神の信仰は筑前筑後で紀元前から始まっていたようですね。英彦山神宮も次に紹介する高住神社も神紋は鷹羽紋。神話では高木神は天羽々矢を天から放つ伝承(返し矢)もあります。(鷹の羽は和弓に用いられる矢羽根)

天忍穂耳命英彦山にどうも馴染まない感じがあって、新たにやってきたような。

 

豊前坊高住神社 は江戸時代までは豊前ぶぜんぼうと呼ばれていました。古名は鷹栖宮。高住は鷹住?

主祭神豊日別トヨヒワケ大神とされ、豊前豊後の守護神、国魂神です。もとは鷹巣山に祀られ、病苦を救い、農業、牛馬、家内安全の神として崇められてきたそうです。

天狗磐という巨大な磐座があり、そこに食い込むようにして社殿が建っています。社殿奥にある天狗磐の窟いわやが本殿です。

継体23年(529)に「我、この磐根に居る事年久し、我前を斎き奉れ」とのお告げがあり、豊後国藤山恒雄(彦山第二世座主)によって社殿が創建されました。

英彦山神宮ともに藤山(藤原)恒雄が関わっており、ほぼ同時期のことですね。磐井の乱が終わったのが継体22年。磐井が逃げ込んだとも言われる英彦山に、翌年神のお告げが下ったことになります。

藤原恒雄については資料がなく、日田の猟師としかわかりません。日田の地名の由来のひとつに朝日と鷹の伝承もありますが(江戸時代の「豊西記」)。 日田国造の鳥羽宿祢は高木神の子孫とされ、石井神社に祀られています。鳥羽は鷹羽のこと?

またここでは豊前坊天狗神が有名で、九州の天狗群の頭領格といわれています。配下の天狗を使って欲深い人を諫め、心正しい人には願い事を遂げさせ守護するといいます。そして天狗といえば、その由来は出雲のサルタ彦大神

 

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ところで豊日別神についてですが、福岡県行橋市にある豊日別宮(草場神社)の社伝に気になる話があります。欽明天皇即位の年(539)に神が老翁の姿となって現れ、神官の大伴連神牟弥奈里継体天皇に仕え磐井の敵であった大伴金村の孫)に「我は猿田彦の大神なり。天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げ、翌日に大神が降臨し「猿田彦天照大神の分神なり。豊日別大神を本宮とし、猿田彦を以て別宮となす」と告げたことで社殿を建てて祀ったのが起源であるということです。豊日別大神とサルタ彦大神の御神徳がほぼ同じ。宮の古名は佐留田比古社。豊前坊天狗神はサルタ彦大神なのでは?

しかも天照大神の分神としています。この場合は出雲の幸の神だとすればスムーズです。幸の神三神は幸姫命(太陽の女神)とクナト大神、その御子神のサルタ彦大神です。

社伝の続きには「欽明28年(567)には洪水、飢饉などが各地を襲ったが豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇された」とあります。日本書紀には「国々に大水が出て飢える者多く、人が人を喰うことがあった」と記されており、かなり深刻な被害だったようです。豊日別宮の神と関わりのある祟りとでも思ったのでしょうか。

さらに続きを要約すると、720年に隼人が反乱し朝廷が征伐したが祟りが起こり、宇佐八幡神の宣託によって隼人たちの霊を鎮める放生会ほうじょうえを毎年行うことになった。放生会の際、朝廷の勅使が一旦豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮とも呼ばれた。官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造し、それを豊日別宮に併せて祭り、本社の神輿とともに宇佐への神幸が行われた、とあります。宇佐神宮に並ぶような扱いですね。

 

山伏と出雲散家

出雲伝承では出雲兵は忍者の祖といわれています。王国滅亡後は各地に散らばったので出雲散家さんかや出雲忍者と呼ばれました。あの謎めいたサンカですね。伊賀や甲賀の忍者は大彦の子孫のようです。山家やまが、山の人と呼ぶこともあったとか。彼らは秘密組織を作り、各地の事件の真相を旧出雲王家の富家に報告しました。出雲散家の子孫は明治頃まで忍者として活躍したといいます。彼らはサルタ彦大神を崇拝しました。

豊前坊で修業をした人の中には修験道の開祖、役小角えんのおずぬ役行者(634~701伝)もいます。この人は出雲系の葛城出身だそうで、幸の神三神を三宝荒神に変えて祀ったといわれています。荒神は幸神の言いかえですね。サルタ彦大神は強面の道の神として邪を祓ってくれるので、荒魂の要素があり、サルタ彦人形を荒神とも呼びます。大彦勢が東北で幸の神を広めましたが、それがアラハバキ信仰です。

修験道とは日本古来の山岳信仰に、密教道教の要素が混ざっていったものですが、そこに幸の神も伴っています。修験者には多くの出雲忍者が含まれていたと伝承にあります。修験者のことを山伏と呼び、もとは山臥と書いたそうですが、これも山家ヤマガと関係あるかも。

英彦山だけでなく福津の宮地嶽古墳も古くは岩屋不動と呼ばれており、江戸時代までは山伏たちの勢力下にあったようです。明治になると平田神道以外は偽物とされ、修験道も廃止になったのですが、ほとんどの神道が平田神道以外のものだったそうです。宮地嶽神社は明治以降に栄えたというので、修験道と入れ替わったのかもしれません。

 

継体21年(527)磐井の乱が起こり、翌年平定

継体23年(529)に豊前坊の社殿を創建

豊日別神はそれ以前に鷹巣山に鎮座していたので、英彦山に社殿を造ったというのは新たにサルタ彦大神を祀ったことがきっかけだった可能性もあります。のちの天狗神

継体25年(531)に北魏の僧、善正が開山(英彦山神宮の元)

いつしか主祭神天忍穂耳命に。

欽明天皇即位元年(539)に豊日別宮を創建

天照大神の分神、サルタ彦大神が祀られました。

欽明28年(567)各地で洪水と飢饉あり、大和朝廷が豊日別大神に祈願

平安時代(822)に高皇産霊尊(高木神)を勧請して七里結界を張る

この時大行事社を置きましたが明治で高木神社となります。もともと鷹巣山には高木神信仰があったと思われます。

 

 つづく