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源流なび Sorafull

朱の国 ⑻古代出雲の医学

 

 

 日本書紀に描かれたホムツワケ伝承をみてみましょう。

《 30歳になっても物言わぬホムツワケが、ある時クグイ(白鳥)が空を飛ぶのを見て「あれは何者か」と言われた。天皇は喜ばれ、クグイを捕えて献上せよと申され、鳥取造の祖が追いかけて出雲で捕らえた。》

古事記と同様、ホムツワケの治癒に出雲が絡んでいます。

谷川健一氏は古代出雲に白鳥に対する信仰や伝承があったとみておられます。また東北の安倍一族(出雲富家分家)にも白鳥信仰があったとし、その上に物部氏の持ち込んだ白鳥伝説が重なり融合したとのこと。

残念ながら出雲伝承に白鳥の話はありませんが、鳥居の中央の縦の木片は婿を表し「鳥」と呼びます。女性の象徴である鳥居に婿が飛んでくるように祈ったのだと。男性の種水を白で表すので白鳥?

そういえば出雲の中海周辺には今もコハクチョウが飛来します。

 

古代出雲の医学

古事記日本書紀尾張国風土記でホムツワケの病を治すのは出雲の神。出雲国風土記のアジスキタカヒコも大国主の祈願によって治りました。出雲では罹患しても治癒させる力があります。

日本の最古の薬物治療の記録がみられるのは、古事記因幡の白兎です。大国主が傷ついた兎を「蒲がまの穂」で治療しますが、これは「蒲黄」という生薬で今も傷口や火傷に使われています。

また、大国主が大火傷を負った時には赤貝と蛤の女神が遣わされ、ふたりの作った火傷薬で生き返りました。貝やカニから得られるキトサンは炎症を抑え、人工皮膚の材料にもなっています。鳥取には赤貝の殻と蛤の身をすり潰した火傷の伝承薬があるそうです。

風土記には大国主と少彦名が諸国を巡りながら温泉療法や酒造りを伝えたことが記され、日本書紀にはこの二神が天下を造られる際に、人民と家畜のために病気治癒の法を定め、また鳥獣や昆虫の災いを除くためのまじないの法を定めた、とあります。まじないとありますが、これは朱砂を使ったのでは?

出雲国風土記に記された草木112種のうち薬草は61種。朝廷にも納められていました。奈良時代の厚生省(典薬寮)は出雲臣が担当し、平安初期の最古の医薬書「大同類聚法」は出雲広貞、安倍真直らによって編纂され、出雲の神にまつわる薬や国造家に伝わるものが多数を占めているそうです。

崇神天皇の御代に大物主神が疫病を鎮めたことから、大神神社と荒御魂を祀る狭井神社で「鎮花祭」という祭祀を行うよう大宝律令に定められました。春の花びらが散る頃に活動する疫病神を祓い鎮める神事です。今も医療や製薬業の方が多く参列し、薬まつりとも呼ばれているそうです。

大阪で製薬会社が並ぶ道修町に鎮座する少彦名神社は江戸時代創建ですが、こちらも医薬の神さまとして信仰されています。1822年にコレラが流行した時には薬種商仲間で和漢薬の丸薬を作り、少彦名神社で祈願し無償で配布。効果が高かったといいます。古代中国の医薬と農業の神、新農炎帝も祀られています。

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今ではビルの谷間に鎮座する少彦名神社 

このように出雲族には医療に結びつく話が多いのに比べ、天孫族は占いや祈祷ばかり。そして疫病や祟りが起こるといつも出雲大神頼みで、大和政権には医療の力が描かれていません。徐福は道士だったので薬草には強いかと思われますが、物部には呪術的な印象しかないですし。

 

話を鉱毒に戻します。出雲の皇子アジスキタカヒコと物部の皇子ホムツワケの違いは、出雲のように朱砂そのものを利用していた時代と、火を使って水銀を精錬した時代の違いを区別して描いていると読めなくもありません。ただし日本での水銀精錬はおそらく6世紀以降ですのでホムツワケの話は時代も違い、後代に大和政権の象徴として挿入されたということになりそうですが。

 

運命の赤い糸

最後に古事記に描かれた、出雲と「赤」を結びつける話を紹介します。

崇神天皇の世に疫病が猛威をふるった際大物主神(出雲大神)天皇の夢の中で「大田田根子に我を祀らせよ」と告げました。現れた大田田根子が自分は大物主神と活玉依姫イクタマヨリヒメの子孫であると名乗ります。そして三輪山で大神を祭り、他の神々も社を定めて祀ると国は安らかになったと。この活玉依姫大物主神の馴れ初めがここで語られます。

《 大変美しい娘がいた。その娘のもとに、比類ないほど容姿や身なりの立派な若者が夜中に訪ねてくるようになった。互いに惹かれ合い、夜の間だけともに過ごすようになると、間もなく娘は子を身ごもった。娘の両親が怪しんで問い詰めた。娘が若者の素性はわからないと言うと、両親は次のように教えた。

赤土を床の前に撒き散らし、麻糸を針に通して殿方の衣の裾に刺しなさい」

娘はその通りにして、朝になって見てみると、麻糸は板戸の鍵穴を通り抜けて外へと出ていた。枕元の糸は、糸巻きに三巻だけ残っていた。糸を辿っていくと三輪山に至り、神の社に着いた。それでお腹の子は神の子であることを知った。

糸巻きに三巻だけ残っていたから、その地を名付けて三輪という。大田田根子は神みわの君、鴨の君らの祖である。》

出雲といえば縁結びの神さまで有名ですが、運命の赤い糸もここに始まるのかもしれませんね。

出雲伝承では大物主は事代主であり、妃は活玉依姫(別名・玉櫛姫、三島溝杭姫、勢夜蛇多良姫)。その娘がタタラ五十鈴姫で、大和へ移住した後、初代大和王の海村雲の后となります。記紀では神武天皇の后となったイスケ依姫にあたります。そのイスケ依姫の出自は次のように語られます。

《 三島溝杭の娘、勢夜蛇多良姫セヤダタラヒメは大変美しく麗しい娘だった。三輪の大物主神が見惚れてしまい、娘が厠で用を足す際に、丹塗りの矢に姿を変えて、娘のホトをぐさりと突き刺した。娘は驚いたけれどその矢を持って床のそばに置いておくと、矢はたちまち麗しい男に変わり、二人はすぐに契りを交わした。そして生まれたのがイスケ依姫である。》

大物主神=出雲大神と赤土、丹塗りの矢。そして病を治し疫病を鎮める力。それぞれのエピソードは物語に他なりませんが、作り手の中にある出雲大神に対するイメージが、ここに表現されているのだろうと思います。

 

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朱の国⑺沈黙の皇子、アジスキタカヒコとホムツワケ

 

 

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生まれつき話すことのできない皇子がふたり、同時代に編纂された書物に記されています。要約します。

 

出雲国風土記仁多郡、三津の郷

神大穴持命大国主の御子、アジスキタカヒコは大人になっても話すことができなかった。大神が夢に祈願すると、翌朝御子は「御津みつ」と言った。そして外へ出て水が湧き出る泉を指し、その水を自ら体に浴びて浄められた。そのようなわけで、その泉の水は国造が神事前の禊ぎの水として使い始めた。今も妊婦はその村の稲を食べない。

*三津は現・奥出雲町三沢。三津池と呼ばれる泉がある。

*出雲伝承でアジスキタカヒコは高鴨家始祖。大国主(八千矛王)亡き後、クシヒカタを頼って大和葛城へ移住。

 

古事記垂仁天皇

后のサホ姫が実兄との愛を貫いた末、火の中で産み落とした御子ホムツワケを遺し、兄とともに命を絶った。ホムツワケ(火内の意)は生まれつき物言わぬ御子だった。天皇はいろいろなことを試したが効果はなかった。ある日夢に出雲の大神が現れ、我が宮を建てよと告げたので、御子を出雲へ向かわせた。曙立王と菟上王をお伴につけた。奈良山を越える道も大坂山を越える道にも、足の悪い人や目の見えない人がいるだろうからと、紀伊に抜ける道を選んだ。一行は土地土地に品遅部ホムジベを定めていった。出雲に着いて大神を拝み祀ると、御子は話し始めた。その後の御子の話はわからず、天皇の後継者になったわけでもない。

*出雲伝承では垂仁天皇は物部イクメ。サホ姫は出雲の登美家出身。

*曙立王と菟上王は出雲王国を倒した将軍。伊勢の佐那神社(多気町の丹生神社近く)と四日市の丹生川沿いの菟上耳利神社に祀られている。曙立王は伊勢の品遅部の祖でもある。

*品遅部とはホムツワケの養育集団のこととされるが、本来は鉱山の職人ではないか。

*奈良、大坂への道には鉱毒がみられ、同じ朱産地の紀伊は大和政権の力が及んでいなかったため、ここでは区別されたのか。あえて京都に抜ける近道を選ばなかったところに意図がありそう。

 

尾張国風土記逸文、丹羽郡、吾縵あづらの郷

ホムツワケは7歳になっても言葉を発しなかった。垂仁天皇の后の夢にミカツ姫が現れ、私を祀れば御子は話すようになると告げた。神を祀る場所を占うために美濃国の花鹿山に使者を派遣し、吾縵郷とでたので社を建てて祀った。

*出雲伝承ではサホ姫は亡くなっておらず、御子を連れて尾張へ移ったという。

美濃国花鹿山は現・揖斐川町の谷汲山。麓の花長上神社にはミカツ姫が、花長下神社には赤衾伊農意保須美比古佐和気命が祀られ、夫婦神ともいわれている。揖斐川上流は朱砂地帯。

*吾縵郷は現・愛知県一宮市。阿豆良神社にミカツ姫が祀られている。

 

出雲国風土記の「妊婦はその村の稲を食べない」という表現は、親から子へ及ぶ鉱毒を指していると思われます。民俗学者谷川健一著「日本の地名」の中で、アジスキタカヒコと同じ話が三重県四日市市の村にもみられるとあります。そこは江戸から明治にかけての水銀鉱山でした。江戸時代の地誌には「神田を耕す者の子は必ず唖になる」とあり、辰砂や自然水銀が出たとの記録もあることから、谷沢氏は水銀中毒による言語障害を指摘されています。

 

古事記に描かれた火の中に生まれたホムツワケとは、サホ姫の業(業火)を息子に背負わせたかのように描かれていますが、鉱毒ということを頭に置くと「精錬」のイメージも湧いてきます。一方で出雲王国を滅ぼした将軍たちも登場させ、垂仁による物部東征によって祟りが息子を襲い、出雲大神によって許される物語とも読みとれます。

古事記のこの一連の話は意味深な表現が満載です。そのひとつに曙立王が御子のお伴に自分がふさわしいかどうか、呪術を使って占う場面があります。鳥を落として死なせ、また生き返らせ、植物を枯らせては生き返らせ。これはまるで水銀による生命の蘇り、再生を意味しているような。

 

尾張国風土記のミカツ姫とその夫神、赤衾伊農意保須美比古佐和気命とは何者でしょうか。

出雲国風土記の中で赤衾伊農意保須美比古佐和気命はオミズヌの御子とあり、后はミカツ姫だと。出雲伝承王家系図でも「オミズヌー佐和気ー八千矛大国主」と示されています。

一方、アジスキタカヒコの后はミカジ姫と記され、多久の村でタキツ彦を生んだとあります。ミカツとミカジ、一字違いですが、出雲の多久神社のうち一社ではミカツ姫を祀っています。

風土記によれば佐和気命はアジスキタカヒコの祖父、ミカツ姫は祖母ということになります。ミカツ姫とミカジ姫を同一神とする見方もあるようですが、母系で繋がっている可能性が高そうです。(以前の記事では同一神として紹介しました)

つまりホムツワケはアジスキタカヒコの祖母に助けられたのです。これら3つの話の作者たちの中には、もととなる共通のイメージがあったと思われます。

※ミカジ姫が多久でタキツ彦を生んだ話の結びには、日照りが続くときにタキツ彦の御霊に祈ると必ず雨を降らせてくれるとあります。なぜか水の神になっていますね。まるで朱の女神が水の神へと替えられたように。

 

もうひとつ鉱毒と思われる話があります。古事記ではヤマトタケル伊吹山での神との対決の後、疲れ果てながら揖斐川沿いに四日市から鈴鹿へ下ってきます。途中、三重の村で「私の足は三重のまがりの如くで、ひどく疲れ果てた」と言ったのでそこを三重という、とあります。谷川氏はこの村を先ほどの水銀の出た村と推定されています。

また播磨国風土記の賀毛郡の三重の里では、女性が土地の筍を食べると足が三重に折れ曲がったので、三重といったとあります。この隣には品遅部の村があり、鉱山の存在を伺わせます。しかも品遅部の村の起こりは、応神天皇の世に品遅部の祖が2羽の鴨を射たことで土地を賜ったとあります。討たれたのは出雲の賀茂でしょう。

もうひとつ、伝承は特にありませんが国内トップクラスの朱産地、豊後国丹生の郷から南へ、大野川を遡ったところに三重の村がありました。

 

鉱毒について

上記のように書物には言語障害、失明、足の変形、といった症状が示されていますが、実際に鉱毒としてこれらの症状はあり得るのでしょうか。

まず20世紀に起きた公害を見てみると、富山県で発生したイタイイタイ病カドミウムの暴露によって骨量が低下し、骨折しやすくなるため骨の変形が起こったようです。名前の通り痛みが激しかったといいます。鉱山から排出されたカドミウムが川を通じて農地に流れ込んだのが原因とされています。16世紀末に同地で鉱山開発(銅、銀、鉛など)が始まり、小規模だったけれど周辺の農業や飲料水に被害が出たという記録があるそうです。

熊本県で発生した水俣病メチル水銀(毒性の強い有機水銀)が原因でした。神経毒性が強く、四肢感覚麻痺による歩行障害、視野狭窄、運動失調としての言語障害などが現れます。妊婦が摂取すると言語障害の子が生まれることもあると。ただし水俣病は化学工場からの排水で川、海が汚染され、魚介類の中で濃縮されたものを人が摂取したことが原因とされています。自然界の中で無機水銀がメチル化することもあるらしく、その場合も魚から摂取することがほとんどだそうです。化学的に手を加えていないのなら、農作物を食べることでは起こらないように思えますが。

古代は無機水銀である朱砂、自然水銀の採取だったので、毒性は強くはなく、水銀蒸気を吸うことによる弊害がほとんどだと思われます。蒸気が慢性的に体内に入ると貧血、肝臓や腎臓障害、更に進行すると四肢の知覚喪失、精神機能低下が起こるそうです。松田壽男氏は骨ガラミ(骨うずき)のような症状が出ると記しています。足の変形より痛みのよう。

尾畑喜一郎著「古代文学序説」には水銀蒸気を長期間吸入すると、最後は咽喉の粘膜を侵されまともな物言いが出来なくなると云われている、と記しています。

もうひとつ、目の障害は鍛冶職人の職業病でした。片目をつぶって火を見ることや、鉄を打つ時に火の粉を受けて失明することがあると。先述の四日市市の村には、天目一箇神アメノマヒトツノカミを祖とする氏族が住んでいました。金属精錬における目一つの神さまです。

 

水銀の抽出が始まる前の、朱砂を採取するだけの時代に、無機水銀が土壌に含まれているからといって農作物から人体に影響するのかどうか、はっきりと示す資料には出会えませんでした。

けれど長く水銀鉱山に従事している者や、金属精錬によって被害が発生していたことは考えられ、それらを伝承するために説話の形となって残されたのではないでしょうか。

谷川氏はまた、出雲国風土記仁多郡を草稿した主帳ふみひとは品遅部であることを指摘し、仁多郡では良質の鉄を産するとあり、砂鉄を採取し精錬する労働者たちの間でアジスキタカヒコの話は伝承された可能性があるとし、水銀による鉱毒とは区別しています。のちにホムツワケの伝説が出雲へ渡り、主人公の名がアジスキタカヒコに代わったと見るべきであると。

 

次回へ続きます。

 

 

 

朱の国⑹朱の女神、ニホツ姫とニウツ姫(後編)

 

 

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各地のニホ

上記の場所は地質調査の結果すべて水銀含有を認め、朱砂産地であったといえるそうです。

また現在は滋賀、淡路、高知の地名は地図上では消えていました。

ニホ、ニウの分布をざっと見ただけでも、出雲連合国と関連のある地域が多いという印象です。風土記や出雲伝承から、播磨国備前、淡路、四国は出雲と関わりが特に強いですし、山口県の仁保を調べてみると、周防国の一宮から四宮まで出雲系の神が祀られています。仁保周辺に鎮座する三宮の壁神社はアジスキタカヒコノ命と下照姫命(父は大国主)、四宮の田神社は大巳貴命、少彦名命猿田彦命を祭神としています。

高知の仁尾島は今は地名も島もみられませんが、物部川を遡って左岸に中州のように島があったようです。仁尾島の北側には加茂の地名がみられます。物部川というと、出雲伝承では第1次東征で物部軍が一時休憩した場所であり、河口近くの右岸には物部村があります。川の東には香我美の地名もあり、持参した鏡を持って住み着いた人たちもいたと考えられています。物部村近くの田村遺跡からは銅鐸と銅矛(物部)の両方が出土しています。先住の出雲族と共存したようですね。

大分の荷尾杵は出雲の気配はなかったのですが、4~5㎞北東に丹生山があり、ニホとニフ(丹生)が対面して存在していました。松田氏はこういう場所が他にもいくつも見られるといい、水銀鉱床でふたつの民が対面し、それぞれ共存して採取していたと考えられるそうです。豊後国風土記に記された「丹生の郷」もさらに北東へいったところに比定されています。

滋賀の邇保は、倭名抄に記された近江国野洲郡の邇保郷になります。現在の近江八幡市十王町~江頭町あたり。隣の加茂町には賀茂神社が鎮座しています。邇保郷を流れる日野川を上流に辿るとすぐに鏡山があります。山肌には水銀鉱染の土壌が見えるそうです。鏡山の朱砂が日野川に運ばれて河尻に堆積するのを採取したのだろうとのこと。

鏡山の山裾には大岩山古墳や広大な伊勢遺跡など、1世紀末から2世紀末までの弥生遺跡がいくつも見つかっています。当時この辺りでは小規模集落が散在する時代でしたが、突如として大型の祭祀空間をもつ大規模集落が現れたのです。青銅器の製造所もあり、全体でひとつの連合国を形成していた可能性があるといわれています。同時期に大岩山古墳に銅鐸(大型の見る銅鐸)が埋められました。

出雲伝承ではこの地は第1次物部東征後、大彦が大和から逃れてきて王国を築いたと伝わっています。ブログで何度も紹介していますが、大彦は記紀ナガスネヒコのモデル。磯城王朝の皇子であり出雲の富家の子孫で、物部の銅鏡を嫌い、銅鐸祭祀を復活させようとした人です。

 

爾保都比売伝承

ここで播磨国風土記に戻りたいと思います。爾保都比売伝承の発祥地を、松田氏は現在の神戸市北区山田町の丹生神社だと確信しておられます。丹生神社の鎮座する丹生たんじょう山とその周辺一帯は水銀を含有しており、古代朱砂産地だったようです。昔は神社を護持する丹生山明要寺が並んでいました。ここは比叡山系といわれることもありますが、松田氏が調査したところ高野山真言宗に間違いないそうです。そのため山の名が丹生となり、神社の名もニホからニフへと変化したと考えられます。

以前、船木氏の記事の中で、住吉大社神代記には播磨国賀茂郡の椅鹿山に大田田命大田田根子と御子の所領が9万8千余町あり、住吉大社に寄進したと記されていることを書きました。

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出雲の登美家分家の大田田根子大神神社の司祭者です。第1次物部東征の時代の人なので、2世紀には椅鹿山周辺が登美家の所領であったことになります。淡路島にも出雲の銅鐸や朱の付着した石器や木器が出土しており、倭国大乱及び物部東征以前、播磨から淡路島の一帯に出雲族の存在があったことを伺わせます。

播磨国風土記ではニホツ姫を「国を堅めし大神の子」と説明していると最初に紹介しました。その播磨国風土記の中で、

宍禾の郡「伊和の大神が国を作り堅め終えた後‥」

美囊の郡志染の里(丹生山の西隣)「大物主葦原志許が国を堅められた後に‥」

とあり、逸文では「国土を堅められた大神の御子である爾保都比売命」と書かれています。伊和大神、大物主、葦原志許(男)、すべて出雲王を指すので、逸文の大神も出雲王のことでしょう。つまりニホツ姫は出雲王の子と受け取れるのではないでしょうか。もちろんニホツ姫について出雲伝承ではみられませんが

ちなみに出雲国風土記では「天の下をお作りになった大神(大穴持の命)」という表現になります。

 

ニホとニフの使い分けを見てきましたが、松田氏は出雲の話には触れておられません。これはSorafullの解釈です。

 

地名の変化

松田氏の研究では、ニホ系とニフ系を別の集団とします。

ニホ系は仁保、邇保、丹穂、丹保、仁尾、荷尾。

ニフ系は丹生に始まり、二布、壬生、仁宇、仁歩。丹生氏から分かれた集団として大丹生、小丹生(=遠敷)。さらに丹生が「入」に転化して読みがシオとなり、塩と表記されたところもあります。入谷、入野、大塩、小塩、塩荘。

またニホ、ニフ系とは別にニイ系もあるようで、仁井田、仁井野、仁井山、仁田など。これが転化して新山、新田。

誤記としては丹生が舟生、遠敷が越敷に。

 

 

最後に「にほ」という言葉について。

松田氏は「にほ」とは朱砂が穂のように吹きだしている様子だといわれます。

大野晋氏は著書「日本語の起源」の中で、日本の古語「ni」は「土」を意味し、対応するタミル語は「nil-am」で「土、大地」とし、また日本語「Fö」は「穂、花」を意味し、対応するタミル語は「pū」で「花、穂」としています。土の穂、大地の花。

「Fö」は「ふぉ」と「ふぇ」の中間の音でしょうか。現代のハ行の子音は「h」ですが室町時代は「F」。奈良時代以前は「p」でしたので、「ぷぉ」と「ぷぇ」の中間音だったことになります。

出雲の邇弊姫はこの音からきている可能性も?

※大野氏のその後の著書「弥生文明と南インド」では日本の古語「丹穂」はタミル語の「稲積」と同じ意味と述べられています。興味のある方はP.224~を参考にしてください。

 

ちなみに「匂にほふ」は丹穂、丹秀が語源とされ、赤色が際立つ意味だけでなく「鮮やかに色づく」「内面の美しさが溢れ出て生き生きと輝く」という意味も含んでいます。視覚だけでなく、嗅覚にまで訴えかけるほどの美しさが「にほふ」なのです。

よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふが如く いま盛りなり

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高松塚古墳壁画 Wikipediaより

水銀朱は唇、頬、帯、裳(スカート)に使われています。700年頃。 

 

 

 

 

朱の国⑸朱の女神、ニホツ姫とニウツ姫(前編)

 

  

朱について意識し始めたのは、ほんの数年前のこと。古代史に興味がなければ、あまりご存知ない方が多いのではないでしょうか。

三国志魏書の倭人伝に3世紀前半の倭国の風土、風習を記した中で「朱丹を以ってその身体に塗る」「その山には丹あり」とあるものの、記紀ではなぜか一切触れていません。万葉集などの和歌と豊後国風土記にちらりと書き留められているだけです。

 

豊後国風土記、海部の郡、丹生の郷に「この山の砂を採取して丹にあてた。これによって丹生の郷という」とあります。朱の採取が行われている場所を「丹生」と呼ぶことがわかります。

また朱や丹とはっきり書かれてはいませんが、以前の記事でも紹介した播磨国風土記逸文には「朱の女神」らしき話が出てきます。

息長垂姫(神功皇后)の三韓遠征の際に爾保都ニホツが現れ、「私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろう」と言って赤土をお出しになり、武器や船などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代の峯に祀ったと記されています。

ところが実際に紀伊に祀られているのは丹生都ニウツであることから、ニホツ姫とニウツ姫は同神であるということになりました。

また播磨国風土記はニホツ姫を「国を堅めし大神の子」と説明しており、これを後代にイザナギイザナミの子と解釈したため、天照大神の妹神である稚日女ワカヒルメノ尊と同神だと説明されることがあります。ですが「尊」は天孫族を、「命」は国津神を示すことから同一神とすることは無理なようです。

さて、播磨国風土記の話のままに受け取れば、神功皇后の時代にはニホツ姫だったのが、紀伊に祀った際にニウツ姫に変わったことになります。なぜ神名を変える必要があったのでしょうか。何か背景があるはず。

この爾保ニホと丹生ニウについて松田壽男氏は、ニホツヒメ」こそが朱砂の女神の本然の呼び名であったといわれます。しかも神功皇后の時点でニウツ姫に変更されたのではなく、ニホツ姫祭祀は今も存続していると。

注)ここからは氏の著書「丹生の研究」を参照しますが、調査された時とはすでに地名が変わっている場所もあり、その場合は現在の地名を表記します。

 

ニホとニフ

広島市仁保町の邇保姫神社広島県庄原市西城町の爾比都売神社島根県大田市土江町の邇弊姫神は名称や祭神の変化はあれ、すべてニホツ姫を祀っていたことを検証されています。また大和には大仁保神社があったことが三大実録の878年の条に記されており、現在の明日香村入谷と高取町丹生谷に鎮座する大仁保神社のどちらかではないかと言われています。

他に地名としては、

仁保⇒ 周防、安芸、備前、近江

仁尾⇒ 淡路、讃岐、土佐

荷尾杵、荷小野⇒ 豊後

に見られるそうで、上記神社を含めすべての土地が水銀を含有します。

ニホもニウも朱の産出を示す言葉です。ニホとは丹が穂のように吹き出している様子であり、ニフとは丹が生まれる意味であり、ニュアンスの違いですが区別する必要があります。

松田氏の見解では朱砂の産地はニホやニフ(大和と紀伊の国境付近)と呼ばれていたけれど、漢字表記の時代を迎え、「ニフ⇒丹生」という表記が始まり、その辺りで朱砂の採掘に従事していた民が自らの姓を「丹生」とし、祖先神として「丹生都姫」を祀り、彼らが採掘場所を次々と変えていくことで丹生の地名や神社が全国に広まっていったということです。つまりニホという言葉を使っていた民とは別だという話になりますね。ニホが先にあり、ニフが現れ、ニフがより広まった。

「丹」という字の使われ方は特殊で、中国での音は「タン」であり「ニ」という音をもちません。日本語で朱を意味する「に」に対してあえて「丹タン」を選んだのは、水銀朱であることを示すことが重要だったからです。それは中国の「丹」が日本の「に」であることを理解した人たちが、その漢字を選んだということになります。※万葉仮名の最古例は5世紀の稲荷山古墳出土の鉄剣(471年)なので、5~6世紀のことでしょうか。

 

ニウツ姫の変化

ところでこの丹生氏の祀ったニウツ姫は、やがて更なる変化を迎えます。もともと朱の採掘は掘り尽くせば放棄され、新たな産地へと移動します。丹生氏はニウツ姫祭祀を伴いながら全国に広がっていきましたが、移動して時が経てば忘れ去られてしまいます。残された祠には、その土地の暮らしに即した新たな神が迎えられたり、中央から政策として別の神を送り込まれました。

松田氏はまず大和系変化として、水田農耕の発展とともに水の神であるミズハノメ神にニウツ姫は交替させられたといいます。(奈良時代丹生川上神社創建後。日本書紀の神武紀にニウツ姫ではなくミズハノメ神が現れます)

さらに平安期に入ると降雨を支配する中国的な雨師、オカミ神へと転化されました。

また紀伊系変化としては、高野山真言宗が、衰えていたニウツ姫祭祀を結果的に守ったことになると。空海は丹生氏の地盤であった和歌山県伊都郡に、地主神であるニウツ姫を祀り(丹生都比売神社)、高野山金剛峰寺を開きました。密教が水銀を扱うためこの地を選んだといえそうです。丹生神社は全国に160社あり、そのうち和歌山の78社が丹生明神と高野明神を合祀したものだそうです。高野山の勢力拡大とともに丹生神社は各地に進出していきました。

 

丹生氏

丹生氏の出自について松田氏は、家系図を信用しない立場をとられています。一方蒲池明弘氏は、丹生都比売神社の元宮司である丹生廣良氏の著作「丹生神社と丹生氏の研究」に示されたルーツを取り上げておられます。それによると、丹生氏の祖先は伊都国の王族であり、その後主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり、九州に残った一派が大分県の丹生郷(豊後国風土記の)に進出したということです。ただし根拠は不明で、一族の伝承でもあるのだろうかと疑問が残るようですが、興味深い話ですね。

伊都国といえば平原遺跡の王墓から国内最大の銅鏡が5枚も出土、また施朱もみられます。平原以外の墳墓でも施朱や朱の入った壺が出土しています。紀伊伊都郡と同じ「いと」つながり。この話に添うとすれば、丹生氏が紀伊にやって来たのは物部東征の時。2世紀後半か3世紀後半になります。

  

出雲のニホ

さて、ニホツ姫を祀っていたのはどういう人たちでしょうか。手掛かりは先ほど示したニホツ姫を祀っていた神社とニホ(ニオ)の地名です。まずは出雲から。

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地図の左上、延喜式神名帳石見国安濃郡邇弊姫神は、今は「弊」から「幣」へと字が変わっています。祭神もハニヤス姫に変化。松田氏の調査ではこの辺りの土地は水銀を含有しており、実際に静間駅から大田駅の山地は列車の窓からも、水銀鉱染の赤土が見受けられたそうです。

西へ行くと徐福らが初めて上陸したという五十猛海岸があります。これまでなぜ五十猛の地を選んだのかと思っていましたが、出雲は他に朱の産地がないようなので、赤土の存在するこの地を選んだのでしょうか。

地図の右下には佐毘売山(現・三瓶山)がみえ、ここは出雲の幸姫命が籠るとされる霊山です。その山麓に浮布池があり、畔に迩幣姫神が鎮座しています。(松田氏の著書にこちらについての記載はありません。)

祭神は迩幣姫命、配神は宗像三女神。684年の大地震で池ができたと伝わり、静間川の源流となって集落を潤しているそうです。神社は774年に創祀され、土地の産土神として迩幣姫を祀り、また水の神としても崇敬されているといいます。神社の伝承では、長者の娘の迩幣姫が、若者に変身した大蛇に恋をして池に身を投げたのだとか。朱と長者伝説はセットのようですね。蛇は出雲の竜神信仰。

 

次回に続きます。

  

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朱の国⑷みずかねの魔力

 

 

みずかね

岩の割れ目に鮮やかな赤い朱の塊があるだけでも目を引きますが、その表面に銀色に輝くものがコロコロと噴き出している様子には古代の人たちも驚いたことでしょう。流れるように形を変える水銀の姿は、まるで生きもののようです。また比重が大きいため鉄でも浮かせてしまいます。

水銀は常温では液体という特殊な金属。日本では古くは「みずかね」と呼んでいました。(金=こがね、銀=しろがね、鉄=くろがね、銅=あかがね)

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Wikipediaより


ここで化学の実験です。

赤い水銀朱(水銀と硫黄の化合物)を600度で熱すると硫黄が分離して水銀単体となります。次に水銀を300度で加熱すると赤い酸化水銀に変わります。さらに熱すると黒くなり、温度が下がると再び赤くなります。もう一度400度で加熱すると酸化水銀が分解され、再び水銀が現れます。

赤⇒銀⇒赤⇒黒⇒赤⇒銀

黒くなった時点で水銀は一度死んでしまったように見えますが、火を与えるとまた蘇ります。ただし途中の赤色は朱の「硫化水銀」ではなく「酸化水銀」ですが。

生き生きと輝く水銀が一度死んで、再び生命の赤色を経て蘇る、まるで死と再生を繰り返すかのような様子に、古代中国の人々は火の中で不死鳥のように蘇る姿を重ね、水銀を服用すれば不老不死を手にすることができると信じたのかもしれません。水銀の殺菌防腐作用にも効果を見出したと思われますが。

漢の時代以降、皇帝たちは水銀を手に入れることに力を尽くしました。権力を得た者が何よりほしいものが不老不死の薬だったことは、病に対して打つ手のない時代であれば当然かもしれません。

最も盛んになった唐の時代には、丹薬としてこれを飲み続けた皇帝たちが、水銀中毒で6人も亡くなったそうです。古くは秦の始皇帝(紀元前3世紀)も水銀中毒だったのではないかといわれています。

始皇帝は自身の陵墓に帝国の領土を再現して、そこに水銀の川が流れるように作っていたと史記に記されています。地下深くに埋められているので確認はできませんが、陵墓の土壌を調べたところ、中心部に向かって水銀濃度が上がったことから、史記の内容通りであろうと推測されています。だとすると何トンもの水銀が必要だったそうです。

始皇帝がこれほど水銀に執着していなかったら、道士徐福は日本へやって来ることはなかったかもしれませんね。

不老不死を求めた神仙思想は道教に取り入れられ、道教では朱や水銀を使って不老不死の仙薬(丹薬)を作ることを探求しました。これを錬丹術と言います。始皇帝の時代は仙薬は仙人が持っていると考えられていたため、東海の蓬莱山に住む仙人のもとへ徐福を向かわせました。次の前漢の時代には不死の薬を作る試みが始まり、唐代以後まで盛んになっていきます。

 

一方、日本書紀には神武天皇の不思議な魔術が描かれています。

宇陀に侵攻し先住民と戦っている中、夢に神が現れお告げがありました。天皇はお告げ通りに丹生の川上で神事を行うことにします。天の香具山の赤土で皿と壺を作ってお祀りし、そしてふたつの宣言をしました。

①「この皿で水無しに飴を作ることができれば、武器を使わずに勝てるだろう」

②「壺を川に沈め、もし魚が酔って葉っぱのように浮いて流れていくなら、この国を平定できるだろう」

もちろん両方成功するのですが、①は先ほどの化学の実験と同じく、水銀朱を加熱して飴のような水銀に変化させたのかもしれません。「武器を使わずに勝てる」という文句も、ニホツ姫やサルタ彦大神が「刀に血塗らずして敵を服従させる」と言った、朱を匂わせる話の中で使われてきましたね。

松田壽男氏は水無し飴とは、水銀と他の金属の合金であるアマルガム(後述)だろうといわれます。また②はこのアマルガムによって魚を麻痺させたとも。

 

薬としての朱と水銀

水銀には無機水銀と有機水銀があり、毒性が強いのは有機水銀です。水俣病の原因となったメチル水銀や、一昔前に使われた農薬や消毒薬の赤チンなどがあります。

硫化水銀は無機水銀であり、ほとんど無害なのですが、水銀朱を蒸留する際の蒸気が有害となります。水銀鉱山で長く採掘している人は朱からのガスを少しずつ吸うことで骨ガラミ(骨うずき)のような症状が出るそうです。ですが硫化水銀は適量用いるには薬として働き、中医学では最上級の薬です。体だけでなく精神にも効能があるといいます。これを極めれば不老不死を求める道士の奥義、秘術としての仙薬(丹薬)です。

三国志魏書の倭人伝には、倭人が朱丹を身体に塗っていると記されています。魔除けだったのだろうと考えられています。他にも家屋や船の防腐剤、防水剤としても使われ、作物の防虫剤、また器物の朱塗りや衣服の染料にもなり、鏡の研磨剤としても重宝されました。古代には金よりも価値のある鉱物だったのかもしれません。

また中世に流行した伊勢おしろいと呼ばれた水銀の白粉も、シミやソバカスを取り除くとして人気がありました。のちにノミやシラミの駆除、梅毒の薬としても使われました。

  

シッダ医学と水銀

硫化水銀を薬としたもうひとつの古い流れがあります。南インドの伝統医学であるシッダ医学です。ほとんど知られていませんが、北インドアーユルヴェーダ医学やドイツ発祥のホメオパシーの起源といわれます。今も続いています。

佐藤任著「南インドの伝統医学」によると、シッダ医学は薬として金属や鉱物を使用するのが特徴で、中でも水銀と硫黄を重視し、特に水銀を基本鉱物としています。化学と冶金です。「医師は錬金術師の息子である」という格言があるそうです。

水銀を精錬して変性処理し、無毒の金属灰を作り、他の薬種と微量に調合して薬物を作ります。無毒の原子化された灰は同化吸収されやすいのだそう。

シッダ医学は病の予防と治療を行いますが、目指すところは不死の身体を作ることで、医薬と瞑想(ヨーガ)によって生きたまま解脱(悟りを開く)することを目標としています。これって密教ですね。中国にインド密教を伝えた僧はここで学んだそうですよ。なので空海の即身成仏(この身のまま悟りを開いて仏となること)はこれが元ではないかと佐藤氏はいわれます。確かに空海は水銀鉱脈と切り離せません。護摩焚きの灰って本来は薬だった?

 

実はシッダ医学は南インドタミル語圏に伝わってきたもので、発祥についてはいくつか説がありますが、言語学者たちの見解としては、地中海方面から移動してきたドラビダ語族が南インドに定住してシッダ医学を伝えたとしています。つまり出雲族の起源とされるドラビダ人です。ドラビダ人はインダス文明を築いた民族ではないかといわれています。

これまで何度も紹介しましたが、国語学者大野晋氏は、日本語の起源がドラビダのタミル語にもあると指摘しています。また和歌の形態の由来もタミル語の古代詩以外には見当たらないそうです。その古代詩の中に歌われた占いが、万葉人の歌った辻占と同じものでした。(タミルには紀元前2世紀から400年にわたって詩を集めたサンガムという古代詩集があります。)

詳しくはこちらの記事にあります。 

 

シッダ医学は有史以前から伝わっていた最古のインド医学とされ、口伝で伝承されてきたものが11世紀頃にタミル語で記されました。ほとんどが韻文形式で伝えられているそうです。佐藤氏は『韻文自体は平易だが、理解し難い、想像力に富んだ両義性の言語が使用されている』といわれます。なので解読が大変困難で、近年ようやく英訳されたとのこと。

出雲族が紀元前6~前3世紀には行っていたという、王の遺体に朱を注ぎ入れて死臭を防いでから風葬にするという儀式は、もしかするとドラビダ人の知識を持っていたからなのでしょうか。※徐福の渡来は紀元前218年。弥生中期の吉野ヶ里に始まる施朱よりも前のことになります。錬丹術よりも早いですね。

アーユルヴェーダの起源といわれるシッダ医学がいつから始まったのかはわかりませんが、中国の仙薬の流行はインドからきている可能性もありそうです。

 

鍍金めっき

次は薬ではなく鍍金術について。

鍍金とは水銀と金アマルガム(合金)にして仏像などに塗り、火で熱して水銀を蒸発させ金メッキすることです。メッキは外来語ではなく、滅金めっきんからきています。水銀に金を混ぜると金が溶けて消えてしまうように見えるからだとか。

アマルガム精錬法について》

アマルガムとは水銀と金、銀、銅など他の金属と混合した合金をいいます。金などの原鉱石は混ざり物がほとんどであり、それを粉末にして水銀を加えると金だけを選んで吸収した形となります(金アマルガム)。これを火にかけて水銀を蒸発させると金だけが残って鍍金メッキができます。東大寺の大仏(752年)には2t以上の水銀が使われたという見方もあり、水銀蒸気による健康被害も案じられますが、これについてはまた改めて。

 

鍍金の歴史を探ってみました。少々ややこしいですので興味ある方の参考になれば。

【補足】鍍金の歴史

最古の記録としては、3500年前のメソポタミア北部のアッシリアで錫メッキが行われています。鉄製品の劣化防止や装飾として、融点が低く塗りやすい錫を用いていたよう。

エジプトではツタンカーメン王の頃(3300年ほど前)には金メッキされたものがありますが、鍍金ではなく金の薄膜を被せています。

水銀アマルガム法による金メッキは、紀元前6~前3世紀のイラン系騎馬遊牧民族スキタイから始まったといわれています。黒海北岸から南ロシアの草原地帯に栄えました。スキタイの工芸品は戦う鳥獣の姿を躍動的に表現していることが特徴で、銅に鍍金したものが多くみられます。

またスキタイの前、前16~前6世紀にイラン南西部でルリスタンという騎馬民族の国があり、彼らも動物を模した金属製品を作っていました。スキタイはこの文化を受け継いだとみられています。(インターネット公開文化講座「掌(てのひら)の骨董」)

ルリスタンはメソポタミアのそばにあり、もしかするとスキタイの鍍金の萌芽はメソポタミアに由来するのかもしれません。

中国でも2500年前に青銅器に金メッキをした記録があるそうですが、これも金の薄膜を貼ったもの。

前4世紀頃から中央ユーラシアで勢力を強めていった騎馬遊牧民匈奴きょうどに、スキタイの文化が受け継がれており鍍金されたものが多くありますが、金板を貼ったもの、アマルガム法で鍍金されたものが混在しているようです。

また前5~前2世紀頃、現在の雲南省てんがありました。その石寨山遺跡から鍍金された青銅器が多数出土。農耕民の国なのになぜか動物の闘争や尖がり帽の騎馬武人を表現しており、スキタイ系のものといわれています。ただし鍍金はアマルガム法かどうか説明はありません。

それにしても雲南省からスキタイはかなり遠いですよね。ところがこの時代、西南シルクロードというものがあったらしく、四川省雲南省ミャンマー~インドを結んでいたそうなのです。司馬遷史記列伝によると前122年に張騫が大夏(現アフガニスタンに赴いて帰国した時、大夏には蜀や邛(現四川省の産物がすでに運ばれていたことや、インドには蜀の商人の店があったことを伝えています。(宍戸茂著「西南シルクロード紀行」)

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という流れがあったのかも。

また史記の封禅書には錬丹術の始祖である李少君が武帝に、辰砂を黄金に変化させる話をしたことが記されています。武帝の在位は前141~87年。武帝の時代にはアマルガム鍍金の話が伝わっていたことは確かです。始皇帝が亡くなって100年ほどのこと。

1世紀には仏教がインドから中国に伝わり、3世紀ごろ青銅の仏像に鍍金が施されるようになります。

日本では5~6世紀に渡来品の鍍金製品がたくさん出土しています。日本でも5世紀後半にはアマルガム法として「辰砂を製錬すると水銀が得られる」ことが理解されていたということです。(市毛勲著「朱丹の世界」)

 

参考文献及びサイト

佐藤任著「南インドの伝統医学」

宍戸茂著「西南シルクロード紀行」

インターネット公開文化講座「掌(てのひら)の骨董」

 

 

  

日曜美術館『疫病をこえて~人は何を描いてきたか』

 

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私事で失礼します。

今年に入ってから「朱の国」シリーズを書き始めていましたが、新型コロナウイルス感染症のニュースがしだいに増えてきたため、落ち着いてからにしようと投稿を控えておりました。ですが今なお先が見えない状況が続いていますので、いつまでも先送りにせずブログを再開することにしました。

辛いニュースに何度も心が折れそうになりますが、それでもこの時期をなんとか乗り越えようと多くの方が踏ん張っておられることと思います。一日も早く心穏やかな時間を取り戻せるよう願うばかりです。

 

私は先日、気分転換しよう!と普段あまり観ないYouTubeを開いて音楽の動画を探索しました。様々なジャンルの方たちの、仲間と遠隔セッションする姿が続々と投稿されています。オーケストラまであってびっくり。離れていても気持ちをひとつにできるって素晴らしいですね。できることを探して即行動する姿にも励まされるようで、聴いていくうちにいつもの自分を取り戻すことができました。

災害時など真っ先に自粛を迫られる文化やスポーツですが、私たちにどれだけ活力を与えてくれているのか忘れてはならないなと再認識。

この事態も長引くほどにストレスはつのります。特に家にいることで協力している方々は、興味あることをできる範囲で工夫しつつ、楽しむゆとりを持ち続けましょう!

 

 

疫病と美術

今回は古代史を離れ、4月19日に放送されたNHK日曜美術館「疫病をこえて~人は何を描いてきたか」を紹介したいと思います。

歴史を辿っていると、祖先たちが病や疫病に苦しまない時代はなかったことを思い知らされます。現代のような知識も医療もない時代に、どのように乗り越えてきたのか知りたいと思っていたところ、この番組が美術という切り口で紐解いてくれました。

番組前半は早稲田大学教授の山本聡美氏(「病と死」をテーマに中世日本美術を研究」)とのインタビュー、日本美術と疫病についてです。要約します。注)写真はこちらで用意したものです。

 

《 日本人は病と闘うというよりも、恐ろしいものとともに共生する方法を、祭や美術、音楽、和歌、祈りの言葉で生み出してきました。

 

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法隆寺金堂 釈迦三尊像

美術としては聖徳太子の病からの回復を願って造られた釈迦三尊像に始まり、12世紀末には「辟邪絵・天刑星」のように疫病そのものを描くようになりました。邪悪なものを退治する神様と、小さな鬼として描かれた疫病たちの絵です。

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 辟邪絵・天刑星

15世紀初めに天然痘が流行すると「融通念仏絵巻」が描かれました。念仏の仏事を行っている道場に鬼たち(疫病)が大勢押し寄せますが、やがて退散していく物語です。鬼もユーモラスに描かれ、仏の加護があることと、物語として終わりがあることへの安心感が得られます。これは恐怖の源に何があるかを可視化することで、しかもユーモラスに描くことによって恐怖を和らげる効果があり、人々の知恵と逞しさがみられます。(可視化は現代ではウイルスの画像など、正体を突き止めることでもある)

一方、12世紀に疫病や災害、内乱が続いた時、平清盛は美しい豪華なお経「平家納経」を作りました。美麗で精緻な絵を描くことで病と向き合おうとしたのです。描かれたものが美しいほど、その願いの大きさ、願わなければならない不安の大きさが見えてきます。

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平家納経

9世紀に始まった祇園祭も、美しく飾ったのは疫病神を封じておくためでした。

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過去の美術は災害や疫病に対しての心のケアを重視しました。神や仏に支えられる局面があり、美術がさらにそれをサポートしました。祈りが形になり、恐れが形として表されることの安心感があったのです。》

 

続いて司会の小野正嗣(作家、仏文学者)のコメントです。

《 闇が深いほど光は強く美しく目に映ります。大変な時の方が美しいもの、尊さ、希少さがビビッドに伝わってくることもあります。(略)

疫病を語る時に戦争の比喩を使うけれど、適切でしょうか。病も人間が作り出したもの。苦しむけれども我々と共にある。いかに向き合うか、戦うよりは向き合って生きていく、病という現実を受け止め、なおかつそれでも生きていくということではないでしょうか。》

【補足】疫病は農業が始まって以降現れたとされる。貯蔵庫の穀物を狙うネズミや家畜から動物由来の感染症が増え、集団が大きくなるほど拡大する。文明とともに疫病はある。

 

後半は國學院大學教授の小池寿子氏(死生観をテーマに中世の西洋美術を研究)とのインタビュー、西洋美術と疫病についてです。

《 14世紀のイタリア絵画をみると、死や病は神の罰だと考えられており、罪を悔い改めねばならない、といった絵を描いていました。

1348年以後、ヨーロッパにペストが大流行し、人口の3割が亡くなりました。後世の絵や書物がそれを書き記しています。

治まらない疫病に神への不信が起こり、偽預言者デマゴーグフェイクニュース、弱い者いじめユダヤ人陰謀説が流れた)が多発し政治的にも利用されました。

15世紀になってペストのピークが過ぎると、「死の舞踏」という絵が描かれました。

【補足】「死の舞踏」という寓話をもとにした一連の絵画や彫刻。実際に人々が半狂乱になって踊り狂うことが多くあり、1世紀の時を経て芸術として表された。

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詳細不詳 Wikipediaより ※番組で紹介されたものとは別の絵

王や貴族、庶民らが死者と手をつなぎ話をしています。死者の教えを傾聴し、生きる知恵を学ぼうという姿勢です。恐れるのではなく向き合おうという新たなものの見方が起こり、その後イタリアのルネサンスが始まります。フィリッポ・リッピやボッティチェリの描いた聖母マリアは、それ以前の(宗教的)厳粛な硬さが消え、親しみやすく愛らしい人間らしい姿となっています。

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フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」(1465)妻をモデルとした。

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ボッティチェリ「ザクロの聖母」(1487)

苦難を経た時代の後だからこそ、ルネサンスは花開きました

人知の及ばない災いが起こった時、人間は思いがけない力を持ち得ます。次の活路を必ず見つけヒントを得る、そういう存在なのです。》

【補足】ルネサンスといえばミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチも外せません。

 

小野正嗣氏のコメント。

《 ペストが流行した時に、避難した人々が物語を語り合ってなぐさめようというのがデカメロンです(ボッカッチョ作、1348~1353年に書かれた)。疫病が芸術や文学作品を生み出す原動力になりました。

ルネサンスの文化は人間のもつポジティブな側面をより鮮明に力強く描き出しました。そこに行き着くまでには「死の舞踏」のような過程がなければ、人間の真の姿を考えられなかったでしょう。

人間は疫病に接した時に負の側面が放出されます。あらゆる醜いものが出尽くした時、すべてを見た上で人間とは何か、人間の美しい側面とは何か、それを伸ばすにはどうしたらいいか、ということに心は向かっていくのだと思います。

また過去の美術や文学作品(負の記憶、記録)に立ち返ることによって、間違った方向を軌道修正することができます。》

 

最後に今SNSで話題の「アマビエ」の話になりました。

疫病を防ぐというアマビエを描いて投稿、拡散していくのですが、妖怪ファンが火付け役のようです。一気にブームとなり、著名なクリエイター達も次々に投稿。厚生労働省の感染防止キャンペーンのキャラクターにまでなっています。

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アマビエの出現を伝える瓦版(京都大学付属図書館収蔵)Wikipediaより

アマビエとは江戸後期の瓦版(1846年)に描かれた不思議な存在です。肥後の国の海に現れ豊作と疫病の予言をし、私の姿を写して人々に見せなさいと言って去って行ったと書かれています。

ところが研究者によると、これは「アマビコ」(海彦、尼彦、天彦‥)の間違いではないかというのです。「越前国主記」や尾張の「青窓紀聞」に記された3本足の猿の姿の妖怪です。病と豊作の予言をし「私の姿を書き見る人は無病長寿、全国に広めよ」と告げています。アマビエより少し先に出現しているようです。

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尼彦の出現を伝える肉筆画 湯本豪一所蔵

幕末や明治のコレラ流行時にも、三本足の猿の姿がお守りとして売られました。つまりアマビコは疫病封じです。

 

また山本聡美氏によると江戸時代には「疱瘡絵」が病気から守ってくれるお守りとして広く用いられたそうです。(天然痘除け)

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絵柄はいろいろですが、魔除けの色である赤色が強調されています。赤一色で刷られた金太郎や達磨、鍾馗、獅子舞の絵や、他にも赤い玩具、置物、下着などで魔除けとしました。社会的に広く共有されているイメージに対する信頼感によって、それを身につけている限りは安全だという発想に繋がっていったのだろうとのことでした。

ちなみに疱瘡除けといえば西宮神社太夫もそうでした。百太夫とはサルタ彦大神が百の姿に変わって善人を守るという信仰からつけられた名前です。(出雲伝承)

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説明書きには「元来百太夫神は疱瘡に霊験のある神様と信じられ、江戸時代に流行した折には、八代将軍吉宗公もその病に伏した時、西宮の神主の進言により百太夫神のおふだを祀ったと伝えられています」とあります。

三本足の猿。幸の神三神のサルタ彦大神につなげるのは強引でしょうか‥‥。そもそも村を悪いものから守ってくれる「塞ぎる神」が道の神(幸の神)。サルタ彦大神は疫病神を祓ってくれる厄払い人形にも、田畑を守るカカシにも姿を変えています。古事記では、サルタ彦大神は伊勢の海で溺れ、3つの御魂となったとその最期は記されました。

アマビコが何者かはさておき、今も昔も社会で共有されるイメージ=お守りによって安心を得るというのは変わらないのですね。

以前の記事でホモ・サピエンスネアンデルタール人の違いを取り上げましたが、力の弱いサピエンスが絶滅の危機を何度もくぐり抜けて生き残ることができたのは、「集団を作って協力し合う特性」をもっていることと、「情報やイメージの共有ができた」ことにあるということでした。

音楽の遠隔セッションのように、離れていても協力し合う体制(技術)はこれからもっと発展していくでしょう。もちろんそこに情報やイメージの共有は必須です。世界全体がサピエンスとしての能力を発揮して、連帯して危機回避に取り組んでいく時代が始まりますように。

 

 

 

 

朱の国⑶ベンガラから水銀朱へ(後編)

 

 

今回は考古学や朱の成分分析の研究を参照していますので、いつも以上に細かい話になりそうです‥‥。

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ざっと年代順にしてみましたが、それぞれ幅のあるものですので大まかに見て下さい。(出雲族の渡来は3500年前と伝承されています)

 

施朱以外で日本における最古の朱の遺物としては、4500年ほど前の奈良県丹生川上村、宮の平遺跡で出土した朱の付着した石皿です。この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになります。

「朱の国⑴」で紹介した徳島の加茂宮ノ前遺跡や三重の天白遺跡、森添遺跡はそれより1000年ほど後となります。

縄文晩期になると東北の遮光器土偶と呼ばれるアラハバキ土女神像にも朱が塗られました。亀ヶ岡式土器は朱やベンガラで彩色しています。アラハバキ出雲族の信仰

縄文時代には土器は朱で色付けされていたのが、弥生時代になるとベンガラになり、朱は埋葬に使われるように変わっていったと南武志氏近畿大学理工学部教授)は指摘しています。※南氏は1990年代より、朱の遺物から得られた朱産地の同定を理化学的に行っておられます。

南氏は市毛氏の示された福岡県の山鹿貝塚の施朱については触れておられず、吉野ヶ里遺跡以降の調査となります。

南氏によると、弥生中期の吉野ヶ里遺跡で朱の使用が確認され、その後西日本各地(博多湾周辺、出雲西谷、楯築など)で多量の朱を用いた墳墓が散在し、これは遺体の防腐目的よりも権力の誇示のためと思われ、古墳時代に入っても続いていくことから朱が権力の推移と密接に関係しているのではないかと。

そこで紀元前後から4世紀頃までの古墳に使われた朱の産地を調べたところ、次のような結果になったそうです。

・1~2世紀頃は地域の王墓に中国産が使われる

・3世紀は中国と日本の混在もしくは国産に移行

古墳時代が始まった3世紀後半から国産に限定

古墳時代以前は国産よりも中国産を使うことでより権威を示すことができたのでしょう。遥か彼方の大国と交易しているのですからね。

ちなみに中国産の朱を使っていたのは福岡の井原鑓溝遺跡や春日立石遺跡、出雲の西谷3号墳、鳥取の紙子谷門上谷1号墳、丹後の大風呂南遺跡、福井の小羽山30号墳、徳島の萩原遺跡。ほとんど日本海沿岸で古代から栄えていた地域です。これらの周辺の遺跡では同じ時代でも国産の朱が使われているそうです。

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西谷3号墳の墳丘上に再現された棺の底。朱が敷き詰められていた。

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また出雲の西谷3号墳に先立つ関わりの深い吉備の楯築遺跡では、棺の底に30㎏もの朱が敷き詰められていましたが、いくつかの産地の混合朱の可能性が高いそうです。

西谷と楯築古墳についてはここに書きました。 

 

興味深いのは上記福岡や出雲、鳥取、丹後で使用された朱が、中国の陜西省産であるらしく、この地域の青銅溝鉱山は秦時代に開発されていたといいます。また近くの秦嶺山地の水銀鉱床は始皇帝の住んでいた長安の近くにあります。南氏とともに調査された鉱床学の島崎英彦氏によると、ここから漢水という川を下って揚子江に出れば日本まで容易に達するのだそうです。弥生後期の北九州や山陰地方の豪族との交易品として、ここから辰砂が運ばれたのではないかと。

後漢書には57年に倭奴国の使者が洛陽の光武帝のもとに挨拶に来たと記されていますが、洛陽からさらに西に360㎞で長安。洛陽にも漢水の支流が来ているので、簡単に揚子江に出ます。こんな遠い地へどうやって倭奴国の使者は辿りついたのかと思っていましたが、朱の交易があったのだとすれば現実味が増しますね。

弥生時代の大陸との交易品が朱であったとは。三国志魏書に記されたヒミコ以前の話ですから、驚きです。

   

施朱の流行

施朱は古墳時代に入ったとたん一気に最盛期を迎え、北方系施朱の風習があった地域以外の各地で5世紀末まで続きました。3世紀後半から5世紀末までは全葬墓数に対して施朱を行っているのは100%です。弥生時代は1~2割ほど。出雲伝承のいう、徐福を祖とする物部東征後に朱のブームが到来しています。ここにも出雲大和勢力と九州勢力の文化の違いがあるようです。

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桜井茶臼山古墳の石室(「あかい奈良」vol.52より。橿原考古学研究所提供写真の朱色強調加工写真)

写真は奈良の桜井茶臼山古墳の石室ですが、赤を強調して当時の再現を試みた加工写真をお借りしました。およそ200㎏の朱を使ったと推定され、国内で断トツの大量の施朱となります。3世紀末~4世紀初めの築造で、施朱の最盛期の先駆けですね。

出雲伝承では被葬者は太田タネヒコ大田田根子と2代後の賀茂田田彦、ふたつの言い伝えがあります。けれど太田タネヒコは三国志魏書に記されたヒミコ(モモソ姫)の身の回りの世話をした人物だと伝承は云っているので、時代が100年ほど前になってしまいます。なので賀茂田田彦では。

この人は東出雲王家最後の王、富大田彦(のちの野見宿祢の子孫です。賀茂王家の養子に入り12代当主となりました。第1次物部東征の時の当主が太田タネヒコであり、第2次物部東征の時が賀茂田田彦。磯城王朝が破れ物部王朝となった時の初代大和副王です。

景行天皇が遠征に出ている間は賀茂家が大和の代理王家であったらしく、しだいに物部王は大和に入れなくなっていったとのこと。大和での実権は賀茂家が握っていたことになります。

 

出雲伝承に添ってみてみると、縄文時代に細々と始まっていた水銀朱による施朱が、徐福が築いた吉野ヶ里遺跡から本格的に始まり各地に広まりました。次第に朱は権力の象徴となっていきます

そして第2次物部東征後、物部王が地方遠征に出ている間に大和で実権を握ることとなった賀茂田田彦が、自身の墓に国内最大の施朱を行ったということになります。想像をたくましくすれば、景行天皇が水銀鉱脈を得ようと地方の土蜘蛛征伐をしている間に、賀茂家は大和の朱を搔き集め蓄えていった、なんてこともあるのかも。南氏によると、桜井茶臼山古墳の朱はすべて大和水銀鉱山出土朱であり、200㎏であれば数年から数十年かけて集めたものと考えられるそうです。賀茂家の財力と執念を感じます。

※調査対象となった国内の鉱山は奈良県大和水銀鉱山徳島県水井鉱山、三重県丹生鉱山です。

 

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天理市立黒塚古墳展示館の石室レプリカ Wikipediaより

木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。

すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41㎏の水銀朱が納められていました。こちらは大和水銀鉱山出土朱です。
 

  

参考文献及びサイト

市毛勲著「朱丹の世界」「朱の考古学」

岸本文男著「中国史にみる水銀鉱」1983.地質ニュース351号

南武志 他供著論文「硫黄同位体分析による西日本日本海沿岸の弥生時代後期から古墳時代の墳墓における朱の産地同定の試み」2013.地球化学47号

同著「同位体分析法を組み合わせた桜井茶臼山古墳出土朱の産地同定」2013

同著「遺跡出土朱の起源」2008.地学雑誌

同著「日本における辰砂鉱山鉱石のイオウ同位体比分析」

同著「三元素同位体比分析法を組み合わせた遺跡出土朱の産地同定の試み」

島崎英彦著「随筆、古代辰砂の故郷」2009.資源地質