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船木氏⑶伊雑宮と伊射波神社、ふたりの女神

 

 

出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を見てみましょう。

斎木氏と勝氏の伝承が多少違います。斎木氏はサホ姫が太陽の女神を伊勢へ避難させたとし、勝氏は大和姫です。斎木氏の著書の中には大和姫としている記述もあるので、ここでは大和姫の伝承を紹介します。

まず大和の笠縫村の桧原神社で豊来入姫(トヨ)が月読の神を祀っていましたが、豊国軍が劣勢となり大和を追われ丹後へと逃げます。そして舟木の里に奈具社を建て、さらに日置の里の宇良神社(浦嶋神社)へ。そこから伊勢の椿大神社へ避難しその地で没します。豊来入姫は箸墓古墳の東隣り、ホケノ山古墳に葬られたと伝わっているそうです。

その後、大和姫が奈具社に奉仕するようになり、月読の神に加えて太陽の女神を祀ります。そこから宇良神社に移りましたが、朝日信仰のため東を目指し伊勢へと向かいます。(サホ姫は大和から丹後へと太陽の女神を避難させていたのかも)

大和姫は信者を増やすために伊勢の各地を転々としました。さらに志摩国へ行き、出雲系の伊雑宮いざわのみやの社家、井沢富彦(登美家出身)の協力を得て伊勢国五十鈴川のほとりに内宮を建てたということです。大和姫は最初の斎宮となりました。

亡くなった後、ご遺体は三輪山の賀茂家に送られ、太田の箸墓古墳に埋葬されたと伝わっているそうです。舟木石上神社と伊勢を結ぶ「太陽の道」の上には、斎宮跡と箸墓がありましたね。この時代に斎宮がそこにあったのかは不明ですが、歴代斎宮は神島から昇る朝日を参拝していたのかもしれません。

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 伊雑宮は出雲から勧請されたと考えられています。出雲には粟島坐伊射波いざわ神社があったそうで、粟島とは事代主が枯死されたところです。

伊雑宮志摩国一宮ですが、鳥羽市にも志摩国一宮伊射波いざわ神社があり、井沢富彦も祀られています。なぜかふたつの一宮があるんです。

伊射波神社の鎮座地は安楽島あらしま町。粟島あわしまにそっくり。昔は伊雑宮磯部町から安楽島町までの地域を粟嶋と呼んでいたそうです。事代主(八重波津見)を偲ぶ国なのですね。

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伊雑宮本殿 Wikipediaより

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伊射波神社の一の鳥居 加布良古崎 Wikipediaより 小さな白い鳥居です。

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伊射波神社拝殿 Wikipediaより

この伊射波神社と伊雑宮を結ぶかのように加茂川が流れ、河口近くには赤崎、そして船津とあります。「船」は古くは「舟」であり、「丹」の誤記から「舟」に変わることがよくあるそう。丹生⇒舟生。

例えば、福井県鯖江市の舟津町は古くは丹生郡に属し、もとは丹津でした。丹津神社は現在の舟津神社と比定されていますが、ここは大彦を祀ります。出雲伝承では大彦の支配地のひとつです。社伝によると、サルタ彦大神が現れ「我をここに祀れば、剣に血塗らずして賊を平らげることができるだろう」と言ったとあります。似た言葉があったなと思ったら、日本書紀で「新羅を攻めよ」と神功皇后を通してなされたご神託の中に「よく我を祀ったなら、刀に血塗らずして服従させることができるだろう」とありました。ニホツ姫は「赤い浪の威力で平定されるだろう」と言っていましたね。

蒲池明弘著「邪馬台国は「朱の王国」だった」は松田壽男氏の研究を受けて、古代の経済や王権の推移を「朱の視点」から捉えることを試みられた内容となっていますが、蒲池氏は先の日本書紀とニホツ姫の言葉から、これを非暴力による勝利を示すとし、朝鮮半島との交易を背景とすれば朱と水銀を輸出品とした商談の可能性があるとみておられます。鯖江市舟津神社のサルタ彦の言葉も、血ではなく朱の獲得による勝利を意味していると考えれば、この地に朱産地があったことがみえてきます。

話が遠回りしましたが、加茂川河口の船津はもとは丹津の可能性があり、赤崎は赤土が見えていた土地だったのかもしれません。であれば南の伊雑宮の千田ちだはやはり血田でしょうか。鳥羽市志摩市では明治になってマンガン鉱山が次々と発見され、採掘が行われていました。金やマンガンの鉱山には朱の鉱脈もあり、朱が尽きると金やマンガン鉱山として採掘されることが多いそうですよ。

 

さて、地図の右上に神島があります。ここは淡路島の舟木石上神社と伊勢を結ぶ太陽の道の東の端。こうして見ると出雲族と関わりがありそうな場所ですね。伊勢湾の入り口を守護する島にも見えます。

神島で元旦に行われる「ゲーター祭」という奇祭が有名らしいです。大晦日の夜にアワと呼ばれる太陽をかたどった直径2mほどの白い輪を作ります。元日の夜明け前、東の浜で島中の男性たちが竹竿を持ち、一斉にアワを刺すように突き上げ、そして落とします。どのような意味があるのかはわからないそうですが、女神と男神の神事でもあるような。

 

一方、豊来入姫のその後も伝えられています。

サルタ彦を祀る鈴鹿市椿大神社に豊来入姫が保護を求めてきたそうです。宇佐から来たので「ウサ女メ」と呼ばれていたのを「ウズメ」と変えて、目立たないようにしてかくまいましたが、垂仁天皇の刺客によって暗殺されたということです。

 

 伊雑宮天照大神を祀りますが、実は伊射波神社の祭神は稚日女尊ワカヒルです。出雲伝承では豊来入姫のこと。

日本書紀では神功皇后に「新羅を攻めよ」とご託宣した神様は、「五十鈴の宮の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒御魂)」「尾田の吾田節の淡郡に居る神」「事代主」そして「日向国住吉三神」とありますが、「尾田(加布良古)の吾田節(答志郡)の淡郡(粟嶋)」とは伊射波神社の地を指しています。そして遠征から帰還した神功皇后に再びご託宣があり、先の神々をそれぞれ指定された地に祀ります。伊射波神社の稚日女尊摂津国の生田神社(神戸市)へ。つまり生田神社の前の鎮座地が伊射波神社だったのです。

志摩国のふたつの一宮神社では、出雲の太陽の女神と、月神を祀る豊来入姫をそれぞれお祀りしていたということになります。逃げてきた敵方の豊来入姫(三国志魏書ではヤマタイ国の王に指名)をかくまった上にお祀りまでしています。

鈴鹿市伊勢国一宮、椿大神社では伊勢で太陽の女神が復活したことを喜び、「天の岩戸開き」の話を作って、初めて神楽を上演したと言われています。ウズメノ尊は暗闇の中、岩屋の前で太陽の女神に向かって胸を露わにして踊りました。これは磯良舞や隼人舞と同じく、服従の舞と考えらえます。椿大神社の社家は登美家分家、大田命を祖にする宇治土公家でした。伊勢においては物部と豊国(いわゆるヤマタイ国)の月神は、出雲の太陽神に服従したということになっているようです。もちろんここでも別宮の椿岸神社でウズメノ尊をお祀りしています。

岩戸を開けた手力男神は、この時、同族の船木氏を重ねて描かれたのでしょうか。

(九州筑紫舞の菊邑検校は、アメノウズメの舞が私たちの筑紫舞のもとですと言われたそうです。リズミカルな足使いのことを指しているとは思うのですが、やはり磯良舞と重なり、言葉の奥に潜む悲しみを感じずにはいられません。)

また古事記には、岩屋の前で「大きな賢木さかきを根から引き抜いて、八尺瓊の勾玉と八咫鏡を掛け」た根つきの賢木を捧げ持って祈ったとありますが、これは第1次物部東征で大和に侵攻してきた物部軍と協調することを選択したモモソ姫が始めた、新たな祭祀方式であるといいます。過去の記事から抜粋します。

《(モモソ姫の)祭りには物部氏の方式が一部入っていたそうです。榊を根から抜き取って(幸の神)、枝に神獣鏡(物部の道教。ここでは裏の光るほうを参拝者に向ける)を付けます。幸の神では鏡の丸い形は女神、木の根は男性のシンボル。男女の聖なる和合です。モモソ姫の兄、大彦は物部嫌いのために鏡はいっさい持たなかったそうですが、大和に残ったモモソ姫は物部と協調する道を選んでいったのかもしれません。

物部勢の大和侵攻による争乱のあと、モモソ姫の三輪山の大祭によってようやく大和は統一へと向かうことになります。オオヒビ大王や物部の武力よりも、モモソ姫の祭祀力、宗教力を支持する人々が多かったようです。その結果、第1次東征をした熊野系物部勢もしだいに磯城王朝にとりこまれていきました。》

物部勢と大和は宗教戦争のような状態に陥っていたので、モモソ姫は両者の思いを立て、このような方式(苦肉の折衷案)を生み出したのでしょう。

コメントを下さったT様は、このことが太陽の女神の依代に鏡が用いられた端緒になったのだろうと言われます。賢木に太陽の女神の御霊を取り付けて⇒「撞賢木厳之御魂つきさかきいつのみたまであり、このような祭祀方法を生み出したモモソ姫やそれを継承した姫巫女たちが、伊勢内宮の荒祭宮廣田神社天照大神荒御魂であり、三輪山の登美の霊畤を奪われ大和を追われ、遠く離れた田舎へと追いやられた⇒「天疎あまさかる、向家/富家(登美家)の姫巫女たち⇒「向津媛命」ではないかと言われます。これは納得です。

荒魂とは神様の荒々しい側面ですが、勇猛で決断力があり、新しく事を生み出すエネルギーを内包し、かつ忍耐力があるといわれます。天照大神の荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは不思議な表現だと思っていましたが、モモソ姫の決断と、その後の太陽の女神の伊勢へのご遷座を背景とともに考えると、まさしくそのものという感じです。

ただ「撞」という漢字は突く、当てる、ぶつけるなどの意味であり、鐘を撞くという時に使われます。出雲では銅鐸を木の枝などに吊るし、鈴のように鳴らしてお祀りしていたので、そこに鏡を重ねるイメージで「撞」の字が当てられたのかな、などと想像しています。

さらにT様は銅鐸は鈴とも呼ばれていたので、五十鈴とは銅鐸をたくさん(五十、伊)所有するという意味があり(タタラ五十鈴姫とは、タタラで作った銅鐸を数多く所有する姫を意味します)、イザナギとはイ(たくさんの)サナギ(銅鐸)の意味ではないかとも。これは私もこのところ考えていたことでした。

3世紀半ば、東出雲王国が物部軍に占領され王宮(現・神魂神社)を明け渡しますが、物部王朝は3代で終わりを迎え、王宮も返還されることとなりました。けれど向家が辞退したため、それなら神社にして幸の神を祀ろうと提案され、その際に神の名前は変えることとなり、イザナギイザナミという新たな名前が誕生したということです。出雲王国の始まりの場所で、元敵方の付けた名前です。かつて銅鐸祭祀は物部の侵攻によって終わることを余儀なくされました。王宮返還とともに銅鐸祭祀を出雲族祖神の名前の中に復活させる、そんな粋な計らいであったと思いたいところです。

伊射波神社の稚日女尊、椿岸神社、天照大神の荒御魂、そしてイザナギイザナミ大神の誕生。異宗教間の争いによって生まれた悲しみの中でも、他者への尊厳を失わなかった人々の思いを、ここに読み取ることができるのかもしれません。

 

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ここで伊射波神社の東西のラインを見てみましょう。

まず伊射波神社の西に位置する皇大神宮別宮、月読宮。ここには伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮も並んで鎮座しています。さらに裏参道入口には内宮の末社として葭原あしはら神社があり、伊加利イカをお祀りしています。皇大神宮儀式帳には入田社と記され、入は丹生の変形です。イカリ姫は海村雲の妃で海部氏の祖となる倭宿祢(天御蔭命)の母。倭宿祢の后が井比鹿イヒカ神武天皇が吉野の光る井戸でイヒカと出会います。地名では井光と書いてイカリと読みます。光る井戸とは自然水銀の溜まった井戸と考えられ、朱砂の採掘を行っていた先住民を例えているとも読めます。豊来入姫の出身地、豊国も朱砂の産地です。

丹生(水銀)の女神、丹生都姫はイザナギイザナミの娘とされたり(丹生大明神告門)、稚日女尊と同神で天照大神の妹としたり(丹生都比売神社、日本書紀)。出雲伝承の言うように稚日女尊が豊来入姫なら、出雲の宗像家の姫を母系祖神とする宇佐家の姫なので、血縁としてはすべてを満たすことになります‥‥。ちなみに月読命記紀では天照大神の弟です。

とはいえ朱砂はもっと古くから大切にされてきたわけですので、丹生都姫(ニホツ姫)に豊来入姫を重ねたというほうが自然な気はしますが。

月読宮からさらに西へいくと仁田の佐那神社、そして水銀鉱山に鎮座する丹生神社。この丹生神社ではミズハノメノ命を祀っていますが、丹生都姫がのちに変化した神さまといわれます

このライン上には砂鉄というより、朱砂の匂いがぷんぷんします。

 

まとめ

船木氏は御巡幸において表にはまったく現れませんが、近江から美濃、尾張、伊勢に地名としてその名を残し、美濃国造らの献上した3艘の御船の造り手として存在を感じさせ、また瀧原宮の御船倉近くに舟木村があることなど、御巡幸を陰で支えたという説はじわじわと可能性が高まるように思います。

さらに伊勢から志摩国にかけて古くからの出雲族の存在と、五十鈴川のほとりへ導いたとする井沢富彦、そして倭姫命世記の中で同じ場所を勧めたという太田命など、天照大神の御遷座には出雲登美家が深く関わっていることが伺われます。

それから後の神功皇后による三韓遠征において、3艘の御船を船木氏が献上し、朱く染められた船団が勝利し帰還。その御船が武内宿祢によって紀の川河口の三社に祀られたことは、住吉大社神代記に残されています。

舟木の地名は今回紹介した以外にも、九州から東北に至る各地にまだまだあります。それほどの勢力をもっていた船木氏が正史にはほぼ現れず、なぜか幻の氏族のひとつとなってしまいました。

 

ここで淡路島の舟木遺跡にもどります。

舟木遺跡は2世紀半ばから3世紀前半までとされています。倭国大乱から第2次物部東征までということになります。舟木石上神社近くからも祭祀用の土器が出土しており、同時代に磐座信仰もなされていたと思われます。

船木氏の祖である大田田根子は、第1次物部東征後に三輪山の神官となりました。ということは船木氏はそれからずっと後に現れてくることになり、舟木遺跡が使われていた頃とは時代が違います。なので舟木という地名がついたのは、後世のこととなってしまうます。

もともと出雲族が播磨から淡路島に住んでいたけれど、物部軍がやってきたことでいったん離れ、美濃国で力をつけた一族(のちの船木氏)がその後の大和姫御巡幸や神功皇后の時代に勢力を伸ばし、再び淡路島から播磨へ戻ってきたという流れでしょうか。

ですが舟木の地名は伊勢の佐那、三島の佐奈部にもあり、これは銅鐸祭祀が行われていた時代です。第1次物部東征以前です。また丹後の奈具社も舟木の里ですが、ここは大田田根子の時代です。

例えばですが、登美家の中に舟木と呼ばれる舟を作る集団がいて、彼らは同時に材木、鉄、朱を探します。なので大和だけでなく各地を巡ります。朱は金と同じ価値がありますので富も手に入ります。のちに彼らは造船業を広く担うようになり、日の神をのせた御船も造ったことで、大田田根子神八井耳命の子孫だといわれるようになった。同じ登美家ですから。なので物部東征以前に彼らのいた地域には、舟木という地名が残っている。

というような可能性はないでしょうか。

 

船木氏の足跡を辿ることで見えてきた歴史の側面は想像以上に深く、同時に新たな疑問も次々と生まれました。そしてなぜ正史から消えてしまったのか、謎はさらに深まります。

 

年内最後の記事も長くなってしまいましたが、今年も「SOMoSOMo」にお付き合い下さった皆さま、コメントを届けて下さった皆さま、本当にありがとうございました。

佳い新年となりますよう、心よりお祈り申し上げます!