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源流なび Sorafull

宮地嶽古墳⑹翁の舞と山の能。そして磯良舞


 

宮地嶽古墳の埋葬者は誰なのか、6回に渡り探ってきましたが、そろそろ今回でひと区切りとしたいと思います。

 

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)を祀っていて(埋葬者?)、それは安曇氏であるという情報があるようです。磐井の孫というのは年代から可能性ありと思われますが、安曇氏というのは現段階ではまだ繋がっていません。筑紫国造家と安曇氏に婚姻関係があったという根拠に辿りつけませんでした。

宮地嶽神社のかつての祭神、宮地嶽大明神「安倍相丞」から、大彦の子孫とされる筑紫国造磐井を辿ってみたところ、物部ばかりが現れ、そこに高木神の存在が透かし見えるようでした。

「勝村大神(藤高麿)」と「勝頼大神(藤助麿)」については物部の血筋である可能性は高いようです。

シリーズ最初の記事で、津屋崎古墳群の中では宮地嶽古墳だけが博多に面しており、宗像氏の古墳とは思えないと書きましたが、調べていくうちに、相島がもとは大彦の子孫である安倍氏の領地であった可能性も考えられることや、宮地嶽古墳(岩屋不動)が明治以前までは修験道支配下にあったことなどから、宗像氏のものではなくとも安倍氏に関わる場所ではないかということも頭に置いておく必要があると思い始めています。宮地嶽神社の以前の宮司家が阿部氏であったことも気になります。

そして宮地嶽大明神・安倍相丞とは、この流れでいくと磐井の御魂を祀っているとしたいところですが、やはり可能性のひとつというところで留めておきます。

 

さて最終回の今回は、宮地嶽古墳と安曇磯良を繋ぐ筑紫舞の本質について、考えてみたいと思います。

 

筑紫くぐつ舞の「翁の舞」

筑紫舞の決め事として、神前か神社の境内でしか舞ってはならず、投げ銭をもらうこともダメ。神社からお札をもらってそれを売ることで収入としていました。すべてが神様に対するものであり、見物客は神様のお相伴です。またそれぞれの神社の祭神に奉げる舞を持ち、同じ神でも地方によって舞ぶりを変えていたそうです。

基本の動きには「神に近づく技」「人々の穢れを身に受ける技」といった意味がつけられ、さらに「鳥飛び」「波足」「水けり」など水辺の名前が多くみられます。海から神様がやって来て砂浜で舞うというのも多いらしく、海人族由来ということも頷けます。

舞は大きく「神舞(神に奉げる舞)」と「くぐつ舞(祭礼の時に人々に見せる舞)」に分けられ、菊邑検校はこの違いについて、

「神舞は、わが身をいとわねばならぬと思うて舞う翁。くぐつ舞は、人の身をいとうて舞う翁」

と教えたといいます。ということはすべて「翁の舞」になりますね。鈴鹿千代乃氏は、傀儡子たちは神社の祭礼でくぐつ舞を舞うことによって人々の穢れをわが身に受け、それを神主のいないような神社で神舞を舞うことによって神にゆだねて神から魂をもらっていたのではないかと言われます。西山村光寿斉さんが少女の頃、神舞を奉納していたのが神主不在の神社とか、誰もいない海辺だったということからそう思われると。

国としては天皇が祭祀者となって国中の大祓を行い、天皇が自ら受けた穢れを祓戸四神に託し、川から海、海底から地底へ、そしていずこかへと持ち去って消滅させてもらいます。「水に流す」という文化はここから始まっているようです。天皇や神々と同じ祓の力を持つ者が、漂泊民である傀儡子だというところに、不思議な繋がりを感じずにはいられません。国の最高位の存在と、体制の外側をさすらう者が同じ力を持っているのです。

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日本の古典芸能の源流ともいえる筑紫舞には、この国の古い歴史が刻まれている可能性もあるようです。

筑紫くぐつ舞の中心には「翁の舞」があります。別名、国問いの翁。先ほどの翁は広義であって、今度は狭義の翁の舞についてです。これは神舞ではなくくぐつ舞なので、人の穢れをわが身に受ける祓え舞です。

菊邑検校は翁とは神に近い長老で、おじいさんではないと言いました。翁は仮名か、できれば片仮名でオキナと書くようにとも。発音は「沖のう」に近かったそうです。

古田武彦氏はこの翁の舞を古代中国の宮廷舞を模倣したものだと言われます。諸国の翁が集まってそれぞれが名告り、諸国の舞を舞うという形をとります。舞うといっても能のような幽遠さ、荘厳さです。三人立、五人立、七人立、十三人立とありますが、光寿斉さんが教わったのは七人立まで。

三人立⇒都、肥後、加賀の翁

五人立⇒上記+出雲、難波津より上りし翁

七人立⇒上記+尾張、夷の地より参りし翁

検校は歴史的な背景を一切語らなかったので、主に古田氏の推測となりますが、都の翁は筑紫舞の本拠地である太宰府辺りかと言われています。検校は「その時々の都です」と言ったそうですが。

三人立は最も古い形と考えられ、都の翁が中心となっています。古田説では古代中国の礼記に記された「東と南の二方の蛮夷の舞楽」の形式を真似たものとして、都からみて辺境である東方の越と南方の肥後、という形ではないかと。

ところが五人立からは肥後の翁が中心になります。磐井の乱後、表向きは筑紫は大和王朝の支配下となったけれど、装飾古墳の分布を見ると、阿蘇山を中心として肥後から筑後、豊後の辺りが栄えており、これは磐井の乱でダメージを受けなかった肥後に主力が移行したと考えられるのではないかということです。実は菊邑検校は肥後の出身です。

 

時代が下りますが、11~16世紀頃の肥後の菊池家「山の能」という舞楽が伝承されており、能舞台で能太夫が演じ、その中心に「翁の舞楽」があったことを古田氏は見つけておられます。菊池家が断絶したために途絶えてしまい現存せず、筑紫舞との関連は謎のままですが、光寿斉さんの伝承している「翁の舞」の能のような幽玄さというところに、肥後の「山の能」とを結ぶ微かな可能性を感じます。

菊池家は能面を使い、検校の伝える筑紫舞は能面を使いません。理由があってのことだそうです。肥後国誌には17世紀に旧菊池郡の隈府で山の能を伝承していた座中が、能面は自分たちのものだと主張し裁判になったが解決したと記録されています。その後菊池家滅亡に伴い山の能は消滅したと。菊池と菊邑。何か関係があるのでしょうか。

ちなみに菊池家の家紋は鷹羽紋です。ここにも高木神が現れましたね。もとは日足紋だったのが、12世紀頃、夢に阿蘇の神が現れ鷹羽紋を与えられたそう。能面を霊宝として祀っていた北宮神社は、ちょうどその頃に阿蘇大明神を勧請しています。戦国時代では家紋を変える時、血筋が変わるということもきっかけになるらしく、実は出雲伝承では菊池家は出雲忍者の出身だったと。楠木正成と親戚であり、分家子孫には西郷隆盛も。例えば鷹羽紋に通じる血筋となってから菊池家の「山の能」が始まったとして、それが出雲忍者(山伏)であるとか?「山の能」という名前に山伏や洞窟の舞を連想しますね。

【補足】菊邑検校は「面を付けて舞うのは技量が足りないからであり、演じる者が神になりきれば面など必要ない、祓えには必要ない」といった趣旨のことを言われています。鈴鹿千代乃氏は人形や面は、穢れをそれらに吸収させ自らには受けまいとする防護であり、筑紫くぐつ舞は素面で、命懸けで祓えの芸を演じた人々であって、それが能面を使わない理由だと言われます。

 

翁の舞に戻ります。名告りの様子と光寿斉さんに教えた人を記します。昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の後、翁の舞の稽古が始まり、全国から光寿斉さんのもとへ次々と教えに来られたそうです。翁の舞を教わった人は必ず次世代の人に伝えておかなければならず、受け取った人は何十年先であっても、いつでも舞えるようにしておかなければならいのだと。)

肥後の翁はどっしりと総大将のように「われは肥後の翁」と名告ります。検校とケイさんが教えました。

加賀の翁はさわやかに「加賀かんがの翁」と。富山の人だったのではないかと。

都の翁は水のような透明感をもって性別もなく「都の翁」と。伊勢から来た人ではないかということです。

五人立では出雲の翁が加わりますが、大国主のように袋を担ぐような格好をして「われは出雲のオーキナにておじゃる」と機嫌をとるように(へつらうように)名告ると、ぺこっとお辞儀をします。検校は大国主ではないと言ったそうですので、出雲王国滅亡後の出雲国造家(ホヒの子孫)を表しているような。出雲から来た人だったようです。

難波津より上りし翁は大和か難波かわかりませんが、あえて「より上りし」と説明が加えられ、水をかき上げるような中腰になってチョンチョンと出てきて名告ります。筑紫のほうが上であることを婉曲な表現で伝えているのかもしれません。西宮神社の近くから来た人で「えべっさんにお参りして、百太夫さんにご挨拶して来ました」と言われたそう。

七人立尾張の翁は「われこそは尾張の翁」と淡々と落ち着いて。愛知県海部郡津島町から来た人でした。

夷の地より参りし翁は軽々と鳥飛びで現れ「夷の地より参りし翁」と左右をキョロキョロ見ます。群馬県から来た「ケノのシロミさん」と呼ばれていました。毛野でしょう。

十三人立については、光寿斉さんは昭和11年の奉納舞で一度見ただけとのことです。この舞はその時の奉納舞を仕切る役の人への労いのものらしく、他と違って砕けた雰囲気で、光寿斉さんは習わずじまいでした。中心はタカクラの翁(アサクラかも)。他に吉備の翁、熊野の翁、オオエの翁、酒匂カニの翁、機織りの長、です。この13人とオトという女役で舞われます。

オオエの翁は大江山酒呑童子の伝承を語ってくれたそうで、丹後ですね。タカクラは高倉、紀伊でしょうか。吉備については地域によって、検校が神様の向きが違うと言って奉納を避けたところがあったようです。

この翁の舞に歴史が刻まれているかもと想像すると、ミステリーの謎解きのように引き込まれてしまいませんか。

 

鈴鹿千代乃氏は昭和52年頃から光寿斉さんより伺った話を記録しておられ、十三人立の熊野の翁については平成4年になってようやく思い出されたそうです。それに伴い、肥後の翁を中心とした舞だけでなく、奉納する土地によって中心となる翁が変わるということも思い出されました。長くなるので省きますが、伊勢神宮、出雲、尾張での奉納舞も伝承されています。

鈴鹿氏、古田氏と光寿斉さんの縁がなければ、筑紫舞についてこれほどの内容は記録されなかったのではないかと思います。両氏に出会われたことで多くの記憶が蘇り、昭和11年の洞窟舞の場所も探し出すことができました。筑紫舞というあまりに膨大な内容を、少女一人の身にたった11年間で授けられた特殊な状況を想像した時、現在しっかりと次世代に継承されているこの奇跡の陰に、光寿斉さんを初め伝承に関わる方々のどれほどの努力があったのかと頭が下がります。

 

筑紫舞と安曇磯良

長くなりましたが、最後にSorafullに残されたふたつの疑問について、書き留めておこうと思います。

ひとつは古事記に描かれた、天孫を先導したサルタ彦のその後です。

伊勢の阿邪訶あざかの海で漁をしていたところ、サルタ彦は比良夫ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまいます。その時、三つの御魂が現れました。沈んでいった時に底度久ソコドク御魂が、海水が泡立った時に都夫多都ツブタツ御魂が、泡が弾けた時に阿和佐久アワサク御魂が。

不思議な話です。サルタ彦が海で溺れて三御魂となります。どちらかというと山のイメージがありましたけど。そしてヒラブ貝という貝は存在しないそうです。貝とは女性のホトを指すらしく、サルタ彦がアメノウズメに溺れたという解釈が多いようですが、漢字を見ると阿曇比羅夫(比良夫)や阿倍比羅夫を連想させますよね。2人とも7世紀半ばに水軍を率いて活躍した将軍です。古事記が完成する50年前のことです。

同時代に同じような功績を残した2人が同じ名前というのもまた不思議な偶然。(2人とも斉明天皇の命で百済救援に向かい、間もなく阿曇比羅夫は白村江の戦いで戦死、安部比羅夫は大敗した後のことはわかりません。)あえてこの比良夫という名前を使ったところに、隠された意味があるのかなと勘ぐってしまいます。

古事記の作者はなぜサルタ彦を海で溺れさせ、比良夫貝という架空の貝をその原因とし、そして安曇族の祀る綿津見三神のように海の三御魂を生じさせたのか。まるでサルタ彦を安曇氏、安倍氏に繋げようとするかのように。

 

もうひとつの疑問は、西山村光寿斉さんが最後に伝承したふたつの舞についてです。

「浮神(うきがみ)」は磯良の舞ですが、これを習得する前には「源流翁」という舞を先に学ばなければならないそうです。源流翁とは「都の翁」のことで一人立です。この舞は一生に一度だけ、しかも50歳を過ぎなければ舞ってはならない、そんな決まり事があると。

最も大事な舞が磯良舞であるなら、その前に習得しなければならない、一生に一度だけ舞うものとはいったい何なのでしょう。都の翁とは誰なのか。

磯良舞についてはこの記事に書いています。

 

検校自身はこのふたつの舞を光寿斉さんに伝えるつもりはありませんでした。舞う機会はないからと。まわりの者がそれでもと頼み込んだことで、光寿斉さんに伝えられたのです。それによって筑紫舞が安曇磯良と結ばれていることが明らかになりました。けれど不思議なのは、筑紫舞を命懸けで守ろうとしてきたのであれば、その中の最も大切な舞をなぜ検校は光寿斉さんに教えようとしなかったのでしょうか。永遠に消滅してしまうかもしれないのに。

春日大社志賀海神社、大分の柞原八幡宮、古表・古要神社にもみられる服属儀礼としての磯良舞は、海人族と八幡信仰が結びついて生まれたものであり、本来の安曇磯良の姿ではないから? 確かに祖先の変容させられた悲しい姿をむやみに舞う必要はないですよね。

それとも傀儡子たちが筑紫舞を継承してきたことで、祖先である安曇磯良を伝え残す術としての磯良舞であり、本質は「翁の舞」にあるのだから、光寿斉さんが筑紫舞として覚える必要はないと考えたのか。もし後者であれば筑紫舞の出発点は海人族⇒安曇族だけれど、しだいに物部の歴史(九州王朝)を反映するものへと変化していったということもあるかもしれません。

ただ、筑紫舞の「祓の力」ということを考えた時、王権やその推移といったことよりも、人々の営みによって生じざるを得ない穢れの浄化や鎮魂が、筑紫舞本来の存在意義だったのではないかと思えるのです。翁について「日本に48州あればそのすべてに翁がいる」と検校が言ったそうです。神に近い存在である翁がその土地の穢れを祓うための舞であったのでしょう。だからこそ翁の舞は神に奉げる神舞ではなく、穢れをわが身に受けるくぐつ舞なのでは。

検校の残した言葉に触れていくと、王権というよりも民衆に寄り添い生まれたものが筑紫舞の土台にあるような気がします。そして体制の外側に生きる者たちによって掬い上げられた滅びの歴史が、必然として舞の中に織り込まれていったのではないでしょうか。

 

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菊邑検校の話をもうひとつだけ。

地唄舞の中では曽我物語だけがタブーのようになっていて、光寿斉さんが頼んでも曽我に関わるものは絶対に教えてくれなかったそうです。このことは、以前は6世紀末に物部氏蘇我馬子に滅ぼされたからかと思っていましたが、それより前の磐井の反乱と称して継体天皇蘇我王朝)によって九州の勢力は最終的に抑えられ、大和朝廷に飲み込まれていったこともあるのかなと思うようになりました。

 

さて、N様から頂いたご質問から始まった「宮地嶽古墳の被葬者とは誰か」を探る旅は、方々へと寄り道をした結果、謎を残したまま一旦終わりを迎えることになりました。ですが新たな発見がとても多く、今回チャレンジする機会を与えて下さったN様に、心から感謝しております。

そして迷走ばかりの長文の連続にお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。

 

参考文献(大元出版の出雲伝承以外)

「よみがえる九州王朝」「古代の霧の中から」古田武彦

「市民の古代」第11集、第12集、新泉社

神道民俗芸能の源流」「穢れと芸能(論文)」鈴鹿千代乃著

記紀万葉の新研究」尾畑喜一郎編より「筑紫舞聞書」鈴鹿千代乃著

 

【皆様へ】コメントを送って下さる皆さま、本当にいつもありがとうございます。頂いたコメントでこちらから紹介させて頂きたい場合もあるのですが、もし非公開を望まれる内容がございましたら、ひと言添えて下さると助かります。今回もS様より嬉しいご報告を頂けたのですが、ご紹介してよいのかどうかわからず控えさせて頂きました。よろしくお願い致します。