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源流なび Sorafull

もうひとつの渡来人集団、出雲族

前回、旧石器時代に日本列島へやって来た人々を辿りましたが、ここからはその後の縄文時代以降の人々の流入について見ていきましょう。

 

昨年発表された縄文人の核DNA解析の結果、縄文人は他のアジア人とは見た目は似ていても遺伝子的には関係がなく、ホモサピエンスの出アフリカ後、早期に分岐した民族だとわかりました。縄文人はのちに渡来人と混血しましたが、現代日本人は縄文人のDNAを15%ほど持っています。

このDNA解析に成功した神澤秀明氏の研究リーダーであった斎藤成也氏の気になる説があります。旧石器時代に列島へ到着した人々が縄文人となっていくのですが、縄文時代末期になって2番目の渡来人集団がやってきた形跡があるそうなのです。その後、弥生時代に3番目の渡来人がやってきました。この2番目の渡来人とはどういう集団なのでしょう。

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図は日本列島人を北部、中央部、南部の三つの地域に分け、そこへ渡来人集団が入植、その後の列島内の移動を表わしています。(斎藤氏のモデル図を参照。名称もそのまま使用)

⑴は前回までの内容と重なりますね。

⑵は4000年前~3000年前に日本列島中央(本州と九州)の南側に渡来人がやって来て、⑴の縄文人と混血し、沖縄や東北から北には影響を及ぼさなかったということを表わしています。

⑶は従来から言われているように、弥生時代へ移行するきっかけともなった中国や朝鮮半島からの渡来人が、列島の中央部(福岡、瀬戸内海沿岸、近畿中心部、東海、関東中心部)へと広がったことを示しています。そのため⑵の渡来人のDNAは日本海や太平洋沿岸に残った可能性があると推測されています。

斎藤氏は記紀神話に照らし合わせ、出雲地方の遺伝子を調べた上で、この⑵の渡来人が出雲人であり、⑶の渡来人に権力を譲り渡した国譲りなのではないかと言われています。(研究段階です)

 

記紀神話のすべてを創作として片付けるのは乱暴です。といってそのままを正しいとすることも無理があります。視点として大事なのは、どういった政治的意図で記紀が書かれたのかを考えることでしょう。記紀の成り立ちについては後に譲るとして、まずは出雲神話の存在の不思議さから。

 

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 大きな国の王

子どもの頃、古事記神話の主人公は出雲の大国主だと思っていました。アマテラスもスサノオも印象的ではありますが、神話の中で大国主のエピソードが断然ボリュームがあったからです。何か違和感が残り続けました。創作するならもっと登場人物のバランスをうまく配分できただろうに、と。そして古事記を書いたのは柿本人麻呂万葉歌人)の可能性があると知った時、なおさら何か理由があると感じました。日本を代表する文学者であり、この構成にはそれなりの意図があるだろうと思えたことと、和歌を詠むときに過去の歴史と現在を二重写しにするパターンが多く、それによって表立っては言えないことをやんわりとほのめかす歌人だからです。

大国主はとにかく女性にモテます。それは単に色男という意味ではなく、多くの妻をもつことでその国を統治し出雲国を拡大していったことを表わしています。そして大きな国、出雲連合国を治めるに相応しい魅力的な人物として描かれています。このネーミングはシンプルです。

ところがその後、あっけなく天孫族に国を譲り渡すこととなります。なんとも唐突すぎる神々の命令によって。

理不尽な話です。この理不尽さを人麻呂は伝えたかったのではないか。縄文時代より人々に愛され、武力を使わずに穏やかにこの国を治めていた出雲王の存在を、政治的制約のある中でもなんとか後世に伝え残したかった、もしくはこれから先の子孫たちに偽の歴史を伝えることを少しでも回避したかったのではないかと思えてきたのです。

 出雲の高層神殿が建てられたのは古事記(712年)が完成して日本書紀(720年)が出来上がるまでの間です。律令国家になった途端に慌ただしく国の歴史が創り直されていった感があります。風土記といえども日本書紀が出たあとに各地方から提出させられているので、表立って中央を否定するような内容は書けません。結局正史とされている文献はどれも政治的創作物という側面を持っています。

天武天皇が大陸の超大国、唐の目を眩ますように、倭国から日本国へと国そのものを大胆にも作り替えた時、出雲は神話の世界に閉じ込められてしまったようです。

それからおよそ1300年後。

司馬遼太郎が著書「歴史と小説」「歴史の中の日本」の中で、産経新聞社時代の同僚(のちの重役)が出雲王家の末裔であり、カタリベであったと記しています。1970年頃のことです。

1980年には吉田大洋著「出雲帝国の謎」が出版されます。その末裔の方へのインタビューをまとめたものなのですが、残念なことに著者の自説(記紀がシュメール語で書かれているという)と混ぜてしまい、真実が伝わることにはならなかったそうです。

そして1984年、出雲の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が整然と納められた状態で発見されました。それまでの全国の銅剣出土総数が約300本なので、この荒神谷の発見がどれほどのインパクトをもたらしたかわかりますよね。古代出雲が神話の中から救い出された瞬間でした。

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12年後には加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が、これも丁寧に埋葬された状態で出土しました。荒神谷から3.4㎞しか離れていません。銅剣にも銅鐸にも「✕」印が刻まれているので、ふたつの遺跡は関連があるとみられています。

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その後、山陰地方では古墳や遺跡が次々と発見され、2000年には神殿を支えた鎌倉時代の巨大な三本柱(直径3m)が出土し、言い伝え通りに高さ48mの高層神殿が存在したことが確かめられました。ただし出雲王国の詳細についてはわからないまま時間が過ぎました。

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司馬遼太郎の同僚である出雲王家の末裔の方が亡くなられたあと、遺志を継いだご子息が出版社を起ち上げ、2007年以降少しずつ古代日本の隠された歴史を世に送り出すことを始められました。斎木雲州の名で大元出版から何冊も出されています。斎木氏は古代から続く他家の伝書を調べたり、末裔の方々に直接話を聞くなどして、自分の伝え聞いていることと符号するかどうか確認されています。

また、出雲には国が戦で滅ぼされた後にできた財筋(たからすじ)という組織があり、王家の血筋の家系が複数存続しました。その配下の者たちが日本中に散らばり、中央政府の動向などを旧出雲王家に報告するという形が長くとられてきたようです。秘密情報組織です。歌舞伎の祖である出雲阿国もその1人で、毛利家から秀吉らの情報収集を求められた旧出雲王家が踊りの巧い女性たちを集めて組織したといいます。

(現在の出雲大社は中央管轄なので、この王家血筋とは関係ありません。)

 

出雲の伝承は口伝のため、文書では残されていません。選ばれた青年が3500年の歴史をただひたすら暗誦します。斎木氏の父上も「伝承者」です。(カタリベとは違って正確な歴史を伝える者という意味です)

文書がないために海部氏の系図のように国宝に認定されることはありません。私たちがこの伝承をどう受けとめるか、です。歴史だけでなく、様々なジャンルの専門家の方たちに、検討してほしいなと思います。

Sorafullは斎木氏の著書を読みながら何度も鳥肌が立ちました。畏れに似た感情が湧きました。なぜ自分がそう感じるのか、その理由が知りたくて、出雲の伝承を調べています。

 

参考文献

「最新DNA研究と縄文人  斎藤成也」みんなの縄文プラスより

「出雲と蘇我王国」斎木雲州