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源流なび Sorafull

古代出雲は黄泉の国~悲しき伝承

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出雲王国前期における王の弔いは風葬でした。

遺体には防腐剤である朱を口から注ぎ入れ、竹篭に納めます。東出雲王家では熊野山の霊の木ひのきの茂みにそれを隠します。木にはしめ縄を巻いて紙幣をつけ、霊隠木(神籬)ひもろぎと呼びました。3年後に洗骨して頂上の磐座の横に埋葬します。これを埋め墓といい、その山が神奈備山です。ナビとは「こもる」の古語。

屋敷にも石を置いて拝み墓とします。神魂神社(王宮のあった場所)の近くに拝み墓である東出雲王墓が今もあり、大きな岩が17個まとまって置かれています。歴代主王と副王の17人のお墓です。事代主の墓石もあります。

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神魂かもすとはカミムスビ(カムムスヒ)が縮まった言葉で、ムスは「生む」の古語であり、夫婦神が神々を生んだので「ムスビ(結び)の神」と言われたことに由来します。夫婦神とはクナト大神と幸姫命です。イザナギイザナミの原型ですね。

お墓としての磐座だけでなく、古代出雲では幸の神信仰から女性の体を象徴する磐座を女神岩とし、その対となる男性を象徴する磐座とともに崇拝しました。いわゆる陰陽石もそうですね。

大きな存在感のある岩と向き合うと、畏怖の念が湧いてくることがあります。古代の人々は人間の力の及ばない生と死、再生を、聖なる岩に託したのでしょうか。

 

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これは東出雲の航空写真ですが、中央を流れる現在の意宇川は、昔は「王川」だったそうです。王国時代には国府跡あたりまで入り江になっていて、宮殿から船で川を下っていくことができたとか。それなら事代主が美保のヌナカワ姫に逢いに行くときも、船に乗って王ノ海を渡り美保湾まですぐですね。他の妻たちは気が気ではなかったことでしょう。

 

徐福の来日

紀元前219年、秦国からの船が出雲の海岸に着きました。秦国人であるホヒと息子のタケヒナドリ(別名イナセハギ)たちは神門臣家の宮殿に連れていかれます。その時土産として持参したのが銅鐸に似た青銅の鐘と銅剣でした。銅鐸はこの鐘を真似て作られ、出雲の神宝となります。

昔は銅鐸のことをサナグ(サナギの意味)と呼び、子宝の象徴であり女神とされたそうです。これまで銅鐸は謎の祭祀用品とされてきましたが、こういう意味があったのですね。

ホヒはこれから徐福という方士(道教の師)がたくさんの秦の人たちを連れてやって来ることを告げ、上陸の許可を求めます。八千矛(大国主)はそれを許し、ホヒたちは王家に仕えることとなりました。

史記に記された徐福と始皇帝のやり取りについては、以前の記事で書きましたので参考にしてください。

 

翌年には大船団が石見国の五十猛海岸(島根県大田市)に着き、徐福と数千人の海童(海の向こうからやって来た少年少女)たちが上陸しました。秦国から来たので秦族と呼ばれました。また中国式の機織りを土地の人に教えたのでハタ族となりました。

徐福は和名で火明ホアカリと名乗ります。記紀ではスサノオとして描かれています。徐福はもとは徐市ジョフツといい、成人後の名が彦福で、日本に来てから徐福としたそうです。

やがてホアカリは大国主と多岐津姫の娘、高照姫を妻として迎えました。(出雲伝承では高照姫を事代主の姉か妹とする場合もあります。)

出雲王はこれまでも豪族たちと絆を強めるために娘らを嫁がせましたので、この時も王家は秦国からの客人を受け入れることを選び、求めに応じて姫を差し出したのでしょう。ホアカリと高照姫の間に長男五十猛イソタケが生まれます。五十猛はのちに丹後へ移住して、海香語山アマノカゴヤと名のります。

 

ホアカリたちは上陸した五十猛の南方、大屋の地に住みました。道教の師であるので、蓬莱、神仙思想をもち仙人を尊び、夜になると大勢で山を登り星を拝みます。北斗七星の中にある北極星を崇拝し、そのため7を聖数としました。面白い話があって、ホアカリたちは最初、斎の木のワラヘビを斬って回ったそうで、ヤマタノオロチの話のモデルとも言われますが、その後彼らもワラヘビを拝むようになり、8と7の間をとって7回半巻くようになったそうですよ。

またホアカリは社稷シャショクの神も崇拝しており、これは穀物の神さまです。のちに宇賀ウカの神となります。中国西王母のキツネ信仰とともに日本に持ってきて、稲荷信仰へと変わりました。日本で最も多い神社である稲荷神社の総本社、伏見稲荷大社秦氏の創建です。

ハタ族はしだいに東の方へも移住するようになり、出雲地方へ進出。宍道湖東岸の海童神社や浮洲神社に名残が見られます。浮洲とは蓬莱島を意味し、仙人の住む理想郷のことです。

もうひとつホアカリたちが持ってきたものは陶塤とうけんと呼ばれる土笛です。ハタ族たちが住んだ遺跡からはたくさん出土しています。ぼやけた写真ですが、卵に小さな穴が開いたようなものが陶塤です。

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主王、副王の悲劇

ある日、大国主(八千矛主王)が薗の長浜へ行ったまま行方不明になりました。美保にいる事代主(八重波津身副王)へ知らせるため、ホヒの息子タケヒナドリの船は王川を下り王ノ海を渡ります。(この速船が諸手船神事です。)事代主は薗の長浜へ向かおうと船を西に向け進みますが、事代主もその後行方不明となってしまいました。

古事記の記述を見てみましょう。

 

アマテラスとタカミムスヒ(高天原最高神の一人、高木の神)は天の安河原に八百万の神を集め「葦原中つ国はわが御子(天孫族)の治める国です。ところがこの国は荒れ狂う国つ神たちに満ちている」と嘆きました。そこでアメノホヒを地上へ遣わせることにしますが、大国主に靡いてしまい失敗。アメノワカヒコも失敗。最後にタケミカヅチに行かせます。

イザサ(稲佐)の小浜で大国主に国譲りを突き付けますが、大国主は息子の事代主に聞いてみてほしいと答えます。そこでタケミカヅチは天の鳥船とともに美保の岬へ向かい事代主に尋ねました。すると事代主は「この国は天つ神の御子に奉りましょう」と父に言葉をかけ、すぐに乗っていた船を足で踏んでひっくり返し、青柴垣あおふしがきに向かって逆手をひとつ打つと、自ら水中に隠れました。青柴垣とは柴で囲まれた聖域。逆手を打つとは指先を下に向けて柏手を打つこと。美保神社では中世以降青柴垣神事を続けています。

タケミカヅチ大国主に再度問います。すると大国主はもう一人の息子、タケミナカタがいると答えます。タケミナカタタケミカヅチと力比べをしますが負けてしまい、諏訪の湖まで逃げていき「もうこの地から出ないから許してくれ」と降参します。のちの諏訪大明神です。

再びタケミカヅチに問われた大国主は、長い誓いの言葉を述べて国譲りを受け入れます。このくだり、何度読んでも目頭が熱くなります。民を国を愛した王の最期の、そして永遠に失われることのない輝ける威厳が切なく、胸が震えます。ここで簡略化して紹介するのは憚られるので、ぜひ一度古事記を読んでみてください。

 

伝承にもどります。事代主はその後、弓ヶ浜半島の粟島の洞窟で発見されました。死因は餓死でした。大国主島根半島の猪目洞窟で発見され、同じく餓死でした。幽閉されていたといいます。

【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、のちにすべてホヒ親子の仕業であることを海童のひとりが白状したということです。神門臣家はふたりに死罪を求めましたが、結局富家の召使として引き取られました。その後ホヒ家は奴やっこと呼ばれたと。

出雲風土記には「夢で猪目洞窟に行くと必ず死ぬ」とあります。今もなおこの地を夜見の坂、黄泉ヨミの穴と呼んでいます。伯耆国風土記に「スクナヒコが実った粟の穂に乗ると、弾き飛ばされて常世(あの世)の国へ着きました」とあり、弓ヶ浜半島は黄泉の島と呼ばれるようになりました。こうして出雲のことを黄泉の国と呼ぶようになったのです。

 

出雲からヤマトへ

主王と副王を同時に失い、ホアカリやハタ族たちと同じ地域に住むことを嫌った出雲の半数の人々が、両王家の分家に従い移住します。

事代主の息子、建水方富彦タテミナカタトミヒコは母であるヌナカワ姫を越後国に送ったあと諏訪へ向かい、諏訪王国を築いて幸の神信仰を伝えます。娘のミホススミ姫は美保関に残り、社を建てて父を祀りました。

別の息子、奇日方クシヒカタは母である玉櫛姫の実家、摂津三島へと向かい、その後ヤマトの葛城山の東麓を開拓。登美家を名乗り、一言主神社や鴨都波神社を建てます。

クシヒカタの妹、タタラ五十鈴姫はのちに三輪山で太陽の女神を祀る初代の女司祭者(姫巫女ひめみこ)となります。記紀では神武天皇の后と書かれていますが、実際には初代ヤマト王となる海村雲アメノムラク(五十猛の息子)の后です。

一方大国主の后、宗像三姉妹の多岐津姫は姉の田心姫の住む東出雲に移り、息子である味鋤高彦アジスキタカヒコ葛城山の南側を開拓。高鴨家を名乗り、高鴨神社や御歳神社を建てます。

こうして向家と神門臣家の分家が登美家と高鴨家となってヤマトの葛城へ進出し、出雲のタタラ製鉄や幸の神信仰を広めることとなります。

出雲王国は古事記に書かれたように、この時点で国譲りしたわけではありません。事代主の息子、鳥鳴海トリナルミが9代大名持となって出雲で王家の跡を継ぎました。

徐福は王たちの暗殺には成功したものの、自身が出雲の王にはなれず、息子五十猛を高照姫に任せて、いったん秦国へ戻ります。そして10年後に五穀の種と大勢の専門技術者たちを引き連れて再び来日。今度は北九州へ上陸し、吉野ケ里に居を構えます。