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源流なび Sorafull

船木氏⑴朱砂と製鉄と

 

 

伊勢と淡路島を結ぶ「太陽の道」に関わっていると思われる、船木氏の足跡を辿ります。まずは文献に記されたところから。

 

古事記で船木氏と関連のあるところを取り上げると、

神武天皇の皇子、神八井耳命は伊勢の船木の直らの祖。とあり、多氏と同祖となる神八井耳命の後裔としています。出雲では海村雲とタタラ五十鈴姫の御子といわれます。

②ヒコイマスの孫の曙立アケタツは伊勢の佐那の造らの祖

③手力男は佐那の県にいます神

 

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多気多気町の佐那は伊勢船木氏の本拠地といわれます。天手力男命は内宮の相殿に祀られる神さま。天照大神スサノオの傍若無人ぶりに嫌気がさして岩屋戸に籠ってしまった際、岩戸を開けて世界に光を取り戻したのが手力男神岩戸開きの神さまです

船木⇒佐那⇒手力男神、という流れがあるようなのですが、その出所がわかりません。後ほど書きますが住吉大社神代記の中に、船木氏の祖先のひとりが「伊勢の船木に在る」と記されていて、船木の地名が残るところは南西の度会わたらい大紀町になります(瀧原宮の近く)。古くは多気郡に属していたようです。

多気町の仁田に鎮座する佐那神社では、天手力男命と曙立王命が祀られています。ヒコイマスは磯城王朝10代大王。曙立王は出雲伝承では第2次物部東征で西出雲王国を倒した将軍の1人であり、登美家の分家だといわれます。

「佐那」の名前の由来は、佐那神社の近辺で銅鐸が出土しており、銅鐸の古語「サナギ」からではないかといわれています。出雲では銅鐸の形が蛹に似ていたからそう呼んでいたと。「サナグ」と変化している地名もあります。

摂津国の三島の話を大田田根子の記事で書きましたが、この三島にも「舟木」の地名が残り佐奈部神社が鎮座しています。中世の水害などで由緒がわからなくなってしまいましたが、周辺の神社の祭神などから一帯は古代鍛冶集団がいたと考えられているようです。(舟木を取り巻く地名を眺めていると、歴史が見えてくるようで面白いです。五十鈴町に鎮座する溝咋神社、玉櫛、砂鉄を採る「真砂」、沢良宜さわらぎ(銅器の村の意)などが密集し銅鐸も出土しています。もう少し北には太田、登美の里、さらに北側には大彦が安倍と名乗る由来となった阿武山も)

丹後国風土記では天の羽衣の話として、竹野郡舟木の里奈具社に鎮座した豊宇賀能売トヨウカノメ命(豊受大神)のことを伝えていて、奈具社は伊勢外宮の元宮となります。奈具社はもしかすると「サナグ」?

伊勢の佐那神社、摂津の佐奈部神社、丹後の奈具社。

 

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一方、平安時代に津守氏によってまとめられた住吉大社神代記には「船木等本記」という項もあり、船木氏は住吉大社の創始に関わったことが読み取れます。住吉大社神職を務め、造船も担っていました。船木氏に関わるところを取り上げます。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖、大田田神なり」とあり、船木氏の祖は天照大神を祭祀する大田田神、つまり大田田根子と考えられます。三輪山は事代主の御霊である大物主神を祀り、また三輪山から昇る朝日を太陽の女神(幸姫命)として参拝してきました。代々磯城家の姫巫女が司祭者(初代はタタラ五十鈴姫)でしたが、物部東征後に男性司祭者、大田田根子に変わります。「出雲王国とヤマト政権」ではタタラ五十鈴姫は太田家の娘で、太田タネヒコ(大田田根子)は弟と考えられると記しています。

さらに「大田田神の作った船二艘を後代の験しるしのために生駒山の墓に納め置く」とあります。(長屋墓に石舟、白木坂の三枝墓に木舟)

まるでクフ王の「太陽の船」みたいですね。こちらは二艘とも木船ですが。

播磨国明石郡に船木村(船木連宇麻呂)、黒田村(船木連鼠緒)、辟田村(船木連弓手)があり、それぞれ船木氏の所領があったようですが、住吉大社に寄進しています。

船木村は現・明石市船上町で淡路島の対岸に位置し、すぐ東には伊弉諾神社、伊弉冉神社、岩屋神社が並んで鎮座しています。黒田村、辟田村は現・垂水区にあったようですが、地図では見つけられませんでした。

垂水のわたつみ神社は、神功皇后三韓からの帰路で住吉三神を祀ったのが始まり。地図を見ていると、五色塚古墳は船木氏と関わりがあるように見えてきますね。

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播磨国賀茂郡椅鹿はしかには大田田命と御子の神田田命の所領が9万8千余町ありました。神功皇后の時住吉大社に寄進し、その後大社の造宮料になったそうです。椅鹿山の材木は東条川から加古川を使って運ばれたのでしょう。(出雲伝承では太田タネヒコの息子は大御食持オオミケモチ神部ミワベ大王と呼ばれていたそうです。)

また三木市は最古の金物の町といわれますが、古くは神功皇后の頃、志染しじみに渡来系鍛冶職人を連れてきたといわれています。丹生山、帝釈山(主に銅の鉱山)で採掘し、志染川明石川は運搬路であったと思われます。

神功皇后熊襲新羅征伐の際に、船木氏が大田田命所領の山の樹を伐って船三艘を造り、神功皇后住吉大神の部類神、日の御子神、大田田命と神田田命を乗せて渡ったとあります。神々を乗せた御船です。

そしてこれらの船を武内宿祢に祀らせ、紀国の志麻社、静火社、伊達社の前身となりました。住吉大社摂社の船玉神社は紀国ではこの三社となるようです。

また船木連宇麻呂等が新羅征伐の時に船を献上したことにより、船木、鳥取の二姓を賜りました。

さらに各地の船司、津司を任命され、但波、粟、伊勢、針間、周芳の五ヶ国の船木連となります。

大田田命から続く系譜も記されています。曾孫の伊勢川比古命イセツヒコ伊勢の船木に在るとしています。瀧原宮の近くの船木村でしょうか。

また兄弟に木西川比古命キセツヒコがいて、子は越の国へ移住、孫たちは越国君となっています。その子孫の中に彦太忍信命ヒコフツオシノマコトの娘(の子孫のことでしょう)を妻とした者も見え、皇族の血筋となったことが記されています。出雲伝承では彦太忍信は磯城王朝8代クニクル(孝元)大王と物部の姫の皇子であり、紀国の山下陰姫(高倉下の娘)との間に初代武内宿祢をもうけています。

※以前の記事「弥彦神社と伊夜比咩神社」で、越後国弥彦神社にはなぜか天香山命が祀られており、もとの弥彦大神とは大屋彦=五十猛なのか出雲の大彦なのかと疑問が残りましたが、対となる能登の伊夜比咩神社の祭神は大屋津姫となっていて、五十猛と大屋津姫の組み合わせは紀伊の樹木神。キセツヒコの子孫が越国君となっていたわけですし、能登には船木部がいたことも文書にあり(平城京跡の出土木簡)、船木氏が紀伊との繋がりから樹木神(五十猛、大屋津姫)や造船の神(イタテ神=五十猛)を祀ったのだとすれば不思議ではないと思われます。

つまり船木氏は三輪山の太陽神を祀る大田田根子を祖にもちながら、磯城王家と物部の血筋も入り、紀氏とも親戚になるわけです。最強の氏族ですね。そして神功皇后の時代に船を造って献上したことから船木の姓を名乗ったということです。

古事記の記述と併せると、伊勢にはふたつの系統の船木氏がいたことになります。

神八井耳命は海村雲とタタラ五十鈴姫の御子であり、五十猛(香語山)と事代主の血筋。

大田田根子は事代主の御子、天日方奇日方(登美家)の分家。

どちらも事代主の富家ということで、同族として船木氏を名乗ったのでしょうか。

 

伊勢川比古イセツヒコについて出雲伝承では伊勢津彦椿大神社に幸の神を遷した人」といわれています。椿大神社の社家は宇治土公家で祖は大田命(登美家分家)ということなので繋がりますね。

この椿大神社の北東、四日市には神八井耳命を祀る耳常神社、太おおの神社が鎮座。耳利神社(菟上神社に合祀)は舟木大明神と呼ばれていたようで、耳常神社ともに船木直の子孫が長く祀ってきたそうです。銅鐸も出土しています。出雲族の居住地に多い「朝日」という地名もみえます。

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住吉大神を祀る神社の中に「紀伊国伊都郡丹生川上社、天手力男意気続々流住吉大神」と記され、紀伊国神名帳にも「正五位上天手力雄気長足魂住吉神」とあります。息長垂姫(神功皇后)を彷彿とさせる名です。

また播磨国風土記逸文には、神功皇后新羅征伐に向かう際、邇保都ニホツ姫/丹生都姫(丹=朱砂の女神)が現れ、私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろうと言って赤土(朱砂)をお出しになったので、それを武器や船、軍の着衣などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代之峯に祀ったとあります。呪術と船の防水・防腐剤として朱が使われています。※播磨国の丹生神社は地図に記しています。

住吉大社宮司真弓常忠氏は著書「古代の鉄と神々」の中で、藤代の峯を今も丹生神社が複数鎮座する伊都郡高野町大字富貴ふき筒香つつかに比定しています。富貴ふきはタタラ炉の火を吹く「フキ」であり、筒香、管川つつかわはシャフト炉型タタラ炉の筒であると。(シャフト炉とは地形を利用した筒状の炉体が煙突の役目をするもの。)藤代の峯とは、鉄穴かんな流しで砂鉄を採る際に使う筵むしろの材料が藤蔓つるであり、材料としての藤代だろうと。ニホツ姫の鎮座地なのに製鉄の話になっていますね。造船には材木だけでなく、鉄、朱砂が必要ですから。

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真弓氏は「天手力男意気続々流住吉大神」を祀った場所が藤代の峯であるとし、住吉大社神代記にはその後のこととして、住吉大神播磨国に渡り住まんと言われたので、丹生川上から移ったと記されています。(なので現在、住吉大神は祀られていません。紀の川周辺には多いです。)

真弓氏は「この時、船木直が関わっていたと伝えられている」といわれます。また、播磨の加古川から明石にかけての海辺は、中国山地から流れ出た砂鉄の宝庫だったそうですよ。完全に船木氏の領域です。

朱砂の研究家である松田壽男氏の著書「古代の朱」でも、藤代の峯については筒香を比定地としています。古代の朱産地であり、紀の川に入る丹生川の発源地帯でもあります。富貴から東の山筋を越えた五條市にも同名の丹生川があり紀の川(ここでは吉野川)に合流します。つまり藤代の峯は分水嶺でしょう。

8世紀に書かれたとする「丹生大明神告門のりとには、最初に丹生都姫が天降ったのは伊都郡庵太村(現・九度山町慈尊院)とし、その後川上の水分みくまりの峯(藤代の峯でしょう)に移り、さらに大和など転々とした後に天野社(紀伊国一宮丹生都比賣神社)に鎮まったと記しています。この丹生都比賣神社は空海高野山を開く時に、土地の神であるニホツ姫(丹生都姫)から神領を譲られたので、先にここに祀ったと伝えられています。

ニホツ姫が最初に天降ったという庵太村は、現在の高野口にあり、古くは舟木山の麓でした。ここは丹生川が紀の川に注ぐ地点。つまり庵太村と藤代の峯は丹生川で行き来できるということですね。そして紀の川の河口には、静火社、志摩社、伊達社が鎮座しています。新羅征伐の際に船木氏の献上した3艘が武内宿祢によって祀られたところ。

これらの話をまとめてみると、最初はニホツ姫は舟木山の麓に降臨しましたが、住吉大神が来られる際に藤代の峯に上ります。その後住吉大神はさらに砂鉄が豊富な播磨国へと移動。丹生神社だけが残りました。これらすべてに船木氏が関わっていたこととなります。

そして住吉大社神代記には、播磨国の明石郡、賀茂郡紀伊国伊都郡にすでに船木氏の勢力があり、また伊勢、越にも及んでいたことが書かれているわけです。

 

次回、神功皇后以前の船木氏の足跡を辿ってみたいと思います。

 

※大昔、火山活動によってできた熱水鉱床(銅、鉄、鉛、亜鉛、金、銀など)の中で、熱水が動く過程で水銀や朱砂(硫化水銀)が生成されるそうです。なので鉄と朱砂は隣り合わせともいえるのでしょう。色も似ていてややこしいです。出雲伝承では朱砂については、遺体の防腐剤として使われたことに触れられているだけです。 

 

参考文献及びWebサイト

真弓常忠著「古代の鉄と神々」

松田壽男「古代の朱」

田中巽「住吉大社神代記について」

神奈備にようこそ~布奈木の郷