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源流なび Sorafull

太陽の道⑴伊勢久留麻神社とイザナギ大神の道

淡路島へ行ってきました。

前々から気になっていた五斗長垣内ごっさかいと遺跡と舟木遺跡を目指します。1~3世紀の鉄器工房が現れたというかなり興味深い場所です。

その前に、前回記事の伊勢久留麻神社が近かったので、先にそちらを回ってみました。 

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東向きの拝殿です。昔は来馬大明神と呼ばれていたそうです。

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ご本殿。創祀年代は不詳ですが、社伝によると敏達天皇の頃(572~585)に伊勢国の久留真神社より勧請されたとあります。

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東を向くと鳥居の先に小さく海が見えています。古代は目の前に海が広がっていたでしょう。(昔は少し内陸にあった可能性もあるそう)

実は前回記事で大阪、富田林市の美具久留御魂神社のことを教えて下さったT様より、この旅の後に再び貴重な情報を頂きました。

 

久留麻周辺の神社は愛宕山神奈備/ランドマークとしているように思われるとのこと。以前は山頂に大きな三本松が立っていて、そこに愛宕神社の祠が祀られていたそうです。虫被害で松が伐採され、近年麓のショウキさん(場所がわかりませんでした)の祠の横に遷されたと。

そういえば久留麻神社の境内にも愛宕社の祠がありました。

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久留麻神社からは愛宕山の方角に伊弉諾神宮があります。久留麻神社から見ると、夏至の日没は舟木石上神社の方角に、冬至の日没は伊弉諾神宮の方角になるそうです。反対に舟木石上神社からは冬至の朝日が、伊弉諾神宮からは夏至の朝日が久留麻神社の方角から昇るのだとのこと。

そして伊弉諾神宮から久留麻神社に向かってイザナギさまが延々と鎮座しているそうで、なんとそのずっと先の尼崎市吹田市イザナギ神社等もあって、このライン上の要所要所にお祀りされているようです。

由緒を調べてみましたが、尼崎市伊邪那岐神社はわかりませんでした。

吹田市の伊射奈岐神社は佐井寺と山田の地に並んで鎮座しています。延喜式神名帳には摂津国島下群に伊射奈岐神社二社とあります。

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佐井寺社。

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山田東社。

佐井寺社は、雄略天皇22年に豊受大神丹波国の真名井原より伊勢外宮に遷座した翌年、天照の神託を受けた倭姫の教えによりイザナギイザナミ両大神を「佐井が原」に祀ったのが始まりであるとしています。その後イザナミ大神を東北の地(山田)に遷座し姫宮とし、本社を奥宮としたそうです。山田東社の由緒には後から分かれたということは記されておらず、山田の地名は伊勢山田(外宮の地)から付いたとあります。

「佐井が原」とは幸の神のサイでしょう。すぐそばに「佐井の清水」という泉があったことを示す碑が建っています。東隣は摂津三島。事代主の妃、活玉依姫(玉櫛姫)の実家である大豪族三島の領地です(摂津国から山城国西南端まで)。東奈良遺跡からは銅鐸の鋳型が出土しています。事代主亡き後、活玉依姫と息子のクシヒカタ(天日方奇日方=天の奇しき力を持つ太陽を祭る人。出雲の太陽信仰を象徴するような名前ですね)が出雲の人々を連れて三島に里帰りしたので、そこは富家の領地のようになりました。摂津は出雲連合国に。ここから大和へ最初に移住したクシヒカタは、三島の人々も大勢連れて行ったといいます。

その後も物部勢に追われた大彦や尾張氏も、摂津三島へ避難のため移住したり、さらに後継体天皇(富家次男)も越前から大和の大王になるためやって来た際には三島氏の協力を得ようと、その地に近い淀川と木津川の分岐点に楠葉ノ宮を建てました。高槻市の樟葉です。このように摂津三島の地というのは、古来より出雲王家の富家と深い関わりがあるのです。

また、この夏至の朝日のラインを北東に向かってもっと伸ばしていくと、なんと諏訪大社に行き当たります。富家事代主の御子、建御名方富彦=諏訪大明神です。ここまでくると「まさか~」と苦笑い。ところが、滋賀県多賀大社がこのライン上にあると気づき、多賀大社といえば古事記写本のひとつに「イザナギ大神が坐すのは淡海の多賀」とあって近江を示しています。ただし日本書紀には「淡路の洲くにに幽宮をつくり」とあるため、海と路の誤写であって多賀とは淡路島であろうと考えられています。その多賀大社イザナギ尊、イザナミ尊を祀る)が伊弉諾神宮と夏至の朝日のラインで繋がっています。

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多賀大社 Wikipediaより

古事記以前はこの地の豪族、犬上氏の始祖を祀っていたという説もあるようですが、詳しいことはわかりませんでした。

多賀大社の南方に別宮、胡宮このみや神社が鎮座しており、イザナギ尊、イザナミ尊を祀っています。神体山の青竜山頂上には磐座があって、この巨石信仰が起源といわれています。敏達天皇の勅願所であり、多賀大社奥の院となる聖徳太子創建の敏満寺の鎮守社として栄えたそうです。もし古事記以降に多賀大社の祭神がイザナミ尊、イザナギ尊になったのだとしても、巨石信仰がこの地に根付いていたのであれば、古くは出雲族の存在があったことが伺われます。

多賀大社には「御烏喰おとぐい神事」と呼ばれるものが伝わっており、祭りの前には本殿脇の先喰台の上に神饌のお米をお供えし、神饌に穢れがなければカラスが啄むということです。この神事は熱田神宮や広島の厳島神社でも行われるそう。これって東北の農家で収穫を占う「カラス勧請」ですね。以前の記事「お正月の源流」で紹介しましたが、インド(タミル族)のお正月の風習と共通するひとつです。

調べてみると、伊弉諾神宮を基点とする夏至の朝日のラインには、出雲族が関わっているところが多いことが見えてきました。

このライン上ではありませんが、海中の夫婦岩で有名な伊勢の二見浦には、出雲系の二見輿玉おきたま神社が鎮座し、サルタ彦大神が祀られています。

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Wikipediaより

左の三角の岩が女神、右手が男神。しめ縄は縁結びをしています。この神岩を遥拝するために神社が設けられたのが始まり。昔は伊勢神宮の参拝前にこの海で禊(沐浴)をするのが慣わしだったそう。現在も夏至祭では夫婦岩の間から昇る朝日を参拝しながら禊をするようですね。夏至の前後2週間ほどは遠くに見える富士山の頂から朝日が昇るのだと。この写真もよく見るとダイヤモンド富士。まさに神々しいです。

淡路島の伊弉諾神宮から諏訪大社へと続く夏至の太陽の道を見てきましたが、やはり太陽信仰に基づいた意図を感じさせます。まさかとは思いつつも、古代の人々の信仰心を理解するには、遺されたものを拾い上げていくほかありません。

 

長くなりましたので、次回、伊勢久留麻神社の北側に位置する松帆神社と、淡路国一宮、伊弉諾神宮を紹介します。