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源流なび Sorafull

オオタタネコと美具久留御魂神社

中西・秋津遺跡

先日、弥生時代前期最大の水田跡が見つかったとの報道がありました。奈良県御所市の中西・秋津遺跡です。

2009年から調査が始まっていたようで、当初は古墳時代前期(4世紀前後)最大級の祭祀集落跡として発表されました。当時の中心地であった太田村の纏向からは15㎞南西に位置していますが、一豪族のものとは考えにくい規模であり、初期ヤマト政権による宗教都市ではないかという見解だったようです。その後水田跡が徐々に見つかって、今回の調査結果を合わせると43000㎡となり、地形を考慮すると総面積10万㎡以上になる可能性もあるとのことです。東京ドーム2つ分?

緩やかな傾斜地を利用しての灌漑設備を伴う広大な水田が、この時期にはすでに作られていたことがわかりました。

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遺跡の場所を見ると、出雲族と海村雲率いる秦族の連合国が誕生した地域になりますね。村雲は初代ヤマト大王

火雷神社は村雲たちの住んだ笛吹の高尾張村に鎮座しています。鴨都波神社、一言主神社は出雲の富家分家の登美家。御歳神社、高鴨神社は出雲の神門臣家分家が創建したということです。登美家はやがて三輪山磯城地方へ移住し、海王朝が2代続いた後の磯城王朝となっていきます。

大陸からの水稲技術を広めたと考えられる海村雲ですので、ここに広大な水田があったことに繋がりそうです。

ただし発掘調査では水田の時期としては約2400年前と言われています。出雲族が葛城地方に移住してきたのは、伝承によると紀元前200年頃のことです。200年の差を誤差として捉えていいのかどうか。

  

大田田根子は太田タネヒコ

続いて、今回もコメントの紹介をさせて頂きます。

前回の記事に、神社での参拝の作法は通常は2拍手ですが、出雲大社宇佐神宮弥彦神社だけは4拍手だと書きました。

T様より、大阪府富田林市の旭ヶ丘に鎮座する美具久留御魂みぐくるみたま神社も4拍手だという情報を教えて頂きました。この辺りは登美家分家の大田田根子オオタタネコの本拠地であったろうと。

 

富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、記紀大田田根子の本名は「太田タネヒコ」だと出雲旧家では伝承されているそうです。纏向の太田村の地名となった人物です。出身は和泉国の陶村すえむらあたりで、自身が創建した陶荒田すえあらた神社堺市)がそこに鎮座しています。今もそこは「太田の杜」と呼ばれているようです。

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そして斎木雲州氏の著作の中では八咫烏とは登美家本家の賀茂建津乃身だと記されていますが、こちらの伝承では太田タネヒコだとしています。大彦勢が大和から去った後、大和を統一できるのは物部勢だと見抜き、軍を熊野から磐余へと導いたというのです。太田タネヒコは本家の登美姓を名乗ったので、物部軍は太陽信仰を持つ鳶とびとして「黄金色の鳶」と呼んだのだと。(金鵄)

※斉木雲州氏の示す登美家系図とは一部違っています。

物部勢が磐余にやって来ると、登美本家の人々は北方へ逃げ、一部は奈良市の登美ヶ丘や山城国南部へ移住しました。そして代わりに太田タネヒコが三輪山へ進出したということになります。

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美具久留御魂神社の近くには富美ヶ丘、陶荒田神社の近くは登美丘という地名が残っていて、ダンスで話題となった登美丘高校もこちらにあります。富田林の富も?

太田タネヒコは朝日の昇る三輪山へと向かって出世していったようですね。
 

さて美具久留御魂神社ですが、延喜式内社とされ、境内には裏山古墳群があり4基の古墳が残されています。社伝では崇神天皇の御代にこの地に大蛇が出たため、天皇大国主命を祀らせたことに始まるそうで、主祭神大国主命の荒御魂となっています。(東の三輪山には大物主の和御魂が祀られています)

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ご本殿と上拝殿。

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下拝殿。

大田田根子といえば記紀の中で、崇神天皇の時代に疫病が大流行し、天皇の夢に大物主神が現れ「我を大田田根子に祀らせよ」とのお告げがあったため、大田田根子を探し出して三輪山の祭祀をさせたと記しています。それまで三輪山の司祭者は姫巫女たちでしたが、この時から男性に変わりました。大神神社の初代神主、三輪の大王です。

そして魏志倭人伝に記されたいわゆるヒミコ(伝承ではモモソ姫)の祭祀を補佐し、身の回りの世話をした人物が大田田根子だと伝承は云います。斎木氏はモモソ姫は大彦の妹としていますが、「出雲王国とヤマト政権」では旧家の伝承ではモモソ姫は太田家の娘と伝わっており、タネヒコの姉ではないかと。

以前からどうして突然大田田根子がこのような重要な地位に就いたのかと不思議でしたが、この人こそが物部軍を磐余へ導いた八咫烏なのだとすれば納得です。親戚内の勢力争いがあったというわけです。

注)記紀では崇神天皇の御代としていますが、崇神天皇とされたイニエ王は九州から出たことはないということです。

 

美具久留御魂神社の名前の由来ですが、ご神託の言葉の中の「山河の水泳みくくる御魂」(山から流れ出た水を分配する神様)からつけられたと社伝にはあります。

横道に逸れますが、珍しい名前だったので他の地域にもみられるのかなと調べたところ、少し似た名前の神社が淡路島にありました。伊勢久留麻神社です。敏達天皇の580年頃に伊勢鈴鹿市久留真神社から勧請したと伝えられており、久留真神社は延喜式内社で大国主を祀っています。(伊勢久留麻神社の主祭神は大日孁貴オオヒルメムチ

出雲族は大和地方に移住した際、伊勢にも進出しており、最初に創建したといわれる鈴鹿市伊勢国一宮、椿大神社つばきおおかみやしろは出雲の出雲井社から幸の神を遷し、サルタ彦大神を祀っているということです。遷した人は後に伊勢津彦と呼ばれました。社家は宇治土公ウジトコ家で、皇大神宮儀式帳(804年に提出された伊勢神宮内宮の儀式帳)には「伊勢内宮の大内人(神官)の宇治土公氏の祖は大田命」と記されています。

久留真神社の現在の宮司は太田氏のようですが、子孫の方でしょうか。淡路のほうは継承者が途絶えているとの情報が見られました。

 

 

さて、参拝作法の「4拍手」の話に戻ります。

出雲大社の説明によると、最も大きな祭典である5月の例祭では8拍手をするそうで、8は無限の意味をもち、神様をお讃えする作法だということです。通常はその半分の4拍手となります。8は出雲の聖数ですね。伊勢神宮神職の方が行う祭祀の際には8拍手ということですが、一般の方は2拍手。熱田神宮も8拍手です。

この3社は三種の神器と関わりがあります。出雲の八尺瓊勾玉伊勢神宮八咫鏡熱田神宮の叢雲剣。

伝承によると、もともと出雲では「2礼3拍手、祈りの言葉、4拍手1礼」だったそうで、3拍手は出雲の聖数であり、神霊が目覚める合図だったそう。4は「おしまい」の「終」の意味。

そもそも「2礼2拍手1礼」が広まったのは、明治に制定された神社祭式行事作法に始まります。それまでは多種多様な作法であったそうです。ほとんどの神社が昭和に定められた2拍手に従う中で、8拍手や4拍手にするというのは、それなりの理由があることなのかもしれませんね。

4拍手の出雲大社宇佐神宮弥彦神社、そして美具久留御魂神社。北から越地方、大和地方、出雲地方、北九州地方として見てみると、古代に栄えていた地方を代表しているように思えてきます。そしてそれぞれに出雲の血筋であるようです。宇佐家伝承によると、ウサ族の母系祖神は市杵島姫、つまり出雲の宗像三姉妹。弥彦神社は大彦の子孫の可能性も高いかなと考えています。美具久留御魂神社は太田タネヒコの領地のようなので事代主の子孫となります。

 

太陽の道・レイライン

今回三輪山二上山そして伊勢と話が出たので「太陽の道」について少し。

奈良盆地では春分秋分の日に三輪山から日が昇り、二上山に沈んでいきます。多神社から臨む朝日は三輪山の頂上から昇り、桧原神社から眺める夕日は二上山の雄岳と雌岳の間に沈むそうですよ。大和三山を見渡せる雄岳の頂には、謀反の疑いで自害させられた大津皇子のお墓があるともいわれ、夕景は彼岸への入り口を思わせるとも。

三輪山二上山北緯34度32分の緯度線上にあります。この東西のライン上に多くの神社などパワースポットが並んでいるというミステリー。東の端は伊勢斎宮跡(さらには伊勢湾に浮かぶ神島)、西は淡路島の舟木石上神社へ。(この神社は伊勢久留麻神社の近く)

これが太陽の道・レイラインですが、三輪山の太陽信仰を考えれば、三輪山を中心として自ずとそうなったということだろうと思っていました。二上山はたまたま三輪山と東西に並んでいただけですしね。ただ今回太田タネヒコのことを調べたことで、面白い繋がりが見えてきました。

次回、太陽の道から浮かんでくる太田氏、舟木氏を探ってみたいと思います。