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源流なび Sorafull

宮地嶽古墳⑸筑紫神楽舞とサルタ彦の苦悩

 

 

 サルタ彦大神の七変化

「サルタ」とはドラビダ語で「突き出たもの、出っ張り」という意味で、猿とは無関係です。サルタ彦は象神のガネーシャなので鼻高彦とも呼ばれますが、山岳仏教の中でそれが天狗に変わってしまいました。(ガネーシャの鼻は男性の象徴。子孫繁栄の源です)

サルタ彦は他にも田畑を守るカカシや、山や湖を造るダイダラボッチ、厄払い人形、信楽の笠ダヌキ、山彦まで、姿を変えて人々を守ってくれる存在です。

下の写真は「岩手さわうち食の普及会」で紹介されている厄払い人形です。

https://sawauchisyoku.com/?pid=134346189

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奥羽山脈の谷底にあるという旧沢内村は豪雪、貧困、多病多死など非常に厳しい暮らしだったそうです。近くの西和賀町では厄払い人形が古くから伝わり、人形を担いで歩くことでその土地の疫病神を背負わせ、そして村境の木に結び付けて外からの疫病神が入ってくるのを防いでもらうという習わしがあるといいます。道の神ですね。

写真の人形は高齢者生きがいセンターで作られたものだそうですが、すべて引き受けるぞといった気迫と精悍さに感動してしまいました。次世代への継承が気になるところです。この人形はすでにSOLD OUTですが、写真を眺めるだけでも自分の中の邪気が祓われていくような気がします。

これを一本足にするとカカシのような。

 

出雲では太夫もまたサルタ彦大神が百のお姿になって善人を守ってくれるものと伝わっています。七変化どころではありません!

太夫神社は西宮神社(西宮えびす、古くは大国主西神社)の境内末社として祀られていますが、九州では田川郡採銅所村(宇佐神宮放生会で造る神鏡の採銅所にある古宮八幡宮の境外末社行橋市長尾の正頭八幡神社では本殿に合祀、また宇佐神宮境外の百体殿(隼人を埋めたとされる)は本来は百太夫神社です。やはり豊日別宮の周辺はサルタ彦大神と繋がっていますね。

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傀儡子たちは百も千も人形を作って奉り、サルタ彦大神に守ってもらおうと祈ったそうです。でもどうして海人族由来の傀儡子がサルタ彦?と思っていましたが、英彦山、豊日別宮に由縁があるのかもしれません。

傀儡子は神社の周辺に住み(散所)、雑役をして課役を免れ、人形舞など種々の芸をしながら漂泊民として暮らしていました。古要神社の近くには中世に散所があり、宇佐神宮に隷属する傀儡子たちが住んでいました。古表神社、古要神社の傀儡子は放生会の際に人形による傀儡子舞を奏したそうです。それは三韓征伐時の磯良舞なのですが、表向きは隼人の霊を鎮めるためであり、朝廷側にとっては隼人の服従の表明という意味があったと思われます。

祖神の安曇磯良の舞、百太夫信仰、隼人の鎮魂、そしてえびす信仰へ。傀儡子たちの移動とともに、それぞれの土地の信仰を芸能へと変容させていきました。それは単なる芸ではなく、鎮魂、祓えの力を伴っていたのです。表の歴史から零れ落ちた敗者の悲しみに、寄り添い続けた存在なのかもしれません。

写真は中津市のホームページからお借りしました。古要神社の古要舞と神相撲です。人形にはそれぞれ神の名が付けられていますが近世になってからのことらしく、本来名を持っていたのは二躰の磯良神だけだったと。写真はありませんが、顔を白布で覆っています。

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【補足①】古宮八幡宮は最初、香春三ノ岳の麓に豊比咩トヨヒメ神社として祀られており、709年に現在地に遷りました。9世紀になって神功皇后応神天皇宇佐神宮から勧請し八幡社となります。三ノ岳で採掘された銅を使って、宇佐神宮のご神体である神鏡をここで鋳造し納めていました。これが前回紹介した豊日別宮にも納められたのです。香春神社の元宮と言われますが、香春神社は放生会には関係していません。

豊比咩命は宇佐の比売神、第2次物部東征の豊玉姫と思われ、豊日別神もそうではないかと考えていましたら、古宮八幡宮の現在地が高巣の森(古くは鷹巣)でした。神紋も鷹羽です。英彦山では豊日別神は鷹巣山に鎮座していましたよね。宇佐の豊玉姫は物部イニエ王との婚姻で高木神と結びついたのかもしれません。(田川郡の古名も鷹羽といわれています)

 

【補足②】宇佐への神幸の際、豊日別宮を出発すると祓川で禊をしたそうです。この祓川は英彦山の頂上辺りから湧き出ているのですが、地図を見ると犀川という地名が祓川に添って至る所に付けられ、平野部では大きな集落となっています。地図に水色の斜線で大まかに示してみました。

幸の神を祀る三輪山から流れ出る狭井川は、本来の意味は幸川だったそうです。信州安曇野を流れる犀川は地元伝承の「龍の子太郎」の中で、出雲(諏訪大明神)を象徴する川として現れます。祓川ももしかすると本来は犀川(幸川)で、のちに始まった放生会によって祓川と呼ぶようになったのかな、と想像しています。幸の神も邪を祓ってくれますし。

 

写真は西宮神社内の説明板です。

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 下記事の後半に百太夫について書いています。

 

サルタ彦大神に戻ります。

九州には中国の庚申信仰がとても多く、これもサルタ彦と結びついています。出雲伝承の谷戸貞彦著「七福神と聖天さん」によると、庚申は平安時代には貴族の間で始まっており、室町になって農民にも浸透、江戸になると神道家が申を猿として日本古来のサルタ彦大神を祀れと主張したそうです。

庚申信仰とは道教密教神道修験道などが合わさったもので、庚申の日の夜には人の三尸さんしの虫が体から抜け出し、天帝に悪事を報告し、寿命や死後の行き先が決まるといわれ、その夜は眠らずにお酒を呑んだりしながら過ごすというものです。下の掛け軸は青面金剛といって仏教で祀られ、猿と鶏が描かれています。実は鶏の鶏冠信仰もサルタ彦だそうですよ。

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不動尊については修験道密教不動明王を信仰し、寺を守る不動明王と村を守るサルタ彦大神が似ていたことから、仏教を庶民に広めるために、サルタ彦信者に不動尊を拝むように勧めたということです。

比叡山日吉大社日枝神社山王信仰もサルタ彦大神を祀ります。豊臣秀吉日吉大社の神主家、樹下家と親しかったことから木下という名を使ったそうです。信長の比叡山焼き討ち後、秀吉が復興させています。サルと呼ばれたのもここに由来するのですね。忍者出身だとも。

 

サルタ彦大神の変容ぶりをざっと見てきましたが、本当に古くから様々な祈りを受け止めてこられた神さまですね。出雲王国時代の幸の神が広い地域でしっかりと根付いていたことを感じます。

宇佐国造家の口伝ではシベリア方面からサルタ族が漂着したと伝わっており、出雲族ではなくサルタ族という名で通っていたようです。九州特有のものかはわかりませんが。記紀では幸姫命とクナト大神の名はイザナミイザナギに変わってしまいましたが、幸いなことにサルタ彦大神だけはその名を残すこととなりました。幸の神三神の役目を一身に引き受けているかのようです。

ところで豊日別宮に降臨したサルタ彦大神は修験道以前なので、幸の神として捉えることができそうです。豊前坊の天狗神奈良時代以降に生じたと思われます。磐井の岩戸山古墳には猿田彦塔がありましたが、これは近世に祀られた庚申です。とはいえどちらもそこにサルタ彦大神ありきでしょう。

 

出雲系の山の秘密組織(山伏、忍者)と筑紫舞の繋がり、そして海人系の傀儡子たちのサルタ彦信仰。これまでは出雲と傀儡子の接点がつかめず気になっていましたが、英彦山と豊日別宮のサルタ彦大神がその鍵を握っているのかもしれないと、今は考え始めています。そして山伏と傀儡子は共に独自の情報伝達網を持ち、場合によっては協力し合うこともあったのかなと。

 

筑紫神楽舞

西山村光寿斉さんの継承した筑紫舞は、筑紫傀儡子たちによって伝えられてきたので「筑紫くぐつ舞」とも言えます。こちらが歴史の裏街道を歩んできたとすれば、表に存在していたのは筑紫地方に伝わる「神楽」です。

古田氏は福岡市の田島八幡神社で継承されている神楽に偶然出会っておられます。60年ぶりに上演されるという日に、たまたま居合わせたそうですよ。田島八幡社に伝わる明治19年に記された由来書を要約します。

「明治以前は筑紫の各神社の神官が神楽を行っていたが、明治の一新によって神社の制度が変わりそれができなくなった。そこで社中の者が集まり神楽舞いの伝授を受け、以後これを筑紫舞として伝えることとした」

明治の一新というのが平田神道以外は偽物とされたことであり、神仏習合もダメ、修験道もダメ、となって神主さんたちは食べられなくなり、神楽もできなくなったという大変な時期があったそうです。明治維新とともに平田派国学者らが神仏分離神道の国教化を推進しました。

由来書には神楽を筑紫舞と言うようになったことが書かれていますが、古田氏が実際に見た感想はやはり里神楽風で、あの荘厳な筑紫くぐつ舞とは異質の芸であり、「翁の舞」(筑紫くぐつ舞の中心となる舞)もありません。ですが共通する要素がいくつもみられ、これらは同根異系のものと認めざるを得ないと。

この田島八幡の演目にとても興味深いものがあります。「猿舞」「猿」というタイトルで天孫降臨の場面を演じるのですが、それが記紀とは様子の違うものとなっています。

 

神楽「猿舞」「猿」

天照大神の命でニニギノ命が筑紫へ天降ることになりましたが、サルタ彦が承知しません。来てほしくないと頑なに拒否するのです。困惑した天の神々のうち中富親王が解決に当たることとなり、アメノウズメを使って色仕掛けでサルタ彦を誘惑する、といったことが延々と続けられます。

記紀ではサルタ彦は天孫の先導役として描かれています。ニニギノ命が来るのを自らの意志で待っているのです。先導できるのですから土地勘があり、天孫より前からここを治めていた存在であるのは明らかです。ですがそうであれば記紀のように、気前よく先導するというのは嘘くさいですよね。出雲王国の激戦の果ての滅亡を、聞こえの良い「国譲り」と変えたのと同じ構造です。この神楽ではサルタ彦の本音が描かれているように思えます。

田島八幡の他、高祖神社や朝倉内の神社で行われる神楽も、大変似通っているということです。

ところでこの「中富親王」ですが、古田氏はなぜここに登場し、かつ何の説明もなく物語が展開するのか疑問であると言われます。説明がないということはかつては誰もがよく知っている人物であったからだと。田島八幡の方は「神主の祖先」や「天孫降臨の侍従官」と捉えておられます。中臣神道の関係という説も。名前からはアメノコヤネを想像します。

 

中臣村と中富親王

豊後国風土記を見ると、景行天皇が「豊前国仲津郡の中臣村」に到着したとあります。この中臣村はその後「草場村」と呼ばれたことが太宰管内志(江戸時代に編集された九州の地誌)に書かれています。前回紹介した豊前豊日別宮(別名、草場神社)の所在地のようです。欽明天皇即位元年(539年)に創建、サルタ彦大神が天照大神の分神として祀られました。

豊後国風土記では景行天皇が中臣村に滞在した際、豊国の直らの祖先となる菟名手に豊の国を治めるよう命じたとあります。豊玉姫(ヒミコ)の宇佐家が宇佐国造⇒豊国直へ。

天皇が菟名手とともに滞在したという中臣村ですので、有力豪族がいたのでしょう。

出雲伝承の谷日佐彦著「事代主の伊豆建国」によると、第2次物部東征の後、垂仁大王は豊国軍に東海の狗奴国を攻めるよう命じ、関東北部の上毛野国、下毛野国へと至ります。豊国軍を率いた豊来入彦は物部イニエ王と豊玉姫の御子なので、物部の血筋となります。常陸国の中臣氏と豊国勢力が接近して開拓していたことから親しくなり、豊国人が豊国に里帰りして上毛郡下毛郡を作っ時、中臣家の人々も郎党を連れて共に移住し、豊国に中臣村を作ったという伝承があるようです。伝承では中臣氏は鹿島から始まるとしています。

これらを併せて考えると、垂仁から景行に至る間に移住があったということになります。3世紀末から4世紀初めでしょうか。でも宇佐家の勢力下の土地で突然よそ者が力をつけるのも難しいですから、やはり物部東征時のイニエ王とともに中臣氏も宇佐家と付き合いがあったと考えるほうが自然かと。(記紀では神武の侍臣であった天種子命天児屋命の孫で中臣氏の遠祖)にウサツ姫を娶わせたとしています。宇佐家極秘伝では神武に差し出して子をもうけたということです)

サルタ彦大神を祀った豊日別宮周辺を治めていた中富親王(中臣)が、問題解決に当たる姿を描いた神楽とみることはできないでしょうか。

※ かつてはこの辺りに中富姓の方がおられたような情報もみられますが、現在は見当たらず、福岡の博多に集中しています。

 

神楽舞で天孫を拒むサルタ彦大神を描き、それが筑紫地方特有のものだということに大きな意味があると思われます。天孫降臨の本来の姿を出雲で演じるなら筋が通りますよね。ですが天孫側(徐福子孫)の筑紫地方で上演する意味を考えると、これはニニギの天孫降臨ではなく、大和朝廷に抵抗を続けた磐井の姿、物部麁鹿火や香月君らの軍に攻められ戦った磐井の姿を重ねてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。神楽をみた人々は、そこに込められた意味を理解し、末代にまで語り継ごうとしたのでは。

また日本書紀に描かれたナガスネ彦の最期のシーンは、これまで違和感がありました。ナガスネ彦(大彦)がニギハヤヒ(物部)に仕えている設定、妹がニギハヤヒに嫁いだという設定(出雲伝承にはありません)、そしてなぜニギハヤヒが忠実な臣下を殺さなければならなかったのかと。

『大和へ攻め込んできた神武(朝廷)に対し、ナガスネ彦はニギハヤヒこそが本来の天孫であると、それを証明する天羽々矢(高木神)を神武に示します。

「自分の妹がニギハヤヒのもとに嫁ぎ、今はニギハヤヒに仕えている。どうしてあなたもまた天神だといって人の土地を奪おうとするのか」と。

天神と人は全く違うのだということを理解できないナガスネ彦を、ニギハヤヒは自らの手で殺害します。』

ナガスネ彦を磐井と置き換えた時、すんなりと読めました。物部と親族となった磐井が、大和朝廷に抵抗し、物部によって殺されたということです。

 

次回は最終回です。