そもそも「君が代」のキミって誰?(2)糸島から博多湾岸・君が代の旅
このコスモスは前原市井原(イワラ)にある王墓跡に咲き乱れていました。
井原と書きますが、漢字は後からつけられたものですので音が大事です。地元の人はイハラやイバルではなくイワラと呼んでいます。
巨石信仰があったとすると、岩羅、磐羅、であってもおかしくないのでは。
この辺りはいにしえの伊都国の中心部にあたります。
伊都国というのは 三国志魏書倭人伝によると卑弥呼の時代、女王国連合の外交と防衛機関の役目を担っていました。中国からの使者は必ずここでチェックを受けて留まり、贈り物などもすべて検査されます。戸数は1000と少なめですが、代々王がいます。
中国からの最新の情報がまずはここへ届くということなので、流行の先端をいっていたのでしょう。
王墓は3つ発見されていて、井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡です。
平原(ひらばる)遺跡は伊都国女王の墓?
2~3世紀に造られたという平原遺跡の中心になる1号墓からは40面の銅鏡が出るなど副葬品はトップクラスで、その内容から女王のものと言われています。武器がほとんどないことや、アクセサリーがとても多く(ガラス、めのう、琥珀)特に中国で女性がつけるピアスが入っていたからです。日本では唯一のものだとか。
上の内行花文鏡は5枚あり、なんと直径46.5㎝の国内最大の鏡なんです!
実際に目にすると、その大きさに圧倒されます。これまで見たことのある鏡とは存在感が違うんです。
大きさや文様などから三種の神器のひとつ八咫鏡(やたのかがみ)だという説もあります。
想像してみてください。連合国の外交と防衛を司る女王は、流行を先取りしたお洒落なシャーマン‥‥
古代の女性ってかっこいい。
さて、次の目的地はすぐ近くに建つ細石(さざれいし)神社です。
姉妹神を祀る細石神社
今は200坪ほどのひっそりとした神社ですが、豊臣秀吉に没収される前は何倍も広くて立派な神社だったそうです。
細石神社の裏手には三雲南小路遺跡があり、平原遺跡より前の紀元前1世紀の王墓(王と王妃)です。姉妹神として祖先を祀っていたのでしょうか。
ところで細石(さざれ石)とはどんなものでしょう。
私は小石とは大きな岩が小さく削られていくものだと思っていましたが、それと逆に、小石が大きな岩になっていくこともあるようです。
Wikipediaによると、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、ひとつの大きな岩の塊に変化したもの、石灰質角礫岩というそうです。石灰質が雨水に溶け、粘着力のある乳状液が小石どうしを繋いでくっつけていき、コンクリート状に固まります。
参照 籠神社の細石
昔の人々はこういったことが起こることを知っていたのでしょうか。
糸島郡誌によると細石神社の御神体は小石と記されているので、君が代に関わるとしても、小石としての意味で使われたように思います。
千代の聖水? 千代水
博多湾岸を東に進み博多の県庁付近へやってくると、そこが千代町です。博多湾を望めば志賀島が向かいに浮かんでいます。
この写真は昔おいしい水が湧いたという千代の井戸跡です。海辺に塩を含まない井戸水があればとても貴重です。古代では聖地とされたそうです。
古今和歌集の伝本によっては「我が君は 千代にましませ」というものもあり、これだと千代にいらっしゃる我が君となり、君主の館が千代にあるという可能性もでてきます。
さて、これで苔むすめ、磐、さざれ石、千代と揃いました。
古代の主要国家であった伊都国の周辺にまつわる神の名、神社、地名をたった32文字の中に入れ込んで歌われている君が代。
偶然だろうと言ってしまうことのほうが、むしろ不自然に思えてきます。
ソラフル一行はこのあと海の中道へと車を走らせます。