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源流なび Sorafull

船木氏⑵大和姫と岩戸開き

 

  

大和姫の御巡幸

日本書紀では崇神天皇の時、宮中にお祀りした天照大神の勢いを畏れ、宮中から大和の笠縫村へ遷し、娘の豊鋤入姫に祀らせたとあります。御神宝の八咫鏡ですね。その後垂仁天皇の娘、大和(倭)姫が受け継いで、天照大神の鎮座地を探しながら伊勢内宮へと辿り着きました。(大和姫はヒバス姫の娘なので登美家の血筋です。)

記紀に描かれた天照大神岩戸隠れとは、大和から伊勢へと遷座するのに要した期間のことを表していると思われます。当時、第2次物部東征によって大和は混乱の中にあり、磯城王朝の御神宝を安全な場所へ避難させようとしたのが始まりだったようです。

御巡幸の中で天照大神は各地で祀られました。その場所を元伊勢と呼びます。その行程が日本書紀に少しと、皇太神宮儀式帳や倭姫命世記に記されています。

倭姫命世記が一番詳しいのですが、鎌倉時代に書かれたらしく、後世に話が追加されたものと考えられています。ところが出雲伝承には、志摩国伊雑宮で井沢富彦の助けを得たという話が伝わっており、このことは倭姫命世記にしか書かれていません。ですので注意はしつつ、船木氏と接点のあるところを参考にしていこうと思います。

 

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大和姫一行は伊賀、近江を経て、元伊勢のひとつ、美濃国伊久良河宮いくらがわのみやに留まりました。揖斐川沿いの天神神社(岐阜県瑞穂市居倉)と、長良川沿いの宇波刀神社(安八郡安八町森部)が有力な候補地としてあがっています。

天神神社の横手には犀川(幸川?)が流れ、境内には御船代石があり、天照大神の神輿をここに安置したと伝えられています。けっこう段差がありますね…。周辺は禁足地でした。

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瑞穂市のホームページより 御船代石

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宇波刀神社社殿 Wikipediaより

以前は天神神社の近くに船木村(現・美江寺地区)があったようです。ここから北へ3㎞ほどいくと船来山古墳群本巣市)があります。3~7世紀まで続いた東海地方最大級の古墳群。船来山からは縄文~弥生土器も出土しています。

290基からなる古墳群で、武器や装飾品など多く出土し、珍しいものでは雁木玉という模様の入ったガラス玉も見つかっています。

古い和歌をみると「舟木の山」と記されています。この規模と年代から、ここは船木氏の本拠地であったと思われます。

下図は中部地方整備局の学習支援冊子からお借りしました。古代の濃尾平野が海だったことを示しています。

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地図の「岐阜県」と書かれたあたりが伊久良河宮で、現代よりはかなり海に近かったようです。左下の「三重県」に重なっているのが員弁川。船木氏が祀っていた耳常神社や太神社は川のすぐ南になります。

 

倭姫命世記では、伊久良河宮から尾張へ向かいます。元伊勢の中嶋宮一宮市のいくつかの神社が候補地となっています。ここで美濃国造と美濃県主から計3艘の御船を献上されています。

中嶋宮から少し離れますが、春日市にも船木の地名がありました。神領町庄内川沿いにある貴船神社境内から銅鐸が出土し、その地名が尾張国山田郡船木郷でした。

大和姫は続いて伊勢へと向かいます。船旅です。元伊勢をいくつも経たのち、宇治土公家の祖、太田命の勧めによって五十鈴川のほとりに天照大神を祀りました。

出雲伝承では伊勢市猿田彦神社は、垂仁天皇の時に三輪神社の太田氏が祀ったといいます。その近くに天照大神も祀って伊勢の内宮ができたのだと。

大和姫の船による御巡幸を支えたのが、船木氏ではないかという説があります。美濃国造らが献上した御船は、美濃に拠点を置く船木氏の造ったものでしょう。

ご神宝が長旅の末に無事、伊勢内宮に鎮座した時、世界はようやく光を取り戻したことになります。天照大神の隠れた岩戸を開けたのが手力男神。船木氏が祀るといわれるのもそこに由縁があるのかも。

 

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倭姫命世記では瀧原宮へも向かっています。

地図の左下、瀧原宮の近くに船木の地名が今も残っています。三瀬谷、三瀬川という地名もあって、3つの川が合流するところだったのでしょう。今はちょうど船木で宮川と大内山川が合流し、瀧原宮のほうへ進むと熊野灘への近道となります。

瀧原宮は内宮の別宮(天照大神の遙宮とおのみや)で、大和姫が使用した御船を納める御船倉が併設されています。船木村の近くに瀧原宮があることは何か意味があるような。

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右が瀧原宮、左が瀧原竝宮 Wikipediaより

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若宮神社の御船倉(左)Wikipediaより


倭姫命世記には、大和姫が宮川を渡ろうとするも流れが速くて困っていると、真奈胡神が現れ助けてくれたので、御瀬社を建てたとあります。それが多岐原神社だといわれています。この真奈胡神は土地の神であるとしか伝わっていないようです。

また同書には、大和姫が大神に供える神饌を採るための御贄地を探しに志摩国へ行ったときのこと、真名鶴がしきりに鳴くのを不思議に思った大和姫が使いの者を行かせると、そこに稲がよく実った田が広がっていたので、そこを千田と名付け、近くに伊雑宮いざわのみやを建てたとあります。伊雑宮も遙宮と呼ばれます。

順序が逆になりますが、伊勢国でも御饗を奉る神が現れ、真名胡の国と名乗ります。

「マナコ」という言葉が気になり調べてみると、千葉県南房総に残る言い伝えでは、丹生氏の長の名を「まなこ長者」というそうで、富浦町手取地区の神社の社名、聖真名子神社として残っています。近くに丹生の地名もあります。富浦町から北東の鴨川上流にかけては古代朱産地であったそうです。(松田壽男著「古代の朱」より)

丹生氏はその氏族名が現れる前からの存在と思われるので、ここでは朱砂、水銀に携わる人々を丹生族として呼びます。

朱砂や水銀は金銀並みの価値ですので採掘者は大金持ち。九州の朱産地、大分にも「真名野長者伝説」があり、丹生族の存在が伺われます。

また富浦町の手取と居倉を合わせて鶴鳴地区と呼ぶそうで、居倉は山宮神社の大山祇命(クナト大神)を祀っています。居倉という名も岐阜県の伊久良河宮の比定地、居倉と重なりますね。

もうひとつ、栃木県の栃木市西方町に「真名子地区」があり、ここには「八尾比丘尼伝説」が伝わっています。この伝説は多くの地域にみられますが発祥は福井県小浜のよう。小浜も古代朱産地。

昔、朝日長者の娘が不老不死になる貝を誤って食べてしまい、18歳の姿のまま800歳まで生き、巡礼の旅に出て、福井の小浜で自ら入水し果てたというお話です。※事代主のご遺体が見つかった出雲の粟嶋の洞窟(静の岩屋)にも、八尾比丘尼が祀られています。

真名子、丹生、長者、不老不死。これらの伝説は丹生族の採掘する朱砂(水銀朱)を象徴しています。そして鴨川、大山祇命、朝日など、出雲族の気配もありますね。

古代において最大の朱産地は大和ですが、伊勢もそれに匹敵します。多気には丹生神社がありますので、丹生族が関わっていた時代があったのでしょう。志摩国多気から少し離れますが、伊雑宮の「千田ちだ」は、もとは朱砂の赤土を表す「血田」だったのではないかとさえ思えてきます。ついでに想像をたくましくすると、丹波の真名井原の「マナ」も何か丹生族と関わりがあったのだろうかと気になり始めました。ここも元伊勢ですからね。

倭姫命世記には後世に付け加えた話が盛り込まれていたのだとしても、伝説や例え話として挿入することで、逆に本質を突いている可能性もあるかもしれません。なぜ大和の次は伊勢だったのか‥‥。

 

住吉大社宮司の真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」には、大和姫の御巡幸地はいずれも古代の産鉄地であるとして、各地の現地調査もされています。実際に鉄が認められるところだけでなく、製鉄にまつわる神が祀られていたり地名から伺えるところなども含めてですが。伊勢の五十鈴川の河口に近い二見浦の海岸では、たくさんの砂鉄が採取されたそうですよ。出雲族の祀る二見輿玉神社がありましたね。

その他にも伊久良河宮の前に滞在したという琵琶湖北東岸の坂田宮については、この付近は息長氏の本拠地であり、古代産鉄地の中心地であったとのこと。息長氏は製鉄で勢力を強めたといわれます。越前日本海岸から美濃、近江にまたがる伊吹山系に広がる地域に、飛び石のような脈絡をもって丹生の地名が点在し、それらをつないで古代産鉄地があるそうです。

酸化鉄(ベンガラ)の赤がこちら。

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青森県赤根沢の赤岩 Wikipediaより

そして朱砂の赤がこちら。

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徳島県若杉谷採集の辰砂(朱砂)鉱石 淡路島日本遺産展資料より

写真なので色合いはそのままとはいきませんが、ベンガラのほうが現代の私たちの朱色のイメージに近いと思います。けれど古代に神聖な色として尊ばれた赤とは、朱砂、水銀朱の赤です。

真弓氏は丹生という地名は、赤土=褐鉄鉱、赤鉄鉱の色からきているといわれ、同時に朱砂も採れるという捉え方です。あくまで鉄が主役です。であれば大和姫の御巡幸は古代の朱砂産地を巡っているとも言えるような。さらに言えば大和姫の兄、景行天皇による土蜘蛛征伐を先住民の鉱山採掘の利権を朝廷のものにしていった話だと考えると、大和姫の御巡幸もまた、祭祀場にふさわしい土地=朱砂の豊富な土地、水銀鉱床を探す旅という面を持っていたのかもしれないと感じ始めています。

さて、伊吹山と息長氏というと、ヤマトタケル伊吹山で猪神と対峙するシーンを思い出します。

山の神である猪は息長垂姫(神功皇后)。出雲伝承では神功皇后成務天皇の后であったと伝えます。そして伊吹山ヤマトタケル成務天皇を例えていると。つまり新羅を攻めよとの神の言葉に従わず、突然崩御されたのは、仲哀天皇ではなく成務天皇であったということになります。たしかに高穴穂宮は琵琶湖の西南。日本書紀でも成務天皇の事績はほとんどなく、あっけないほどの文字数です。(仲哀天皇は九州の一豪族だったとのこと)

ついでになりますが、琵琶湖にも船木の地名は残っています。西岸の高島市安曇川町船木、南東岸の近江八幡市船木町。どちらも中世には船木関(湖上関)として機能していますが、もとは造船用木材の集材地だったそう。どちらの隣にも加茂の地名や神社がみられます。一帯は息長氏の地盤だったわけですし、三韓征伐の前から関係はあったのかもしれません。製鉄と朱砂が船木氏と神功皇后を結びつけているようにも見えてきます。

 

次回、出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を追ってみたいと思います。