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源流なび Sorafull

日本列島を目指した人々がいた⑵ マンモスハンターたちの技術革命から土器の誕生まで

 

 

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バイカル湖畔にそっくりさんたちがいる

篠田謙一氏の研究より。縄文人29体のミトコンドリアDNAを分析して、世界の民族のDNA情報が集まるデータバンクから一致するものを探したところ、韓国、台湾、タイに一体ずつ一致、そして17体がシベリアのブリヤート人と一致したそうです。さらに縄文人のDNAと完全一致する村さえありました。そこはまさに日本人そのものといった顔の村人ばかりだとか。

アフリカを出た人類は現在のパキスタン辺りから方々へ分かれていったことは「DNAが語るホモサピエンスの旅」で紹介しました。

 

 

今回は日本の専門家たちの研究に基づいた北方ルートを追ってみたいと思います。NHKスペシャル「日本人はるかな旅1」を参照)

出アフリカに成功した人類の一部は、4万年前にはシベリアに到着しています。時は氷河期です。何故わざわざより寒いところをこの集団は目指したのか。理由は大型動物のお肉!そうです、マンモスを追って北上していったのです。マンモス1頭を捕らえれば10人で半年は食べていけたと推測されます。お肉や内臓はビタミンなどの栄養分を損なわないようにできるだけ生で食べ、骨髄まで掻き出して食べていたらしいです。マンモスの骨髄、どんな味なのでしょう。脂は燃料に、皮は衣服に、骨は道具に、捨てるところなく利用されました。

核DNA解析によると縄文人は出アフリカの後、かなり早期に母体となる集団から分かれ日本列島へ到着しているようです。中国人や韓国人とは親類ですらありません。

上記の北方ルートをとった集団は難所ヒマラヤを越えて(迂回して?)シベリア入りしているので、その後他の集団と交わる機会も少なかったでしょう。また、Y染色体ハプログループ(系統)から見ると、縄文人チベット人と4万年前頃に分岐したようなので、チベット高原を経てシベリアへ向かったのかもしれません。

父系を語るY染色体は過去の民族支配の記録でもあります。もし縄文人が他民族に負けて支配されると女性はその他民族との子を生みます。現在日本全国で4~5割ほどの男性が縄文人由来のY染色体をもっていることは、そういった支配された事実がなかったことを意味します。もちろん弥生時代に渡来人と縄文人が入れ替わったということはあり得ません。また縄文人のDNAは日本人以外には見当たらないので、早期に日本列島入りした人々はここに居続けたことになります。

さてシベリアの話に戻ります。2.3万年前にはバイカル湖周辺に集落が現れます。(この集落は最近のDNA解析により東アジア人とは関係のないヨーロッパから中東由来ということがわかっています。ということは西からシベリア入りした人たちがいたということでしょうか。やはり世界規模のDNA解析によって見解を待つほかないですね・・・・)

夏は短くとも暖かく、平原となり動植物も豊かでした。狩りのための道具も進歩して、細石刃という非常に優れた石器が生まれます。動物の骨に細い溝を彫り、そこにカミソリの刃の如く薄く剥いだ黒曜石などの石を何枚か挟み込んで槍先にします。長さ3㎝以下、幅数㎜のマイクロ極薄カミソリ刃。刃が傷めば替えることができる替え刃式だなんて、今のカミソリの源流じゃないですか! 

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細石刃

ところが2万年前に最寒冷期が訪れ、マンモスたち大型動物は少しでも暖かい方へ移動していき、人々もそれを追って移り住みました。シベリアから中国やサハリンへ、そしてアメリカ大陸へと何世代もかけて散らばっていきます。この極寒の中を移動する際、食料調達の必需品が重い石器ではなく小さな細石刃であるからこそ大量に持ち運ぶことができ、彼らを救ったともいえそうです。まさに生死を分けた技術革新ですね。

 

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サハリンへ向かったものは、すでに地続きとなっていた北海道千歳へ。残された細石刃やマンモスの骨から移動ルートが浮かび上がります。氷期でも津軽海峡だけは海水が残っていましたが、マイナス30℃以下になった年はさすがに海が凍り本州への道が現れたようです。こうして2万年前には細石刃文化を持った人々が本州へ押し寄せました。

人が列島に渡ってきたのはこのサハリンルートだけでなく、中国北部からマンモスを追って朝鮮半島まで南下してきた人々が、狭くなった対馬海峡を筏などで渡ってきた可能性もあります。日本の遺跡を見ていくと3万年前から少しずつ増え始め、2万年前を境にぐっと増えています。あの新宿百人町遺跡も2.5万年前ですので、最寒冷期までに到着しています。前回のブログで紹介した南方からの渡来人もそうでしたが、小集団で少しずつ渡ってくる時と、気象条件などから大きな集団がどっと押し寄せてくる場合があるようです。後者のほうが文化の広がりは早く、広範囲に影響が出やすいですね。

細石刃文化が日本に広がる前、中国北部から入ってきたであろう石刃やナイフ型石器が主流でしたが、細石刃が入ってくるとナイフ型は姿を消してしまいます。また東日本と西日本では細石刃の種類が違っています。これはシベリア経由か中国北部経由かの違いのようです。

これほどの文化革命を起こした細石刃ですが、温暖化が進むにつれその勢力は衰え、やがて土器文化主流の時代へと移行します。

 

土器が日本に現れる

1.5万年前になると大型動物が激減し、森が一気に増えて小動物の狩りへと変わりました。鏃やじりが現れます。けれど小動物では食料として足らず、木の実の採集に頼ることとなります。中でもドングリはデンプン質が豊富で主食になるのですが、残念なことにタンニンが多くそのままでは渋くて食べられません。そこでドングリを煮て渋みを抜くことを誰かが閃いたのでしょうね。煮炊きするために必要な土器が作られ始めます。

世界最古級とされる土器はシベリアのアムール川流域で見つかった1.3万年前頃のものです。そしてその土器の改良型が新宿百人町遺跡から出土しました(1.2万年前)。どこが改良されていたのかというと、アムール川のものは食料の貯蔵用らしく、樽のような形で平底、厚みが15㎜。一方新宿の土器は底が狭くなった丸底、厚さも5㎜と3分の1の薄さになっています。煮炊きに適した形です。でもこの薄さで作るのは大変高度な技術だそうですよ。そのため粘土に混ぜる砂の量を加減したり、動物の毛を混ぜて割れにくくする工夫がなされているのです。

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(左)アムール川流域  (右)新宿百人町遺跡 

※ 中国湖南省でこれらより早期の土器が発見されましたが、年代測定の信頼性において否定する意見がみられます。

ちなみに日本最古の土器は青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器片で、16500年前のものとされ、世界的に認められています。平底で内側に炭化物の付着がみられ、煮炊きに使われたようです。エジプトやメソポタミアより7千年以上前の土器の誕生です。

縄文土器といえば粘土紐を積み上げて接着していくものを想像しますが、無文土器はパッチワーク技法といって、おせんべいのような粘土板の貼り合わせによって作られた可能性があるそうです。そしてこの無文土器といわゆる縄文土器をつなぐ技法が新宿の土器、隆起線文土器。紐まではいかない帯状の板の接合によって作られたようです。ここから粘土紐の技法が生まれたあと、縄文土器は激増します。

 

一方、南九州でも細石刃文化と入れ替わるように土器文化が始まります。ただし順を追ってみると、本州で青森大平山元Ⅰ遺跡に見られる無文土器が現れ、続いて隆起線文土器などが西九州まで広まった後に、南九州での隆帯文土器、無文土器が現れます。土器に関しては北方からの文化が南下し、南九州ではその後独自の形体、装飾へ発展していったようにも見えます。7500年前に上野原遺跡で早々と生まれた壺型土器を見ると、この地方での独自性を思わずにはいられません。鬼界カルデラ噴火によって南九州の成熟した文化と南方からの遺伝子は激減してしまい、年月を経てこの地が復活した時には南の海の民とは別の文化が幕を開けました。

 

まとめ

旧石器時代、日本列島には南方や北方からの人々が、それぞれの文化を携えてやって来たことが見えてきました。時に海を越え、雪原を越え、何世代にもわたる命がけの旅の果てにこの日本列島に辿り着いたのです。そこは決して楽園ではなく、小さな島国で相次ぐ環境の変化に適応するため、さらに何世代もかけて新たな技術革命を生み出す必要があったでしょう。生き抜く智慧と創造性、そして新天地を目指す勇気溢れる人々がこの国を切り開いてくれたのです。

日本は島国だから単一民族であり続けられたという単純な話ではなく、そもそもこの民族は、多様な民族の融合によって存在しているのです。しかも原初の人たちのDNAを多くの人が受け継いでいる。多様性と継続性という相反するものをもつ特殊な民族ではないですか。

 

ところで、前回のブログで黒曜石を船で運搬していたのは誰かという疑問が残りました。シベリアからの渡来人は陸路でした。中国北部の人たちが南下して朝鮮半島に渡り、狭く浅くなった対馬海峡を簡単な筏などで渡海した可能性はあります。ですが大海原を航海するのとはレベルが違いますね。やはりスンダランドからの航海民族が黒曜石に関わっていたのでしょうか。

こうやって見てくると、中国国史に記された古の倭人が日本と大陸を繋ぐ大海原を自在に行き来していたとしても、不思議ではなくなってきました。春秋戦国時代の越人に頼らなくとも、そもそも日本には航海民が存在していたようです。どういうわけか私たちは陸の歴史ばかり教えられています。これから海の民の記憶がもっと出てくると面白いですね。

 

 参考文献

「日本人はるかな旅1」NHKスペシャル日本人プロジェクト編

「王子山遺跡の炭化植物遺体と南九州の縄文時代草創期土器群の年代」国立歴史民族博物館研究報告、工藤雄一郎